16.君と恋してよかった
いよいよ迎えた舞台初日の夜。
東京から離れ、遠征先のホテルの一室で河合は風呂に入っていた。
稽古期間中色々あったせいで調整もギリギリだったし、正直いつもより不安な幕開けではあったけれど、始まってみればそんな不安も吹っ飛んでしまった。
一番懸念されていたフライングもばっちり決まったし、後はいつも通り微調整しながらやっていけば大丈夫だろう。
そうして最も緊張する初日をなんとか無事に終え、河合は良い気分で湯船に浸かっていた。
「はー・・・きもちいー・・・」
ぼんやりと呟いた声は狭いそこにうっすら響いた。
熱い湯にゆっくり身を浸していると、自然と色々なことが頭を巡る。
そう言えば前にこうしてホテルの部屋で湯船に浸かったあの日は、散々だった。
相手の曖昧な態度に焦れて、もう無理矢理終わらせるしかなくて泣くはめになって。
そこからの数週間も本当に酷かった。
けれどそうやって想い出として回想できるくらいなのだから、今の自分は少なくとも現状を幸せに感じているのだろうと思う。
それはそうだ。
ずっとずっと、長い間ずっと一途に思い続けてきた相手に、紆余曲折はあったにせよ想いを受け入れて貰えたのだから。
そしてその上相手からも想いを告げられて、その証みたいに口づけも貰った。
その時の河合は精神的にもうボロボロで、正直それが夢としか思えなくて、それでも触れた唇の感触がそれを現実だと胸に刻んでくれた。
あの瞬間は忘れないだろうと思う。
それこそ、今となれば夢だったんじゃないかとまた思ってしまう程に。
でもそう思えば同時に、いつもからは信じられないくらいに多弁な様子で河合に信じさせようとした、あのどこか必死ですらあった五関の顔が思い浮かぶのだ。
「・・・結構、いっぱいいっぱいだった?」
あの時は河合も余裕なんてなかったから、今更に思うことだけれども。
言ってしまえばらしくもない、けれどだからこそ、その想いは強く深く自分の胸に届いたんだと、そうも思う。
そうやってしみじみとそう思えば、なんだか胸がほんのり温かくなる。
それは何もこの湯の熱さ故のものではなくて。
「うー・・・」
何かが堪らなくなって、ブクブクと口元までを湯船に浸してみる。
胸が熱い。頭も熱い。
幸せで、信じられないくらい嬉しくて、夢みたいで、でも信じろと言ったから信じたくて、けれどどうにも心落ち着かない。
まるで熱病にかかってしまったみたいな感覚。
想いを捧げて。
想いが通じて。
けれど河合はこうなってみて今更に思い知った。
想いが通じた後のことなんて、考えたこともなかったのだ。
タオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、目の前にはベッドに転がった後ろ姿があった。
そちらから小さな電子音が聞こえる。
どうやらいつものゲームらしい。
やっぱりか。
そんなことを思いながらも、河合はなんとなく小さくため息をついた。
五関が遠征先にまでゲームを持ってくることなんていつものことで、河合にとて予想は当然できていたことで、部屋のベッドに転がってそれをやっていることだってまた然りだ。
その姿なんて見慣れきっている。
別にやるななんて言うつもりはない。
けれどなんとなく、つまらないなぁとは思った。
今この胸も頭も、そして身体だってもしかしたらそうかもしれない。
熱くてどうしようもないそれら全ての原因のくせして、あの日火種を無理矢理自分の中に刻み込んだくせして、気付いてみればそうしてなんでもなかったような態度を取る。
そんなにいきなりわかりやすく態度を変えるような性格ではないことなんてわかっているけれども、理屈と感情は別物だ。
「・・・うそつき」
思わずぽつんと呟く。
心なしか乱暴にタオルで髪をぐしゃぐしゃと拭きながら、河合は自分のベッドに勢いよく乗り上がる。
スプリングが軋む音にか、それともその直前に呟かれた小さな声にか。
反応した小柄な背中がゆっくり振り返った。
「なんか言った?」
平然としたその様子は、河合の呟いた言葉を聞いていなかったようにも取れるし、また聞いていたようにも取れる。
どちらにしろ河合にはそれを探る術などなかったし、そんな気もなかったから、チラッとそちらにこれみよがしの視線をやって五関と同じようにベッドにごろんと転がった。
未だ濡れた髪がしっとりとシーツを濡らすのがわかる。
見ているだけでもそれがわかったのか、五関は軽く呆れたような表情でゲーム機を手元に置いた。
「ちゃんと拭かないと風邪引くよ」
「もうめんどくさい」
「拭かないで寝たら、お前明日の朝、髪大変なことになっても知らないよ」
それでなくても癖毛の河合の髪は、朝の準備のかなりの割合を食っているのだから。
けれどそう言っても河合はじっと五関を見つめるだけで、手にしたタオルなど逆に放ってしまった。
それを視界の端に見てとって、五関は仕方なさそうに軽く上半身だけを起こす。
「なに怒ってんの、お前」
「べーつにー。おこってませーん」
「じゃあ拗ねてんの?」
「べーつーにー」
「それじゃわかんないだろ」
「べーつーにー・・・」
「・・・あれでもまだ信じられない?」
ぽつんと呟かれた声は、先程の河合の台詞と同じような調子だった。
つまりは、できれば言いたくはないけれども、言わずにはいられない、そんな感情的で少しだけ弱った、そんな代物だ。
それを敏感に感じ取って、河合は少しだけ困ったような顔をした。
五関にそんな声を出されたらそれ以上拗ねていることもできない。
ある意味ずるいと思った。
「・・・信じる。五関くんのこと、信じたい。・・・好きって言ってくれたの、ほんとに、嬉しかったから」
身体を横たえたままじっと見つめる。
その先で五関がベッドから降りるのが見えた。
「でも、まだ、聞いてない。なんで今なのかとか、どうして俺なのかとか、もっといろいろ、いろんなこと・・・」
特に言葉を挟み込むでもなく、静かにこちらに近づいてくるその姿を視界いっぱいに映して、河合は辿々しく言葉を紡ぐ。
言葉にすればそれは途端に自分のわがままだとか不安だとか、その程度のものでしかないように思えてくる。
けれどそれでも、どうしても、聞きたかった。教えて欲しかった。
そうでなければこの先自分はずっと根本で信じられない気がするから。
好きな人が信じろと言っているのに信じることができないのは、少し悲しいとも感じたけれども。
ただ無条件に信じるには、もうあまりにも長いこと強く想い過ぎてしまった。
「それにねぇ、俺、ちょっとわかっちゃったんだよね」
「・・・何を?」
すぐ目の前に来たその姿を、やはり寝転がったままにじっと見上げる。
自分のとった行動の結果を予測できる人間こそが、本当に賢い人間なのだと言う。
だとしたらやはり自分は周りから言われるように馬鹿なのかもしれないと、河合は今まざまざと思った。
でもそんなことどうしようもない。
河合にとってはどうしようもなかった。
好きだと何度も繰り返して、伝え続けて、その先でまさか五関が自分のことを好きだと言って、キスしてくれるなんて。
そんな未来は思い描いたこともなかった。
だからわからなかったのだ。
「好きだって、わかってくれるだけでよかったんだ。・・・そのはずだったんだ」
でも、と静かに続けられた言葉に、五関はベッドサイドに腰を下ろして耳を傾ける。
「でも、ほんとはそうじゃなかったみたい」
五関がその白い手を伸ばしたら、湯船に浸かったせいかいつもよりだいぶ熱くなった赤い手が、応えるようにゆるりと指を絡めてきた。
「好きだって、わかってくれたら・・・次は相手にも好きになってほしくて。
そんで好きって言ってもらえたら、今度はキスしてほしくて・・・キスしてもらえたら、もっといろいろ・・・いろいろ、」
途切れた言葉は続かなかった。
代わりに白い指先にその艶めいた唇が押し当てられた。
その赤くなった手同様にやはり赤く、熱を持った、それが。
まるで熱の塊みたいなその身体に、五関はゆっくりと身を乗り出すようにして上から見下ろした。
その大きな煌めく瞳いっぱいに自分が映っているのが見える。
「俺・・・よくばりかも」
バカ。
そう言われるかな、と河合はぼんやりと思った。
けれど五関はそう言わなかった。
ただ河合に握られたのとは逆の手をその脇について、じっと見下ろしたままに言った。
「俺もだよ」
河合はその言葉が一瞬理解できなかったから、パチパチと目を瞬かせてその顔を凝視していた。
あまりにも当然のように返ってきた同意の言葉。
それは一体何が「俺も」なのか、わからなくなる程だった。
「五関くん、も・・・」
どう見ても理解できている様子ではないことは五関にもわかったらしい。
それに念を押してやるように、もう一度、今度ははっきりと言った。
「俺も、欲張りだよ」
「・・・五関くんが?」
「うん」
「そんな五関くん・・・おれ、知らない」
「だろうね」
だって知られないようにしてたから。
そう続けられた言葉に、河合は今度は瞬き一つせずに呟いた。
「・・・なんで?」
「知られたくなかったから」
「なんで?」
「教えたくなかったから」
「なんで?」
「なんでなんでって、しつこいよ」
「しつこくない。だって五関くんは、今までぜんぜん教えてくれなかった」
だから、知られたくないから、言わなかったんだって。
まるで堂々巡りのやりとりではあったけれども、河合の言葉は当然とも言えて、それは五関にとてわかっていた。
それでも今敢えて言ったのは、それとてもう伝えなければならないと思ったからだ。
今はもうそういう段階なのだ。
「教えてよ・・・。ちょっとくらい、俺に・・・」
掠れたようなその声。
それを耳に、五関は掴まれたままの手を逆にシーツに押しつけるようにして身を乗り出す。
そのまま覆い被さるように唇を寄せて、重ねた。
「ん・・・」
静かに重なったそれは、河合の唇から熱をじんわりと伝える。
そしてその逆もまた然りだった。
そのまま少し角度を変えても、特に抵抗はなくうっすらと目が細められて、長くて量の多い睫が忙しなく瞬くのが見えた。
「・・・ぅ、ふ」
そこから軽く舌を差し込んで絡め取るような動きを見せる。
けれどそこに微かに水音が響くと、河合は途端に我に返ったように五関の胸を押し返した。
そのまま離れた唇から、震える吐息が漏れる。
「ごまかしてる、でしょ・・・」
さっき以上に頬を紅潮させて軽く目を潤ませたような表情では、決して非難にはとれない。
事実河合はその口づけが気持ちよくて心地良くてしょうがなくて、止めたくなんてなかった。
けれど流されては駄目だと自分に言い聞かせて今訊いているのだ。
「ずるいよ・・・」
軽く尖った唇から漏れた言葉に、けれど五関は特に悪びれるでもなく、ふっとおかしそうに笑ってみせた。
握られた手はそのままに。
むしろ自分からも指を絡めて。
「うん、ずるいよ」
「あっさり認めるしさぁ・・・タチわる」
「俺はずるいんだよ、って。今教えてやってるの」
「え・・・」
どういう意味?と。
当然のように言葉を形作った河合の艶めいた唇を、指を絡めたのとは逆の手で緩く触れる。
指先で形を確かめるように触れると、河合が息を呑んだのがありありと伝わってきた。
「・・・教えてほしいんだろ?」
唇を離れた指先は、そのまま顎を伝い、首を伝っていく。
湯の余韻で未だ赤いままの熱い肌。
「俺がお前を、好きだってことをさ」
言われても、河合には五関が何をしようとしているのかがわからなかった。
けれど言われたことだけは理解できて、そしてそれこそ自分が何よりも望むものであって、だからただこくんと大きく頷いた。
まるで瞳に焼き付けるようにじっと見つめて。
五関はその様に一呼吸置いてから、軽く上半身を起こす。
触れていた手を離し、指を絡めていた手も離し・・・けれどそれ以上は何もせず、言った。
「脱いで」
「え・・・?」
河合はぽかんと口を開けて固まったように五関の顔を凝視する。
それに五関は「ああ」と付け加えるように続けた。
「上だけでいいから」
「ぬ、脱ぐの・・・?」
「慣れっこじゃないの?」
「そりゃ、そうだけど・・・」
問いを逆に問いで返され、河合は一瞬言葉に詰まって「それは意味合いが違う」と言い損なってしまった。
けれど実際どう意味合いが違うのか、それを自分で考えることもできず、ただ僅かな躊躇いを見せながらも結局は指先を着ていたTシャツの裾にかけた。
「あー、それだとちょっと脱ぎにくいかな」
上からそんな声が降ってくる。
けれどそれが妙に遠くに聞こえた。
人前で脱ぐのにこんなにも緊張するのは初めてだった。
よく言われるように、はだけるのはテンションが上がるので好きだし、加えてメンバーの前で着替えをすることなんて日常茶飯事だったから、こんなのは今までにないことだ。
けれどそれは当然で、今までとは違うのだ。
今はメンバーではなくて、好きな人の前なのだ。
河合の手はTシャツの裾を掴んで緩慢な動きで胸元まで引き上げると、袖を片方ずつ引き抜いて、最後に頭から抜いた。
湿った髪がバサリと舞って額や頬に当たるのが、なんだか更に緊張を煽る。
脱いだTシャツを手にしたままなんとなく所在なげにしていると、さりげなく白い手に奪われた。
ハッと思わず息を飲んで見上げると、何気ない仕草でTシャツがベッド下に放られるのが見える。
落としたTシャツに一瞬向けられたその視線が再びこちらに戻ってきた。
「じゃあ、ちょっと大人しくしてて」
なんでもないようにそう言うと、その白い手がゆっくりと河合の胸に触れた。
「っ・・・」
思わずびくりと反応してしまった。
そんな自分の反応がなんだか恥ずかしくて、河合はなんとか息を整えるようにして小さく呼吸する。
けれど五関は特に気にした様子もなく、そっと身を屈めると、胸に手を当てたまま腹の辺りに唇を寄せた。
そして触れてもすぐには離れてはいかず、一瞬後にちくんと小さな痛みがそこに走った。
「あっ・・・え・・・」
反射的に身体が跳ねる。
けれど何をされたのか河合にはよくわからなかった。
その間にも、ようやく離れた唇が今度は脇の近くの柔らかな部分に触れて、一瞬遅れて痛みをもたらす。
「ご・・・五関くん、」
唇で触れたそこが一瞬遅れて痛むのは、そこが小さく吸い上げられているからだ。
それに気付いたのは、その次に脇腹の辺りに唇を寄せられている際に今痛みを覚えた部分が見えたからだった。
そこには小さな赤い痕。
一瞬蚊に刺されかと思うようなそれは、けれど蚊なんかがやったものでは当然なくて。
「五関くん、五関くん・・・なに、なにしてんの・・・」
その痕が一体どういうものなのか。
まさかそれを知らない程子供ではない。
けれど今どうして五関がそんなことをするのか河合にはわからなくて、上擦ったような声で呼ぶことしかできない。
そうして呼んだ瞬間またちくんと走った痛みは、今度は二の腕の裏だった。
掴んで持ち上げていた二の腕をシーツに離し、五関は指先を河合の唇に当てて囁くように呟いた。
「じっとしてないと、教えない」
「・・・じっと、してるじゃん」
「じゃあ、もうちょっとそのまま」
そう言ったかと思うと、屈められたその身体が少し下にずり下がるのが見えた。
何かと思わず河合が顔をじっとそちらに向けると、次はヘソの横辺りに唇が触れるのが見えた。
今度は触れる瞬間を見てしまった。
そして当然のように、一瞬置いて走る小さな痛み。
「っで、でも、明日も、舞台あるよ・・・」
思わずそう口走ってしまったのは何も恐れからではない。
ただ言葉もなく、有無を言わさず入り込んでくる妙に熱いものが鼓動を逸らせてどうしようもないだけ。
今の熱くなった自分の身体が、更に温度を上げている気がしてどうしようもないだけ。
五関はそんな河合の表情をチラリと窺うように見てから、次に自分がつけた小さな赤い痕を確かめるように指の腹で撫でる。
「今回あんま露出が多くない衣装でよかったね。お前が自分から脱がなければ大丈夫だよ」
そんなことをおかしそうに言って、今度は腰の辺りに唇を押し当てられて、痕が刻まれた。
もう何個目の痕だっただろう。
河合は数える余裕すらなくて、刻まれる度に頭の奥が熱く痺れるような感覚に陥りながら、吐息混じりで呟いていた。
「・・・これが、五関くんが、俺のこと、すきだって・・・こと?」
次に左胸の下に唇を寄せていた顔をゆっくりと上げ、視線がかち合ったのを確認すると、小さく頷いてみせた。
「そうだって言ったら、どうする?」
「・・・」
「なんか違うって、思う?」
言いながら、シーツをいつの間にか掴んでいた河合の手を取り、その細い手首の裏側に唇を寄せた。
勿論そこは見えてしまうから、痕はつけずに触れるだけ。
けれどチラリと横目で見れば、河合の締まった細い肢体の至る所に赤い小さな痕が見て取れる。
なんか違うって、思う?
今河合に向けたのと同じ台詞を、五関は心の中でもう一度問いかけてみる。
まるでモノ扱いみたい?
更に問いを続けてみる。
塚田に言われた言葉を思い出す。
自分は河合を自らの所有物だと思っていると。
言われたようにそういうことなのかもしれないと、今五関は確かに感じていた。
そういうこと。
結局はそういうこと。
だから手を伸ばさないようにしていた。
本当に手を伸ばしたその時は、こうなることは目に見えていたから。
痕をつけずにはいられない。
だって自分のものだから。
手に入れたその時は、なんの躊躇いもなくそうする自分が目に見えていたから。
『俺のものだから、誰も触るな』
らしくもない・・・それはそうだ、見せないようにしていたから。
まさかそんなことを思う人間だと誰が思っただろう。
だからこそ、その痕はいつか疵痕になってしまうかもしれない。
そう思ってきた日々を終わらせて手を伸ばした、今この瞬間。
「一応、衣装着てれば見えないとは思うけど・・・でも、お前が脱がないはずないか。
それに踊ってる時なんて、何があるかわかんないしね」
おかしそうにそんなことを言っては、左胸の下についた痕をもう一度指の腹で撫でた。
それに静かに吐き出される細い息。
河合はただじっと黙しては、うっすら開いた赤い唇を緩慢に動かすだけだ。
拒絶はないだろう。
否定もないだろう。
けれど恐れはあるかもしれないと、五関はぼんやり思った。
「どうする?止めとく?」
「・・・」
「それとも、止めない?」
「・・・」
河合は何も言わない。
どう答えたらいいのかわからないのだろう。
それでもゆるゆると手を伸ばし、五関の手を掴んだ。
ギュッと握った。
恐らくそれが河合の答えだ。
その握られた手の感覚に、五関は軽く眉を下げると静かに呟いた。
教えろと言うから教える。
自分がどれだけの昏い願望を抱いているのか。
そしてそれでもまだ、好きだと言ってくれるだろうか。
「・・・止めないと、まだ明日はいいかもしれないけどさ・・・お前、その内外も出歩けない身体になるかもよ?」
手に入れなければそれはありえない。
けれど一度手に入れてしまったら、今度は失う恐れが生まれてしまうのだ。
「ん・・・」
こくん、と。
小さく喉が鳴った。
河合は一度喉の奥で何かを引きつったように漏らすと、いったん掴んだ手を離す。
そしてその手で自らの身体につけられた赤い痕を辿るように触れ、呟いた。
「でも、さぁ、五関くん・・・」
触れて辿るその動きは、なんだか優しげで愛しげで、五関はその様をなんだか不思議なもののように眺めた。
「この痕・・・こうしてると、けっこ、目立つけど・・・」
「・・・そうだね」
「でも、どうせそのうち、消えちゃうんでしょ?」
「そりゃ・・・何日かすればね」
「消えたらさ、外、歩けるよ?」
「確かに」
何を言わんとしているのか、それを探るでもなく五関は同意するように頷いてやる。
今から返されるものが、河合の五関への答えだろうと思ったからだ。
それこそが、本当の意味での、二人の結末になるだろう。
「・・・どうせなら、消えなければいいのに」
掠れたようなその声は、けれど妙に強い感情が感じられた。
「なんで?」
「そしたら五関くん、責任とってくれるかと思って」
「・・・お前いつから女の子になったわけ?」
「まー、見ての通り男の子ですけど」
ふざけた調子でおかしそうに笑ってはそんなことを言う。
ずっと長いこと想いを向けられてはきたけれど、こうして向き合って初めてわかることもある。
その気持ちの強さとか、深さとか、どれ程のものであるのか、とか。
「もっとさ、ちゃんとやれば、消えないかもしれないよ?」
「ちゃんと・・・?」
「だって五関くん、恐る恐る触ってるもん。それじゃすぐ消えちゃうよ」
「・・・」
そして、言われて初めてわかることもある。
「なんか、わかる。それとも、優しくしてくれてんの?」
「・・・そうかもね」
「なら、優しくなんてしてくれなくていいよ」
五関は言葉もなく、ただその身体をじっと見下ろした。
いくつもの痕を言葉もなくつけられて、それでもそれを「好き」だと、自分が求めていたそれだと、河合はそう受け取れるのだろうか。
それでもそんなことを言えるのだろうか。
そんなことを言えば、もっと酷いことになるかもしれないのに。
「五関くん、俺のこと怖いの?」
じゃあお前は俺のこと怖くないの?
そう言いそうになって言葉を呑み込んだ。
「・・・なんで?」
「恐る恐る触るからさ」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあどういう意味?俺、わかんない」
怖いのはお前じゃないよ。
けれどそんな言葉もやはり呑み込んだ。
じっと黙り込む五関をどう思ったのか、河合は片腕を伸ばしてそのまま五関を引き寄せた。
しがみつくように首に手を廻して、その温もりを確かめるように頬を寄せては吐息を漏らす。
「でも、俺は結構、こわいよ?」
「・・・お前が?」
決して離させるようなことはせず、同じく廻した手で柔らかな少し湿った髪を指先に絡める。
「うん。だってわかんないもん。
なんで五関くんが俺なのか、未だにわかんない。色々わかんない。だからこわいの」
理由がないのは形がないのと同じ。
形がないものなんて、いつ、なんの拍子にあっさりと消えてなくなってしまうかわからない。
そう呟かれた声の脆さに、五関は大きく息を吐き出すと、絞り出すように言った。
「・・・・・・お前が、さ」
「うん・・・?」
「ずっとこっち見てればいいのに、って。思ってた」
「おれ・・・?」
河合がこちらを窺おうとするのを遮って、シーツに押さえ付けるように抱きしめる。
「まだろくに踊れなくてしょっちゅうめそめそしてた頃から、一緒のグループになって、この先もしかしたら違うグループになったりするかもしれないけど、たとえそうなったとしても・・・お前がずっと、俺のこと見てればいいのに、って。前から思ってた。今も思ってる。・・・たぶん、これからも思ってる」
ベッドに押さえ込んだ身体は抵抗するはなく、むしろしがみつく強さだけを増して確かめるように聞き返す。
「・・・それって、前から、俺のこと好きだったって、こと?」
五関はそれに答えない。
ただ河合の柔らかな髪にその顔が強く押しつけられた感覚だけがある。
すり寄せられるようにすら感じる。
まるで子供みたいなその仕草。
河合はその時確かに、胸の奥が震えたのがわかった。
ようやくの言葉で、それはまだまだ言葉足らずで。
けれどそれこそが、自分が今まで五関に向けてきたように、五関が自分に向けてきた想いなのだと、確かに感じ取った。
「見てる、よ・・・?」
胸の奥の震えが声にも伝わる。
「俺、ごせきくんのこと、見てる・・・」
「・・・うん」
「ずっと見てたし、今も見てるし、これからも・・・ずっと見てる」
「うん・・・」
でも今は見てるだけじゃないから、もっと沢山伝わった。
ようやく教えて貰えた。
「あのね・・・五関くんたぶん、いろいろ考えてるんだと思うけど。でも俺だってたくさん考えてるよ?」
自分には決して見せずに葛藤して苦しんできたのだと今ようやくわかるくらいに、沢山のことを考えては抱え込んできた、器用で不器用な想い人。
ようやく少しだけれどわかった。
ようやく共有できた気がする。
たぶん今こそが、本当に想いを通じ合わせた瞬間なのだろうと思う。
「どうせ、ばかだと思ってるんだろうけどさ・・・」
「うん」
「・・・そこは否定しといてよ」
「だってお前、バカだもん・・・」
「でも、でも、それ言ったら・・・五関くんだって、けっこう、ばかだよ・・・」
河合は緩く身体を離すと、五関の手を取って、自らの左胸に当てさせる。
そしてふにゃりと目尻を下げて笑った。
「さっきの、もっかい言って?」
「さっきの・・・?」
その言葉が差すものが本当にわからず、怪訝そうにするその顔。
河合はどう言ったらいいのかと少し迷いながらも辿々しく言葉を紡ぐ。
「あの、キス・・・してさ、その、外・・・って、あれ」
「外・・・?」
「だからー・・・あのー・・・止めないと、その内外も・・・なんとか、って・・・」
もごもごと言い淀むようなくぐもった調子に、五関はそれから数秒を置いてようやく思い至ったように小さく頷いた。
「・・・・・・ああ。うん」
「それ、それ。・・・たぶん、それ」
「・・・ちなみに、なんで?」
「言ってほしいから」
「なんで?」
「五関くんこそ、なんでなんでって多いよ」
「お前、わかんないんだけど」
「俺のことならなんでもわかるとでも思ってんの?」
「・・・」
言われて咄嗟に言葉に詰まった。
そう、思う程河合は単純な人間ではない。
それならこんなに悩むことなんてなかった。
けれど河合は次の瞬間にはそれを軽く笑ってみせると、五関の頬を両手で包んで引き寄せて、囁いた。
「五関くんが教えてくれるなら、俺も教えるから。・・・お願い」
お願い、と。
そう言われたあの夜を反射的に思い出して、五関は思わず眉を下げて笑った。
あの哀しいばかりの夜と比べて、今はなんと幸福な願い事をされているのだろう。
それならいくらでも叶えてやれる。
五関は河合の胸元に顔を寄せ、唇を落とすとそのまま言った。
今度はもっともっと沢山のものを込めて。
その左胸の奥に伝えるように。
「・・・これ以上つけたら、外出歩けない身体になるかもよ?」
けれど先程と違って今度の反応は半ば予想できていた。
そしてそれは予想以上でもあった。
花のように綻んだ笑顔と共に返ってきた言葉。
「五関くんなら、いいよ」
まるで恋の矢に胸を射抜かれるような。
そんな経験は、どうやらたった一度のものではないらしい。
同じ相手に、更に強く、そう射抜かれる瞬間があるのだと、今知った。
「五関くん、まだ気付いてないのかもしれないけど・・・それ、すっごい殺し文句だからね?」
頬を紅潮させてなんとも幸せそうにそんなことを言った。
でもそれを言うならお前だよ、なんて。
五関はこっそり思って、改めて唇を重ねた。
「ん・・・五関くんがつけてくれた痕はね、しるしなんだ」
目を細めて口づけを受けて、吐息混じりで呟かれた台詞。
「しるし・・・?」
ただその言葉をぽつんと反芻するだけの五関に小さく笑って頷くと、今度は自分からやんわりと唇を合わせる。
「・・・うん。好きって、そこからいっぱい伝わってくるんだよ」
しるし?
傷じゃなくて?
それは声に出して言葉にしようとした五関だったけれども、何故かそれは唇の柔らかな感触に遮られる。
言う前から、それは違うと言われたような感覚だった。
それに目を細めると、濡れたその唇が間近でやんわりと撓む。
「俺は、嬉しいの。だから、五関くんは、いいんだよ」
ちょっとだけちくっとするけどね、なんかそれも気持ちいいかもって思っちゃうし。
あはっ、俺ってやっぱちょっとMなのかな〜。
そんなことを楽しげに言っては小首を傾げてみせた。
五関も呆れたように笑うしかなかった。
傷つけることを恐れて躊躇っていたのに、傷を傷とも思わない相手だったなんて。
想いが通じ合うことによって初めてわかることは、本当にたくさんあるものだ。
そうして一つ一つ伝え合うそれらこそが、この恋の意味だとしたら。
「・・・かわい」
「ん・・・?」
「さっき、この痕は消えちゃうって、言ったけどさ」
五関はその白い指先で、河合の左胸の下につけた痕をもう一度なぞった。
それにくすぐったそうに細く息を吐き出しながら河合は言葉の続きを待つ。
「消えない痕も、あるんだよ」
「消えない・・・?」
「それ、つけてもいい?」
河合は一瞬驚いたような顔で大きな瞳を瞬かせて。
けれどすぐさまやんわりと撓んで綻ぶように笑った。
「それはどこにあるの?」
「ここ」
指差した先は、なぞっていた痕の少し上。
左胸の真ん中。
恋する心が息づく場所。
指差されたその場所を自分でも確認するように見て、河合は瞬き一つせずに五関をじっと見つめた。
「ねぇ、そしたら、わかる?」
「うん、わかるよ」
「好き」なんてもんじゃない。
本当は、「すごくすごく、どうしようもないくらい好きで堪らない」ってこと。
それに河合はこくんと頷いて言った。
まるで熱に浮かされたような、そして幸せそうな響きだった。
「外・・・出歩けなくなったら、ずっと面倒見てね」
その逸る鼓動を刻む胸。
そこにそっと唇を落としたら、恋は確かに形になった。
「・・・それ、今とあんま変わんないけどね」
「あはっ、確かに」
けれど今この瞬間変わるものがある。
確かに思うことがある。
その胸に刻んだ恋心。
君と恋してよかったと、そう思う。
END
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
長かったーーー。まさかここまで続くとは思わなかった。
とりあえず、私的五河初めて物語の一つでした、ということで。
本当にお付き合いありがとうございました。
(2007.5.14)
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