薄氷に触れる冷えた指先
ホテルの安っぽいベッドの上にくったりと身体を投げ出し、浅く呼吸を繰り返す。
全身を覆う何とも言えない倦怠感は特有のもので、未だ頭の奥と腰の辺りにジンと痺れたような感覚が残っている。
小さく腰を折るように転がってくつろげられたジーパンの前はそろそろ熱も落ち着いてきたところだ。
けれど未だ僅かに火照った頬を冷ますように白いシーツに押し当てる。
このまま眠ってしまいそうなくらい身体は充足感に満たされていた。
けれども眠る気にはまるでなれなかった。
白い熱を受け止めた残骸が無造作に放られているのが視界の端に映る。
河合は暫しそれにぼんやりと視線をやってから、ワンテンポ置いて苦笑した。
何とも言えず若さの象徴だと思う。
まだ18歳なのだからしょうがない。
先輩のツアー遠征先であろうとも生理現象はしょうがないことだし、至極健全なことだろう。
ただ、その頭にひたすら思い浮かべていた対象を考えれば、それは決して健全とも言い難かったのだけれども。
壁向こうに聞こえていた水音が止まったのでそろそろ出てくるだろう。
そう思って河合は緩慢に身体を起こそうとした。
しかしそんな河合の行動に先手を打つように、背後から確かな呆れと、どこか嘲りすら滲ませた低めの声がした。
「こんなとこまで来てサカってんなよ」
河合は特に動揺はしなかった。
思ったより早かったなと思ったけれども。
一瞬止めた身体を再び緩慢に動かして起こすと、くつろげていたままだったジーパンを整えながらゆっくりと振り返った。
そこには女好きのしそうな甘さを湛えた童顔がある。
笑えばそれこそ可愛らしい顔をしているのに、それをこれでもかと顰めて両腕を組み、河合を見下ろしている。
風呂上がりだからか、未だあまりきちんと拭かれていない髪からは肩にかけたタオルに雫が滴り落ちていた。
そんなさっさと出てくるから、見たくもないものを見るんだろ、なんて。
河合は内心だけで軽く毒づきつつ、おかしそうに笑った。
「髪、すっげ濡れてるよ?」
「ああ」
素っ気なくそう頷くだけで、北山は肩にかけたタオルで髪を拭くでもなく、自分の使っているベッドの方に近づいていった。
シーツの上に置いてあった荷物の中から何かを探すように片手を突っ込む。
タオルで拭かないから、その荷物の上に明るい色の髪から雫が絶え間なく落ちている。
河合はベッドの上にあぐらをかいた状態でそれをぼんやりと見た。
視線の先の白い横顔はやはり微かに顰められていて、機嫌わる、と思わず小さく呟く。
まぁそれを言うなら自分とて良くはないのだけれども、と河合はそのまま再びベッドにぼふんと横になる。
そもそもが、いくら一緒にツアーを廻っているとは言え、同じグループでもない河合と北山が同部屋になること自体が珍しすぎた。
普通なら同じグループのメンバーと一緒になるものだし、たとえ違うグループのメンバーと一緒になるにしろ、この二人の組み合わせは今まで一度としてなかった。
だから部屋割りが適当に発表されるや否や、二人は信じられないような目で互いを嫌そうに見合ったものだ。
しかしそんな二人を周りの仲間達はさもおかしそうに笑い、中には「奇跡が起きた」と腹を抱えている奴までいた。
尤も周りのそんな反応は、決して二人の仲が本当に悪いわけではないと知っているからなのだが。
そう、決して本当に仲が悪いわけではない。
むしろ普通に話はするしバカなことを言い合って笑ったりもする。
じゃあ何がいけないかと言えば、その理由は実際のところ周りもお互いもよく判ってはいなかった。
ただ時々、なんとなく合わないとか、なんとなくきまずいとか、そういう空気が流れることがあっただけの話。
しかし今この状況において嫌な空気が流れているのは事実だから、そういう意味ではやはりあまり合う二人ではないのだろう。
河合はベッドに転がったままじっと黙り込む。
河合からしてみれば、北山の機嫌が悪いようだし、何より微妙過ぎる場面を見られてしまったので何か喋る気も起きなかったのだけれども。
むっつりと顔を顰めっぱなしの北山からしてみれば、相変わらず自分に対しては冷たい奴だと思った。
そして、情けない、みっともない、哀れな奴、とも。
北山は何かを思い出すようにますます顔を顰めると、そちらを見るでもなく低く呟いた。
「・・・マジ、お前さ」
「なに?」
「そういうのは一人の時やってくれる?」
そういうの、とは。
今さっきの自慰行為のことを指しているんだろう。
それに河合は「ごもっとも」とは思ったけれども、なんとなく余韻を邪魔されたような、そんなある種自分勝手な気分になっていたから、つまらなそうにむこうを向いて転がった。
「・・・だーから、お前がお風呂入ってる間にしてたんじゃん」
北山はチラッとそちらに視線をやる
丸くなった細い背中が見えた。
最近髪を短くしたせいか、やはり細いうなじがそこから覗いている。
それになんだか妙に苛立って小さく舌打ちした。
「聞こえんだよ」
「は?」
「お前声でかい」
「・・・そっちこそ聞き耳立ててんなよ」
「誰がするかそんなの。人のせいにすんな」
「そんなの敢えて無視しろよなー。ていうかそんな声とか出してないから。おおげさ」
一応、と河合はさっきの自分を思い返してはみる。
けれども所詮は息遣い程度のもので、声と言うほどのものは出していないはずだ。
所詮自慰行為など声をあげる場面もそうない。
何せ全ては自分の手で与える、ある種事務的ですらある快楽で、予想外の動きなど皆無なのだから。
けれども、その顔に似合わぬ低めの声がさりげなく呟いた名前。
「じゃあ幻聴?・・・五関くん、て?」
河合はそのまま身動ぎ一つしなかった。
けれど北山には、その転がった後ろ姿を取り巻く空気が確かに強ばったのが見えた気がした。
「みっともねー奴」
次いで嘲るような笑い声。
河合の表情がすうっと冷えたように無表情に変わった。
それは北山には見えない。
けれど逆に、河合にも北山の表情は見えない。
「告白する勇気もないくせに、そういう女々しいことはしちゃうんだ?カワイチャン?」
甘さを含んだ低めの声で貶めるようなその物言い。
そのくせ、河合には見えないその表情は、その視線は、確かな哀れみと妙な苛立ちとに彩られていた。
アンバランスなそれらの理由は北山自身にもよくわからない。
ただ、微かにではあったけれども聞こえた、あの名を呼ぶ声が、まるで泣きそうにも感じられて。
たとえ報われずとも一途に想うことを止められないある種の健気さと、その一方で想う相手で自らの手を欲望に濡らしてしまうどうしようもなさと。
その両方ともが、普段見える何も考えていなそうな脳天気な様とは合致しないのだ。
そう、普段は絶対に見せないくせに。
親友も理解者も他にいるくせに。
よりにもよって自分にそれを垣間見せる河合が、そしてやはりよりにもよってこの相手のそんな見たくもない部分が見えてしまう自分が、なんだか苛立ってしょうがない。
けれど暫くそうして転がったままじっとしていた河合が、突然むくりと起きあがる。
そのまま小さく俯いたような状態でぽつんと呟いた。
「やっぱさー・・・似てんだよね」
「は・・・?」
「俺とお前って」
「どこがだよ。勘弁しろよ」
「ほーんと、嫌になる。認めたくない」
でも、と続けながら河合はベッドから降りて北山を見た。
「俺もそう思うもん。みっともないし、情けないし、女々しいし・・・」
河合は上に一枚だけ着ていたシャツのボタンを外しながら、続いて風呂に入るつもりなのかタオルを荷物から取り出す。
「だから誰かそう言って罵ってくんないかなーって、思うわけ」
「それ、マゾじゃん」
「あはっ、その気も若干ある気はしてる。そこら辺はちょっとお前とは違うかな?お前サドだもんな、明らかに」
「人のことは放っとけよ」
シャツを脱ぎ捨ててタオルと着替えを持つと、河合は北山にうっすらと笑った。
薄い、薄い、薄氷のような笑みだと思った。
普段は絶対にしない笑い方。
少なくとも彼には見せない笑い方。
「嫌われる覚悟もないなら、言わない方がいいと思わない?
一番じゃなくてもいいから傍にいたいなら、こうするしかないと思わない?」
北山はそれに目を細めて鼻で笑う。
濡れた髪をかき上げた拍子に雫が小さく散った。
「言わない方がいい、じゃなくて。言いたくても言えない、の間違いじゃん?」
河合は暫しぼんやりと北山を見て。
それからカラリと笑ってみせた。
何もかも嫌になるくらい判って、そのくせ縋りたい気にはさせない相手というのは、案外貴重なものなのかもしれない。
「ほんと、お前やだ」
それだけ言うと、河合は何事もなかったかのように風呂場にいってしまった。
北山はその後ろ姿を見送ってからベッドサイドに腰掛け、肩にかけていたタオルでようやく濡れた髪を拭き始めた。
すっかり冷え切ってしまったそこからは雫がぽたりと落ちる。
手元に落ちたそれに指先もまた冷えて、今風呂場に行った奴のことが頭に浮かんで再び顔を顰めた。
この指先の冷たさは、今風呂場で降り注いでいるであろうシャワーのそれとたぶん同じ。
END
北河?むしろ五河では?くらいな話ですが。自分でもよく分類がわからん。
五←河前提の北河?北+河?うーん。
とりあえず、お互いに他に代わりがいないという意味では特別なんだよね、ていう。
それが恋かどうかはまた別問題ですけど。
ていうか少なくともこれは恋じゃないですけど。
書いてる本人しか楽しくない話で申し訳ない!
(2006.11.16)
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