5.恋じゃなければよかった










ベッドに転がって読んでいた本がちょうど一段落して、飯田は何気なく時計を見た。
そう言えばさっき自販機でジュースを買ってくると言って出て行った横尾の帰りが遅い。
もう15分は経っているだろう。
自販機なんて部屋を出てすぐそこにあるというのに、どうしたんだろうか。
誰かに会って話し込んでいるのか、気が向いて誰かの部屋に出向いているのか。
ぼんやりとそんなことは思ったけれど、自分もそろそろ眠いし明日は昼から公演があるのだからもう寝ないといけない。
本をパタンと閉じてベッドサイドのテーブルに置き、本を読む時だけかける眼鏡を外す。
ちょうどその時部屋の扉がゆっくり開く音がした。

「あ、お帰り。遅かったね・・・」

そちらを向いてそこまで言ったところで、飯田は思わず目を瞬かせた。
横尾が誰かを背負っていたからだ。

「それ・・・」

背負われているのが一瞬誰か判らなかった。
横尾の長い両腕に支えられる見た感じ割と小柄な身体と、横尾の肩に埋められてふわふわ揺れる茶の髪。
くったりとしたその様子は、どうやら意識がないように見える。眠っているのだろうか。
横尾は飯田にチラッと視線を寄越しただけで何も言わず、無言で自分のベッドまで歩いていくと、背負っていたその身体をゆっくりとそこに降ろした。
それを隣のベッドから見て、飯田は少し驚いたように呟いた。

「河合・・・?」

しかし飯田の驚きは何も相手が彼だったからというだけではなくて。
横尾のベッドに降ろされた河合は目を瞑っているけれど、その頬が明らかに濡れていたから。
よくよく見ればその長い睫にすら水滴を含んでいるようだ。
とても尋常な様子じゃない。
飯田は無言で横尾を見るけれど、横尾はベッドに降ろした河合の顔をじっと見つめて眉根を寄せるばかりだから。
一体どうしたの、と訊こうとした言葉は飲み込んで、飯田は代わりに違う言葉を探した。

「寝ちゃった?」
「・・・うん」
「そっか。・・・じゃあ、・・・うーんと、そうだな」

ふと何か思いついたように起きあがると、飯田は自分の荷物からおもむろに白いタオルを取り出して洗面所に行ってしまう。
それを何事かと見ていた横尾は、それから一度河合の顔を見下ろして、もう一度向こうを見る。
すると飯田は濡らしたタオルを手に戻ってきた。
横尾は無造作に渡されるそれを反射的に受け取り、その感触を指先に感じてから改めてその顔を見た。
窺うようなその視線に飯田はふっと柔らかく笑ってみせる。

「目、冷やさないとね、明日腫れちゃうから。さすがにステージでそれはまずいでしょ」

そののんびりとした響きに横尾は一瞬驚いたような顔をしてから、ゆっくりと頬を緩めて頷いた。

「ん、さんきゅ」
「どういたしまして」

それから飯田が自分のベッドにもぐりこんだのを見て、横尾は河合の身体を少し横にずらすと自分も横になった。
河合の身体にゆっくりと布団をかけてやって、自分の傍に寄せると、すぐ間近に見える整った顔が濡れているのが否が応でも見えた。

「・・・」

なんだか言いようもなく胸を掴まれるような気持ちになる。
濡れたタオルで軽く頬を拭ってから、その閉じられた瞼にやんわりと当ててやった。
その感触に妙につやつやした唇がゆるりと動く。
そっと漏れる吐息になんとなく、ほんの少しだけ安堵した。
せめて安らかに眠れるようにと横尾は右手をそうっと回して髪を撫でる。

恋の叶う条件は想いの強さではない。
そんなことはよく判っている。
横尾にだって痛い程判っている。
けれども、その恋にこんなにも綺麗で痛い涙を流す人間に、それでも万に一つの救いもないのだとしたら。

恋とはなんと、酷いものなのか。










「え?来てない?」

五関は朝食を摂るためにラウンジに降りてきたところで、ちょうど塚田と戸塚に会った。
しかし朝一番の挨拶を交わしたところで、お互いに不思議そうな顔をした。
五関に関して言えば、それはいっそ怪訝なくらいのそれ。

一人足りない。
そう、グループの末っ子の姿が双方に見あたらない。
塚田と戸塚からすれば、昨夜一人で部屋に戻る後ろ姿を見送っている。
また五関からすれば、塚田達の部屋に泊まるからと言って出て行った後ろ姿を見送っている・・・とはいえ、こちらは引き止められなかったと言った方が正しかったのだが。

塚田と戸塚の部屋に行っていないと知って途端にどこか落ち着きをなくす五関の姿に内心驚きを憶えつつ、塚田は傍目には変わらぬ調子で訊ねた。

「河合、こっち泊まるって言ったの?」
「ん・・・」
「なんかあった?」
「・・・まぁ、色々」

らしくもなくあからさまに言葉を濁すのに、ああ拗れたか、とすぐさま悟る。
よくよく注意深く見ていれば、五関自身どこか覇気がない気がする。
あれで一気に固まるとはさすがに思ってはいなかったが、事態はなんだか思う以上の展開を見せ始めている気がした。

考えるような仕草を見せる塚田の隣で、戸塚はまた違うことを考えているようだった。
んー、と未だ眠気の抜けない声で小さく唸ると、視線をキョロキョロと彷徨わせながら呟く。

「じゃあー・・・誰のとこ行ったんだろ?」

そう言われて、五関と塚田もその場で考える。
今回一緒に廻っているメンツの中でメンバー以外に河合が頼りそうな人間となると、自然と限られてくるだろう。
そんなことを考えていたら、三人の背後から聞き慣れた明るい声がかかって一斉にそちらを向いた。

「おっはよ!」

三人が今まさにその行き先を考えていた末っ子が、いつもと変わらぬテンションでそこにいた。
見ればその後ろには横尾と飯田の姿もある。
これで今考えていた問いの答えはあっさりと出てしまった。
そしてそれ以上の追求を遮るように、河合は近づいてきて自ら話し始める。

「昨日さー、横尾と飯田の部屋泊めてもらったんだよね。横尾と廊下で会って、つい話し込んじゃってさ。
気がついたらだいぶ遅くなっちゃってたし、五関くんもう寝てるだろうから起こすの悪いと思ってそのまま泊まっちゃった」

微妙な嘘がところどころ散りばめられた言い訳だ。
それに誰しもが気付いていたが、河合が普段通りの調子で率先してそんな風に言うから、逆に誰もそれ以上は訊けなかった。
訊けるとしたら今のところこの場では恐らく一番事情を知らないであろう塚田と戸塚だったけれど、戸塚はそれをどう訊いていいのかよく判らなかったし、塚田は敢えて訊かなかった。

「んー、そうなんだ。ちゃんと睡眠とれた?」

笑って軽い調子でそんなことを言う塚田に、河合はどこか少しだけ安堵したような表情を一瞬だけ見せてからこくんと頷いた。

そんな姿を五関は瞬き一つせずじっと見つめた。
見たところ目は腫れていない。
あれだけ泣いて・・・恐らく部屋を出た後も泣いただろうに。
自分で冷やしたんだろうか。
それとも横尾か飯田に冷やして貰ったんだろうか。
それならば二人にも事情を話したんだろうか。
いや、一度決めたら意外と頑固な河合が、自分の中で終わらせた事をそう詳しく話したとも思えない。

五関は頭の中でめまぐるしくそう考えつつも、声は特にかけない。
すると河合と一瞬だけ目が合う。
慌てて逸らすようなことはしなかったが、たぶんそれはできなかっただけで。

「五関くん、おはよ」
「ああ、・・・おはよう」
「俺いなかったけど、ちゃんと起きれた?五関くん朝弱いからな〜」
「大丈夫だよ。ご心配なく」

いつもの会話。・・・そう、いつも通りの。
そうして河合はゆっくりと目を細め、伏せて、それからまたゆっくり開けながら違う方を見た。
とてもさりげない仕草。
だからこそ妙にもどかしい。
またあの感覚。
喉の奥を熱い何かがせり上がるような、そんな。

そして五関は同時に気付いた。
自分と同じように・・・いや、決して同じではないだろうけれども、似たような視線で河合をじっと見つめる瞳。
ああ・・・あいつ、そうだったっけ。
いや、今までは違ったはず。
今までもそうなら、とっくに気付いていた。
いつだって見ていたし、それなりに聡いつもりだったから。
五関はぼんやりとそんなことを思って、いつの間にか河合のすぐ傍にいる長身を軽く眺めた。










自分が鈍ければよかったのに、なんて。
五関は初めて思った。
気付かなければよかったこと。知らなければよかったこと。
そんなものが意外と沢山あるのだということを初めて知ったから。

ただ当然と言えば当然だったのだ。
相手は同じグループの仲間で、いつも一緒にいるのだから。
たとえばダンスの精度が明らかに下がっていれば否が応でも気付く。

この日は先輩のコンサートの千秋楽で、盛り上がりも他の日の比ではなかった。
必然的にバックで踊るジュニアとてテンションは上がるし、こういう時にとりわけそのテンションが出やすいのが河合だった。
けれどそんな今日に限って何故か動きが芳しくない。
誰よりもオーバーアクションでどこか惹きつけられるような華のあるそのダンスに、どうにもキレがない。
シンメで踊っている五関には誰よりもそれが判った。

調子でも悪いのか。
その顔まではよく見えないが、少なくとも笑っているような様子はない。
踊ることが楽しくて楽しくてしょうがないと、そんな気持ちが表情に表れたようなあのいつもの不敵な笑みはないようだった。
朝食時の様子を思い浮かべてみるけれど、すぐにそれは無駄だと悟った。
確かにいつも通り隣に座って食事を摂ったし、話だって普段通りにしたけれど・・・何故かよく憶えていないのだ。
普段通りのようでその表情をきちんと見た気がしない。
それはたぶん、自分が見れなかったのだ。


アンコールラストの曲が終わって観客の歓声が耳をつんざく。
けれど五関にはそれらが全て耳から耳へと通り抜けるようにして、ひたすらに意識はメインの先輩を挟んで向こう側にいる河合に向いていた。
見れば河合は客に手を振るでもなく小さく俯いて荒く息をしている。
心なしか顔が赤いような気がする。
今日の公演はそんなにハードだっただろうか。
いや、普段舞台ではアクロバットやフライングをしていることを考えれば、コンサートは比較的体力的には楽な方だ。
五関の位置からは横顔しか見えないが、その頬から顎に汗が伝って落ちるのが判った。

そうしてフラッシュバックする、昨夜の、あの顔。
確かに何かに絶望した顔で、大粒の涙を零した。
何か・・・それは自分の気持ちに応えてくれない五関にか、それとも応えて貰えない自身にか。
それとも、何もかもがうまくはいかないこの現状にか。
その雫は五関をも濡らして、今もなお乾くことはない。
・・・濡れて乾くことはない、そのくせ、どうしてかやはり喉はカラカラに乾いて熱い何かはせり上がってくるばかりなのだ。


バックのジュニアが一気に袖に捌ける。
結構な人数がいるから、五関は一瞬その姿を見失う。
視線をぐるりと巡らせて探す。
すると向こうの機材の脇に手をついている後ろ姿を見つけた。
不自然に大きく上下する背中を見て、やはりどこか調子が悪いのだろうと感じた。

ざわざわと喧噪の止まない舞台袖。
人がごちゃごちゃと行き交う中をかき分けるようにしてその後ろ姿にゆっくり近づく。
何をどう言って声をかけようか、なんて考えもしなかった。
だって普段通り声をかければいいだけの話だ。
関係は何も変わってはいない。
たとえ昨夜どんなやりとりがあろうと、同じグループの仲間で、・・・そう、仲間。

調子が悪いなら向こうで休むか、と。
そう声をかけようと思った。
ゆっくりと手も伸ばした。

けれど言葉は喉から出て行かなかったし、伸ばした手も届かなかった。


「河合っ・・・!」


その声は五関のものではなかった。
声のした方を見ると、横尾が向こうから走り寄ってきて手を伸ばした。
長い腕が伸びるのとほぼ同時だったように思う。
その細い後ろ姿がふらりと揺らいで膝をついた。
横尾は咄嗟にそれを両腕で抱き留める。

「河合?大丈夫か?河合っ?」

それにふらりと手を泳がせて、横尾の腕にしがみつくようにしてなんとか頷くその姿。
さすがに周りにいたメンツも事態に気付いたのかわらわらと集まってくる。
固まったように二人を見ていた五関は、それに後押しされるようにようやく近づいていく。
河合は浅く息をして頬を紅潮させながらも、横尾に小さく笑いかけていた。

「あー、なんとか、ギリギリ、だったかなぁ・・・」
「ったく・・・だから、止めとけって言ったのに」
「うん、まぁ、でも、今日が最後だしさ・・・」
「・・・熱、相当上がってんぞ」
「んー・・・」

横尾の手が河合の額に押し当てられる。
河合は少しだけばつ悪そうに、それでもその感触が少しでも冷たく感じられるのか、うっすらと目を細めている。
その二人のやりとりで理解した。
五関とてよく知っていた。

河合は元々扁桃腺が弱いのだ。
たとえば何か環境の変化なんかがあると、如実にそれが影響してよく体調を崩すことがあった。
それでも日々鍛えた成果なのか、最近はそれ程出てはいなかったのだけれども。

でも問題はそれじゃない。
そんなことじゃない。
今の会話を聞けば誰だって判ることだ。

横尾は河合の状態をあらかじめ知っていたということ。

「・・・・・・いつから?」

ぽつりと呟いた声は小さかったけれども、どうやら今度は届いたようだった。
河合は紅潮した顔をゆっくりと、どこか恐る恐る上げて五関を見上げた。
熱のせいなのか、いつもは鋭く強い印象のある黒目がちな瞳が微かに潤んでぼんやりとしている。
そのせいなのか。
いや、たぶんそのせいだけじゃない。
そこには隠しきれない怯えが見える。

なんだよその目。
そんな目するの?俺に?
これからも仲間・・・そうじゃなかったっけ?
お前がそう言ったんじゃなかったっけ?

けれど反射的に思った、そんな事が。
どれだけ自分の身勝手でありエゴであり、残酷なことであるのか。
それは自分自身に跳ね返ってきてようやく判った。

「ごめん、・・・ちょっと、明け方頃、喉痛いかもって、思って・・・その後また寝て、起きたら、・・・ちょっとだけ、熱あって」

小さく途切れ途切れに呟く様に妙に苛立たされる。
じっと黙って聞いていたけれど、これ以上その言い訳を聞いていたらまずいと思った。
そうか、じゃあゆっくり休めよ、なんて。
そんな優しい言葉が今は到底かけられそうにない。

五関は気付いてしまった。
今更に気付いてしまった。
気付きたくなかった。
気付かなければよかった。

「今日最後だし、踏ん張ればなんとか、いけるかなって・・・思って、」
「五関くん」

河合の言葉を途中で遮ったのは横尾だった。
その長い腕で河合の肩を抱くように支える様は否が応でも目に入ってくる。
そしてあまつさえしゃがんだ体勢で見上げるように呟いて、五関に気付かせた。
まるで追い打ちをかけるように気付かせてしまった。

「こいつ、もう向こう連れてくから。・・・あとは訊きたいことあったら、俺に訊いて。知ってたのに言わなかったのは俺だし」

強い調子ではないけれど、確かにその声は、腕は、守ろうとしていた。
河合を傷つけるものから。
じゃあ今なお河合を傷つけるものとは一体なんだ。

五関は気付いてしまった。
それは自分なのだ。
昨夜だけの話ではない。
それは今も、自分なのだ。

気付いてしまった。
気付いてしまった。
これからも仲間だとそう言った。
強がっているのだと判っていたけれど、そうしたいのならそれでいいと思った。
自分もそうしようと思った。
けれど、もう駄目なのだと、気付いてしまった。
もう戻れない。
もう仲間にだって戻れない。
そうだ。
だってとっくに違ったんだ。
そんなレベルの存在じゃなかったんだから。
一度壊れてしまったものが、そんなあっさり生やさしいレベルで戻せるはずがなかった。

そう、壊れてしまった。
昨夜のあの涙と共に。
伝えられなかった熱い何かと共に。
引き止められなかったこの手と共に。

嫌いだと、哀しく望まれたそんな嘘と共に。



「・・・じゃあ、俺も後で様子見に行くから」
「うん・・・」
「横尾、暫くついててやってくれる?」
「うん・・・わかった」

くるりと踵を返した。
河合が潤んだ目で何か言いたげにしているのが見えたけれど、もう見ていられなかった。
もう泣かせたくないと思って嘘をついたのに。
この手を離したのに。
傍にいるだけで、傍にいこうとするだけで傷つけてしまうとしたら、あとはどうすればいい。
傷つけようなんて欠片も思ってない。
それはむしろ逆なのに。
自分の気持ちは何一つとして変わっていない。

大事で。
本当に大事で。
何より欲した。
たとえ、それでも。

昨夜河合の心に深く刻んだであろう傷は、近寄るだけで痛みを疼かせてしまう。
それだけで怯えさせてしまう。
あまりに身勝手な自分の気持ちと行動が今ようやく跳ね返ってきた。
だから今この左胸がこんなにも痛いのだ。
手で押さえても押さえてもズキズキと痛んでしょうがないのだ。
昨日の河合はもっと痛かったかもしれない。今はもっともっと痛いかもしれない。
お互いに近づくだけでこれだけ痛みを憶えるなら。

もう、仲間でいるなんて無理だ。
傍にいることさえできない。



人をかき分けて輪から離れる。
さっき喉の奥からせり上がってきた熱いものは今はなく。
代わりに苦々しいばかりの何かが、吐息と共にじわりと零れた。
小さすぎるそれは誰にも聞こえることはなかったけれど。

「・・・こんなの、・・・なけりゃ、よかった」

恋じゃなければよかったのに。
そうでなければ傷つけなかったのに。
そうでなければ傷つかなかったのに。

傍にいられた、のに。










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(2006.9.3)






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