マリア










4年3組 河合晃人

「お父さんについて」

ぼくにはお父さんがいません。
お母さんもいません。
ぼくが小さいときにじこで死んでしまったと言っていました。
ぼくはあまりよくおぼえていません。

でもぼくにはふみとがいます。
ふみとはぼくのお父さんではないけど、お父さんみたいです。
お母さんみたいなときもあります。
お兄ちゃんみたいなときもあります。
だからさみしくありません。

ふみとは朝になると、いつもぼくを起こしてくれて、朝ごはんを作ってくれます。
ゴミを捨てるのはぼくがやります。
でもお買い物もふみとがするし、夜ごはんもふみとが作ります。
そうじもせんたくもふみとがやります。
ふみとは働きものです。
ちょっとドジなところもあるけど、それはぼくがいるからだいじょうぶです。
「あきとはしっかりしてるな」ってふみともよく言います。

ふみとはダンスがすごくうまくて、昼はダンスを教えています。
おどっているふみとはすごくすごくかっこよくて、ぼくもあんなふうにおどれるようになりたいです。
ぼくはふみとが大好きです。
ふみととずっといっしょにいたいです。





「はい、河合くんよく読めましたね」

教壇に立った年若い女教師がにこやかにそう言うと、周りから小さな拍手が上がる。
けれどその拍手に紛れてそこかしこでひそひそと話し声も聞こえる。
それはいくつかの好奇の視線と共に、窓側の前から二番目の席に座っていた小さな少年に向けられていた。
少年・・・晃人はそれに気付いていたけれども、特に反応はせず、既に自分の発表は終えたからとばかりに窓の外にぼんやり見ていた。
こんなのはよくあることだからだ。

「今回の作文のテーマは、河合くんのおうちの事情を考えると少し難しかったかもしれませんが、きちんと書けていますね」

純粋に生徒を褒めているつもりなんだろう。
けれどもそこにはあまりにも配慮が欠けていた。
授業の一環として作文が必要であり、またそのテーマを使うにしろ、両親が共にいないような特殊な環境に置かれた生徒をわざわざ好奇の視線に晒すようなやり方はすべきではない。
しかしそんな分別がつけられる年齢の人間はこの教室内には一人しかいなかったし、そのたった一人がこれではどうしようもなかった。
この年頃の子供達がそんな特殊な環境を知って敢えて触れずにおくなどと、期待する方が無理という話だ。

実際もう何度となく置かれてきた状況もあったから、晃人は今更気にしない。
だからもう教師にも興味をなくしたようにぼんやりと外を眺めるのだ。
ただ思うのは、早く学校が終わればいいということだけ。

外はいつのまにか雨が降り出していた。
傘を持ってくるのを忘れてしまったから、急いで帰ろうと思った。




晃人は階段を駆け下りて昇降口に向かっていた。
ランドセルは背負うことすらせず、片手に持ったまま、滑る上履きに時折足を取られるようにして走っていた。
途中、きつく握った小さな手の甲で目元をごしごしと擦りながら。

帰りのホームルームを終えさっさと教室を出ようとした時、案の定絡まれた。
それは、勉強も運動もできる晃人が気に入らないのか、よく突っかかってくるクラスのガキ大将のような少年だった。
少年は先程の作文を聞いてまるで弱味を握ったとばかりに、その仲間の少年達数人で小柄な晃人を囲い込んで野次るように言ったのだ。

『おまえ親がいないんだって?』
『かわいそー』
『だから性格わるいんだぜ、きっと』
『お父さんみたいとか言って、そんなのニセモノじゃん』
『血がつながってないのはお父さんとか言わねーんだぞ』

考えなしにただ向けられる刃のような言葉達。
晃人は喉元にせり上がった言葉をグッと飲み込んで、ただその少年達を睨み付けただけで、それを押しのけさっさと階段を駆け下りてきたのだ。
後ろから罵声と追ってくるような足音が聞こえたけれど、俊足の晃人には追いつけないようだった。

昇降口に出ると、自分の下駄箱の扉を素早く開けて靴を取り出し、上履きを脱いですぐしまう。
靴を履いた勢いでそのまま再び駆け出すと、雨の降りしきるグラウンド脇を全力で走った。

早く帰らなければ濡れてしまう。
だから走った。
けれど雨が降っていて少し良かったかもしれない。
雨が降っていれば走らざるを得ないから。
そして顔も何もかもびしょびしょになってしまうから。
ぼやける視界に、それでも真っ直ぐに前を映して晃人は走る。


親がいない?それがどうした。
かわいそう?どこが?
性格が悪い?そんなの生まれつきなんだよ。
だいたいお前らみたいなバカに愛想笑いできるような性格の良さなんて、持ってなくて正解だ。

郁人はニセモノなんかじゃない。
俺と郁人のことなんてなんにも知らないくせに。
血なんて繋がってなくたって、郁人は俺のお父さんでお母さんでお兄ちゃんだ。
全部で、全部で、それでもっともっと沢山なんだ。
郁人を悪く言う奴は許さない。


晃人はグルグルと頭の中で渦巻くものに息苦しさを覚えつつ、地面を蹴り泥を跳ねさせながら校門を飛び出した。
そして家路を急ぐべく、すぐさまそこを左に曲がったのだけれども。
そこで何かに後ろから首根っこを掴まれた。

「ストーップ!俺を置いてくなよー」

聞き慣れた声に思わずそのまま振り返ると、そこには右手で赤い傘を差し、左手で晃人のシャツの襟を掴んだ青年が立っていた。
年の頃は二十代後半。
大きく鋭い瞳に彫りの深い整った顔をしていて、元の顔立ちはとても鋭い印象がある。
けれど今晃人に笑いかけてくるその目尻はやんわりと下がり、柔らかそうな厚めの下唇は緩やかに弧を描いて口の端を上げているから、今その内包した鋭さはなりを潜めていた。

「ふみ、と?」

咄嗟にパチパチと目を瞬かせ、小さく呟いた。
どうして、と言おうとして晃人はすぐさま口を噤む。
その赤い傘を差している手に、同時に小さめの黄色い傘が提げられているのが見えたからだ。
きっと迎えに来てくれたんだろう。
普段ならまだ今頃はレッスンをやっている頃のはずなのに。

「・・・レッスンは?」
「今日は雨だから切り上げー」
「なにそれ・・・だめじゃんふみと」

ちゃんと仕事しなよ。
首根っこを離されると、晃人は呆れたような顔で見上げた。
けれどそんな晃人を逆に見下ろして、郁人は何かに気付いたように目を細め、またすぐさま笑う。

「なにがだよ、ダメじゃないよ。だって今日は生徒さんお休みが多かったし」
「でも、だめじゃん。しんようもんだいに関わるよ」
「おー晃人、難しい言葉知ってんなー」

ちゃんと勉強してんだな、感心感心。
そんなことを言って高いトーンで笑い声を上げながら、郁人は手に提げていた黄色い傘を開くと晃人の上に差した。
すると頭上から降りしきっていた雨が止む。
晃人は余韻のようにぽたりと顎を伝って落ちる雫を鬱陶しげに払い、差し出された傘を自分の手で持ち直した。
それから改めて郁人を見上げると、深く柔らかな笑みとかち合い、少し濡れた髪をゆっくりと撫でられた。

「大丈夫か?」
「・・・なにが?」
「あき、目が赤い」

やっぱり気付かれた。
だから我慢しようと思っていたのに。
郁人に隠し事をするのは実はなかなかに難しい。
それに思わずむくれる。
でも嬉しくもある。

「・・・なんていうかさ」
「うん?」
「世の中、バカなヤツが多くてこまるよ」
「うわー、お前言うなぁ」
「バカばっかりだよ」
「んー・・・まぁ、そういうバカもいるだろうけどさ、」

郁人は特に深く訊くことはせず、ただ小さく考えるような仕草を見せたかと思うと、傘を差したまましゃがみ込んで晃人と目線を合わせた。

「そういうバカばっかりだと思っちゃダメだよ」
「・・・でも、」
「そういうバカもいる。でもそうじゃない人もいる。世の中にはそうじゃない人の方が多いんだから」
「でも、でも・・・」

あいつらは郁人をバカにした。
ニセモノだって言った。
けれどそんなことを正直に言えば郁人を傷つけてしまう気がして、晃人はグッと堪えた。

固く噤まれたその口元を見て、郁人は僅かに眉を下げるともう一度その黒い頭を撫でてやった。

「そんな奴らは一握りだけで、そんなのに遭遇したのはアンラッキーだったんだよ。
むしろ将来、こんなバカなヤツがいたんだなーって、ネタとして思い出す程度でいいの。
お前がそんな気にするような必要のある奴らじゃないんだよ」

ハスキーな声。
笑うと高くなるトーン。
黙っていれば格好いいのに、笑うとちょっと崩れて可愛くなる。
大きくない手でよく頭を撫でてくれる。

たとえ誰がどう言おうと、晃人にはそれが全てなのだ。
郁人の言葉はいつもまるで晴れた青空みたいに、晃人の心から雲を取り去ってくれる。

「・・・うん、わかった。気にしない。
それにどーせ、俺のがしょうらいゆうぼうだしね」

こくんと小さく頷くと、唇の端を上げてようやく笑った。
その言葉に郁人は一瞬きょとんとした表情を晒してから、弾けるように甲高く笑った。

「あはははは!そうだよなー晃人は大きくなったら絶対格好良くなるもんなー」
「まぁね」
「お前の将来がほんっとに楽しみだよ」
「きたいしてていいと思うよ、ふみと」
「はいはい、期待してまーす。・・・じゃ、一緒に買い物して帰ろっか?」
「うん!」

そうして繋がれた手に、今度は満面の笑みを浮かべて晃人は頷いた。
つられるようにうっすら笑って郁人はゆっくり歩き出す。

赤い傘と小さめの黄色い傘。
二つは仲良く隣に並んで雨の中を歌うように歩いた。








郁人と晃人はいつも同じ寝室で寝る。
決して大きいとは言い難い簡素なシングルベッド。
いかに郁人が成人男子にしては小柄で、なおかつ晃人がまだ小さいとは言え、それでも決して余裕があるとは言えない。
けれどそんな手狭なベッドで、いつも郁人は晃人を大事に抱えて眠る。
まるで何か大切な宝物を守るかのように。
それは時折苦しい時もあるのだけれども、その腕の感触が暖かくて嬉しくて、晃人は「もう10歳なのに」なんてことはつい言えなくなってしまうのだ。


晃人が風呂に入って歯を磨いて、ベッドに潜り込んでからもう20分近く経つ。
けれど郁人はさっきから部屋のデスクに向かって何か書いている。
ベッドに潜り込んだ晃人からはちょうどその前屈みになった細い背中しか見えない。
最初こそ冷えていたベッドもさすがに暖まってきて、自然と晃人も眠気を誘われてきていた。

一瞬瞼が閉じそうになる。
小さな頭がかくんと落ちそうになる。
晃人ははたとして目を擦ると黒い頭をふるりと振って、もぞもぞと身動ぐと布団から出した顔をその背中に向けた。

「・・・ふみと、なにしてんの?」
「んー?お手紙書いてんの」
「おてがみ・・・?」
「うん。大事なお手紙」
「ふーん・・・」

晃人の方を振り返るでもなく、ひたすらに筆を進めている。
なんとなくそれがつまらない。
ごろんと枕に頭を横たえながらその後ろ姿をじっと見る。

郁人がこうして誰かに手紙を書いているのは何もこれが初めてではなくて、だいたい一ヶ月に一度のペースで行っていることだった。
差出人は皆同じで、いつも真っ白い上等な封筒を使う。
晃人はその手紙の内容を見たことはなかったが、手紙を入れた封筒は目にしたことがあった。
お世辞にも字が綺麗とは言えない郁人にしては精一杯の丁寧さでもって書かれた宛名が、なんだか不思議だった。

その宛名は晃人は知らないものだった。
けれど郁人が毎月毎月、それこそ晃人が物心ついた時には既にずっと書いている手紙。
それは大事な手紙なのだと言う。
ならば、その宛先は大事な人なんだろうかとぼんやりと思う。

「・・・」

しかし段々と考えるのも面倒になってきた。
眠気が思考を遮る。
だいたいが考えたってその宛名は知らないものだし、所詮はどうでもいいことなのだ。
ただ、いつだって晃人が呼べば何を置いても構ってくれる郁人が、それを書いている時だけは違うことがなんとなく嫌なだけ。

「・・・ふみと、ねむい」

むっつりと不機嫌さすら滲み出たトーン。
ガキっぽいなぁと晃人自身思う。
けれどガキっぽいも何も実際まだ子供なのだから、それは当然と言えば当然のことではある。
それをガキっぽいなどと思ってしまう晃人は、同じ年頃の子供達に比べて随分大人びているのだ。
そんな晃人を、郁人は「子供のくせに」などと言って苦笑しつつ、同時に何故かどこか懐かしそうな顔をするのだ。

「はいはい、寝よう寝よう。終わったから」

晃人がごしごしと目を擦っていると、郁人がペンを置いてゆっくりと立ち上がる。
それから小さく笑いながらベッドに潜り込んできた。
布団が捲られて一瞬ひんやりしたけれども、すぐさま暖かくなった。

「あー、晃人のおかげで布団あったかいなー」
「ふみともあったかい」
「そう?」
「ふみとは子供体温なんだよ」
「おま、子供に子供体温て言われるの微妙なんだけど・・・」

なんとなく釈然としないような顔をしつつ、晃人を両手でギュッと抱きしめて覗き込んでくる。
けれどそんな顔はなんだか本当に子供っぽいと晃人は思うのだ。
元々同年代の子供達の父親よりも若いが、時折見せるこうやって覗き込む仕草とか、尖る唇とか、歯を見せて笑うと顔が崩れるところとか、それらが歳よりも更に郁人を若く見せている気がする。
何度か学校の授業参観に来た時、クラスの女子から「河合くんのお父さんてかっこいいね」と何度も言われたくらい、黙っていればとても綺麗な顔をしているのに。
でもそのくせ、たまに晃人を見ていない時は、妙に遠くを見ていることもある。
そんな時だけは普段の子供っぽさなど欠片も見えない。
晃人の知らない大人の顔をしている。

なんだか郁人は不思議だと、晃人はいつも思う。
郁人は晃人が物心ついた時には既に傍にいた。
父親であり母親であり兄でもあった。
けれど郁人自身は、自分は父でも母でも兄でもないと言う。
父親も母親もちゃんといるらしい。兄はいないらしい。
両親とも事故で亡くなったと聞いている。
晃人にとって本当の父親と母親など見たこともなければ会ったこともない。
だから晃人にとってそれらは全て郁人なのだ。
それ以外だって全て郁人なのだ。
郁人自身が、それを代わりだと言ったとしても、晃人にとってはニセモノも代わりも関係ない。
晃人が嬉しい時、寂しい時、悲しい時、辛い時、どんな時も傍にいて抱きしめてくれたのは郁人だけだ。
郁人以外なんて知らない。

「・・・きょう、さくぶん書いた」

晃人は郁人にしがみつき、眠気に誘われながら呟く。
その手が頭を撫でながら先を促してくる感覚が気持ちいい。

「そうなんだ。上手に書けた?」
「まぁね。お父さんについて書いた」
「・・・俺のこと書いたの?」
「ふみとしかいないじゃん」
「そっか。ありがとな」
「お母さんていうテーマでも、お兄ちゃんていうテーマでも、ふみとのこと書くよ」
「うん・・・ありがと」

そう呟かれた言葉が本当に嬉しそうで、晃人もなんだか嬉しくなってしまった。
しがみついた身体を少しだけ離してじっと顔を覗き込むと、その小さな白い手で郁人の頬にぺたりと触れた。

「次はね、みらいのおよめさん、なんだって」
「え?次の作文のテーマ?」
「うん」
「おー・・・なに、それはどうすんの?そういやお前好きな子とかいないの?」
「好きな子?」
「そうそう。お前も10歳になったんだしさ、そろそろいたっておかしくないだろ」
「んー・・・・・・いる」
「おっ、まじで?だれだれ?同じクラスの子?」

楽しげに先を促した郁人の顔を真っ直ぐに見つめ、晃人はこくんと頷いた。

「ふみと」
「え?」
「好きな子、ふみと」
「・・・・・・や、そうじゃなくて。そういうんじゃなくてさ、こう、恋っていうか、そういう好きっていうか・・・」

郁人は咄嗟に小さな動揺を見せた。
それは晃人がきょとんとする程度のものではあったけれども。

「なんで?おかしい?」
「おかしいっていうか・・・。あきちゃん、そんなマセてんのに初恋もまだだなんだ・・・」
「・・・なんだよふみと、やなかんじ」
「だってお前、それってさ、将来お母さんと結婚するーって言ってんのと同じじゃん」
「でもふみとがいい」
「・・・あのね晃人、この国では男同士は結婚できないし、何より歳の差がすごすぎるからね」
「だったら俺、しょうらい政治家になって、ほうりつ変えるよ。たぶんいけると思う。としの差とか、かんけーないし」
「・・・・・・そっか。まぁ、がんばって」
「うん」

そう頷き、きつい目元を撓ませてふにゃりと笑う顔は年相応に幼い。
郁人はそれを見て苦笑しながらも優しく頭を撫でてやった。
ところどころに面影は見えるが、やはり子供だなぁと思う。

ただ、だからこそさっきの発言は郁人にとって心臓に悪すぎた。
同時に、そんな子供の発言に未だに動揺してしまう自身に、郁人はうっすら自己嫌悪を抱いた。

「・・・」

小さく息を吐き出す。
そこで郁人はデスクのライトを消し忘れてしまったことに気付いた。
けれど消すために起きあがろうと思ったところで、凭れかかってくる小さな頭から安らかな寝息が聞こえてきて思わず動きを止めた。
覗き込めばまるで天使のような寝顔。
起こすのは忍びない。
郁人はそっと息を吐き出すと、灯りに照らされたままのデスクをチラリと見やってから自身も再び布団に潜り込んだ。


デスクの灯りが照らす一通の白い封筒。
その宛名には「五関様」と書かれていた。










その日のレッスンを終え、途中のスーパーに寄った帰り。
スーパーの買い物袋と、生徒から貰ったリンゴがいくつか入った袋を両手に提げて、いつもの並木道を歩いていた。
晃人はリンゴが好きだから、今日の夕飯のデザートにしよう。
そんなことを考えながら歩いていると、時折小学生の一団とすれ違う。
もう学校も終わって少し経った頃だ。
でも今日は日直だと言っていたから、晃人はもう少し遅くなるだろうか。

そんなことをぼんやりと考えながら歩いている内に家に着いた。
なんとなく俯いていたから、その視界には見慣れた門扉の下の部分しか見えない。
カギをポケットから取り出しながら近づいていくと、ふと視界に誰かの足が映った。
ジーパンの裾とごついブーツ。
河合が顔を上げるよりも前に、そちらから声がした。
どこか驚きを含んだようなそれ。

「河合・・・?」

少し掠れたような声。
聞き覚えのある声。
むしろ10年前まではしょっちゅう聞いていた声。
まさか、と河合が息を飲んで顔を上げると、そこには記憶よりも幾分か精悍な・・・けれど相変わらずメッシュのかかった前髪を揺らす顔があった。

「よこ、お・・・」

河合は思わず手を滑らせて、リンゴの入った袋を落としてしまった。
その拍子に中からリンゴが一つ向こうに転がり出る。
慌てて拾おうとするけれど、その前に長身が屈んで長い腕が伸びたかと思うと軽々とそれを拾い、ゆっくりと歩み寄ってきてスッと差し出した。

「ほら」
「あ、ありがと・・・」

それを受け取って再び袋の中にしまう。
袋の中で他のリンゴとリンゴの間に収まるようにごろんと転がったそれを見てから、河合はもう一度おずおずとそちらを見る。
横尾はじっと河合を見つめていた。
懐かしむような色の瞳。
そのくせどこか切なげに下がった眉。
少し変わっただろうか、と河合は思った。
あの頃からテレビも自分では意識的にほとんど見なくなったから余計に感じるのだろう。
しかし思えばもう10年は経つのだ。

河合が、まるで逃げるように晃人を連れ去ってから。


「・・・横尾、なんか老けた?」

どこかおかしそうに言う河合に、横尾は途端に憮然とした表情を見せる。

「バーカ。まだまだ現役バリバリだよ」
「でも、もう三十路じゃん?」
「まだ29だよ」
「頑張ってる?」
「そりゃーもう。オフとか本気で皆無だからな。今日なんか奇跡だよ奇跡」
「あはっ、景気いいじゃん。売れてる証拠だよ」

意識的にテレビは見ないようになった。
けれどそれでも全く耳に入らないわけではない。
実際晃人はよく見ているようだし、今人気絶頂のアイドルグループの一員なのだから。

「他のみんなは?元気?」
「マジ元気すぎ。二階堂なんて、まーた週刊誌にすっぱ抜かれやがったし」
「あはは!相変わらずやってんなーあいつ」
「いい加減ほどほどにしろって言ってんだけどさ・・・」
「ま、いいじゃん。今ならそんな影響ないだろ」
「まーな」
「お前ら頑張ったもんな」
「塚ちゃんとトッツーも、アクロバットデュオで大活躍中だよ」
「まじで?すげー。・・・そっか、二人も頑張ってんだ・・・よかった」

他のメンツの話も聞けばやはり懐かしい気持ちになる。
やはり思い返せば10年程前になるだろうか。
河合も彼らと共にステージに経っていた時代があったのだから。

「ほんと懐かしいなー・・・」

そう言ってやんわりと目を細めて呟く河合を見て、横尾はふっと笑顔を消すと真顔で呟いた。

「・・・お前は?」
「え?」
「お前はこの10年間、一体なにやってたんだよ」

その言葉に、河合はごくんと唾を飲み込んで咄嗟に俯いた。
そう糾弾されるであろうことは、横尾がここに来た時から判っていたことだ。
いや、それはむしろ10年前のあの日、晃人を連れ去った時から判っていたことだったのかもしれない。
いけないことだと、責められるべきことだと判っていた。
それでもここまで来てしまった、この10年間。

「誰にも言わないで・・・俺にも言わないでさ、いきなり消えやがって」

どこか悔しさの滲んだそれは横尾の後悔の顕れなのだろう。
親友なのに、あの時絶望して追い詰められていた河合に気づけなかった。
でもだからこそ横尾はずっと探していた。
手がかりなんてまるでなくても、忙殺と呼ぶに相応しい日常を送っていても、それでも一日たりとも河合のことを忘れた日はなかった。
もう彼がいない今・・・河合を連れ戻すのは自分しかいないと、横尾はそう思っていた。

「なぁ、なんで?なんでだよ?」
「・・・それは、訊かないでよ」
「んなこと聞けるかよ!お前なにやってんだよ!
そりゃっ、お前はあの時すげえ辛かったかもしんねーけどさ!
でもだからって、こんなのおかしいだろ?」

感情が沸騰したように声を張り上げる横尾。
河合は、ああやっぱり変わらないな、と思った。
自分が置いてきたあの懐かしい場所は、それでも変わっていないのだと。
むしろ身勝手に捨ててきたというのに、それでも暖かく優しい。
けれどだからこそ、河合は自らの罪を否が応でも自覚させられる。

「あの人のお姉さんから聞いたよ。
お前、毎月手紙出してるんだって?あの子の写真つけて」
「・・・うん」
「俺もちょっと見せてもらった。・・・大きくなったな」
「うん」
「どんどんあの人に似てくる」
「・・・」

河合はじっと俯いて黙り込む。
それは一緒に暮らしている河合が誰よりも感じていることだ。
けれどそれを他人に言われると、なんだかひどく苦しい。
責められているように感じてしまう。

そんな風に河合が思う一方で、けれど当の横尾の声もまたひどく苦しそうだ。

「そういうお前の・・・誠意とか、大事にしてる感じとか、そういうのが伝わってくるから、って。
それにお前が、息子の、弟の、大事な友達だったからって・・・だから警察に届けないでいてくれてんだぞ・・・?」

そうだ。
本当なら、警察に届けられればそれで終わりだったはずだ。
場所なんてあっという間に探し当てられ、誘拐犯として手錠をはめられていただろう。
けれどそうはならなかった。
優しい人達。
忘れ形見とも言える孫を、甥を、まさに誘拐するように連れ去られたというのに。

「なぁ・・・お前、ずっとこんな風にやってくつもりなのか?
ずっと自分一人の手で育てんのか?大人になるまで?」
「それは、どうだろね・・・」
「そんなの、あの子にとって幸せなのか?」
「・・・・・・」

痛い一言だった。
けれど言われて当然の一言だった。
河合とて考えなかったわけもない。
むしろこの10年間、毎日のように考えていた。
それでも手放せなかったのは、あの小さな温もりが愛しかったから。
愛しい彼が残した小さな温もりを、離したくなかったから。

次第に色をなくしていくその顔に、横尾は苦しそうに眉根を寄せる。
こんな風に追い詰めたいわけではない。
けれどこのまま放っておくことはできないのだ。したくないのだ。

「・・・河合、頼むから、帰ろう。一緒に帰ろう」

横尾はそっと手を伸ばす。
節張った大きな手。
変わらないそれをじっと見る。
けれど自分は変わってしまった。
河合はゆるりと一度頭を振る。

「あの子だけじゃないんだよ。このままじゃお前だって、不幸になるだけだ。
そうやっていつまでもいつまでも、あの人に縛られて生きるのか?」

横尾の言っていることは正しい。
その通りだ。
けれど河合は首を縦に振ることができない。
それでも離せない。

「お前がどういうつもりかは知らない。
・・・けど、俺から見ればさ、お前があの子を育ててんのなんて、あの人の代わりにしてるようにしか見えないんだよ」

横尾の言っていることは正しい。
けれどそれだけは認めたくなかった。
代わりのつもりなんてない。
そんなつもりじゃない。
そんなことのために連れてきたわけじゃない。

「ちが、ちがう・・・そんなつもりじゃ、なくて、」

苦しそうに片手で顔を覆い、消え入りそうな声で頭を振る。
けれど横尾はそれにギュッと拳を握り、振り絞るように言った。

「・・・あの子はあの人じゃないんだよ。
いくら似てても、それでもあの人じゃないんだよ」
「わかってる、だから、ちがう・・・ちがうんだって、そんなんじゃ・・・」
「わかってねーだろ!」
「っ・・・」

ビクッと震えて立ち竦む河合の姿がどうしようもなく哀れだった。
愛して、愛して、たとえ振り向いて貰えなくても愛し続けた彼の亡霊に追いすがるようなその姿が。

「・・・もういないんだよ」
「あ・・・あ、」
「もう、いないんだよ、郁人」
「ぅ、あ・・・」

それは静かで苦しげで、けれど河合にとっては死刑宣告にも等しかった。
もう何度目かの死刑宣告。

「五関くんは、もうどこにもいないんだよ」

視界が真っ暗になって。
力もどこかへと全部抜けてしまって。
河合は崩れ落ちるようにして、ペタンとその場に座り込んだ。
手にしていた袋からは再びリンゴが転がり出す。





彼が結婚したのは二十歳になって少ししてからだった。
意外すぎることに、「一目惚れ」なんて、そんな理由。
そうして、もう十年近く所属していた事務所をあっさり辞めてしまった。
彼女と産まれてくる子供のために就職すると言っていた。

彼がいなくなった後も、河合は塚田や戸塚と三人でグループを続けていた。
河合はずっと密かに抱いていた恋心を捨てきれず、せめて仕事に没頭することで忘れられればいいと、そんなことさえ思っていた。
そうしていつかはちゃんと心から祝福できればいいとも思っていた。
奥さん大事にしてね、赤ちゃん可愛いね、幸せな家庭を築いてね。
そして冗談交じりで軽く笑い飛ばすように、実は好きだったんだよ?なんて、そう言えれば最高だとある種の夢まで描いていた。
けれどそんな夢は、待望の赤ん坊が産まれてすぐに打ち砕かれた。

夫婦二人で乗っていた車が酔っぱらい運転のトラックと正面衝突、なんて。
そんな絵に描いたような悲劇があるだろうか。

彼は死の瞬間一体何を思っただろう。
せめて妻だけでも助かって欲しいと願っただろうか。
それとも残された我が子を思っただろうか。
それとも父や母や姉や妹を思っただろうか。
それとも、ほんの刹那の一瞬でも、自分を思ってくれただろうか。
そんな詮無い願望すら浮かんだ。
その程度しかもはや願えなかった。

目の前からいなくなってしまっただけでなく、この世からもいなくなってしまった。
ひどい人だと思った。
密やかに幸せを願うことすら許してはくれないのかと。

絶望に追い詰められた河合は事務所を辞めた。
いや、正式に辞めると届け出ることもしなかった。
ただ一枚の置き手紙だけを残して。
彼が残した、まだ両親が死んだことすら認識できない赤ん坊を連れて消えた。

『ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。
どうかこの子は俺に育てさせてください。』


ふらりと宛てもなく辿り着いたこの地。
見知らぬ土地でまだ成人もしていない男が、産まれたばかりの赤ん坊を育てるなど不可能に近かった。
けれどそれでもなんとかやってこれたのはせめてもの幸運だったように思う。

最初こそ、毎日毎日悪夢を見る程にうなされた。
絶望と罪悪感とに苛まれて死んでしまいたいとすら思った。
けれど、自分の身勝手で連れ去ってきた赤ん坊が、晃人が、いつも笑いかけてくれた。
ふと手を伸ばせば、その白い紅葉のような手で握りかえしてくれた。
自分しかいないからだと判っている・・・それでも、無条件の愛情をくれた。
カラカラに乾ききって壊れる寸前だった心を優しく満たしてくれた。
もしかしたら彼は、せめて自分にこの子を残してくれたのではないかと、そんな都合のいいことまで考えた。

日に日に成長していくごとに彼に似ていく。
真っ直ぐな黒髪、深く穏やかな色の瞳、白くて長い指先、笑うと幼くなる表情。
呆れるような言葉を向けつつもそこに潜む優しさ・・・そんなところまで似てきた。
それを目の当たりにすることは嬉しくもあり苦しくもあり、このままではいけないと思いつつ、このままでいたいとも思わせた。

晃人のためにこんなことはよくないと判っている。
ずっとこのままではいられないと判っている。
両親がいないにしろ、本来の親権者である祖父母の元にいるのが一番いいのだ。
まだ小学生の内はともかく、中学、高校、大学と進学していくことを考えれば、河合一人の手で育てていくのには土台無理があった。
それに、今はまだ両親のこともきちんと話してはいないけれど、成長していけばいずれ話さなければならない日が来るだろう。
そうなった時、晃人は一体どう思うだろうか。
本来いるべき場所から身勝手に自分を連れ去ってきた親代わりをどう思うだろうか。


傍目から見ればただ独りよがりな感傷でしかなかっただろう。
けれど河合は、それでも、何かしたかった。
ずっと傍にいたのに想いの一つも告げられず、何一つできず、その死に目にも会うことができなかった。
そんな彼の残した小さな命を、せめて自分の手で、慈しみたかった。守りたかった。
彼の代わりにしていると言われたら、それを否定することはやはりできないかもしれない。
けれどせめて、彼に伝えられなかったその分まで、彼の息子を自分の全てで愛したかった。





「おれ、は・・・・・・あきと、」

河合は座り込んで俯いたまま声を震わせる。
咄嗟に横尾が手を伸ばそうとしたけれど、それは躊躇われて止まる。

「あきと、あきと・・・」

まるで自分の子を求めるようにただそればかりを繰り返す。
慈しんで、守って、愛して。
けれど実のところ、そうして河合の心は保たれていたのだ。
絶望と罪悪感は10年経った今も消えはしない。
それはずっとずっと河合の心を苛み続けている。
けれどそれでもこうしてやってこれたのは、晃人がいたからだ。

「あきと・・・っ」

喉を引きつらせて愛し子を呼ぶ。
いずれ返さなければならないと判っている。
いずれ離れなければならないと判っている。
本当にあの子の幸せを願うなら。
けれどそれでもその名を呼んでしまう、愚かで救われない自分を許して欲しい。


『郁人!』


呼んだのは誰だったか。
問うまでもない。
横尾ではない。
そして彼とて、河合をそう呼んだことは数える程しかない。

いつだって河合をそう呼んでくれたのは。
この心に暖かいもの、柔らかなもの、有り余る程の幸福をもたらしてくれたのは。


「ふみとっ!」


ゆるりと緩慢に振り返れば、そこには小さな身体が息を切らしてこちらを見ていた。
遠くから郁人を見つけて走ってきたのだろう。
こちらを振り返ったその顔が濡れているのを見て、晃人は目を大きく見開いて走り寄ってくる。

「ふみとっ?ふみと、どしたの?どっかいたいの?」
「あ、あき、あきと・・・」
「ふみと、ふみと、泣かないで?おれがいるから」

ボロボロと涙をこぼす郁人に狼狽えながら、晃人は座り込んだ郁人の顔を覗き込んで必死に宥める。
その小さな白い手で郁人のダークブラウンの頭をひたすらに撫でる。

「・・・その子が、晃人?」

晃人の背後で呟くような声がした。
驚きを含んだそれは、写真で見た以上に晃人が父親に似ていることに対してだろう。
けれど当の晃人はそんなことは知らない。
晃人にとって今大事なのは、郁人が泣いているということだけだ。
その小さな身体でまるで郁人を後ろに庇うように立つと、切れ長の目をギッとつり上げて横尾を見上げた。

「あんた、なんだよ。なんでふみと泣かせてんの?」
「え、あ・・・いや、俺は・・・」
「ふみとを泣かすなよっ」
「・・・うん、ごめんな」
「あやまったってゆるさない・・・」
「うん・・・それでも、ごめん」

横尾は眉を下げて頷いた。

真っ直ぐに向けられる瞳は静かだ。
けれど深い色のそこに確かな強い意志が見える。
穏やかで、けれど大事なものを守るための揺るがぬ何かがそこにはある。
まだまだ幼いながらに・・・本当に、似ている。
そんなところまで似ているなんて、と横尾は言いようもない気持ちになった。
そうして横尾が思い出すのは10年と少し前のあの日のこと。


たった一つ、横尾が知っていて河合が知らない事実がある。
きっと横尾だけが知っている事実。
考えればすぐに判りそうな・・・けれどまさか誰も考えなかったであろう事実。
こんなにもずっと一緒に暮らしていた河合とて知らなかっただろう。

晃人。
その名にこめられた彼の想い。
決して共にはいけぬさだめなら、と。
せめて息子の名に託した彼の想い。

きっとらしくもなく酔った勢いだったんだろう。
深い色の瞳で、それでもそこに大事なものを守る強い意志を込めて。
横尾にそう告げた、密やかな事実。


「晃人、くん?」
「・・・なに?」

横尾がしゃがみ込んでじっと見つめてくるのに、ひどく警戒しながらも、次第に相手がそんなに悪い人間ではないと感じたのかもしれない。
その視線に真っ直ぐに返した。

何も知らない幼い心と体に重い過去を背負わせるなんて、あってはならないことだ。
けれどたとえその重い過去が前提にあっての今だとしても。
それでもその幼くも深い色をした瞳はどれだけ似ていても、決して彼のコピーではない。
そこにある前提はどうあれ、過ごしてきた時間と培ってきた絆は本物なのだ。

「河合・・・いや、郁人のこと、好き?」
「・・・・・・あたりまえじゃん」
「そっか」

晃人の後ろで郁人は腫らした目を細めて口元を押さえている。

「でも晃人のおじいちゃんとかおばあちゃんとか、あとおばさんとか・・・会いたくない?」
「・・・そんなの、いるの?」
「いるよ。みんな晃人に会いたがってる。
晃人はどうしてるかなぁって、みんなすごく会いたがってる」
「・・・・・・」

小さな顔が少しだけ困ったように俯く。

郁人は毎月手紙を五関家に送っていたけれども、送り先がばれないようにしていたから、一度として返信を受け取ったことはない。
祖父母や伯母が晃人に会いたいと願うのは当然のことだから。
だからこそ、そうなったらもう自分の元から手放さなければならないと判っていた。
それが怖くて、今まで会わせることもできなかった。

「ふみと・・・」

晃人はくるりと振り返ると、未だ座り込んだままの郁人をじっと見つめる。
横尾ではなく、郁人の言葉を聞きたいんだろう。
郁人は一度手の甲で目を擦ると、大きく息を吐き出して笑った。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、おばさんもね、みんな優しい人ばっかりだよ。
晃人にもきっと優しくしてくれる。
おじいちゃんとおばあちゃんとおばさんはね、晃人のお父さんの家族だから」
「お父さん、の、かぞく・・・?」
「うん。お父さんの家族みんなと一緒に暮らせるよ。だからもう寂しくない」

目を瞬かせてじっと自分を見るその瞳。
郁人はせめて、と頭を撫でた。

「・・・おじいちゃん、おばあちゃん、・・・おばさん?」
「うん。そうだよ」
「クラスの、ゆりちゃんが、こないだおばあちゃんちにいったんだって・・・」
「そうなんだ」
「おばあちゃんはやさしいんだって・・・」
「うん」
「おれにも、いるなら、・・・会いたい」
「うん・・・そうだね」

郁人は優しく笑って頷くと、頭を撫でていた手をそっと離した。
けれどその瞬間、晃人は泣きそうに顔を歪めて唇をギュッと噛んだ。

「でも、会いたいけど、・・・そしたらふみとは?」
「・・・」
「ふみととは、会えなくなるの?」
「・・・会えなくは、ないよ」
「やだ」
「あき、」
「やだっ!」

晃人は目を潤ませて大粒の涙をこぼした。
横尾も郁人も、祖父母や伯母に会いたいかと訊いただけで、郁人と離ればなれになるとは言っていない。
けれど幼いなりに、この空気を感じとっているんだろう。
そこでそう頷いたら、もう二度と郁人と会えなくなることを自ずと感じ取っているんだろう。
そんな聡いところも本当に似ている。

「やだ、やだ、ふみといないとやだ」
「晃人・・・」
「ふみといないと、おれひとりになっちゃうもん・・・」
「一人じゃないよ?みんないるよ?」
「みんないたって、ふみとはいないんでしょ?」
「・・・・・・」
「そんなのやだ!だったらおじいちゃんも、おばあちゃんも、おばさんもっ・・・会えなくていいっ」

ついには声を漏らして泣き始めると、堪らず郁人にしがみついた。
郁人もまたギュッと眉を寄せて恐る恐る両手を回して受け止める。
抱きしめた小さな身体。
今度は強く抱きしめる。

「あきと・・・」

もはや何よりも大事な子。
10年はあまりにも大きすぎた。

抱きしめたその向こうに、横尾が何とも言えず困ったような顔で立っているのが見えた。
郁人と視線が合うと、ふっと笑って小首を傾げる。

「お前をさ、連れ戻したかったよ。不幸にさせたくなかったから」

今は良くてもいずれ傷ついて、もっと辛くなる日が来ると思っていた。
だから横尾はずっと探し続けた。
そして連れ戻そうとした・・・けれど。

「でも、今のお前にそれをやったら、それこそお前も、その子も、不幸になるのかもな。
正直、どうしたら一番いいのか、俺もよくわかんねーけどさ」

将来的なことを考えれば、やはり良い状態とは言えない。
けれど確かに目の前にある強い絆を引き裂くことが、幸せに繋がるはずもない。

「それに、その子なら・・・」
「え・・・?」
「・・・・・・や、なんでもない」

横尾は口にしかけて思いとどまった。
自分だけの中に閉じこめておいた事実は、やはり最後まで自分だけ持っていくのがいいだろう。
この二人を前に余計なことを吹き込む必要もない。


彼は大事だからこそ諦めた。
けれどこの子はもしかたら・・・諦めないかもしれない。


胸の奥に秘めたその言葉。
それらを抱えたまま自分は二人を見守ろう。
横尾は今度こそ満面で笑った。
その特徴的な八重歯を惜しげもなく晒して笑った。

それにつられるように郁人も笑う。
目尻を下げ頬を緩めて、そうして腕の中の顔を覗き込んだ。

「晃人」
「・・・ん」

ぐす、と鼻をすするような音。
その濡れた目元を指で優しく拭ってやって、そのまま抱き上げる。

「今度さ、一緒におじいちゃんたちのとこ、行こうか?」

晃人がそれでも一緒にいたいと言ってくれるなら。
せめてきちんとそれをお願いしにいこう。
いまさら許してもらえるかどうかは判らないけれど。

両腕の中に確かな重みと温もりを感じて、郁人は手に力を込めた。
晃人は郁人の首にしがみつくようにして覗き込んでくる。

「ふみとも、いっしょ?」
「うん。一緒。そしたらさ、晃人のお父さんとお母さんのことも色々聞こうな」
「うん・・・いっしょにきく」

こくこくと頷くのに頭を撫でてやると、そのまま横尾の方を向いた。

「横尾、ありがとな。・・・ほんとに、ありがと」
「バーカ。はずいからいいよ、そんなの」
「横尾さぁ、見てない内にちょっとかっこよくなったよな」
「なんだよそれ・・・とってつけたように言われたって何も出ねーぞ」

しかもそんな、からかうような悪戯っぽい笑みで。
けれどそんな笑顔は久しぶりに見た気がして、横尾はじんわりと温かくなる胸の内を持てあまして自分まで泣きそうになった。

「ふみと」

しかしそんな二人のやりとりに10歳児は何を感じたのか。
抱き上げている郁人の頬に片手でぺたっと触れ、晃人は心なしか眉を寄せる。

「あれ、だれ?」
「え?あれって・・・・・・ああ、横尾?」
「よこお?」
「うん。横尾渉っていうの。俺の友達。あ、お前のお父さんの友達でもあるよ」
「・・・ふーん」
「優しくて頼りになるお兄ちゃんだから、大丈夫だよ」
「ふーん・・・」
「ていうかお前知ってんじゃないの?
ほら、テレビで見たんだろ?Kis-My-Ft.2の横尾」
「きすまい・・・わったん?」
「そうそう、わったん。お前わったん好きって言ってたじゃん」
「・・・・・・ううん。おれ、たいぴーのほうが好き」
「あれ?そうだっけ?」

背が高くてワイルドで格好いいからわったんが好きって、確か言ってたような気がするんだけど。
郁人は不思議そうに目を瞬かせながらも、晃人がしがみついてきながら「わったんよりたいぴーがいい」と言うので、そうかー、ととりあえず納得しておいた。
けれど横尾からしてみれば、そんな晃人の微妙なふくれっ面を見れば判る。
そこら辺、いくら彼に似ているとは言え、その育った環境や年齢の違いは大きいようだ。
横尾は思わず苦笑してしまった。

「さすが、手ごわいなー」

彼も、そして彼の息子も。



「ふみと」
「んー?」
「それ、食べるの?」

腕の中から晃人が指差したのは、郁人の足元に転がったリンゴ。
郁人はしゃがんで一つ拾うとそれを晃人に手渡す。

「おうち帰ったら、はんぶんこして食べよっか?」

晃人はそれを両手で受け取ると、満面の笑顔で頷いた。










END






ここまでお読みいただきありがとうございました!

もうここまで禁じ手満載だといっそすがすがしいくらいですけども。
元々は、お友達に昔のちびっちゃいごっち(もはや幼虫)を見せてもらいまして、そのあんまりなかわゆさにドキューンてなって(笑)。
それでちっちゃいごっち書きたいな〜フミトに懐いたら可愛いな〜とかね。そんな感じだったんですけどね。
気がついたらこんなえらい妄想に発展していましたよ・・・。

とりあえずその見せてくれた友達にこのネタを話したら、「もはやそれ五河ですらないよね」と言われましたけどもね!(笑)
やーいい加減自分末期だなと思いました。
五河が大好きなんだ・・・!!!
(2006.11.22)






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