Private Nude 4
絵を描くということは、その対象との対話でもある。
つまり描く対象が人であるのなら、それはその通り描く側と描かれる側のコミュニケーションということになるが、それは何も会話のみで成立するわけではない。
事実五関は常に人を対象に描いてはいたけれども、だからと言ってさして饒舌なわけではなかった。
寡黙という程ではないし、親しいごく僅かの人間相手ならよく喋ることもあるけれど、そうではないような相手に必要以上の会話をしようという気は基本的にない。
けれど今回の相手の方に関しては、どうやら人との会話を好む傾向にあるようだった。
「先生はどうして絵描きさんになろうと思ったの?」
ベッドの上、白いシーツ一枚を腰から下半身の辺りにくるませて寝転がる姿。
細い筆を緩慢に、時に素早く走らせながら、それでも瞬き一つせず見つめるその瞳を受け止めるように、どこか楽しげに見つめ返してくる大きく強い眼。
河合がこのアトリエに通うようになって早五日になる。
基本的にショーは夕方からだからと、昼頃からの数時間だけこうしてモデルになっているのだ。
夜の遅い仕事だから、昼とは言え毎日眠そうな顔でやっては来るが、どうやら今まで経験したことのないこと、そして会ったことのない人種が楽しいのか、河合はいつも機嫌よさげだった。
柔らかなキャラメル色の髪を白いシーツにふわりと舞わせながら、うっすら目を撓ませて小首を傾げてみせる。
「ね、なんで?」
「・・・君って、お喋りだね」
思わず呆れたようにそう言うと、河合は一瞬不思議そうに大きな目をパチパチと瞬かせる。
けれど次には吹き出すように笑っては、歯を見せて声を上げる。
本当にくるくるとよく表情の変わる男だなと五関は思った。
「あはっ、よく言われる。ていうか、お前は喋んなければいいのに、ってさ」
「確かにそうかもね」
あのステージ上でのある種の獰猛さすらある鋭利な美貌を見てしまえば、その普段の甲高いトーンできゃらきゃらと笑う姿はギャップがありすぎる。
同時に、もしかしたらもっと違う貌があるのかもしれないとも思わせる。
そんな秘められたいくつもの貌を少しずつ、まるで覆うベールにゆっくりと指をかけて上げていくような・・・つまり描く対象との対話とは、そういうことだ。
「絵が、好きだったからかな」
依然として筆を進める手を動かしながら呟かれた言葉。
それが今さっき自分が向けた問いに対する答えなのだと気づくと、河合はまた何度か緩慢に目を瞬かせる。
「それ、まんまじゃない?」
「訊かれたから答えただけだけど」
「んー、そりゃそうなんだろうけどさ、もっとこう、どうして好きになったのかとか、そういう・・・・・・あっ、そうだ!じゃあさ、なんでヌードなの?」
それは以前にも何度か訊かれたことがある。
取材をしにきた記者だったり、依頼主だったり、また今回のようにモデルであったり、また藤ヶ谷に訊かれたこともあった。
あまり根掘り葉掘り訊かれるのは好きではないけれど、かといって別に隠しているわけでもないから、その度特に含むところもなく簡潔に答えるのだ。
「自分だけの綺麗なものを探してるから」
無機物でも風景でもなく、体温を持った生身の身体の持つ美しさ。
そして自分だけが描くことのできる、自分だけの美しいもの。
そんな答えに特に驚くでもなく。
ただその宝石みたいなキラキラした瞳にじっと五関を映し、河合はどこかぼんやりと見つめていた。
その様をゆるりとキャンバスに描き出していきながらも、五関はふっと笑って自ら言葉を続けた。
「なに、ちょっと引いた?」
「・・・あ、ううん、そういうわけじゃないよ。なんか、いいなーと思っただけ」
「いい?」
「先生に描いてもらえる人は幸せだね」
「そう?」
「うん。すごくすごく、幸せだと思う」
そう言って、河合はその頬をシーツに押し付けるようにしてごろりと転がって笑う。
形の良い艶めいた唇をうっすら開けるその様は何か物言いたげでもあって、その唇の動きを何気なく追うけれど、すぐさまそれは閉じられて撓んだ。
五関はそれを眺めながら、キャンバスの中のその唇に何気なく色を載せる。
「なら、君もそうだといいんだけど」
「・・・おれ?」
きょとんと幼げな表情を晒すのに目を細める。
獣は獣でも、それではまるで生まれたての小鹿のようだ。
その締まった細い肢体がそんな表情をより無垢で、同時に危うげに見せる。
もちろん、それは言ってしまえばその一蹴りで捕食者を撃退できる程のものなのだろうけれども。
「先生の目には、俺はどう映ってるのかな」
そんな幼げな表情のままに呟かれた言葉に、五関は軽く眉を上げる。
その真意を探るように見つめると、ふっと目を伏せて薄く笑んだ。
隠しようもない幼さ・・・けれど幼いままでは生きてこれなかった、そんな様が垣間見えるような笑みだと思った。
「先生なら、俺のことも綺麗に描いてくれるかな」
そう呟くと、河合はそのまま目を閉じてしまう。
疲れているわけではなさそうだけれども、と思いながら五関は筆を動かすのと同じ緩慢さで返した。
「君が全部見せてくれるならね」
それにうっすら微かに開かれた目。
何かを切に求めるように細められたそこに自分の姿を見つけて、五関はその日初めて筆を止めた。
疲れているわけではないかもしれないが、もしかしたら眠いのかもしれない。
僅かに掠れた声が吐息交じりで漏れて、シーツに触れた。
「せんせ、・・・先生は」
「ん・・・?」
「・・・ん、やっぱなんでもない」
「・・・そう」
そこからは特に言葉はなかった。
目を閉じたまま、恐らくそのまま眠ってしまったであろう河合を咎めるでもなく、五関はただ静かに筆をキャンバスに走らせながらその姿をじっと見つめていた。
シーツから伸びた細くてすらりとした手足は、さすが職業柄染み一つなく綺麗なものだ。
けれどその染まりやすい薄い肌の下に何があるのかなんて、五関にはわからない。
少なくとも今はまだ見えはしない。
もしもそれすらも見せてくれるというのなら、そのどこか寂しげに目を閉じて眠る貌を、その妙に胸を締め付けられるような稚い美しさを、キャンバスの中に閉じ込めておきたい。
「・・・」
そこまで思って、五関はさりげなく視線を逸らすと小さく息を吐き出した。
今日残された時間はあと小一時間と言ったところだ。
五関は横たわる姿を再び瞳に映すともう一度筆を止め、その寝顔を視線で撫でるように暫しじっと見つめていた。
窓から差し込む光が赤みを帯びてきた。
五関は外にちらりと視線をやると、次に室内の時計を見る。
それから最後にベッドの上を見ては、未だそこですやすやと眠る河合にため息をついた。
すっかり寝入ってしまったようだ。
自分はいいが、相手はそろそろ帰らなければ今夜のショーに間に合わなくなってしまうだろう。
安らかなその眠りを起こすのは気が引けるが致し方ない。
仕方なしに起こそうと立ち上がったところで、五関は家の門扉のところで今日も待っている男のことをふと思い出して動きを止めた。
毎日河合と共にやってきては、そのくせ中には決して入らずただひたすらに終わるまで待っている。
そして河合が家から出てくるとやはり当然のように共に帰る。
一度その帰る二人の後姿を何気なく見ていたら、それなりに楽しげに会話なども交わしているようだった。
五関は考えるような仕草でその寝顔を見つめてから、不意に踵を返してアトリエを出た。
「どうも」
玄関の扉を開け、当然のように門扉脇に立っている姿に歩み寄り、声をかける。
横尾はそれに驚くでもなく、軽く視線で応えるように五関を見た。
けれど続く言葉が特にないことに肩を竦めると、五関は改めて口を開く。
「あの子、寝ちゃってるんだけど」
その若干強面の表情に変化が生まれた。
何度か目を瞬かせ、五関の言葉の続きを促すように見つめてくる。
「起こしたほうがいいだろうと思うけど、どうする?」
五関がじっとその長身見上げるように表情を窺っていると、横尾は組んでいた腕を不意に解き、そのまま五関の脇を通り過ぎて玄関先に向かう。
しかしふと思い出したとでも言うかのように足を止め振り返ると、ようやく口を開いた。
「・・・入っても?」
初めて声を聞いた。
思ったよりも高めで、少しくぐもって聞き取りにくい声だ。
恐らく、特に誰かに何かを伝えるような必要性もないのだろう。
唯一守るべきその存在以外には。
「どうぞ」
五関がそう言って軽く頷いてやると、横尾はそれに頷きもせずさっさと家の中に入っていった。
その後に続くように五関も再び家の中に戻る。
アトリエの場所を一応案内しようと思ったが、前を歩く横尾の足取りは何故か迷いなく、初めて来た場所だと思えない程真っ直ぐに進んだ。
河合の匂いでもするのだろうか。
まるで番犬だな、と五関は内心で思った。
アトリエまで来ると、そのベッドに未だ横たわって安らかに眠る姿が目に入る。
そのすぐ近くまで来て足を止め、横尾は何を考えているのか、それをじっと見下ろしている。
そんな様を遠巻きに見て、服くらいは着せておいた方がよかっただろうかと五関は今更に思った。
河合の職業柄、そんな姿など見慣れてはいるのだろうけれども、この状況はいつもとは少なからず異なるものだろう。
けれどそれについても特に何か言うでもなく、横尾は暫しその白いシーツが所々を覆う細い裸体を見下ろし、ふと表情を緩めた。
一見近寄りがたそうな強面が柔らかさを混じらせて、少し優しげになる。
これはまた絵になる光景だ。
五関は二人を視界に映してそんなことをまんじりと思う。
ヌードが専門だから描く気はないが、今の二人の姿をキャンバスに映したならばさぞかしいい絵になるだろう。
横尾はやがてその長身を屈めてベッドに片膝をつくと、その長い両腕でそっと河合の身体を抱き起こす。
自分の胸元に預けるようにしっかりと両腕を回して受け止める。
けれど河合は未だ目覚めないようで、どこか寝ぼけたような様子で小さく頭を動かしては温もりに擦り寄るようにするだけだ。
横尾はそれを気にした様子もなく、むしろ当然のように抱き上げてその頭を肩口に載せさせてやると体勢を固定する。
そしてシーツの上に散らばっていた河合の衣服を片手で適当に集め、一番大きそうな裾の長い上着をその身体にかけて覆った。
それから忘れ物はないかと軽く辺りを見回してから、扉に向かってそのまま歩き出す。
その状態で河合を店まで送り届ける気なのだろうか。
一応車で来ていると河合は言っていたけれども。
どうやらこのボディーガードは、ステージ上でなくてもそうするらしい。
まるで真綿でくるむように、大事に大事に、その長い両腕で守るように抱える。
たとえそこに言葉はなくとも、その表情が、その仕草が、そこにある思いを雄弁に伝えてくる気がした。
「・・・反対しないの?」
河合を抱えたまま何も言わず部屋を出て行こうとするその後姿に、何気なく声をかけた。
主語も目的語もない。
そもそもさして答えを求めていたわけでもない。
素直に答えるとも思えなかった。
けれど横尾は特に振り返りこそしなかったけれども、その聞き取りにくい声で呟くように言った。
「こいつが望むなら」
そう言って出て行く後姿が見えなくなるまで五関はじっとそちらを見ていた。
それからやがて扉が閉まる音がすると、深く息を吐き出す。
人のいなくなった少し乱れたベッドに視線をやる。
そして最後に視線の行く先は描きかけのキャンバスだ。
まだほとんど線画の状態で、色はあまりない画面。
ただうっすらと開かれた唇にだけ、微かに薄い赤が載せられている。
絵を描くということは、その対象との対話。
ならば、描くためにその唇の本当の色を、本当の温度を、本当の感触を、そして本当に紡ぎたい言葉を、それらを知ることを望むのは間違ってはいないはずだ。
ただ今までそこまでしたいと思ったことがないだけで。
五関は暫し何か考えてから部屋の電話に手を伸ばす。
受話器を耳に当てて少し待つと、その向こうから聞き慣れた声がする。
それに特に前置きも何もなく言った。
「お前さ、またあの店見に行かない?・・・そう、河合郁人」
TO BE CONTINUED...
なんかこの話ほんと今までと雰囲気が違って我ながら書いててドキドキするわ(笑)。
五関さんも渉さんも違うのよね微妙にね。
割と二人とも普段の3割増くらいちょっと様子がおかしいです(そんな)。
なんか書く度大丈夫かコレ、って気分になるな。
(2007.8.12)
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