三千世界の烏を殺し
桟にもたれかかり、眠気に任せて外を眺めていた。
さっきの欠伸で潤んだ目にも、徐々に白んでいく空はくっきりと映る。
「さむ・・・」
素肌に羽織っただけの着物の袂を引き寄せて、せめてと今更に胸元に合わせる。
この時間は好きじゃない。
とても寒い。
まるで時を引き止めるように身動ぎ一つせずにいても、無情に白い光が薄闇の向こうに見えてくる。
目を細めてもう一度欠伸をした。
この時間は好きじゃない。
とても眠い。
じわじわと闇を浸食していくような容赦ない光。
今はまだ淡いそれだけれども、もうすぐいっそ暴力的な程に眩いそれに変わる。
辺りが明るくなっていくにつれ、一枚羽織った着物はまるでその光を吸い込むようにして存在感を放つ。
ふと裾を指先で緩慢に持ち上げてみると、雪のような真っ白な生地に真っ赤な牡丹が咲いていた。
きっと自分が一生かかっても買えないような高価なものなんだろう。
それこそ、一介の芸妓にくれてやるには勿体ないような代物。
あげるよ、なんて。
なんでもない調子で言われて羽織らされた。
嬉しかった。
高価なものだったからじゃない。
あの人がくれたから、嬉しかった。
特別色白でも清楚なわけでもない。
こんなのは似合わない。
だけど慣れないそれを着ておずおずと見つめたら、笑ってくれた。
いいんじゃない、って。
笑うと妙に幼くなる、あの顔で。
優しい夜の闇の中にも浮かび上がる白。
そしてそこに咲く、この胸の恋情のように鮮烈な赤。
けれどそれらすらも、明けていく夜の隙間から容赦なく暴くように照らしていく光に目が痛くて、思わず細める。
小鳥の鳴き声が聞こえた。
鈴のような可憐な鳴き声。
けれど忌々しくてならない。
吐き出した息は白くもやを作り、白む空気に溶ける。
やがて小鳥の鳴き声に混じって水まきの音が聞こえてくることだろう。
この時間は好きじゃない。
安らかな夜に眠っていたものが目覚めてしまうから。
「・・・寝てないの?」
背後から聞こえた声は落ち着いてはいるけれども、寝起きのせいか掠れていた。
普段の隙のない居住まいとは落差のあるそれがなんとなくおかしくて、桟にもたれかかったまま、小さく笑って振り返る。
「寝たよ。もう、起きたの」
割と寝起きいいんだから。
そんなことを自信気に言う。
畳の床に広がった着物の裾をさりげなく引き寄せて、剥き出しになっていた脚にかぶせた。
「嘘つけ」
軽い調子のくせに妙な断定。
けれどそう言われると嘘かもなぁと思う。
この人に言われると全てがそうなってしまう気がする。
ゆっくりと起きあがってこちらに寄ってくる。
顔だけで見上げたら、白い手が伸びて、手に触れられた。
「冷たい」
端的な言葉。
ああ、そうかもしれない。
だってさっきからもう感覚がない。
「この時間て嫌いなんだ。だって寒いんだもん」
「なら、なんか着ればいい」
「着てるよ、これ」
白い裾を摘んでみせる。
すると呆れたようなため息をつかれる。
あ、その顔、好きだな。
だから自分はこんなことばかりするのかな。
「お前に風邪引かせたくて、それやったわけじゃないんだけど」
「・・・でも、これ、嬉しかったんだ」
「そう」
「ありがと」
「それならよかった。でも、他にも何か着なよ」
白い指先が、やはり白い袂を掴んで寄せて、せめてと肌をできるだけ覆えるように整えてくれた。
それを身動ぎ一つせずにじっと見つめる。
優雅な、流れるような、洗練された仕草。
住む世界が違う人。
でも、そんなこと最初からわかってた。
「ね、旦那」
ことんと首を傾げて呼ぶと、視線だけを動かして見つめられた。
深い色の瞳。
静かで、闇と光を併せ持った黎明の色だ。
「次はいつ来てくれる?」
もしかしたら、もう次なんてないかもしれないけど。
毎回同じことを思いながら同じことを訊く。
欠片も抗えず動いていく時に、せめてしがみつくように言った言葉だった。
もしかしたら餞別品かもしれない、赤い牡丹の咲く真っ白な着物。
真っ赤に焦がれて咲く恋情を胸に刻みつけられて。
着物の裾を強く掴む。
黎明の瞳は何も語らず、ただその白い手で、掴まれた裾と手とを丸ごと覆うように添えるだけ。
それを見て、感じて、俯きがちにふっと息を吐き出した。
「・・・なぁんて、旦那も忙しいもんね」
もうすぐ大店の主になる男に、一介の芸妓を気にかけているような時間などないだろう。
そう、小鳥が鳴き、水まきの音がして、道を威勢良く駆けていく小姓の足音が聞こえ始めるような、この時間。
この時間は好きじゃない。
思い知らされるから。
「また、文を寄越すよ」
「・・・うん。わかった」
それ以上は何も言えずにこくんと頷く。
「今度は、それに合う髪飾り持ってきてやるよ」
そう言って笑った顔が、胸に明かりを灯す。
それはあの暑苦しい陽のようなそれではなく、薄闇に浮かぶ柔らかな月のような。
優しい人。
愛情深い人。
あなたにとって、俺は道端に咲いた野花程度の価値はあるんだろうか。
まさかこの真っ赤な牡丹とは言わない。
だけどせめて枯れるまでは愛でてくれるのだろうか。
「うん、待ってる」
この眩い陽にやられてすぐにしおれてしまいそうな花。
上手く笑えていただろうか。
「・・・じゃあ、今日は帰る」
そう言って静かに立ち上がった姿にゆるゆると手を振った。
笑って手を振った。
本当は、正座をして両手をついて頭を垂れて送らなければならないけれど、この人はそれを嫌がるから、いつもこう。
一秒でも長く見ていられる嬉しさと、視界から消えるのを見なければならない悲しさと。
ない交ぜになった感情の渦。
だからこの時間は好きじゃない。
とん、とん、とん、と階段を降りる揃った調子の音。
降りきったところで店主と少しだけ話して、戸を開ける音。
白い着物を頭から被って独りじっと聞く音。
そして残された冷たい部屋と灼くような陽。
この時間は好きじゃない。
この時間は嫌いだ。
あの人がくれた白い着物にくるまれて、あの人が温もりを残した布団に転がって、もう一度眠る。
夜明けが嫌いだ。
どんなに手を伸ばしても、あの人を連れていってしまうから。
END
なんかいきなり降りてきた末の遊郭パロっていう!(ええー)
遊郭っていうか、遊女じゃなくて芸妓なんだけど、正確には。
芸妓のふみちゃんです(真顔)。
ちなみに考証とかはほとんどしてないので雰囲気でよろしくです。
とにかくこの都々逸が好きでねー。
まさにタイトル通りの感じを書きたかったというか。
「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」っていうあれです。
(2007.5.14)
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