目の前の階段に捨てていくもの
楽屋に戻ってきた五関くんの視線が、俺を見つけて、それから少しだけ泳いだのを見逃さなかった。
他に誰かを探しているようなそれはもしかしたら無意識だったのかもしれないけど。
そんなことを思いながら、両膝の上に読んでいた漫画を載せて、軽く手を振る。
「おつかれー」
「おつかれ」
「遅かったね」
「あー、藤ヶ谷に捕まってた」
「あらま。残念ながら、塚ちゃんとトッツーならもう帰っちゃったよー」
何気なくそう報せた。
相手を特定せず、残りのメンバーがどうしたかを伝えるのは当然の範疇だろう。
五関くんもそれに特別な反応をすることもなく、「そっか」と一言呟いて、自分の荷物をまとめ始める。
こちらに背中を向けるような形になっているから、その表情はよく見えない。
小柄だけれど案外しっかりした造りの背中をぼんやりと眺めた。
そしたら、俺、どんだけ思いっきり見てたんだろね?
特に何も言ってないのに、五関くんが不意に振り向いた。
なんだか軽く呆れたような、でもなんとなく優しい笑顔。
「なんか、すっごい視線を感じるんだけど。なに?」
やだな、今日はご機嫌さんなの?
俺にそんな風に笑ってくれるとかさ。
「あれっ、何故かばれた」
「お前はそろそろ自分の目力を自覚して。凄いからほんとに」
「マジかー。もしかして、その内目だけで会話とかできるようになんのかなぁ」
「それには相手も目力があるヤツじゃないとだめなんじゃない?」
「あーそっかー。いやでも、もしかしたらいけるかもしんないし!チャレンジチャレンジ」
「じゃあ、試してみる?」
「え?た、試すって?」
「俺とさ、目と目で会話できるかどうか」
「えっ・・・ちょ、」
「・・・」
いつもみたいに適当な勢い任せのくだらない言葉を連ねていただけだったのに。
五関くんは気まぐれな調子でそんなことを言うと、ふと黙り込んで俺をじっと真っ直ぐに見つめてきた。
切れ上がった深い色の瞳。
瞬き一つしないそれが、俺を映す。
妙に音のない空間で自分の体温がじわりと上昇するのだけはわかった。
思わず口を開きかけたけど、グッと堪えて見つめ返す。
何か少しでも伝わればいいと思って。
けど伝わったからってどうにかなるものでもないと半ばわかってもいて。
ただもしも言うようにこの瞳に何らかの力があるのならと、詮無い願いを未だ抱きもして。
「・・・河合、お前さ」
不意に降りた沈黙は、やはり不意に破られた。
少しだけ怪訝そうな顔をした五関くんがこちらに寄ってきた。
何事かと内心動揺して咄嗟に言葉の出なかった俺の目元に、その白い指先が、触れて。
「寝不足?目、ちょっと赤い」
ああ、うん、そう、所詮はこんなもの。
なんだかついおかしくなって、笑ってしまった。
「あー、なんか昨日ちょっと夜更かししちゃって。漫画、漫画読んでて」
この瞳には所詮そんな大それた力はなくて。
報われない恋に夜ごと女々しく染まるくらいで。
「お前ね、自覚が足りない」
「あーはいすいませーん」
その呆れた説教口調がいつも通りでなんだか妙に安心する。
安心した、のに。
「商売道具は大事にしなよ」
せっかく綺麗なんだから、だってさ。
なんでもないことみたいに言う。
この人はほんとにずるいと思う。
なんで離してくれない。
なんでいつまで経ってもこの心を離してくれない。
「・・・あ、でもそんなに面白いなら俺にも今度貸して」
「えー、調子いいなー五関くんもー」
「当然の流れ」
そんな風にどこか無邪気に笑ってみせる様すらも、ずるい。
なんであの子なの。
なんで俺じゃないの。
「・・・そんなら、トッツーから借りて」
「トッツー・・・?」
きょとんと不思議そうに瞬いた瞳が子供みたいだった。
いつまで経っても子供みたいなあの子の、その前でだけは子供みたいでいられるんだよね。
わかる。だって俺もあの子のそんなところが好きだと思うから。
うん、だから、なんでかって、わかってるんだ、ほんとは。
「うん。元々トッツーから借りたヤツだから」
「ああ、そうなんだ」
「トッツー喜ぶよ〜。すっげー面白いヤツだから布教したい!って意気込んでたし」
「ははっ、目に浮かぶね、それ」
「でしょー?」
なんでなんでなんで、って。
理由を求めるのは子供なんだろう。
だったら俺は、そろそろ大人にならなきゃいけない。
大人になったら、もっとたくさんのことを受け入れられるかな。
もっとたくさんのことを理解できるかな。
もっとたくさんのものを、この手で守れるのかな。
たとえば大事な人を。一人だけじゃなくて。二人、三人。その三人はせめて。
「あのさ、五関くん」
「ん?」
「俺ももうすぐハタチなんだよー、実は」
「なに・・・そのくらい知ってるけど?」
「あれ、そう?」
「それともあれ?それって成人記念のプレゼントおねだりアピール?」
「あっは、それ実はかなり期待してる!」
「・・・まぁ、お前があと数ヶ月で何か変わるとも思えないけどね」
からかうみたいに言うくせに、笑うと幼くなるその顔が、もう長いことずっと好きだった。
他の何も見えないくらいに、ただそれだけが。
たとえ決して自分を見ることなどないとわかっていても。そうだとしても。
だからもう大人になりたいよ、俺は。
ならなきゃだめなんだよ、俺は。
もう子供みたいな夢ばかり見ないように。
不用意に誰かを傷つけて後悔する前に。
あなたが俺のものだったらよかったのにって、もうそんなことを思わないように。
END
塚河の「ヒーロー志願」の少し前みたいな設定。
ふみとのかたおもい。
(2007.10.14)
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