7.声なき声が呼び覚ます
「五関くん」
呼ばれてはたとした。
スタジオの隅でポカリスウェットを飲みながらぼんやりとしていた五関は、聞き慣れた声に反射的に顔を上げる。
そこにあるのは当然のように、年下の相方の覗き込むような顔。
「・・・あ、なに?」
ぽつんと呟くと、それにはおかしそうに笑う。
きつい顔立ちの割に下がった目尻が人懐こさを感じさせる。
「休憩終わりだよー。次俺らのフライングの確認だって」
「ああ、そっか」
そう促され、五関はゆっくりと立ち上がる。
タオルを手に何気なくそちらを見ると、河合は軽く身体を解すように伸びをしていた。
こちらにはちょうど横顔を向けているから、その高い鼻と長い睫が強調されて映る。
僅かに唇を開いてうっすらと目を細めるから、なんとなく愁いを帯びて見えるそれに、思わず小さく声をかけた。
「風邪、もういいの?」
すると、ゆるりと顔がこちらに向いてまた笑う。
こくんと大きく頷いた。
「うん、だいたいね。まだたまに咳出るけど、それもだいぶ落ち着いてきたし」
「そう。ならよかった」
「これからバリバリやっちゃうよー。休んでらんないしね!」
勢いよくそう言って笑う顔はいつもと変わりないように見える。
でもたぶん、本当はそんなことはない。
けれどこの距離でじっと見つめてもそれが判らなくなってしまった。
ついこの間まで、それこそちょっとした変化でも気づけていたはずなのに。
それだけ近くにいたのに。その自信もあったのに。
それは相手が壁を作っているのか、自分の目が曇ってしまったのか、それはよく判らない。
作り笑いが上手い相手では決してない。
けれど壁を作るのは意外と慣れている。
こう見えて人目を異常なまでに気にするタイプだからだ。
しかし当然のようにそれを理解していた、もしかしたらある種の優越感ですらあったかもしれない、そんな自分の意識。
それすらもうそこには届かない気がして、五関は妙な喪失感にふっと目を伏せると無造作に黒髪をかき上げる。
もう仲間ですらいられないのだとしたら、これからはそれが当たり前になってしまうのかもしれない。
「あー、五関くん、あれ、あれ面白かった!」
「・・・あれ?」
言葉につられてもう一度そちらを見ると、思い出したように頷きながら歯を見せて笑う顔。
「あの、ほら、俺休んでた時にお見舞いでDSのソフトくれたじゃん?」
その言葉に緩く一度瞬きをする。
あの日、横尾が河合の見舞いに行くというから、咄嗟に渡したのがそれだった。
今の自分にはそのくらいしかもはやできることがなかった。
電話どころかメールもできない。
いや、しようと思えばそれはどれも可能だっただろうけれども、もはやそれすらも憚られる程に、痛みを知った恋は近づくことを躊躇わせた。
また傷つけたらと思うと近寄れないのだ。
まさか自分がこんな風に臆病にもなれるものだとは思ってもみなくて、五関はなんとなく新たな自分を発見した気さえした。
「ああ・・・いや、あれは貸しただけだから。あげてない」
「あ、ばれたか」
「ばればれ」
「あはっ、でもほんと面白かったよ〜。夢中になってやっちゃったもん」
「そう、あれ俺もはまったんだよね。クリアした?」
「あとちょっと!あと最後のダンジョンを残すのみかな?」
「おー、もうちょっとじゃん」
「頑張るよー!」
「うん。じゃあクリアしたら返して」
「わかってるってー。まさかパクんないから!」
アハハと大口を開けて笑いながら、先に集合している戸塚と塚田の元に小走りで駆け寄っていく、その細い後ろ姿。
それに続いて自身もそちらに歩いていきながら、五関の唇は小さく動いていた。
小さく小さく、ほんの少しだけ、それは言葉を形作ったけれど、その言葉は誰にも聞こえなかった。
その日の稽古終わり、五関は一人スタジオに残って振りの確認を行った。
なんとなくいまいち集中できなくて自分的に納得がいかなかったからだ。
いつも誰よりも振り憶えが早く、かつ正確な五関だから、振り付け師の先生は「五関は完璧主義者だな」などと半ば感心していた。
ただ五関はその言葉に苦笑して、曖昧に頷いただけだった。
それから一通りの確認を終え、控え室に戻る。
タオルで首の汗を拭いながら扉を開けたところで足を止めた。
「かわい・・・」
思わず声に出してしまった。
それとて常の自分ならあまりないことで、五関は思わず気まずげに視線を逸らし、それから再び戻す。
その視線の先は控え室に置かれた安っぽいソファーだ。
そして、その上には無造作に身体を横たえた河合がいた。
大きく鋭い瞳は今は閉じられ、穏やかな寝息を立てている。
稽古着から既に私服に着替えて荷物もまとめてあるというのに、帰りもせず一体何をしているのだろう。
確かにまだ本調子ではないようだから、稽古も普段より疲れただろうけれども、それならなおのこと早く帰ればいいのに。
そんなところで無防備に寝ていたら、折角治ってきた風邪もまたぶり返してしまうというものだ。
何か上にかけてやるか、いやむしろ起こすべきか。
そんなことを思いながらゆっくりと近づいていく。
思えば、何故か自分は河合の寝ている姿に縁がある気がした。
同じグループのメンバーなのだから、一緒に寝泊まりすることもそれなりに多いし、それは当然と言えば当然なのかもしれない。
シンメを組んでいるだけあって、グループ内でもホテルの部屋が同じになる確率も一番高いのだ。
「・・・」
すぐ傍まで来てじっと見下ろしたその寝顔。
黙っていれば彫りが深く整ったその人形みたいな顔。
長い睫が瞼に影を落とすのを見ると、ふと思い出す。
一番最近その寝顔を見た時のこと。
それはあの最後の夜だ。
熱い湯船に身体を沈め、顔を傾けるようにして眠っていた。
あの時、五関はその頬に指を伸ばした。そして触れた。
その妙に艶やかな唇が自分の名を形作ったからだ。
そっとしゃがみ込んでもう少し近くでその寝顔を見つめる。
それはあの時と同じくらいの距離だ。
もしかしたら、もう一度。
五関はそんなどうしようもなく詮無いことを思ってしまった。
けれど次の瞬間、目の前のその唇は、まさに五関が思った通りに動いたのだ。
「ごせき、くん・・・」
お前は寝言が多いよ、なんて。
いつだか、そう笑って言ってやったことがあった。
そうしたら少し恥ずかしそうに、俺は夢見やすいからそうなっちゃうの、なんて言い訳をしていた。
それなら、今もまた夢を見ているのだろうか。
それは自分の夢なのだろうか。
あんな風に終わらせても、あんな風に言われても、こんな風になっても、それでもなお自分を想ってくれているのだろうか。
今胸が妙に騒ぐのは何故だろう。
今更にうるさいのは何故だろう。
遅い。遅すぎる。
もう終わったのに。
終わらせたのは河合で、そうさせたのは自分なのに。
どうして自分は今もなお、この指先を伸ばして、触れてしまうのか。
・・・どうして?
でもそんなのは実は簡単な話だった。
だって、「好き」なんて可愛い言葉では括れぬ程に、それ程に強すぎる執着を抱いた唯一の相手だったのだ。
ほら、触れた指先から目も眩むような溢れ出す感情が目に見えるようだ。
頬に触れ、それからうっすら開いた唇にまで触れた指先。
もしかしたら溢れ出た強すぎる感情が、言葉はなくとも何かを感じさせたのかも知れない。
あの最後の夜には開かなかった、その煌めく瞳が、今ゆっくりと開いていく。
「・・・?」
ぼんやりとした眼は五関の姿を見つけてもなお疑問符を浮かべているようだった。
まだ意識を半分夢の世界に置いているのだろうか。
目の前にいる五関を夢の中のそれだと思っているのだろうか。
だからなのか、そこに浮かべられた笑みはふにゃりと柔らかで、まさに文字通り夢見るようで、愛しさに満ちていた。
その小柄な手がやんわりと上がり、力なくこちらに伸ばされる程に。
自分に伸びた手を、五関は反射的に取ってやろうとした。
けれど次の瞬間には、その身体がビクッと大きく戦いて、凄い勢いでソファーの上に起きあがっていた。
「あっ・・・」
ようやく意識が戻ってきたかのような反応。
目の前の五関が夢ではないとようやく理解したのだろう。
河合は途端に慌てた風で頭を振る。
「ご、ごめんっ!寝ぼけてた・・・」
「・・・ああ、みたいだね。ていうか風邪引くよ」
「うん、うん、ちょっと藤ヶ谷から借りた漫画読んでたらさ、眠くなっちゃって・・・」
「疲れたんなら帰りなよ」
「うん、うん、うん・・・そうするー」
河合はアハハと笑ってみせて、脇に置いてあった荷物を持つと立ち上がる。
ほら、やっぱり判りやすい。
そんなことを思って五関はなんとなく笑ってしまった。
けれどそれになんとなく安堵を覚えてしまった自分を自覚して、次には小さく眉根を寄せる。
河合は河合で、そんな五関をその実注意深く窺いつつ、鞄を肩にかけて整えると何度か小さく頷いた。
それは自分に何かを確認し、更に言い聞かせるような調子で。
「じゃあ、俺そろそろ・・・」
けれど言いかけたところで、携帯の着信を報せるメロディが鳴った。
河合は咄嗟に鞄を開けて中から携帯を取り出しディスプレイを開く。
どうやら電話のようだ。
河合は一瞬とるのを躊躇って、五関の顔を横目で見た。
それに五関は軽く頷いてやる。
「どうぞ」
本当は、出ていてほしいという意味の視線だったのかもしれない。
けれどそうだとしたら、自分から出て行けばいい話だ。
そんな理屈をつけて、もしかしたら本当は予感があっただけかもしれないけれど。
河合は曖昧に頷くと、それでも躊躇いがちに携帯を耳に当てる。
「・・・あ、俺。・・・うん、ごめん、うっかり控え室で寝てて・・・ごめんって!
今からすぐ行くから・・・うん、待ち合わせ場所は変わりなしで・・・え?迎えに来てくれんの?
えー、でも悪いし、いいよ・・・いや俺だって遠慮くらいするから!
・・・うん、うん、・・・わかったよー。じゃあ駅前にいるから、うん・・・じゃ」
相手の声は特に聞こえなかった。
けれど相手なんてもはやそれで判ってしまった。
昔から仲は良かった。
よく一緒に遊びにいっているようだった。
それは自分も含めてそうで。
特に最近その頻度が増えていることも感じていた。
恐らくは、河合を気遣っているんだろう。
あの、親友というポジションを昔から頑なに崩そうとしなかった、ぶっきらぼうだけれど優しい男。
「・・・横尾と出かけるんだ?」
自然と呟いていた。
河合は携帯を鞄にしまいながら、何気なく頷く。
けれど五関の方を見ないのは、それなりにばつ悪い思いでもあるんだろうか。
友達と出掛けることに何のばつ悪さがあるだろうか。
そもそもが、もう終わらせた・・・むしろ始まってすらいなかった関係の相手に。
どこか俯きがちに鞄の口を閉じる河合に、五関は自身も視線を逸らしがちに鏡台の方へ行ってタオルをそこに置いた。
自然と背を向けるような形になる。
これ以上近寄るべきではないと思ったから。
また傷つけてしまう前に、と。
けれどたとえ物理的な距離を置いても、言葉は容易く凶器になる。
抑えようとしても勝手に出て行ってしまう醜い凶器。
「次、見つかってよかったね」
「・・・」
それに返ってくる言葉はなかった。
静かに扉が開いてしまる音、ただそれだけだった。
けれど扉向こうでバタバタと遠ざかっていく足音に、五関は思わずきつく目を閉じる。
そして鏡台に片手をかけてしゃがみこんだ。
もう片手で顔を覆う。
これじゃ、自分のものをとられて癇癪を起こす子供と変わらない。
いくら大人だの落ち着いているだの言われても、所詮蓋を開けてみればこんなものだ。
いや、それは他のものが河合ではなかったからかもしれない。
片手では覆いきれなかった薄い唇が、緩く動く。
確かに言葉を形作る。
身勝手で傲慢で、何より遅すぎる、その言葉。
まるで壊れたオルゴールみたいにそればかりを繰り返す。
「ねぇ、五関くーん?今、河合ちゃんとすれ違ったんだけど・・・・・・五関、くん?」
扉を開けて入ってきたのは塚田だった。
そう言えばまだ塚田の荷物が脇に置いてあったことを思い出したけれど、五関は咄嗟に振り返れなかった。
今自分がどんな酷い顔をしているのか判らなかったから。
きっと立ち上がれば、それは目の前の鏡が容赦なく晒すのだろう、それを見る勇気などなかった。
塚田は咄嗟に何かを敏感に察知したのか、ただ無言でゆっくりと近づいてくる。
けれどある一定の距離まで来てその足を止めた。
「ねぇ・・・河合ちゃん、」
「・・・」
「泣きそうだったよ・・・?」
それをわざわざ、この目の前の蹲る五関を見ても敢えて言うのが塚田だ。
けれどありがたかった。
隠さないでいてくれることが、せめて救いだった。
塚田がもう一歩を踏み出す。
けれどやはりそこで止まる。
それ以上は近づかない。
その一歩の意味はなんだっただろうか。
「・・・・・・でも、五関くんも、泣きそうだね」
その一歩で判ったことがそれなんだろうか。
いや、たぶん違う。
きっとその一歩で聞こえたんだろう。
「もう、なんで、二人してそんな、ばかなのかなぁ・・・」
呆れたような声音は、同時に心配気だった。
けれど五関はそれに言葉を返さない。
たださっきから同じ言葉ばかりを繰り返しているから。
そして塚田のその言葉は、それにこそ向けられているのだ。
「・・・」
「ほんと、二人とも、おんなじなのにさ・・・」
「・・・・・・」
同じなんだろうか。
五関はその言葉を繰り返しながらも、ぼんやりと思う。
河合の気持ちは自分と同じだろうか。
こんな気持ちと?本当に?
こんな、どうしようもなく強すぎる執着と、独占欲と、同じだと?
自分でも目を逸らしたい程のそれがいずれ相手を傷つけないようにと、その想いを受け入れずにいた。
けれどこのどうしようもない執着心は、もはや理性すらも突き破って暴走を始めているのかもしれなかった。
「・・・・・・や、だ」
片手で顔を覆い蹲ったまま、五関はただただ繰り返す。
「いや、だ・・・いやだ・・・いやだ・・・」
嫌だ。
嫌だ。
渡したくない。
誰にも渡したくない。
嫌だ。
自分だけを見ていて欲しい。
ずっと自分だけを追いかけていて欲しい。
「いやだ・・・」
自分から手放したくせに、奪られそうになったら途端にこれだ。
五関の中にそれでも残った冷静な部分はそう言うけれど、それでも言葉は止められない。
どれだけ理性強い人間だって、心の奥底の一番強い本能には勝てないのだ。
五関の心が今更に拒絶する。
今更にそれでも求める。
離して初めて思い知らされたのかもしれない。
そんな身勝手な言い訳を真実としてしまう程の想い。
『あの手を掴んで行かせなければ』
それは今さっきのことか、それともあの夜のことか。
どちらにしろもう遅いことに変わりはないのに、それでも本能は確かにそう、声なき声で叫んでいた。
TO BE CONTINUED...
五関さんがどんどんダメな人になっていくんですけど・・・。
こんな五関さん私的にかつてない!
普段割と余裕で理性的で落ち着いてて、どっちかっていうと酷い感じなのにね。
今回の五関さん割と熱いぜ!や、熱いというか意外と子供なのかな・・・。
ていうかダメ男だねー。渉がこう対照的にイイ男ムードなだけに余計にね・・・。ごごごごめん。
(2006.2.28)
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