あなたに逢えた それだけでよかった










この恋は言ってしまえば、信仰と背徳である。










「知っとるか?人間て、洗面器一杯分の水があれば溺死できんねんて」

ペタ、と素足が濡れた白いタイルに張り付く感覚に軽く眉根を寄せながら、村上はそこに足を踏み入れた。
独特の熱気が充満した狭い室内には薄く白い湯気が漂っていて視界をぼんやりと霞ませる。
どこかもやがかかったようなその向こうには、タイル同様白いバスタブに横山が身体を沈み込ませているのが見える。
本来ならばやはり同様に真っ白いそれは今湯のせいなのかほんのりと染まっているようだった。
熱を湛えたように上気した顔、そして微かに潤んだ切れ長の瞳がやんわりとどこか楽しげに撓む。
全くもって目の毒だと、村上はもはや諦めにも似てどこか遠くで思う。

「ほんならだいじょぶやで。こんだけありゃ、洗面器何十杯分か、そんくらいにはなるやろ。
・・・何十杯やって。景気ええなーおい」

なんだか妙にご機嫌な様子で鼻歌交じりにそんなことを言う。
それは若干音程を外してはいるものの、どうやら横山が愛するミスチルの曲らしかった。
けれど明るく陽気なその歌声に反して村上の眉根はまた少しだけ寄り、呆れたようなため息が湯気に混じって吐き出される。

「逆でしょ。そんだけあれば十分過ぎる言うてんの」
「きもちええねん。しゃあないやん」
「しゃあないことありません。・・・風呂で寝んなって、何度言うたらわかんねん」

パシャン、と跳ねる水音が耳に届く。
村上は湯船のすぐ傍まで寄っていくと、肩まで湯に浸かっているその身体を見下ろす。
薄金茶の髪がすっかり濡れていて、見上げてきた顔にもぺったりと張り付いていた。

「おまえこそ人んち来て早々なんやねん。速攻風呂覗きに来るってなんやねん」
「自分から人呼んどいてお前こそなんやねんな」
「もうちょいで出るつもりやってん」
「ほんで寝こけてりゃ世話ないわ」

真夜中の呼び出しは何も初めてではなく。
いつものように向かった村上は、けれども当の本人が出迎えてくれる気配すらない玄関に訝しむと、ただ灯りが漏れるだけで物音一つしない風呂場にもしやと思った。
そしてそれは案の定で。
湯気が充満して薄白く霞んだ室内で、湯船にくったりと身体を預けて目を閉じた姿はどうにも心臓に悪すぎた。
その存外幼げな寝顔は見慣れたと言っても過言ではなかったが、それでもシチュエーションがシチュエーションだけに、そして相手が相手だけに、村上は咄嗟にその名を呼んでいた。
それにやんわりと目を開けていっては緩く瞬かせた様がなんだかこの場に不釣り合いなくらい無垢で。
これがもしも童話の世界の話なら、それはいっそまるで王子の声で目覚めた眠り姫のような。
けれども村上は何も王子ではなかったし、なりようもなかったし、そもそもがこんな風に風呂で寝こけるような人間がお姫様などとは笑い話ですらない。

「ほんま危ないねんから。眠いんならはよ出てベッドで寝なさい」

腰に手を当てながらそんなことを言う村上に、上気した幼げな顔はきゃらきゃらとおかしそうに笑う。
普段から高めの声が更にトーンを上げて浴室内に響く。
さっきからパシャパシャと弾かれる湯には黄色いアヒルのおもちゃが一つ、ゆらゆらと揺らめいていた。

「おまえ、ほんまおかんみたいやなー。ほんで俺が寝てもーたら、おまえどないすんねん」
「どないもせぇへんわ。帰るし」
「・・・帰るんか?」

水音が止む。
潤んだ瞳がじっと見上げてくる。
村上はそれに笑いかける。
チリチリと焦げ付く心をひた隠して。

「なんですのん。子供みたいやなぁ、ほんまに。・・・どしたん?」

その場にゆっくりと屈み込んだ。
目線が合わさる。
濡れた身体に濡れた髪、そして濡れた瞳。
その奥の孤独に気付いたのはいつだったか。
きっと出逢ったその時に、それは不意に悪戯に、そこに映されてしまった時から全ては始まっていた。

シンと静まりかえった浴室内に甘い声が響く。

「ヒナ、しようや」

濡れた熱い手にきゅ、と手を掴まれる。
それはさほどの力はこもっていない、至極緩いものだ。
そしてじっと見つめてくる淡い色の瞳の奥はその湯船のようにゆらりゆらりと揺らめいて、灯りの加減なのか微妙な光彩を放っている。

綺麗で、儚く。
そして哀れな。

この横山裕という存在。
根底では愛をひどく求めるくせにそれが怖くてしょうがないから、愛を一番醜い形で拒絶しようとする。

「・・・ごめんな」

だから村上はやんわり笑って逆の手で濡れた髪を撫でるだけ。
それに淡い色の瞳がより揺らめいて細められたとしても。

「なんでや。・・・なんでいつもいややって言うねん」
「やってそんなんようないで。そんなん、ヨコのためにようない」
「しらん。しらんわ。俺がしたいて言うてるんやんか」
「あかんよ。できん」
「ほんならなんで来たん。おまえはいっつもそうや。呼べば来るくせにな・・・なんで・・・」

パシャン。
湯が跳ねて村上の頬に小さく当たる。
横山の手が掴めもしない湯を無理矢理掴むようにかき乱したからだ。
それは確かに熱かったのだろうけれども、村上はもう特に熱いとも感じなかった。
既にこの身は傍目に反して熱く熱く、常に灼熱に犯されたような状態なのだから。
村上はそっと顔を寄せて、ひどく熱を湛えてうっすら染まる白い頬に唇を寄せた。
ただ宥めるだけの優しいそれ。

「・・・お前が呼ぶならいつでも来るわ」
「せやから、なら、なんで・・・?」
「いつでも来るけど、それ以外ならなんでもしたるけど、・・・それだけはあかん」

その口調はいつも通り穏やかだけれど、確かな意志を感じさせるから。
横山はぽってりとした唇をつんと尖らせて拗ねたように視線を逸らしてしまう。
ああ、そうしているだけならば本当に可愛らしいのに。
可愛らしい、それだけで済むのに。

横山にそう誘われたのはもう何度目かにもなる。
けれども村上は一度たりとも応じたことはなかった。
それはその行為が村上の考えるものとは違うからだ。
横山の求める行為は、自らに対する愛情を否定しようとするものだからだ。



初めて出逢った時。
なんて綺麗な少年なんだろう、そう思った。
むっつりと唇を尖らせて不機嫌そうに黙りこくった顔すらも綺麗で。
同い年と聞いていたのに随分と大人びた容貌で、そのくせ柔らかそうな白い頬が時折染まる様は幼げで。
幼い村上は正しくそれらに魅せられた。
自分とはまるで違う生き物のようで。
視線に気付いたのか、その作り物めいた顔が初めて自分に向かってふときまぐれに笑った瞬間。
それはたぶん陳腐な言葉で言ってしまえばたったの二文字で済んでしまう。

運命、だと。

事実そう思ってしまったのだからどうしようもない。
けれどもその運命とやらは幼い心にはあまりにも酷なものでもあった。

『おまえ、あんま俺にちかよらん方がええで?・・・おれ、ケッカン人間やから』

愛を信じられない。恐れる。
そのくせ心の奥底では求める。
だからこそ否定する。
強く拒絶しようとする。
自らを傷つけることによって証明する。

村上が運命の恋をした相手は、そんな、ひどく哀れな人間だった。



「おまえ、したないんか」
「ああ、したないわ」
「なら、なんで来る」
「お前が呼ぶからや」
「する気もないなら来んな」
「どうせ俺が来ることなんてわかりきっとるやろ?」
「・・・お前、むかつくわ、ほんまに。犯すぞ」
「あれ?逆ちゃうんか?お前は俺に犯されたいんとちゃうの?」

そう言って人懐こく笑う村上の表情は、このやりとりには酷く不釣り合いだ。
横山はぴくんと眉根を寄せて深く息を吐き出すと、掴んでいた村上の手を突然自分の方に強く引いた。
特に抵抗するでもなくされるがままだった村上の身体はそのまま湯船の中に引っ張り込まれてしまう。
バシャンと大きな音を立ててその腕から腹の辺りまでが浸かる。
当然服は着たままだ、そのシャツは一気に濡れて身体に張り付く。
跳ねた湯のせいで髪も少し濡れた。
その様に少しの溜飲を下げたかのようにふんと笑った横山だったけれども、村上は特にそれにも気にした様子はなく、ただそのまま湯船の縁に上半身を預けて濡れて額に張り付く髪をかき上げるだけ
だ。

「一緒に風呂入りたいんか?そんならええで?入ろか?」

まるで子供に言うみたいなその言葉に、横山は熱のせいかより色づいた唇をきゅっと噤む。
そしてつまらなそうにまた唇を尖らせては視線を逸らし、掴んでいた手すらも離してしまう。
代わりにゆらゆらと揺れていたアヒルのおもちゃを手にとってぷかぷかと浮かべる。
村上はやんわりと笑うと、黄色いそれに目を細める。

「・・・それ、俺があげたやつやんな?気に入ってくれてんの?」
「べつに。折角もろたんやし、使わなもったないやんけ」
「せやなぁ。使ってもらえてよかったわ。あげた甲斐あった」
「・・・おまえ、かんちがいさせんなよ。もういややおまえ・・・」

再び湯船に身体をくったりと預けて、目をそっと閉じて。
ただいたずらに白い指の先で黄色いおもちゃを弄ぶだけ。

「いやなら来んな。俺のこといやならくんな・・・」
「お前のこと嫌やなんて言うてへんやろ」
「やったら、好きか?」
「ああ、好きやで」
「・・・やったら、しよ」
「それはあかん」
「なんでぇ・・・」
「あかんの。ごめんな。それだけはあかんねん」

村上には判っていたから。
だからそれだけは絶対にできなかった。
・・・したくなかったのだ。


横山は自分に深い愛情を持って接する人間にこそ手酷い拒絶をしてしまう。
それは女であれ男であれ、誘うだけ誘って身体の関係を持たせておいて。
最後には身体だけだったのだと、愛情なんてものを信じたお前が馬鹿なのだと、その綺麗な顔で嘲笑って、捨てる。
そんな、酷く残酷で無慈悲でどうしようもなく哀れなこと。
出逢ってから今まで、横山が幾度となく繰り返してきたそれらを村上は知っている。

しかし、違う。
本当は違うのだ。
最初から裏切って捨てようと思っているわけではないのだ。
自分に愛情を持ってくれる人間にすり寄ってその温もりを幸せに感じるのだ。
たった刹那の瞬間だけは。
けれどもすぐさまそれは恐れへと変わってしまう。
信じられないからだ。
絶対的に愛を信じられないから。
だから裏切られる前に裏切る。
嘲笑われる前に嘲笑う。
捨てられる前に捨てる。
傷つく前に傷つける。
けれど結局それら全てに傷ついている。

そんな哀れな彼が自分に押した烙印は、『欠陥人間』。

誰しもが生まれながらに持っている、愛情への信頼というものがない。持てない。
人を愛せない。愛されることができない。

村上はきっと家族以外で一番長く横山の傍にいる人間だろう。
そしてその深い愛情を隠すこともなくいたから、横山はもう何度となく村上を誘った。
けれども村上がそれに応じることは一度たりともなかった。
判っていたからだ。
一度でも応じてしまったら、もう、終わりだと。

「村上、おまえさ・・・」
「ん?」
「好きな奴とか、おらんの」
「・・・なんやねん、いきなり」
「きいただけ」
「おるけど」
「だれ」
「お前」
「・・・あほや」
「なんでやねん。お前が訊いたんやんか」
「・・・俺も好きやで」
「ああ、そうか」
「あほふざけんなよ。そんだけか」
「ならどう言うて欲しいの」

もたれかかっていた湯船の縁から少し身を乗り出して白い腕を掴む。
すると横山はうっすらと目を開けてそのまま村上の方に身を預けた。
濡れた身体。熱い身体。
けれどもさしてそうは感じない。
村上の身体とて既に濡れていたし・・・既に、身の内から灼熱の如く熱かったから。

それはこの恋に身をやつした時から。

その白い腕は容易く自分に絡まるけれども、その心は、その愛は、決してくれないと判っている。判っていた。

「・・・愛してるって、言えよ」
「愛しとるよ」
「・・・さぶ」
「ほんまわがままやな、自分で言うといて」

濡れた身体にそうして腕を回す度に思った。
どうしたら彼を救ってやれるのかと。守ってやれるのかと。
そのためならば何だってするのに、何だって投げ出せるのに。
もはや命だって。

それは既に信仰にも似た恋だった。
自分でもどうしてそこまで想うのかが判らない程のそれである故に。

何かを捧げれば捧げただけ届く愛ならよかった。
けれどもこれはそうじゃない。
そうすればそうするだけ遠のくだけ。
こんな風に言葉だけのそれは中身なんて空っぽでしかない。

「村上、」
「ん?」
「あのアヒル、ほんまは気に入ってんの」
「そうなんや」
「あれ浮かべとると風呂楽しい」
「そうか」
「ありがとな」
「おん」

村上の肩口でくぐもった声が漏れる。
吐息そのままに溶けていきそうな。

「ありがとな・・・」

二言目の「ありがとう」がやはりそのおもちゃを指しているかまではよく判らなかった。
けれどもただ濡れた髪を指に絡めただけにしておいた。


村上には本当は判っている。
信仰にも似た恋、けれどもそれは既に信仰なんてものではなくなっていること。
最初に抱いたそれが信仰だったとするならば、今のそれはきっと、背徳だ。
出逢えた、傍にいられた、ただ救ってやりたい、守ってやりたい、それだけできれば幸せだろうと思えた頃なんてもうとうに過ぎ去ってしまったのだから。
そうして求めだしたならば、その欲は背徳。

その身体を抱かないのは、自分の気持ちを信じて欲しいからだ。
そして何より、愛して欲しいからだ。


「ヨコ、もう身体あっついわ。そろそろ出よ?のぼせてまうで?」
「・・・かえんの?」
「帰らへんよ。・・・一緒に寝よか」
「ん」
「今のヨコやったらええゆたんぽになりそうやしな〜」

小さくそう笑ったら、紅潮した白い頬がうっすら緩む。
その柔らかな唇がふわりと羽のような感覚で村上のそれに触れて、すぐ離れた。

「・・・おまえも、あっついわ」

くすりと笑ってその身体が湯船から立ち上がる。
ポタポタと湯を滴らせながら前髪を鬱陶しげに横にやる仕草に目を細める。
キラキラ輝く薄金茶の髪が湯気にゆらゆらと揺らめく様はいっそまるで幻のようだ。
手を離した先から消えていってしまいそうな。
だからすぐさま手を掴む。
紅潮した顔は少しだけ唇を尖らせて鬱陶しげな顔をするけれども、特に離させることはしない。

「なんやねんおまえ」
「ヨコの手が熱いから、しゃあないな」
「何がしゃあないことあんねん」
「ほら、のぼせてこけんようにな」
「こけるか」
「こけそうやんお前」
「こけへんわ」
「こけんように一緒に行ったるから」
「こける時はおまえもまきこんだるし」


その身体を受け入れないのは、彼に愛を信じて欲しいから。
そのくせその手を離せないのは、彼に自分を愛して欲しいから。



その恋を信仰と言うなら、この欲は背徳。

お前に逢えただけで幸せだった。
けれどお前に愛して欲しかった。

永遠に結びつくようには思えないその二つを混ぜ合わせるように、村上は白い指と自分の指とを絡める。



できるなら、どうか。
この身の内の灼熱に僅かでいい、その愛のひとしずくを。










END






結構前からやりたいと思っていたポルノお題、ついに始めてしまいましたよ。
そしてしょっぱなからアゲハ蝶ですよ。しかもまた酷いもんができましたよ。
てかどうやってもアゲハ蝶は片恋で悲恋なんだよ・・・。
しかもなんかこの曲は本当に思い入れが強すぎました。深い。
歌詞うんぬんより割と結構イメージぼかして抽象的になったらよりひどいことになったような気も。
私がどんだけこの曲が好きかって、今のサイトトップのアゲハ蝶は裕さんであると堂々と主張できる辺りですよ(・・・)。
(2005.12.23)






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