ふとした拍子に覗いた舌が。
そのふっくらとした柔らかそうな赤い唇を、ぺろりと舐めた。
ああ、今日は乾燥しているから。
きっといつものリップクリームは忘れてしまったんだろう。
すぐに物をなくしてしまう人だし。
そのいつでも潤った瑞々しい唇が乾いてしまうのは、何だか勿体ない。
ふとそんなことを思って、気付いたら一歩を踏み出していた。
煙草の煙を燻らせながら壁にもたれ掛かっていた彼は、不意に自分の上にできた影に顔を上げる。
不自然なくらいに近づいた距離。
彼は何かと訝しげな表情を向けてくる。
けれど構わず煙草を持った方の手を掴んで無造作に壁に押しつけた。
特に抵抗はされなかったけれど、その煙が鼻をつんと刺激して苦かった。
ゆっくりそっと唇を合わせてみる。
柔らかなその唇はやはり少し乾いていたから、離す時に軽く舌先で舐めた。
口の中にも広がる苦み。
ああ、こんな甘やかな容姿をして、唇をして。
この人はこんな味なんだ。
意外なような、同時に納得したような、ちょっと変な気分。
ただそれには特に触れず。
「・・・目は閉じてくださいよ」
ただ切れ長の瞳を細めただけで閉じもしない。
僅かに瞼がぴくんと動いたようだったけれど。
自分に覆い被さってくる俺をじっと見上げてくるだけ。
その決まり悪さに何となくぼやくような言葉が口をついて出る。
自分でも何でそんなことを言ったのか、正直よく判らなかったけれど。
彼にしてみればいきなり何の前触れもなく触れておいて何を言うのかと、そう思ったのかもしれない。
けれど彼は特に文句を言うこともなく小さく笑ってみせた。
赤く柔らかな唇は今触れたことで僅かに潤いながら緩く撓む。
「まさかキスやとは思わんかってん」
ああ、そっか。
キスでなければ閉じる必要はないのか。
彼は今の行為をそう受け取ったんだ。
・・・それなら今のはキス以外の一体何だったのだろう?
「ん、じゃあ・・・もう一度」
少し掠れたような声で呟く。
彼は今度こそゆっくり瞳を閉じる。
文句も抵抗もなく妙に従順な様子で。
冷たくすら見えるその瞳が閉じられてしまえば、そこにあるのは通った鼻梁に白い頬。
自然と尖らせているように見えてしまう、赤い唇。
それにまるで誘われているような気分でもう一度唇を合わせた。
二度目のそれも、やっぱり苦かった。
彼は緩く瞬きして小さく呟いた。
その濡れた唇で。
「おまえはほんま、突拍子もないな」
呆れたような言葉の次には、俺の手からすり抜けるようにして煙草を持った手を下ろし
何故か少しだけ俯きがちに小さく煙を燻らせる。
またそれが鼻を掠めて、苦みが広がる。
その表情は俺からは影になってしまってよく見えなかった。
煙草は麻薬の一種で中毒性があるのだと言う。
だからいくら周りから止めろと言われても、彼は頑なにその緩やかな毒を身体に吸い込むのだろうか。
だから俺は三度、その苦味のする唇に触れたいと思ったんだろうか。
ビタースイート
「なにそれ・・・ありえへん!」
「あ、やっぱり?」
それは本当に唐突に。
しかもつらつらとさしたる抑揚もなく始まった大倉の言葉。
え、俺に言ってんの?と、最初こそ何かと目を白黒させてはいたものの、
安田は途中からは至極真剣に話を聞いてやっていた。
けれど最終的に大倉の口から出たその内容に
呆れとどうにも釈然としないものを感じたようで、むむっと眉根を寄せた。
「なんで?なんで??」
「なんでて・・・なんでやろ?」
「それは俺が訊いとんねん。もうっ、ちょおそこ座り!」
「なんやねん・・・」
まさかこんな反応を返されるとは思っていなかった。
大倉が先日の出来事を安田に話したのは、本当に些細な切っ掛けで。
妙なしこりのように胸の奥につかえたものを誰かに話して吐き出したかっただけなのだが。
そんな大倉の単純な予想を遙かに超えて、安田は大倉本人より余程深刻な様子で
大倉を自分の座っているソファーに促した。
面倒くさそうにだらだらと座る大倉に、安田は眉を寄せて真っ直ぐにそちらを見た。
「あんな、大倉」
「なに」
「まず聞くけどな」
「うん」
「なんで、横山くんにキスしたん?」
単刀直入な問いは、確かに大倉向きな代物。
安田本人もそうとしか訊けなかったというのもあるだろうが、
大倉にはストレートに訊かなければ判らないと思った安田の判断は正しかった。
そしてそれでも素で考え始める大倉に回りくどい訊き方など無駄に決まっている。
「なんで・・・なんでやろ」
「おいっ」
「や、あんな、唇がな、乾いとってん」
「なんやのそれ・・・」
「ほら、横山くんっていっつも唇ぷるぷるやんか」
「あーうん・・・」
「それがな、リップ忘れたんか知らんけど、乾いとって。自分で舐めとったから」
「・・・そんで?」
「・・・そんで?・・・そんだけ」
「ちょお待て!待って大倉!」
「なんやねん。さっきからうるさいなぁ」
何やら一人で熱くなっている自覚はあるものの、安田は言わずにはいられなかった。
安田の感覚からしてみれば、いくら相手の唇が乾いていたからと言って自分の唇で潤したりはしない。
当たり前のように、そんな平然としていいことではない。
それにはある唯一絶対の条件が必要なはずだった。
「大倉は、横山くんのこと好きなんとちゃうの?」
「俺・・・?」
「せやで。好きやから、キスしたんとちゃうの?」
「ん・・・横山くんのこと・・・」
「そうでなきゃ、そんなんおかしいわ。絶対おかしい」
真っ直ぐな安田の言葉に大倉は少し考えるような仕草を見せる。
小さく視線を落とし、その長い指先で自分の唇に触れて。
そしてふっと笑った。
しょうがない、そんな様子で。
安田はそれに小さく首を傾げた。
「大倉・・・?」
「あの人な、よう煙草吸うやんか」
咄嗟に言われて安田は反射的に頷き、その姿を頭に描いた。
元々長身で、容姿も黙っていれば端麗と言って差し支えない横山だから。
その白い指で煙草を挟み込み、煙を燻らせる様はなかなかに様になる。
「せやからな、やっぱ唇も煙草の味すんねん。苦い」
「・・・」
「その苦いのがな、一度知るとまた恋しくなんねん。麻薬みたいやんな?」
俺、中毒になってもーたんかなぁ。
ぽつりとそう漏らした大倉に、安田はひとつ小さくため息をつく。
自分の中の感情を今ひとつ上手く理解できていない大きな子供に。
その手をスッと伸ばしたかと思うと大倉の頭に置いて、顔を覗き込む。
「たーっちょん」
「ん・・・」
「認めなさい」
まるで自分のことのように真剣な安田の表情。
なんだか逆にそれがおかしかったけれど、大倉は特に何も言わずその顔を見つめ返した。
「横山くんが好きやって、はよ認めなさい」
安田の言葉を頭の中でゆっくりと噛み砕く。
じんわりと胸の奥に広がっていく感情。
それは少しだけ苦く、同時に妙に甘く、不思議な暖かさを持っている。
大倉はこくんと小さく頷いた。
「・・・・・・はい」
その様子に満足した様子で安田はにこっと笑ってみせる。
何だか随分と子供扱いされたような気はしたが、そう悪くはない気分だった。
どうせ子供扱いされるなら、と大倉は開き直ったように今度は逆にそのまま安田の方に身体を傾けてみる。
「えっ、ちょ、」
「でもなぁ・・・」
唐突なことに驚く安田のその肩に、大倉の顎が正面からことんと載せられる。
ぼやくような、拗ねたような口調。
安田は何となく落ち着かなかったが、仕方なしにそのままにさせてやる。
「あの人、ちゃんとキスやと思ってなかったっぽいねん」
「はぁ?」
「やってな、別になーんでもない反応やってんで」
「・・・ほんまにそうなん?」
「え」
「ほんまにそんな、なんでもない感じやったん?」
疑問系な割には妙にしっかりとした、むしろ大倉の言葉を否定するような返答だった。
「お前、むしろ上手いこと誤魔化されたんとちゃうの?
煙草を吸っとったわけやから・・・・・・煙に巻かれたっちゅーやつやね、まさに」
「・・・やっさん、あんま上手ないで、それ」
「うっさい」
「あたっ」
叩かれた頭を自分でさすりつつ。
大倉はあの時燻らされていた煙を思い出していた。
その時の横山を思い出していた。
一度目は目を細め、二度目は大倉に言われるまま瞳を閉じて。
その煙にぼんやりと覆われた、あの二度目の唇が触れた後の、何故か俯いて更に煙を燻らせていた顔。
うまくこちらからは見えなかったその表情を。
ちゃんともう一度自分で確かめにいかなければ、そう思った。
そして三度あの唇に触れたいと、やはり思った。
大倉のその日の行動に迷いはなかった。
控え室に入ってきたかと思うと、メンバーへの挨拶もそこそこに横山の姿を探す。
そしてそれがソファーで雑誌に視線を落としているのを見つけると、つかつかとそちらへ真っ直ぐ進む。
周りの仲間達は何事かときょとんとそれを見ていた。
ただ一人、安田だけは何かしらを悟った様子で固唾を呑んでいたけれど。
「横山くん」
「・・・ん?大倉?」
目の前に大倉が立つことによって、横山の身体には影が出来る。
それにまたあの日と同じように訝しげに顔を上げる。
大倉は躊躇なくその場にしゃがみ込んで片膝をついてみせた。
横山は無言で目を見開く。
大倉はその体勢で今度はじっと横山の顔を見上げる。
これなら見えるはず、そう確信して。
「・・・目は、閉じてくださいね」
ぼそりとそう呟かれた言葉に、横山は何をされるのか一瞬にして悟ったけれど。
それに抗う暇もなく大倉の長い両腕が伸び、その手が横山の白い頬に添えられたかと思うと
次の瞬間には、唇が合わさった。
反射的にきゅっとその瞳が閉じられる。
今度は開けていることはままならなかったらしい。
「ん、っ・・・」
どちらのものともつかぬ声。
触れた。
確かにくちづけだった。
三度目のそれもやはり苦かった。
けれど三度目はそれだけではなかった。
そっと唇を離すと、横山はソファーの上で僅かに身体を引いて片手の甲で唇を覆う。
「・・・あほ、なにすんねん。ここどこやと・・・っ」
この前と同じ人間とは思えない狼狽えた様子。
それは単に今周りにメンバーがいるから?
本当にそれだけなんだろうか。
大倉はそれを判別するためか、片膝をついたままただ窺うようにじっと見上げる。
その表情の逐一も逃がさぬようにと瞬きもせず。
「アホかおまえ・・・なんで、俺がこの前せっかく・・・」
「・・・せっかく?」
「っ・・・」
「せっかく?この前?なに?なに?横山くん?」
大倉の畳みかけるような返しに横山はらしくもなく言葉に詰まる。
いつも大倉を翻弄するあの数多の言葉も、そして先日見事に大倉が誤魔化されたあの煙も今はない。
こうして見上げたその表情は十分に大倉に伝えていた。
「・・・横山くん、横山くん」
「なんやねん・・・笑うなっ」
「やって・・・顔赤いし・・・」
「うっさいわ!・・・大倉に気付かれるやなんて、屈辱やわ」
「なに言うてんの。俺が気付かな、他に誰が気付くねん」
白い頬がほの赤く染まる様。
それが妙に鮮やかで、愛しくて・・・気付けてよかったと大倉は心底思う。
「・・・はぁ」
「横山くん?」
「気付かせへん自信、あったんやけどな・・・」
唇を掌で覆ったまま、くぐもった声で仕方なさそうにそう漏らす。
そんな赤い頬をしておいてそんなことを言う。
いかに普段幼稚な言動や行動をしていたって。
なんだかんだとこの人はやはり色んな意味で大人なんだと、大倉が実感する瞬間。
上手くて、狡くて、少し臆病で。
まさに煙に巻くことに長けた大人。
でもそんなの許さない。
そんな唇で惹きつけておいて、今更。
「そんなんあかんよ。絶対にあかん」
「・・・わかった。俺があかんかったんやな。わかったわ」
「あかんから。あかんねん。絶対にあかん」
「わかったて。もうわかったから・・・」
「俺横山くんのこと好きなんです。ちょっと気付くの遅れたけど」
「わかった・・・から、ちょお待ってくれ」
「横山くん、よこやまく、」
「あーもうわかったて言うてるやろっ」
「いたっ」
「・・・後でちゃんと俺も言うから」
『せやから今は黙っとけ』
そうして訪れた四度目のくちづけは、横山からのものだった。
柔らかくて、苦い感覚。
たとえ唇が離れてもなお大倉を離さない。
まるで中毒みたいに病みつきにさせられる。
恋も中毒の一種みたいなものだ。
だからなのか、濡れた唇と唇の間で横山にぼそりと呟かれた言葉も
大倉にはまるで気にならなかった。
『・・・おまえ、後でみんなにちゃんと言い訳しろよ』
ああ、そういえば何となく周りからの視線を感じる・・・そんな風に思いつつ。
そんなことよりも今はただ欲しいその唇。
その苦いくちづけ。
そしてそこから始まる、甘い恋。
END
大倉祭様に投稿させていただいた倉横です。
基本的に横山さんは誤魔化し誤魔化しの方向で。
自分からは絶対言わないだろうから。120%待ちの人だから。
そういう意味ではやっぱ押せ押せな年下がお似合いなのかもね・・・と思う昨今。
誘い受けに見せかけた奥手さんだよ横山裕は。
横山さんのあの赤い唇は本当に危険だと思います。
犯罪を誘発するよ。青少年に有害だよ。下三人とか特にやばいと思うよアレ。
(2005.5.25)
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