青
「こらこら、あかんでー」
屋上の入り口から声がした。
柵にもたれ掛かって空を眺めていた横山は、その整った眉をキリリと不機嫌気に寄せて扉の方を一瞥する。
その鋭い視線を向けられたら誰だって竦み上がって何も言えなくなる。
けれど声の主はそんな現実など蹴倒す勢いで、更に明るい声を上げる。
「屋上でタバコてな、王道やな。結構結構。でも一応立場上見逃すわけにはいかんから」
そう言って白い歯をこれでもかと見せて笑うその男は、最近見るようになった顔だ。
厚めの黒縁眼鏡が少しだけ野暮ったい印象を与えるけれども、眩いばかりの笑顔がそれを帳消しにしている。
人懐こい笑顔と明るく快活な性質、教師と生徒という壁を取り払うような親しみやすさ、その上授業はとても判りやすい。
そうしてほんの三ヶ月前の赴任から瞬く間に人気者となった彼は数学教師で、名を村上信五と言った。
とは言え、横山が教室で彼に会ったのはたったの一度だけだ。
横山はこの男が本能的に好かなかった。
「横山くん、今授業中やで?」
「・・・そういう先生こそ、授業中やないんですか?」
村上の方に向き直るように身体を反転させ、柵に背中を預ける。
厚めの唇で煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
ゆらゆら揺らめくそれで視界の村上の姿は揺らぐけれども、それでもその顔は笑っている。
横山はうっすら目を細めた。
風がうなじにかかるくらいの金髪をサラリと揺らす。
「そうそう、授業中やねん。今自習中。せやから横山くんをね、捜しにきたわけ」
「別にええですやんか。ほっときゃ」
「ようないで。授業には出てもらわな。だいたい君、まだ俺の授業一回しか出てへんやろー」
「せやっけ」
「そうやでー?そろそろちゃんと出て貰わな、成績もつけてあげられへんわ」
「ええですよ、別にどーでも」
「せやからそれじゃあかんねんて。ほら、授業行こ?」
そう言って人懐こい笑顔を浮かべたまま近づいてくる。
横山はもう一度煙を吸い込むと、吐き出しながら手にしていた煙草をそのまま地面に投げ捨て、靴の裏で揉み消す。
ちら、と地面を見ると、そこからうっすら煙が揺らめいてすぐ消えるのが見えた。
そこからゆっくりと顔を上げ、煙のなくなった視界で改めて村上を見る。
もうすぐそこまで来ている彼に向かって、横山はもう一度すうっと目を細めるとトーンを落として呟いた。
「・・・せんせ、それ以上近づいたら折るで?」
村上の足がぴたりと止まる。
けれどもその顔から笑顔は消えない。
「折るって、どこらへんを?」
「どこがええ?腕?あばら?」
「怖いこと言うなぁ」
「さっさと出てけや」
切れ長の瞳を鋭利な刃物のように向けるその白い顔はまるで作り物のようだ。
赴任当初からブラックリストナンバーワンと教えられた問題児。
けれど村上はその研ぎ澄まされたナイフのような瞳を見て、なんとも楽しげに笑った。
「横山くん、君は子供の象徴やね」
「ほんならそういうあんたは大人の象徴か?」
「群れること、汚いこと、枠にはめられること、決めつけられること、そういうの全部から身を守るためにえっらいとんがってる」
「えらそうに言うやん」
「自分はあんな風にはならん、って殻作って綺麗なもんばっか見てたいねんな」
「おい、人の話きけや」
「可愛いもんやね、まったく。どこが白い狂犬なんだか」
「・・・ほんまに折られたいらしいな」
預けていた柵から身体を離し、制服の黒い袖から覗く白い手首を小さく鳴らす。
さっきから金色の髪をサラサラと揺らしていた風が、今度は腰の下まである長い裾をはためかせる。
その様を小首を傾げるようにして眺めながら村上はまたゆっくりと近づいていく。
下手な口出しはしない方がいい、放っておくのが一番だ。
事なかれ主義の教頭にはそんなことを言われたが、村上はその揺らめく金の髪とはためく黒く長い裾と、その鋭利なナイフのような瞳を見る度に思ってしまう。
「口出しすんな、なんてなぁ・・・無理やわ。ほんまに」
そんな、ある一点に負荷がかかればあっさりと折れてしまいそうな薄いナイフなど。
怖いどころか見ていて危なっかしいだけだ。
「むしろ口じゃ済まんかもなぁ。俺、基本的に実践主義やし」
小さく呟きながら、ついにはその拳が届く射程距離に入った。
鋭く村上を睨め付ける横山は今にもその右ストレートを繰り出しそうだ。
けれども村上はその前に、まるで降参とでも言うかのように両手を顔の横に掲げてみせる。
「ケンカは止めよ?俺弱いし」
そんな風に小首を傾げる様を暫しじっと見つめてから、横山はまるで嘲るように鼻で笑った。
作った拳はさっさと解いて興ざめしたように小さく振ってみせる。
「そんな無駄に鍛えといてよう言うなぁ、数学の村上せんせ」
「ん?そうやで?俺は数学の村上せんせやからね、ケンカとか無理やねんて」
「その数学の先生が、ヤンキー三人まとめてボコるんか。おっそろし」
目を眇めての嫌味たらしい言葉に村上は一瞬きょとんと目を瞬かせたけれど、思い当たる節があったのか小さく頷いてからりと笑う。
「・・・ああ、そら教育的指導ってやつやん。ケンカちゃうで」
「教育的指導の末が病院送りか」
「よう知ってるなぁ?もしかして横山くん、俺のファンなん?」
あはは、と何の頓着もなく人懐こい笑顔をさらして言うことではない。
横山はこの男に対する嫌悪感を新たにする。
「あんた、俺の一番嫌いなタイプや」
「そらまたえらいとこのツボにはまってもうたねぇ」
「その作り笑いバリ腹立つ」
「作ってへんよ、別に。これ俺の地顔」
な?と、またニコリと笑ってみせる。
横山はそれにゆらりと手を伸ばした。
その白い手が村上の眼前を鋭く風を切って通った。
「・・・っ、と、こら、横山くん?」
村上が少し困ったように見た先で、その手は黒縁眼鏡を手にしていた。
白い指先が眼鏡の柄の部分を弄ぶように触れ、ちらりとそちらを見たかと思うと軽い音をさせて細いそれをへし折ってしまった。
「うわ、ちょっとちょっと、何すんの」
「また買えばええんちゃう」
「あんなー、教師の安月給じゃ眼鏡一つ買うんも大変やねんで?」
「だいじょぶやろ、」
淡い色の瞳が底冷えするような視線と共に村上に向く。
そして柄を折られたその眼鏡は先程の煙草と同じように、靴の裏で踏みつけられ、グシャリとひしゃげた。
「どーせ伊達やねんから」
眼前で割れてパラリと舞ったガラスの破片を見て、村上は笑った。
うっそりと、底から何かが滲み出るような、薄い笑み。
もはや紛い物のガラス等には遮られないそれ。
「・・・やっぱええなぁ、君」
今割れたガラスなど比べものにならない程の輝きを秘めた、鋭い切れ長の瞳。
それは汚いものを嫌い綺麗なものだけ見ようとするからこそ純粋で美しい。
村上はそれはそれは嬉しそうに頷いた。
そして次の瞬間お返しのようにそちらに手を伸ばすと、抵抗する間もない早さで横山の襟首を掴んで自分の元に引き寄せた。
いや、実際のところ横山は伸びてきた手を振り払おうと片手でそれを掴もうとしたのだ。
けれどもその手は伸びてきたのとは逆の手にあっさり絡め取られてままならなかった。
「っ、はな、せ!」
「とんがってんのもかわええけど。・・・そんなんやと、いつか誰かにかるーくへし折られてまうで?」
上手いこと抑え込まれてしまった腕が痛くて小さく顔を歪めながら、横山はそれでもうっすらと冷たい笑みを布いて呟く。
「だれか、て。あんた?」
「折ってほしい?」
「折れるもんならな」
「それも楽しそうやけど。一応生徒やからねぇ」
言葉と同時にギリリと手首が悲鳴を上げるのがわかる。
横山はなんとか唇を噛んでそれを堪えながら、襟首を掴んだ手を離させようと掴んでギッと睨め付ける。
「あんたにだけは、絶対折られへんわ」
「あはははは!上手いな。君誘い上手てよう言われへん?絶対、て言われると何がなんでも折ってみたくなるなぁ」
腕を押さえつけていた手が不意に離れた。
横山はすぐさまその手に拳を作る。
けれどもそれは命中することも、また風を切ることもなかった。
「ほんじゃ、ほんまに折ってみよか?」
視界に端にあった空がなくなって、その顔でいっぱいになる。
伊達眼鏡も、そして笑顔すらも、何も覆うものがなくなったそれ。
本来愛嬌のあるはずの目尻が下がった大きな瞳の奥に潜む、冷たい何か。
それをみとめると同時、横山の厚みのある唇は塞がれていた。
「・・・逆らうどころか俺がおらんと立てへんくらいまで、な」
横山は次の瞬間とる動作を頭に思い浮かべた。
この空いた拳をそのままその鳩尾に叩き込んでやろうか。
それともその唇をかみ切ってやろうか。
けれどその次の瞬間はいつまで経っても訪れることはなかった。
END
唐突なパラレル雛横です。
ほんとはちょろっと書いてメモ辺りに適当に投下しようかと思ったんですけど意外と長くなったので何となく普通にアップ。
しかし元々メモ用だったので導入が唐突です。
とりあえず裏スピリッツで見たポジティブ先生と美白番長が忘れられずにうっかり、て感じだったんですけどもね。
先生×番長萌え!みたいなね。でもあんま面影ないよね。なにこの殺伐とした感じは。
どう見ても先生が黒いですありがとうございました、ていう。
うちの村上さん普段は言うてもそんな黒くないと思うんですけど、今回のは紛うことなく黒いです。
赴任した先で見つけたツンケンした白い狂犬ちゃんに一目惚れなんですよきっと。たぶん。
書いた本人しか楽しくなさそうなこと請け合いです。
(2006.4.18)
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