どうか恋を咎めないで
急に降り出した雨は予想に反してなかなか止まず、錦戸は整った眉根を深く寄せて息を吐き出した。
静かながら降り続けるそれはなんとなく気を滅入らせる。
大衆食堂の軒下とは言え、袴の裾や、洋シャツの上から羽織った短めのマントは既にしっとりと濡れてしまっていた。
やはり傘を持ってくればよかった、と出掛ける際に門を開けて見上げた空の灰色を思い出して、今更に思う。
そうすれば今頃とっくに家に帰ってみんなと夕飯を食べている頃だろうに。
しかも今日は久々に先生やみんなが全員揃う日だったはず・・・と錦戸はそこまで思って一際深くため息をついた。
錦戸は今、ある著名な作家の元に師事し、その家に住まわせてもらっていた。
さほど大きいとまではいかないが、世間一般で言えば中流程度の生活を営める平屋の一軒家。
そこには、錦戸が師事する先生、そしてその奥方、娘が二人、そして自分以外にも3人の書生が共同で生活していた。
錦戸以外の書生達はみな地方から出てきて住み込みで文学を学ばせて貰っていた。
錦戸とてそれは同じだが、ただ錦戸の実家は実は割とすぐ近くにある。
そして他の書生のように居候させて貰う必要など本来なら何処にもないのだ。
その事実はなんとなくいつも錦戸に妙な引け目を感じさせたが、共に暮らす彼らは先生を初めとして皆気の良い奴らばかりで。
自分達と明らかに境遇の違う錦戸にも分け隔て無く仲間として接してくれていた。
だからそこは居心地が良くて、正直実家などよりも余程錦戸にとっては本当の家のように感じられていたのだ。
「うっとうしい雨やな・・・」
軒から滴る雨粒が不意に錦戸の黒髪にかかる。
それらを右手で拭うように払いのけながら、錦戸は何度目かのため息をついた。
唐突に降り出した雨は先程まで通りに溢れていた人々を皆家の中に追いやってしまったのか、今や人影などまばらだった。
だいぶ陽も落ちてきて肌寒くなってきた。
もういっそのことびしょ濡れになるのは覚悟で走って帰ってしまおうか。
そこまで思って、軒下からそうっと顔を出して暗い空を見上げた時だった。
不意に背後からかかった柔らかな声。
「そこの坊ちゃん?きれいな黒髪が濡れてまうで?」
その声に何故か慌てて再び身体を軒下に収めた。
そして振り返ると、そこには真っ赤な蛇の目傘を差して笑う、透けるように色の白い顔。
黒い着物に身を包み、その裾から白い腕や白い首筋を覗かせて。
随分と柔らかそうな唇は一際赤く、赤く・・・白と黒だけで他に色味もないその中にあっては随分と目を引く。
切れ長の瞳は少しだけ色が淡くて、可愛らしいのとは違うけれども、なんだか触れたらひんやりとしそうな美しさだと思った。
錦戸は未だ未熟でそれらをそれ以上なんと形容したらいいのかわからない。
もしも先生が見たならば一体どう表現しただろう、とぼんやり思った。
「もし?そこの坊ちゃん?どないしたん?」
「・・・あ、いや」
「具合でも悪いん?」
ゆるりとこちらに近づいてきては、そっと覗き込まれた。
自分はそんなに挙動不審だっただろうか、そんなことを思って錦戸は慌てて頭を振る。
「いえ、なんもないです。雨がなかなか止まへんなぁて思って・・・」
「そうやなぁ。夕方急に降ってきたから」
のんびりとそう言っては傘を少しだけ後ろに傾け、空を仰ぐ。
その拍子に覗いた白い喉のラインが綺麗だと思った。
その人は止まない雨を暫しぼんやり眺めると、再び錦戸の方を向いて小首を傾げた。
「ぼっちゃん、家はどこなん?」
「えと・・・喜多川先生て、ご存知ですか?」
「喜多川せんせい・・・ああ、あの変わりもんの作家の先生か」
少しだけ考えてから、思い当たったようにこくんと小さく頷いて平然とそんなことを言う。
錦戸は咄嗟にむっと眉根を寄せて低く呟いてしまう。
「・・・先生は立派な方です」
けれど錦戸のそんな物言いにも臆した様子も気分を害した様子もなく、その人は白い頬をやんわりと緩めた。
むしろそんな錦戸の反応を楽しげに、少しだけ高めのトーンで笑い声をあげて。
「あはは、ごめんなぁ。つい本音が出てもーた。別にけなしとるわけやないから、怒らんといてな?」
そんな反応に錦戸もすぐさま寄せた眉根を解き、つられるように笑ってしまう。
なんだか憎めない人だと感覚的に思った。
「先生とお知り合いなんですか?」
「おん。ちょっと昔にな、一度お世話になったことがあって」
「そうなんや」
一体どんな関係なのだろう。
さっきは咄嗟に否定したが、確かにこの人が言うようにあの師は少し風変わりなところがあって、その交友関係は驚く程に広い。
この、身なりはそれなりによく、一見どこぞの中流階級の夫人かと思わせるけれども、そのくせなんだか妙に茫洋と掴み所のない感じがする人。
この人と自分の師は一体どんな関係なのだろうか。
少し気になったけれども、初対面でそんなことを聞くのも憚られた。
「ほんなら坊ちゃんは先生のとこの書生さんか?」
「あ、はい。ご厄介になってます」
「そうかー。じゃあこれから先生のとこ帰るん?」
「そのつもりやってんけど・・・この雨じゃ・・・」
ちら、と軒下から見やった先には依然として静かに降りしきる雨。
錦戸は小さくため息をつく。
それを見て、その人は何を思ったか突然傘を閉じてしまった。
そして錦戸に向かって楽しげに笑った。
「なぁ坊ちゃん、おなかへったな」
「は?」
咄嗟に錦戸は上手いこと反応できなくて、酷く間の抜けた声を出してしまった。
けれどその人は特に気にした様子もなく閉じた傘についた水を払っている。
「俺おなかへったわ」
「はぁ・・・そうっすか・・・」
だからなんだと言うのだろう。
錦戸は当然のように思いつつも、今しがた出逢ったばかりのこの人の性質を少なからず理解し始めていた。
一見身分もよさげで大人っぽい、美しい人。
けれどもそのくせ喋ると妙にあどけなくて、話していると自然と振り回されてしまうような、そんな無邪気な奔放さがある。
「なぁ、一緒にごはん食べよ。雨宿りついでに」
その長身を折り、小首を傾げてそんなことを言う表情は子供のようで。
錦戸の口からはなんでとか、どうしてとか、これから帰らなければならないのにとか、そんな当然の言葉が何故か出ていかなかった。
それはどうしてだっただろう。
もう内心では何となく判っていたのかもしれないけれども、錦戸はひとまず小さくこくんと頷いただけだった。
「・・・じゃあ、ちょっとだけなら」
軒先にあった大衆食堂はこの雨と閉店間近という時間のせいもあり、人はまばらだった。
頼んでから割と時間を置かずに出てきた定食を前にして、錦戸は箸で煮物を突きつつも盛んにちらちらと目の前を窺っていた。
けれどその白い顔はひたすらに真剣に手元の焼き魚に注がれていて、いまいちおぼつかない手で箸を動かし、小骨と格闘している。
「あのー・・・」
「んー?・・・あ、やった、とれた。んー、やっぱここのサバうまいわー」
そう言って嬉しそうに解した身を頬張る姿はますます子供のようだ。
整った顔を崩して笑う様はとても年上には見えない。
・・・と、そこまで思って錦戸ははたとした。
実際のところどうなんだろうか。
この目の前の人はいくつなんだろうか。
どう見ても自分よりは年上だとは思うけれども。
そもそも錦戸は目の前の人の名前さえ未だ知らないのだ。
それなのに、雨宿りという名目があるにしろ、こんな風に一緒に夕飯を食べているなんて。
自分は一体何をしているんだろうか。
そう疑問に思いながらも、錦戸はここでそんなことを言ってこの状況を終わらせるよりか、むしろ逆の方向に行動していた。
「あの、・・・僕、錦戸亮と申します」
「ん?」
唐突なその言葉に、目の前の白い顔がきょとんと不思議そうなものに変わり、手を止めて錦戸をじっと見つめる。
その視線がなんとなく恥ずかしかったけれども、錦戸はぺこりとそのまま頭を下げた。
錦戸は目の前の人の名前が知りたかったのだ。
まずは名前を。
そう、錦戸は何故だか今、こんな雨の偶然によって出逢い、こんな風にひょんなことから一緒に夕飯を食べているこの人のことを知りたかった。
なんでもいいから何か知りたいと思った。
だからまずは自分から名乗った。
相手に名を訊くならばまず自分から名乗らなければ、それはその実錦戸の育ちの良さを示すことに他ならない。
ただそれを錦戸自身は自覚していなかったけれども。
「ふーん・・・錦戸くんかー・・・」
しかしそう言ってなんでもなく呟かれた自分の名に、改めて恥ずかしくなる。
初対面でいきなり何をしているんだろうという意識が再び頭をもたげる。
目の前の人はどう思っただろうか。
内心緊張しては少し視線を落としがちになる錦戸に対して、けれど白い顔はやんわりと笑んで自分もぺこりと頭を下げてみせた。
「ご丁寧にありがとうございます。私は横山裕と申します。どうぞお見知りおきを」
「あっ、ありがとうございます・・・」
その至極丁寧な物言いに錦戸は咄嗟に自分もまた深々と頭を下げた。
今さっきとはまた違う緊張感があった。
こう見えて意外と無邪気で子供みたいで奔放な人、そんな印象を持ち始めていた錦戸を軽く混乱させるくらいには、その物言いは随分と品良くこなれていた。
それだけ聞けばどう考えたって中流、いや下手をしたら上流階級の人間のそれだ。
こんな下町で一人ふらふら歩いて大衆食堂で食事をするような人間のそれではない。
一体この人は何者なんだろう、錦戸は内心そんなことを思いながらゆっくりと窺うように顔を上げた。
しかしそこでまた混乱する。
今丁寧に頭を下げてみせたと思ったら、今度はまたもぐもぐと煮物を頬張っていたのだから。
「まぁそないかしこまらんでええよ。仲良うしよーや坊ちゃん」
「はぁ・・・」
「ほらほら、冷めてまうで?はよ食べー」
「はぁ・・・あの、」
「ん?」
「口、ついてますけど・・・」
「・・・あ、ほんまや」
錦戸が指差してみせた口元に、煮物のたれが僅かについていた。
それを白い指先が腹で拭ったかと思うと、なんでもないみたいにそのままぺろりと舌先で舐めとった。
それは上流階級の人間のするようなことではない。
変な人、それが錦戸の最終的な結論だった。
「ごはんおいしいなー?」
「あー、そうっすね」
「おいしい?」
「はい、おいしいです」
「なんやいきなり付き合わせてごめんな?」
「あー、いいっすよ、別に。雨宿りできたし」
「うん。ごはんは一人より二人のがうまいしな?」
「そうっすね」
何となくいまいち話が噛み合ってない感じはするが、まぁ確かにご飯はおいしいし楽しくないわけではない。
この目の前の人を見ているだけでも錦戸はなんとなく楽しかった。
・・・正確に言うと楽しい、というのは少し違うのだけれども。
そんなことを内心思ってお茶碗を持って白米を頬張る錦戸を見て、白い顔がまた笑う。
「坊ちゃんはなかなか食べっぷりがええな。男の子はそうやないとな」
「ん、そうっすかね」
「そうやで。いっぱい食べておっきなれよー」
「・・・これでも結構おっきなったんすよ」
「あ、そうなんや」
「僕小さい時はほんまにちっこくて」
「へ〜。あんま想像できひんなぁ」
「女の子みたいやーてしょっちゅうからかわれて」
「そうなんや〜。今はそない男前なのになぁ?」
なぁ?と言った拍子に正面からじっと顔を覗き込まれた。
その瞬間その赤い唇が妙に近づいて、それが目に入った途端錦戸は思わず口に含んだ白米を飲み込み損ねて咽せてしまった。
「っ、げほっ、げほっ・・・」
「ちょ、大丈夫か?ほらお茶っ」
「ん、ん・・・すいませ、・・・っん、・・・はぁ・・・」
お茶を流し込んで何とか一息つく。
錦戸の赤くなったその顔を見て、白い顔は少しだけ呆れたように笑いながら、自分もお茶を飲む。
「確かにまだまだ子供かもしれへんなー」
「ちょ、子供はないでしょ・・・。もう僕も18っすよ」
「俺はもう21やもん」
「関係ないでしょ。だいたい21にもなって口に煮物のタレつけとる人に言われたないです」
「あっなんやとおまえ生意気やなー」
この人21歳なんや。
やっぱ年上や・・・3つかぁ・・・。
錦戸は内心そんなことをぼんやり思いながら、目の前で少し唇を尖らせる様を眺める。
思った程ではなかったかもしれない。
下手したらもっと上かと思っていた。
少し大人っぽく見える人なんだろう・・・黙ってさえいれば。
「坊ちゃんは案外口が悪いなぁ〜」
「よう言われます・・・って、あのー」
「うん?」
「坊ちゃん坊ちゃんて、それ・・・いいっすよ」
「いいってなに」
「止めてもらいたいんすけど・・・」
それは実家にいる時に散々呼ばれてるからなおのこと、止めて欲しかったのだ。
あの家にいる時の息苦しさを否が応でも思い出す。
口には出さなかったけれども、錦戸がそんな風に軽く眉根を寄せると、白い顔はまたきょとんと不思議そうなものになって、すぐにおかしそうに笑った。
「なんや、ほんまにまだまだ子供やなー」
「なんなんすか、それ・・・。むかつく」
「坊ちゃん呼ばれて嫌がってるようじゃ、まだまだ子供てこと」
「なんでですか。坊ちゃん呼ばれてる方が子供やないですか」
「ちゃうで。問題は呼ばれ方やなくて、それをどう受け取るかやんけ」
「・・・でも、嫌なんです」
言うことは尤もなのかも知れない。
だけども嫌だ。嫌なのだ。
周囲が皆そう呼んでその呼び方の枠にきっちり自分を押し込めてしまうのが。
そうしてそこに過度の期待がのしかかってくるのが。
自分は「坊ちゃん」である以前に、錦戸亮であるのに。
「ぼっちゃん」
けれど目の前の赤い唇はそれでもそう呼んだ。
なんだか楽しげに、けれどからかっている風でもなく、ただ無邪気に呼んだ。
「坊ちゃんがほんまに単なる「坊ちゃん」で終わるかどうかは、坊ちゃん次第やで」
俯きかけていた顔をそっと上げた。
変な人。
そして不思議な人。
けれど悪い気分じゃなかった。
少なくともそれは不意の雨が連れてきてくれた幸運だった。
幸運だと思った。
錦戸の唇は自然と開いてその名を初めて形取った。
「ゆう・・・さん?」
「ん?」
「ご飯、おいしかったです」
「おー、そりゃよかった。やっぱごはんは一人より二人やんな」
「そうっすね・・・あの、」
錦戸はそこで一つ勇気を出して言った。
我ながら驚くような行動だったと、後で家に帰ってから思ったものだ。
「また、ご飯一緒に食べませんか?」
裕はその時酷く驚いたような顔をした。
不意を突かれたみたいな、そんな。
それに一瞬まずかっただろうかと錦戸は思ったけれど、裕はすぐさまやんわりと嬉しそうに笑って頷いた。
その笑顔は綺麗だけれども何だか少しだけ儚げだと思った。
「おん。雨の日は、外おるから。一緒に食べよ」
二人の雨の日の逢瀬はその日から始まったのだった。
「お、また雨やー。気が滅入るなー」
錦戸が部屋で出掛ける支度をしていると、横で大倉が窓の外を眺めながら憂鬱そうに言った。
けれど錦戸はそれを意に介すでもなく、心なしか嬉しそうに鞄に荷物を突っ込んでいる。
大倉はその様を不思議そうに見やった。
「なんや、最近ご機嫌やね」
「そうか?」
「そうやで。雨の日は特に」
「気のせいやろ」
「えー?ほんまに?」
気のせいなわけがない。
基本的にいつでも怒りっぽくて、雨の日なんかは一段と機嫌が悪かったのが常なのに。
何故だかここ最近の錦戸は雨の日になると妙に機嫌がいいのだ。
しかも雨の日は必ず外で夕飯を食べて帰ってくる。
大倉はそれらから導き出されることをぼんやりと想像してみた。
「なぁー亮ちゃん」
「あん?」
「恋人できたん?」
「・・・・・・できてへんわ」
「あっ今間があった!絶対そうやー!えーうそーめっちゃ羨ましいー」
「うっさい!できてへん言うてるやろ!」
「そない否定すんのが余計あやしいわー。えーどんな子ー?かわいい?」
錦戸は判りやすい。
本当に判りやすい。
だってそんなあからさまに照れたように赤くなって、そのくせそれを隠すみたいに怒鳴ってみせたりして。
それで本当に隠しているつもりなんだろうか、と大倉は内心少しだけ呆れつつも微笑ましいやら本当に羨ましいやら、ええなぁと思った。
俺もできたら・・・と、あの最近気になるお茶屋の看板娘を思って小さくため息をつく。
小柄で笑顔の可愛い子犬みたいな子。
「・・・別に恋人とか、そんなんとちゃうし」
大倉がすっかりお茶屋の看板娘に想いを馳せている中、錦戸は一人ぶつぶつと誤魔化すみたいに呟いていた。
いやもう今更否定せんでもええし、もうええし、と大倉はまた呆れたように思ったのだが。
元来奥手で家庭事情が複雑な錦戸がようやく、と思うと素直に応援してやりたくもあった。
「んー?じゃあまだ片思い?」
「よう・・・わからん」
「なにそれ」
「なんや雨の日に一緒に夕飯食べるだけやねん」
「ん?雨の日だけなん?なんで?」
「よう知らんけど・・・雨の日しか外出ぇへんねんて」
「ふーん・・・。もしかして結構ええとこのお嬢さんなん?あ、でもそれなら雨の日なんて余計出られへんか」
「それもようわからん。・・・あんまよう知らんねん」
錦戸の言葉は段々とトーンを落としていく。
大倉は内心しまったかと思った。
あの浮かれようからしてもうすっかりそういう関係になっているのだとばかり思っていたのだけれども。
まさかまだ片思いの段階だなんて。
いや、相手だって雨の日限定とは言えその度錦戸のような年若い男と一緒に夕飯を食べるくらいなのだから、満更ではないだろう。
けれども少なくともまだそこまで想いを通わせたわけではないらしい。
「なぁ、どんな子?」
「どんな・・・んー、綺麗な人やな」
「綺麗な人・・・って、年上なん?」
「おん。3つ上かな」
「3つも?結構上やねぇ・・・」
「でも話すとほんまアホみたいやし抜けとるし、あんまそういう感じせぇへんねん」
「ふーん。他には?」
「色白でな、いつも黒い着物着とって、赤い蛇の目傘差しとんねん」
ふんふんと聞いていた大倉だったけれども。
そこで何か引っかかったような気がしてはたとする。
「・・・いつも黒い着物?」
「ああ、なんでかよう知らんけど・・・」
「それ・・・喪服ってこと?」
「え?」
「黒い着物って、そういうことちゃうの?」
「それ、は・・・」
錦戸はそこで何か重大な事実を、何故か裕のことを知らない大倉から知らされたような気がして、内心落ち着かない気分にさせられていた。
でもそこで錦戸は、何故気付かなかったのだろうかと思わず眉根を寄せた。
いつもいつも、雨の日に会う裕は何故か黒い着物だった。
黒い着物から伸びた白い腕で赤い蛇の目傘を差して赤い唇の端を上げて錦戸に笑いかけるのだ。
おなかへったなぁ、ごはん食べよ、と。
会って、ご飯を食べて、他愛もない話をして。
それだけだったけれども、それだけでも嬉しいくらいに幸せな一時だったのだ。
けれどそれでも、それだけはそれだけだ。
思えば錦戸は自分のことは色々と話したが、裕に関することは未だほとんど知らない。
どこら辺に住んでいるのか、どういう生活をしているのか、何故雨の日しか外に出ないのか。
錦戸は心の内に降り積もっていく熱い感情を後目に、裕のことは未だ何一つ知らないのだ。
錦戸は訊かなかったし、裕も言わなかった。
あの時、錦戸が名乗った時に名乗り返してくれた以外は、何一つとして。
「俺・・・」
錦戸は胸をかきむしりたくなった。
胸の内には既にこんなにも想いが溢れてしまっているのに、何も知らない。
自分はあの人のことを何も知らない。
それはきっと訊く勇気がなかったのもあるし、知るのが怖かったからでもある。
錦戸は気付いていなかったし知らなかったけれども、内心薄々感じていたのかも知れない。
「・・・なぁ、亮ちゃん。俺、その人のこと知ってるかもしれへん」
「え・・・?」
錦戸がハッとそちらを見れば、大倉は妙に神妙な顔をして躊躇いがちに口を開く。
「間違ってたら悪いけど、色白で、いつも喪服着てて、赤い蛇の目傘って・・・」
「大倉?お前ほんまに知ってんのか?」
「俺、名前は知らんのやけど。俺がよう行く茶屋でな、聞いたことあって」
「なに?なにが?お前ほんまに知ってんのか?あの人のことっ・・・」
「亮ちゃん落ち着いて。違うかもしれへん。だから落ち着いて聞いてな?」
大倉は言おうかどうか迷った。
違っていたら錦戸にも、その人にも申し訳ない。
けれどももし本当なら・・・錦戸には辛い結果になるかもしれない。
だからより辛い結果になる前に、手遅れになる前に・・・そう思って意を決して言った。
「俺が茶屋で働いとる女の子から聞いた話やねんけど、」
ある時、何の切っ掛けだったか。
大倉が想いを寄せる彼女はいつもの明るい笑顔もなく、辛そうな調子で言った。
悲しすぎる一人の未亡人の話。
「ちょっと前・・・もう1年くらい前らしいねんけど、ここら辺にすごく仲のええ夫婦がおったんやって。
旦那さんは若かったけど大工の棟梁さんでな、奥さんは旧華族の出のすごく綺麗な人で。
当時二人の結婚は当然反対されたけど、それでも二人は押し切って結婚したらしい。
奥さんは家出までしてな、旦那さんのとこ嫁いだんやって。
ほんまに仲が良くて、奥さんはいつも旦那さんが帰ってくる頃になると近くの橋の向こう側まで迎えに行ってたんやって」
茶屋の娘はその橋の近くに住んでいて、その夫婦の仲睦まじい姿に内心憧れていたのだそうだ。
自分もいつか素敵な人と出会ってそんな夫婦になりたいと。
だからこそ、その後起きた悲劇は今でも忘れられないと言って悲痛な表情を見せた。
「でもな、ある日、前日からずっと雨で・・・ほんまにひどい雨やったらしいねん。
せやから橋がかかった川もすごい氾濫しとって。そんで奥さんもその日は旦那さんを迎えにいかへんかったらしい。
でもそしたら旦那さんが仕事から帰る時な、その川で溺れとる子供を見つけて。・・・助けるために飛び込んだんやって」
大倉の話す調子からその後起きたことは何となく想像がついた。
けれど錦戸はそれを急かした。
心臓が騒いで仕方なかった。
「そんで、そんで・・・?どうなったん?」
「・・・子供は、助かったらしい。でも、旦那さんは子供を岸に上げた段階で力尽きてもうたらしくて・・・そのまま・・・」
「そんな・・・」
「奥さんな、それを近所の人に知らされるまでずっと家で旦那さんのこと待ってたんやって。
そんで知らされて、飛んでって、・・・・・・」
あの人のことじゃない。
あの人のことであるはずがない。
錦戸はそう思いたかった。
そう思いこみたかった。
そんな偶然あるはずがない。
それがあの人だなんて。
けれど白い肌に黒い着物に赤い蛇の目傘。
そんな偶然こそあるはずもない・・・。
「奥さんはな、旦那さんが亡くなって、その葬式の後からずっと喪服しか着ないんやて。
そんで雨の日しか出歩かへんようになったて・・・。それ以外は一日中家にこもってるて・・・」
「・・・・・・」
錦戸の頭の中にはぼんやりと裕の姿が浮かんでいた。
いつだって雨の降りしきる日になるとふらりとやってきて、黒い着物から伸びた白い手で赤い蛇の目傘を傾け笑いかけてきた。
そんなはずはないと思いたい。
けれど錦戸には否定できなかった。
否定する要素もなかったから。
名前と、黙っていればハッとする程に美しいのに口を開けば子供みたいでお喋りで、妙に嬉しそうにご飯を食べて、自分に何故か妙に嬉しそうに笑いかけてくる。
そのくらいしか知らなかったから。
他には何一つとして知らなかったから。
「・・・亮ちゃん?」
呆然とした様子でぴくりとも動かない錦戸を大倉は心配そうに覗き込んでくる。
言わない方がよかっただろうかと思った。
けれども言わない方が後で辛いことになる、それも確かだと思った。
「亮ちゃん・・・その、・・・その人は、止めといた方がええかもしれん・・・」
恐る恐るそう呟く。
けれど返ってきた小さな声はそんなもの聞こえていないようだった。
「・・・・・・って、くる」
「え?」
「いってくる・・・もうこんな時間や・・・」
「ちょ、亮ちゃん?」
「いって、確かめてくる・・・」
「亮ちゃんっ!」
大倉が咄嗟に掴んだ手すらも強引に振り払い、錦戸はそのままふらりと出て行ってしまった。
折角整えた身支度も、傘すらも持たずに。
錦戸は走った。
傘も差さずにただ走った。
周囲からはこの雨で傘も差さずに酔狂な、と好奇の視線が注がれるが気にもならなかった。
ただ一刻も早く、とそればかりを考えていた。
会って確かめなければとそればかりを考えていた。
確かめてどうするのか、そこまでは考えてはいなかったけれども。
もしかしたら言ってはくれないかもしれない。
確かめさせてはくれないかもしれない。
今までだって一言もそんなことは言わなかったから。
でもそれならそれでもいい。
ただ会いたかった。
何かが自分を急かして堪らなかった。
洋シャツも袴もすっかりびしょ濡れになって、それでも走り続けた先。
いつも会うその大衆食堂の軒下に、今日も赤い蛇の目傘が見えた。
思えばいつも裕は錦戸より先に来ていた。
それは特に時間を決めていたわけではないが、だいたいが夕方頃、陽が落ちる辺りというのが暗黙の了解になっていたのだ。
今日はいつもより遅い。
当然裕はもう来ている。
けれど錦戸はそれすらも一度たりとも考えたことがなかった。
それは恋のあまりの盲目さだっただろうか。
いつも雨の日、裕は一体いつから錦戸をそこで待っているのだろう。
「裕・・・っ、さん」
息切らせ、滴り落ちる雫を払い、近づく。
すると蛇の目傘がゆっくりと後ろに傾けられて、振り返った。
「・・・・・・遅かったなぁ」
白い顔が白い吐息を交えてやんわりと笑う。
それは胸が締め付けられる程に儚げに。
それでも何処か嬉しげに。
「おなかへったわー・・・」
裕はいつも錦戸と共にする夕飯をとても嬉しそうに食べる。
毎回毎回、ごはんはやっぱ一人より二人やな、としつこい程に繰り返して言う。
錦戸は気付かなかった。
その言葉の裏側にある真実。
裕は錦戸と食べる時以外、一人で食事をしているということではないか。
「裕さん・・・」
「坊ちゃん、びしょ濡れやないか。なに、傘どしたん?なくしてもーたん?」
まるで子供にするみたいにおかしそうに声をかけてくる。
けれども錦戸はまともになんて返せなかった。
その言葉すらもなんだか遠くに思えてしまって。
会う度心が近づいていたような気がしていたのに。
幸せだとそう思っていたのに。
そんな風に浮かれていたのは自分だけだったのかもしれない。
少なくとも大倉に聞いたことが事実ならば。
この人には、幸せなんて既にこの世からなくなってしまったものだ。
「裕さん・・・答えてくれますか?」
「ん・・・?なんや?」
もしかしたら裕にも予感はあったのかもしれない。
錦戸のその真剣で切羽詰まったとしか言いようのない表情。
「あんたは、あんたは・・・・・・旦那さんを、・・・なくされたんですか?」
他にも訊きようはあったかもしれない。
けれど錦戸にも余裕がなさすぎてそうとしか訊けなかった。
そうだと言われたらどう反応を返せばいいかも判らずに。
ただそう訊くしかできなかった。
裕はその真剣な表情に、一瞬だけスッと目を細めて、笑顔を消して。
深く深く息を吐き出した。
白いそれは冷え込む空気にすぐさま溶けていく。
けれども裕はまたすぐさまうっすらと笑みを浮かべた。
少しだけ遠い目をして。
「・・・なんや、坊ちゃんどこでそんなん聞いたん」
「すいません・・・」
「謝ることやないけど。まぁ、いつかは知られるやろなて思ってたし」
「じゃあ、ほんまなんですか。1年前、川で、・・・・・・」
錦戸はそれ以上続けられなかった。
大倉から聞いたことに完全な確証を得るにはそこまで聞かなければならなかったはずなのに。
もうそれ以上続けられなかった。
そこまでしなくても、もうそれしか考えられなかったというのもある。
そして何よりも、裕にそんな事実を今更突きつけたくなかった。
そんなことをしたらこの人はどうなってしまうのかと思うと怖かった。
もしかしたら自分の前から姿を消してしまうかもしれないと思うともっと怖かった。
「風邪、ひいててん」
「え・・・?」
ぽつりと呟かれた言葉に錦戸は顔を上げる。
裕はそこにさしたる感情も映さずにうっすらと笑んだままに続けた。
「あの日な、俺風邪ひいててん。せやからあいつ迎えにこんでええとかぬかしよってん。
ちょうど傘が壊れてもーててな。そのせいもあって。
風邪悪化したらあかんやろ、て。ええから身体大事にしろや、て。ほんま過保護なやつでなー」
それが紛れもなく「あの日」のことを指していると気付いて、錦戸は息を飲んだ。
それはまさしく、裕が全ての幸せを失った、あの日の話だ。
「俺、それまで一日も欠かさず迎えにいっててんで?皆勤賞やったのに。
あいつが余計なことぬかすから・・・あの日だけ、いかんかってん・・・しまったわ・・・」
「裕さん、・・・」
「風邪なんかな、別に死ぬわけでもなし。いきゃよかった。いきゃよかってん。・・・そしたら、」
錦戸は予感がして一歩を踏み出した。
視界に映った赤い蛇の目傘がふわりと揺らいだからだ。
「そしたら、あんなんならんかった。あの日もちゃんと橋の向こうまで迎えにいってたら、あんなんならんかった」
裕は後悔した。
何度も何度も何度も。
もう数え切れないくらい後悔した。
自分が行っていたからと言ってそうならなかったとは言い切れない。
むしろあの人情に厚くて正義感の強い夫のことだ、自分がいたからってきっと同じ行動をとっただろう。
けれどそれでも違う結果があったかもしれない。
僅かでもその可能性はあったかもしれない。
裕は後悔した。
その死に目にも会うことができなかった。
裕が駆けつけた時にはもう夫は物言わぬ姿になっていた。
あの眩いばかりの笑顔が自分の向けられることは二度となかった。
「ご飯、作って、まってたのに・・・。一緒に食べようなって、朝、そう言うて・・・出てったのに・・・」
たった一度の雨は、裕から太陽を奪い去ってしまった。
あの日から裕の世界には太陽がなくなって、雨が降るだけになった。
「こんな傘いらんかった・・・こんなん余計やねんっ・・・」
赤い蛇の目傘。
あの日の数日前、二人で買い物に出掛けた先で見かけたそれ。
お前には赤も似合うわ、そう言って。
今度給料が出たら買ってやるな、そう言って。
その給料日、つまりはあの日、そのまま形見となってしまった代物。
「こんなんどうでもよかった!帰ってきてくれりゃそれでっ・・・それで・・・」
ふらりと揺らいだ傘が地面に落ちた。
夫の命はそのまま持っていってしまったくせに、こんなものだけが岸に打ち上げられて残った。
裕はそれが憎くてしょうがなかった。
けれども捨てることもできなかった。
せめてそれを持って迎えにいけば、もしかしたら今度は帰ってきてくれるだろうか、そんなことを思って。思い続けて。
「雨はきらいや・・・きらいやぁ・・・」
けれど思い知らされただけだった。
雨の中どれだけ歩いても。
その赤い傘を差してどれだけ歩いても。
裕の太陽は二度と帰ってこない。
赤い傘は既に地面に転がっている。
冷たい雫に打たれて、裕は顔を歪める。
けれどそこからまるで守るみたいに、細い腕が回されて、抱きしめられた。
「・・・・・・坊ちゃん」
暖かいその感触にゆっくりと顔を上げると、錦戸が泣いていた。
ぼろぼろと涙をこぼして、顔を真っ赤にして、唇を震わせて。
泣きながら、それでも裕をきつく抱きしめていた。
「坊ちゃん?どした・・・?どっか痛いんか?」
「・・・なんも痛くあらへん」
「ならなんで泣くねん・・・坊ちゃんももう18やろ?男はあんま泣いたらあかんで?」
「・・・知らんかった」
「うん・・・?」
「俺、知らんかった・・・!」
「言うてへんかったもん・・・しゃあない」
「しゃあないことあるか。・・・そんなのって、あるか」
神様は残酷すぎる。
どうしてこの人からそんな大事な人を奪ってしまったのか。
「坊ちゃん、俺のために、泣いてくれんの・・・?」
そんな風に言って頭を撫でてくる白い手。
酷く頼りないその手。
きっと裕はその手を力強く掴んで引いて、連れていってほしかったんだろう。
あの日。あの雨の日。
そう思うと涙が溢れてどうしようもなかった。
けれど同時に連れていってくれなくてよかったとも思ってしまった。
そうでなければ自分達は出逢えなかった。
そしてそう思ってしまう哀しさに錦戸はまた泣いて、裕の身体を抱きしめた。
すると触れた先から、抱きしめた先から、更に裕の感情が伝わってくる気がした。
錦戸は悲しくてしかたなかった。
そして同時に、それでも好きでしょうがなかった。
知ればなおのこと触れずにはいられなかった。
今この人を何とかこの世に繋ぎとめているものは酷く儚くて危うげで。
「・・・坊ちゃん」
錦戸が抱きしめる腕を解きもせず力を込めると、裕は少しだけ苦しげに、けれどそれでも振りほどこうとはせず。
その温もりと力に少しだけ落ち着きを取り戻したように呟く。
「ほんでもな、坊ちゃん?俺は嬉しかってんで?」
「なんで・・・?」
「嫌いで嫌いでどうしようもなかった雨の日やったけど。・・・そんな日におまえに会えたんやもん」
錦戸がはっと顔を上げる。
涙でぼろぼろになった顔に苦笑しながら、裕はその白い指で濡れた頬を撫でてきた。
それはなんだか愛おしげに。
「一人のごはんはほんまにまずくてな、悲しくなんねん。でもな、坊ちゃんと食べたごはんはほんまにうまかってん。
なんでやろって、俺ずっと考えててんけどな?・・・なんでやと思う?」
まるでいたずらっこみたいに笑ってそんなことを訊いてくる。
錦戸は涙に濡れた目を盛んに瞬かせて考えた。
考えた。
考えたけれど。
「・・・なんでや」
「ちょお・・・ちゃんと考えや?坊ちゃん頭ええねんから、ちょっとは使わんとあかんで」
「わからん。なんでや」
「ほんま・・・まだまだ子供やなぁ」
「もう聞き飽きたわ、それ。子供やない」
「子供やない言う内はまだまだ子供やって、言うたやろ?」
「・・・・・・俺は、」
身体を離して、代わりにその白い手をぎゅっと掴んだ。
そうしてじっと真っ直ぐに見つめてくる瞳は未だ潤んでいたけれども、それでも強く真っ直ぐで。
裕は冷えた身体の中でただ心がじわりと熱くなるのを感じていた。
そう、その瞳だと思った。
「俺は、あんたが、好きで・・・。
せやから、あんたとご飯食べて、そんで話して、嬉しくて、幸せで、でも段々そんだけや我慢できんくなってきて、・・・あんたのこと、知って」
錦戸は未だ判っていないのだろう。
裕を今この世につなぎ止める酷く儚く危うげなもの。
それは錦戸に向ける想いに他ならない。
「悲しくて、辛くて、ほんでもやっぱ好きで。なぁ・・・」
錦戸の潤んだ熱っぽい瞳が裕を映す。
そうっと、そうっと、酷く神聖なものみたいに唇が重ねられた。
「・・・忘れろとは、言わんから。俺のこと好きになって」
囁かれた言葉と吐息は熱かった。
それはもしかしたら酷い言葉なのかもしれないと、錦戸は思ったけれど。
それでも言わずにはいられなかった。
言葉の代わりに返された柔らかなくちづけですら、それは喜びよりも前に罪悪感を憶えてしまうとしても。
それでも。
「怒られるかな・・・」
「え?」
「錦戸家のお坊ちゃんたぶらかした、って」
「・・・知ってたん?」
「そら知ってるわ。錦戸家言うたら、海外貿易で大成功を収めた日本有数の大富豪やんか」
「でも、そんなん知らんわ・・・」
今はそれを忘れたかった。
錦戸にとて裕同様に、いやそれは裕以上かもしれない、強い足枷がある。
裕は小首を傾げるようにして笑うと、宥めるように頭を撫でてきた。
それに身を委ねながら錦戸は言った。
「そんでもええ。たとえ反対されたって、何言われたって、そんでもええ」
きっぱりと言い切る言葉は強い。
ただの強がりかもしれないけれども。
それでも裕は嬉しかった。
それは太陽とは違うかもしれないけれども、とても強く眩い光。
「・・・ほんなら、俺も」
裕は赤い蛇の目傘にをちらりと見やって、すぐさま再び目の前の錦戸を見つめた。
「ええかな・・・罰当たっても」
「罰って・・・」
「俺だけって言うたのに、て。・・・あいつに怒られても」
「それは、」
それを言われると錦戸にもどうしようもなくなる。
そればかりは。
自分は所詮後から出逢った。
そして死人には勝てない。
けれどそれでも今共に生きているからこそできることはあるはずだ。
そう思いこむしかなかった。
「・・・それでも好きや。好き。好きやから・・・裕さん」
どうかその心も体も、俺にください。
「ええの?坊ちゃん」
そして裕にはもうその手しかなかった。
そっと触れたその暖かな浅黒いそれしか。
だからそっと呟いてしまう。
「坊ちゃん、・・・亮、一緒に罪を背負ってくれるか?」
裕は実感していた。
きっとこの瞬間こそが、自分が罪人になった時なのだろうと。
あの世のあいつは許してくれないかもしれないけれど。
それでも一緒にいたいと思ってしまった罪。
背負わせることが更なる罪。
けれどそれでも止められない罪。
「なぁ・・・ごめんな。でもなぁ・・・もう」
止められない。
あの日本当なら一緒に死んでしまいたかった。
後を追ってしまいたかった。
それでも生き延びてしまったのは、もしかしたらこの出逢いのためだったのではないか。
この恋のためだったのではないか。
そう思ってしまった裕は、その時から罪を背負っていたのかも知れないけれども。
許してくれとは言わない。
けれどもう離せない。
錦戸は一度きつく目を閉じて、そして開いた。頷いた。
この恋以外にもう失うものなんて何もないはずだと、自分にそう言い聞かせて。
「望むところや。あんたさえいてくれれば、なんでも背負ったる」
抱きしめ合った身体はもう互いしかいない証。
降りしきる雨の中、それでも望んでしまった恋を。
許してくれなくていい。
ただどうか咎めないで。
恋してしまったことだけは咎めないで。
それはきっと出逢った瞬間から必然だった。
罪だとしても必然だった。
どうか恋を咎めないで。
せめてその滴で濡らしてひっそりと隠して。
出逢ったことすら罪ならば。
せめてただ、それだけ。
END
今回はあんまりお題に沿ってなさそう(ダメ)。
というかひたすらに「どうか恋を咎めないで」のワンフレーズのみで考えました。
だから他の部分はあんまりまぁ・・・でも切ない感じだからねぇこの曲がまた。
どちら視点かというとどちらとも限定しづらいというか、両方なんかな。
とりあえず例の着物未亡人裕さんの写真を見てからずっと書きたかった未亡人ネタですよ。
なんかほんと亮横でこの手のネタ使うと切ないやら酷いやらこういう話になってしまうな。
亮横って切ないの似合うよね(改めて)。
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