さよなら柔らかな夢










「ひーなーちゃーん」
「ちょ、ヨコ?大丈夫か?」

扉が開いた途端こてんともたれかかった先の身体はあまり大きくはないけれどもしっかりとした造りをしていて、横山の熱を持った身体もちゃんと受け止めてくれた。
鍛えられた両腕で抱きとめながら覗き込んでくる大きく目尻の垂れ下がった瞳はいつもと変わりなく、穏やかで優しい色を映している。
横山は熱で紅潮した頬をやんわり緩め、ほうっと熱い息を吐き出すとぐんにゃりとそのまま身体を預けた。
それに苦笑しながらも村上は仕方なさそうに廻した手で背中を撫でてやる。

「こら、お前めっちゃ酒くさいで」
「んー・・・たくさんのんだ」
「そうかそうか。また例の彼女と会ってきたんか?」

特になんでもなく村上が尋ねたそれには深い意味などなかった。
それは単純にこの状況からしてそうなんだろうと思っただけのこと。

横山には少し前から付き合っている恋人がいて、その彼女と会った後たまに村上の家にやってくることがあった。
そしてその時の横山は必ずこうして強か酔っているのだ。
それが何故かはよく判らないけれど。
だからこそ村上は今回もそうだと思ったのだが。

紅潮した顔がぎゅっと肩口に押し付けられる。
村上はそれに不思議そうな顔をしながらもしたいようにさせてやる。
肩口に顔を埋めているせいでくぐもった声がぼそりと呟いた。

「・・・別れてきた」
「え?」
「ちゅーか、ふられた」
「マジで?」
「まじで」
「・・・そか」

一瞬何と言っていいのか判らず、村上は廻した手でその丸い背中を再び優しく撫でてやった。
普段みんなの悩みを聞いてやることがほとんどで、弱音なんてさほど吐かない、弱みを見せることを厭う横山。
それがわざわざ自分を頼ってきたのなら、できる限りで話を聞いてやりたい、慰めてやりたい、村上はそう思ってその手をやんわりと上下させる。
そのしっかりした手の暖かい感触に、横山はおずおずと自分からも手を廻してしがみつくようにして呟く。

「ふられてもーた」
「・・・ん、残念やったな」
「大好きやったのに」
「よう言うてたよな。綺麗な人やったんやろ?」
「そやで。綺麗で、優しくて、大人で、・・・やらかい人やったな」
「やらかいて」
「やらかかってん。おっぱいおっきかったしな」
「お前なぁ」
「俺やらかいの好きやねん」
「はいはい、お前はほんまにおっぱい星人やな」
「裏モモが好きとか言うてるマニアに言われたないわ」
「人の嗜好はほっといて」
「あー・・・ぷりんー」
「はい?」
「ぷーりんーぷーりんー」
「ああ・・・やわらかければいいんじゃない、大きければいいんじゃない、てあれか」
「なんで食べたの僕のぷりんー」

ふざけた調子で、少しだけ外した音程で、自分で作った歌を唐突に歌いだす。
確かにその歌詞は元々女性の胸についてを歌ったものだということは既に知っていたけれど。
今こんなところで歌われても、と村上は呆れたように笑いながらポンポンと軽く弾くような調子で横山の頭を叩いた。
さすがに空元気なのは判る。
こう見えて傷つきやすいその心はこの10年で十分すぎる程に知っているから。

「また次があるって」
「なんやそれ」
「またやらかい人に出逢えるって」
「・・・ナイスおっぱいにか」
「そうそう、ナイスおっぱいにな」
「あー・・・やらかいの触りたい。おまえごついねん」
「失礼やねあんた。我慢せぇよ」
「ごついごつい。むだにごつい」

そのしっかりとした身体つきは元々の骨格と日頃鍛えているせいもあって、愛らしい顔立ちに似合わず随分と男らしい。
それは横山がつい先程、最後に抱いてきたあの柔らかな身体とは全く違う。


『これで最後ね。もう、これで、忘れなさい』


そう柔らかく言ったあの真っ赤な唇を横山は思い出す。
今自分を抱きとめてくれる腕とは真逆の細くて折れそうなそれは、横山にやんわりと伸びて、そのマニキュアの塗られた指先でそっと宥めるように横山の白い頬を撫でたのだ。

始まりは、一人で飲んでいた横山がふと気まぐれに声をかけたことだった。
普段ならその性質柄、自分から声をかけることなんてまずありえない。というかできない。
けれどその時は少し酔っていたせいもあったからか、なんとなくふらりと身体がそちらを向いていた。
同じように一人で静かに飲んでいた彼女。
大きな目元がぱっちりとしていて印象的だった。
そのせいで少し幼く見られるのか、聞けば横山よりも3つ年上だった。
穏やかで大人で、時折少し抜けている所があって。
けれど昼間は某大手企業の社長秘書をしているという彼女は、横山よりも余程世間を知っているようだった。
テレビで横山を見たことがあったようで、「まさか今人気のアイドルに声をかけられると思わなかった」と驚いた様子で言ってはいたが、その態度は随分と落ち着いたものだった。
笑った拍子に目尻が下がるのがまた愛らしくて、横山は彼女に惹かれた。
たぶん、だからこそ、惹かれた。
それをその出逢いの時既に自覚していた。
そしてまた彼女も。

「あー・・・めっちゃへこむー」
「よしよし、俺が慰めたるでー」
「ヒナーおっぱいー」
「おっぱいはさすがにやれへんけどな」
「ほんならごはんー」
「こんな時間に食うと太るで」
「・・・なんや。けちけちすんなよ」
「お水あげるから。少し酒抜きなさいあんた」
「水て。せめて茶くらい出せよ」
「なんや態度でかいなーこの酔っ払い」

けれどしょうがない、と呆れ返りつつも家に上げてくれようとする様子。
横山は今更ながらそうっと顔を上げて窺うように村上を見た。
ん?と穏やかに返してくるその表情を見て、おずおずと訊く。

「・・・だいじょぶなん?」
「なにが?」
「いま・・・」
「今?・・・ああ、誰もおらんよ。大丈夫。気にせんでええて」
「ふぅん・・・」

ぽつんとそれだけを呟きながらも横山は内心ホッとしていた。
けれど次いで村上が笑顔で言った言葉に一瞬顔を強張らせる。

「夕方まですばるおったんやけどな、夜から友達のライブ行くからって」
「そ、なん・・・」
「ひどいんやでー?俺も行きたい言うたら、お前は来んなー、やって。どうせお前興味ないやろー、て」
「ああ・・・」
「そらまぁそうやねんけどなー。でもどうせなら一緒に行きたい思うやんか」
「・・・ほんならあれやな、」
「うん?」

ぼそりと口をついて出た言葉。
それに横山は自分で言っておいて自分で傷ついた。

「俺ら今日ふられたもん同士やな」

なんて愚かしい台詞だと、自嘲するしかなかった。
そしてそこには確かに自分の暗い願望が見え隠れしている気がして嫌でたまらなかった。
いつまで経っても大事な親友二人の幸せを心から喜べない最低な自分。

けれど村上はその言葉に笑った。
いつもと変わらず優しく穏やかに、笑ってくれた。
あまつさえまた背中を撫でてくれもした。

「そうやなぁ。じゃあ今日はヨコおってや」
「・・・おん、しゃあないな。慰めたるわ」
「そうしてそうして。カップ麺くらいなら出すから」
「さっき太る言うたのに」
「ヨコはそんでええねん」
「おまえ太らす気か」
「あはは、太らせておいしく食うんもええな」
「誰が食わせるかぼけ。おまえが食うんはあいつだけで十分やろ」

わざわざ自分で自分の傷を抉るような真似をよくするものだと自分で呆れる。
自分と彼は絶対的に違うのに。
それを敢えて思い知るようなことをどうして自分で言ってしまうのか。
愚か過ぎる。
けれどもそれは横山にとってみれば村上のせいでもあった。
見当違いの八つ当たりだと言われようとも、そう思わずにはいられなかった。
二人ともが等しく大事だと、そこに差はないのだと、そんな誤解をさせるくらいに優しくするから。

「ええのええの、ヨコはそんでええの。ええから今日はここ泊まり」
「・・・おん」

そうやって優しく抱きとめて、背中を撫でて、頭まで撫でるから。
だからいつまで経っても諦められない。

あの小さな身体に大きな力を秘めた、強くて脆くて、自分に唯一の憧れをも抱かせた、もう一人の親友。
大事な彼を悲しませるようなことは絶対にしたくなかったから、欠片もそんな素振りは見せないようにこの10年間努めてきた。

彼も村上も両方大事だった。
大事な二人が一緒に幸せになってくれるならこれ以上嬉しいことはない。
けれど、両方大事だけれど、その種類は決して同じではないのだ。
村上にとって彼と横山とが両方大事でも、それでも決して同じではないように。

抑え込んだ気持ちは心の奥底で時に痛みを覚え、それを癒してくれる柔らかなものを求めた。
そのしっかりとした造りの手は決して手に入らないから、そんなことがあってはいけないから。
そんな現実から逃げるようにして求めた、夢のような柔らかな肌。


『なぜ私があなたを受け入れたかわかる?
それはあなたが私を求めていると思ったから』


柔らかな肌は横山をそのまま抱きしめながら言った。
まるで母親が子供を宥めるような調子で。
そこに笑顔すら浮かべて。
きっと最初から全て見抜いていた。
だって彼女はいつも横山に笑っていた。
笑っていてくれた。
最初に横山が言ったからだ。
笑った顔が好きだと、その下がった目尻が好きだと、そう言ったから。
そうやって笑うと目尻が下がる、その向こうに焦がれた違う人間がいることを彼女は知っていた。


『女というのはね、打算的なものなの。
そこにどんな理由があろうと、自分を求めてくれた男がとびきりイイ男ならば見逃さないわ』


ごめん、と。
抱きながらそう言うことしかできなかった横山に、それでも笑って彼女は言った。


『違うの。謝ることはないの。
あなたは違う人を見ていて・・・私を通してその人を見ていたかもしれないけど、言ったでしょ?
女は打算的なもの。だから今更あなたを振るの。
あなたはイイ男だったし、きっとこれからもっとイイ男になる。だから手を伸ばしてみた。
だけどやっぱり本当には手に入りそうもないから、今更振るの。今更手放すの。だから気にすることないのよ』


優しい女性だった。
いつも笑って抱きしめてくれた。
柔らかな身体はいつだって横山を現実から夢へ逃がしてくれた。
柔らかくもなんともないしっかりとした手は決して自分のものにはならない、そんな現実から柔らかな夢へと逃がしてくれた。

だけどそんな夢もさっき終わった。
結局横山が現実を捨て切れなかったから。

「・・・好きやったんは、ほんまなん」
「ヨコ・・・」
「でも、・・・」

ぐっと何かに詰まったように言葉を途切れさせた横山の柔らかな金色の髪を、しっかりとした指先が辿るように撫でる。
自分のものではないその手が優しすぎて痛い。

「・・・よしよし、大丈夫やで。ヨコはええ子やから、またすぐいい人に出逢える」

痛い。
でも優しい。
痛い。
でも好き。
そんな現実から結局逃れられない。

柔らかいものが好きだ。
決して自分を傷つけないから。
痛い気持ちなんて欠片もなく包んでくれるから。
けれど横山は結局そんな柔らかな夢よりも、この柔らかくもなんともない現実を選ぶ。選んでしまう。それはいつだってそう。

「ヒナ、ごめんな」

諦められなくて。
おまえらの幸せを心から願ってやれなくて。
そんな酷い奴で、どうしようもない奴で、ごめん。

けれどやっぱり。
村上はその大きな瞳の目尻を下げて笑ってくれるのだ。

「なに言うてんの。らしくないなぁ?
ええねんええねん、おまえは普段全然言わんのやから。
たまにはええねん。俺と、あとすばるにはな、言うてええねん。頼ってええねん」
「・・・そか」
「そやで」

現実は痛い。
二人の信頼と親愛が痛い。
向けられる優しさが横山の心をじわじわと傷つけていく。
傷はこの10年でどれだけ増えただろう。
けれど、それでも結局横山は柔らかな夢よりもこの現実を選んでしまう。


『あなたの幸せを祈ってる。もう抱きしめてはあげられないけれど』


柔らかな夢の終わり。
彼女は最後まで笑ってくれた。
けれどその笑顔しかもう憶えていない。
横山にはそれが哀しかった。
今更に、哀しかった。

「ヒナ」
「ん?」
「かなしい」
「・・・うん」
「かなしいわ」
「そやな」
「かなしくてしゃあない」
「・・・そんでええねん。いつかは悲しくなくなる」
「そんでも、いま、かなしいわ」

横山は泣かなかった。
泣けなかった。
そうしたら彼女の笑顔すらもぼやけて忘れてしまいそうで。
ただ目の前の柔らかくもない身体にしがみつくように腕を廻し、くぐもった声を漏らすだけだった。

「・・・・」

その掠れた四文字。
消え入りそうなその言葉をなんとか聞き取って、村上は無言で廻した腕に力を込めた。
そしてあやすように背中を撫でて、頭を撫でて、頬まで撫でた。
その手は優しいけれど柔らかくはない。自分のものではない。
夢ではない現実。
それこそ横山が選んだ、これからも生きていく道だ。


『さよなら。私は忘れる。だからあなたも忘れて。夢なんて、忘れて』


横山は夢を見きれなかった大人。
その柔らかくもない腕の中、夢の最後のひとかけらに別れを告げる。


さよなら。










END






(2006.4.7)






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