13.誰?
最近の姉ちゃんはおかしい。
亮は笑えば天使のように愛らしい顔の眉間に皺を寄せながらフライパンの柄を握っていた。
そんな強面をしていると裕は「かわいない」と言って唇を尖らせるからなるべくしないようにはしているが、生憎と今このキッチンには自分一人だから構わないだろう。
ただその表情は怖いというよりかはむしろ一般には凛々しいと言うべきで、まさに少年から青年への過渡期を感じさせるものだ。
実際亮は近頃随分周りの女子に騒がれるようになった。
元より整ったその顔立ちと常に学年トップの成績、そして悪く言えば頑固だが芯の一本通った真っ直ぐな男らしさは思春期の女の子には随分と魅力的に映るのだろう。
けれども亮はそんなことはまるで意に介さなかった。
所詮見た目ばかりで寄ってくるような奴には興味もなかったし、何より他に目をやっているような余裕もなかった。
その意識は全てたった一人の姉にのみ向けられているのだから。
「・・・ほんまおかしいねん。おかしいねん。あやしいねん・・・」
小さくブツブツと呟きながら菜箸で肉を炒める姿こそ怪しい。
けれどもそんなツッコミをするような人間もここにはおらず、亮はいっそ不似合いな程の手際の良さでフライパンの中の肉を炒め、迷いない手つきで味付けを施していく。
裕と亮の両親が亡くなってからというもの、家の中のことは二人で分担して行ってきた。
姉弟二人きりで住むにはあまりにも広い家の中で、誰の庇護の手も借りずに暮らしていくのは決して容易いことではない。
けれど二人とも自分達以外の人間をこの家に入れたくなかった。
亡き父と母の想い出が詰まったこの家を自分達二人の手で守りたかった。
そして離ればなれになりたくなかった。
だから二人は二人して決めたのだ。
ずっと二人で助け合って生きていこうと。
とは言え、やはり人には向き不向きというものがある。
当初こそ料理の分担も半々だったのだが、どうにも裕は不器用で、中でも料理が壊滅的に下手だった。
そして逆に幸運にも、それは元来マメで凝り性な性質が幸いしたのだろうが、亮には料理の才能があった。
だから今では自然と亮が料理を担当するようになっている。
代わりに掃除洗濯ゴミ出しなんかは裕がやっている。
そうして姉弟二人で暮らすようになってもう一年半になる。
すっかり慣れた手つきで出来上がった生姜焼きを皿に盛りつけていく亮は、確かに色々な物に慣れた。
受験生ではあるけれども、勉強に関しては特に悩むようなこともない。
先日の模擬試験でも堂々の校内一位をマークし、志望校には既に余裕のA判定を貰っている。
それこそ姉が望むようにいい高校に行って、いずれはいい大学に行って、医者になる道もまた夢ではないだろう。
けれどそこまで考えると、亮はいつも自然と顔を顰めてしまう。
確かに医者にはなりたい。
それは亡き父親がやはり医者だったからだ。
人の命を救うことを生き甲斐としていた父を尊敬し、誰よりも憧れた。
だからこそ同じ道を歩みたいと思った。
そしてその夢への道を着々と歩んでいるというのに、亮はそれでも考える度に苦しくなるのだ。
それはきっと、自分の夢のために誰よりも大事な姉を犠牲にしているという意識があるから。
グラビアアイドル、なんて。
その単語を思い浮かべるだけで亮は苦々しい気持ちになる。
亮とて年頃だ。その手の雑誌を見ることくらい当然ある。
けれどもだからこそ、そんなものを見る男がどういう目的を持っているかは十分に判っているし、そんな所に自分の大事な姉が晒されていることがいい加減我慢ならなかった。
自分より3つも年上なのに何だか妙に抜けていて、いい加減で、強がりで、素直じゃなくて、ただ一人の弟には大層甘い。
いつだって嬉しそうに愛おしそうに自分の頭を撫でて笑いかけてくれる、そんな姉の綺麗な白い身体が不埒な想像をする男達の視線に汚されてしまうような気がして。
亮は今すぐにでも無理矢理辞めさせてしまいたかった。
けれどそんな力などあるはずもなかった。
何せそんな風にして裕が稼いだ金で自分はいい高校に行かせて貰おうとしているのだから。
様々な物に慣れた。
けれども亮は今の自分の幼さと無力さにだけにはいつまでも慣れることはない。
未だ大きいとは言えない自分の手を握りしめて我知らず唇を噛む。
「・・・・・・あ、あかん。冷めてまうな」
またつい考え込んでしまった。
はたとすれば目の前でほかほかと湯気を立てる二つの皿。
亮は裕を呼びにいそいそとリビングへ向かった。
テレビには今流行のトレンディドラマが流れていた。
今ちょうど映っている俳優は今若い女性の間で人気急上昇らしい。
亮からすれば何となくいけ好かない感じの優男。
裕とて「どこがかっこええねん」と言っては鼻にもかけていなかったはず。
更に言えば「おまえのが10倍かっこええで。あと10年したら100倍やな」と素でのたまった裕は、実は大概なブラコンであるだろう。
それは恐らく亮が凄まじいまでのシスコンであるのと同程度で。
亮は何となく嬉しい気持ちでそれを憶えていたからこそ、軽く首を傾げた。
今ソファーの上でクッションを抱えて熱心にテレビを見ている姉の後ろ姿。
「姉ちゃん?ご飯できたで?」
「・・・」
「・・・姉ちゃん?」
反応がない。
亮は眉根を寄せて回り込むようにしてその顔を覗き込んだ。
すると裕の視線は確かにテレビの方に向かってはいるのだけれども、その瞳はどこかぼんやりと遠くを眺めているようだった。
切れ長の瞳をほんのり潤ませて時折ゆるゆると瞬きする。
けれどもやはり特に何を見ているわけでもない。
まるで起きながら夢でも見ているような。
少なくともドラマなど意識に入っている様子は全くなかった。
「姉ちゃん・・・?」
もう一度呼ぶけれど、裕は反応しない。
ほうっと小さく吐き出されたため息だけが部屋にひっそりと溶ける。
亮は判らないけれどもなんだか妙に嫌な感じがした。
やっぱりや。
最近の姉ちゃんはおかしい。
さっきと同じことを改めて実感しながら亮はぎゅっと眉根を寄せる。
あの仕事を始めた当初のなんだか辛そうな様子とも違う。
別に体調が悪そうなわけではないが、ふと気付くとぼーっとしていることが多い。
なんだか心ここにあらず、と言った感じ。
亮はなんだか得体の知れない不安に駆られた。
この家は自分と姉と二人の、二人だけの家なのに。
ここには自分たち二人しかいないのに。
目の前に自分がいるのに、一体どこを見ているのか。
思わず片手でその肩を揺すった。
「姉ちゃんっ」
「っ、え?え?あ・・・りょお・・・。なに?」
裕はハッとしたように目を瞬かせてから繕うように笑った。
何か隠し事をされているようで亮はそれすらも気にくわなかったけれど、今ここでそれを訊くのもなんだか憚られたし、姉の性格から考えて言うはずもないだろう。
それにこれから夕飯だというのに変な言い争いをしたくなかった。
「・・・ご飯。できたで、て」
「お、そか。食べよ食べよ〜」
「もうできとるからはよ来て」
「おん。今日はなに?」
「肉」
「肉ええなー。肉ー」
嬉しそうに、いっそ無邪気にそう笑う顔はもう繕ったようなものではなかった。
亮は思わず内心ホッとする。
今の姉はきっと今目の前の夕飯と自分のことだけを考えてくれているはず。
・・・さっきとは、違って。
茶碗にご飯をよそいながら、亮はそれでもなんとなく胸の内にもやもやした、自分でも計りかねる感情を持てあましていた。
夕食後の風呂から上がり、自室に戻った亮は今月末の定期試験の範囲をチェックしておこうと机に向かった。
けれどもなんとなく乗り気にならない。
いつも綺麗に整頓された教科書のページを捲る気にもならない。
今日一日やらなくたって大した影響はないけれども、そんな風に安定しない自分の感情に思わずいらつく。
「もうええわ。寝よ」
頑張れない日に無理に頑張ろうとしても無駄だ。効率が悪い。
亮はさっさと椅子から立ってベッドへ無造作に身体を投げ出す。
目を閉じてしまえば自然と眠気も誘われてきて、このまま眠ってしまおうと掛け布団を引き寄せた時だった。
不意にドアをノックする音。
そして柔らかでどこか甘い声。
『・・・亮?おきてる?』
「姉ちゃん?」
『はいるでー?』
亮が思わず目を開けて起きあがると、ちょうど裕が部屋に入ってくるのが見えた。
どうしたのだろう、と一瞬思ったけれどもすぐさま判った。
よく見れば右手で引きずるようにして持ってこられた枕。
それは裕がいつも使っているものだ。
亮がベッドの上にいるのを見て、裕はちょうどよかったとばかりに笑うとそのまま自分もベッドの上に上がってくる。
「ちょ、なんやねん・・・」
「今日いっしょに寝ようや」
そう言ってさっさと自分の枕を亮の枕の隣に置いて、ころんと転がってしまう。
亮は思わず目を白黒させてそれを見下ろした。
「え、マジで?」
「なんや、あかんの?」
「姉ちゃん、俺もう15やで・・・」
「ええやん。俺なんてもう18やで」
「や、それなんかちゃうから。むしろあかんやん。18と15の姉弟が一緒に寝るて」
「なにがあかんねん。ぐだぐだうるさいわ、亮」
「せやって・・・」
思わず言葉に詰まる。
亮にしてみれば、別に一緒に寝ることが本気で嫌なわけではない。
むしろ内心は嬉しい。
けれども、姉がそんなことを言い出すのはここ一年程なかった。
そしてそれは逆に、両親が亡くなってから半年間くらいに頻繁にあったことだ。
裕自身は「亮がさみしいやろうから」と言ってはそのベッドに入ってきたけれど、まだ幼い域を出なかった亮にとて判っていた。
それは言葉に出来ない裕の不安の表れだったのだ。
そしてここ一年程なかったそれが今また始まったということは、何を意味するのか。
「・・・しゃあないな。姉ちゃんはよ大人にならなあかんで」
亮は敢えて呆れたようにそう言うと、裕の隣に転がって掛け布団を上からかける。
まだ二人とも子供とは言え、一つのベッドに二人が寝るのは思う以上に狭い。
だから裕はもそもそと亮の方にくっついては肩口に頭を寄せ、くすくすと笑った。
「なんやこいつー。えっらそうな口たたきよるなぁ!亮ちゃんかわいないわぁ」
「もう俺15や。かわいなくて当然や」
「いやや。亮はかわええのがええ」
「わがまま言うなや」
「亮は俺のかわええ弟やの」
「ったくもう・・・」
そんな風に幼い仕草でしがみついてこられると、一体どちらが上なのか判らなくなる。
けれども亮にとってはそれは嬉しくもあった。
そう感じられるのはこんな時だけだからだ。
自分は常に絶対的に姉に守られていると、亮はそう思っていたから。
「亮あったかいなー」
「そらさっき風呂入ったばっかやから」
「ゆたんぽみたいや」
「そういう姉ちゃんは身体冷えとるやん。風呂入った後ちゃんと暖かくせんから」
「せやから一緒に寝るんやんか」
「俺はゆたんぽなん」
「せやからそうや言うてるやん」
あったかい、あったかい。亮、あったかい。
舌足らずにそう繰り返しながら弟の身体にぎゅっと両腕を廻して頬を肩口にすり寄せてくる。
少しだけ苦しいしくすぐったくもあったけれど、亮はそれを好きにさせてやった。
きっと世間一般の基準からすれば自分達は少しスキンシップが過多な姉弟なのだろう。
大層仲の良い姉弟に見えるのだろう。
事実仲は良い。
けれどもここまでになったのは、やはり両親が亡くなってからだ。
無条件で絶対的な庇護を失った子供が二人だけで生きていくのは、物理的にも精神的にもかなりの困難を伴った。
両親が亡くなった時、裕は若干16歳ながら全ての手続きを一人で行った。
判らないものは全て自分で調べて自分で訊いて。
両親の遺産目当ての親戚連中や病院関係者には適当に金はくれてやるから自分達に関わるなと、そう言い放って。
全てを一人で終わらせた。
そこには普段のいい加減でめんどくさがりな姉の姿などどこにもなかった。
当時13歳だった亮は裕よりももっと幼かったけれど、その姿を忘れることは一生ないだろう。
そして全ての手続きを終え、この家で二人きりで暮らしていけると決まったその夜。
その時初めて、やはり今と同じように一緒に寝ようとやってきたのだ。
「んー・・・ねむたくなってきた・・・」
「寝りゃええやん」
「おまえもはよ寝ろよー。寝る子は育つねんて」
「・・・育っとるし。ちゃんと」
「おん。亮はきっともうすぐえらい男前になるでー・・・」
「さっきかわええ方がええ言うてたやん」
「ええねん・・・かわええ男前になりゃええねん・・・」
「姉ちゃんそれよくばりすぎや。無理やて」
「むりちゃう・・・がんばれよー・・・」
「そら頑張るけど・・・」
「がんばれー・・・」
「おん・・・」
と、亮はそこで言葉を切る。
暫くそのままじっと黙っていると、自分にしがみついた姉からは安らかな寝息が聞こえてきた。
自分の方に預けられた頭を更にそうっと懐の方にやって、布団を肩まで引き上げてやる。
そして自分からもやんわりと両手を回した。
「・・・あ」
少しだけ驚く。
こんなのは久々だったから感じる変化は顕著だった。
依然よりも姉の身体が小さく感じられたのだ。
それはもちろん亮が成長したということなのだが、まさかこんなに実感する程だとは思わなかった。
たとえば幼馴染みの忠義は亮以上に凄まじい勢いで成長していっているせいもあって、亮は自分がさほど大きくなっているようには感じていなかったのだ。
けれどもこうしていれば判る。
未だ身長は亮の方が低いけれど、やはり男と女の身体つきの違いは大きい。
昔こそ女の子のように可愛いと言われていた亮とて自分で言うようにもう15歳だ。
細いながらもそれは次第にちゃんと男のそれになってきている。
そして同時に、裕の身体は自身が普段散々痩せたいと言うのを後目に、やはり女特有の丸みを帯びてどこか頼りない。
すべすべと滑らかな白い肌は昔と変わらず染み一つとしてない。
けれどだからこそ余計に儚げに見える。
それらを妙に実感して、亮は思わず両腕に力を込めた。
『亮、これからはお姉ちゃんがおとんとおかんもやるからな。なんも心配せんでええねんで?』
そんな風に言って笑っては、ベッドに潜り込んできて自分を抱きしめた姉の姿。
あの時は随分と頼もしく思ったはずなのに。
どうしてか、今思い出すとそれはむしろ頼りなく痛々しく感じられてしまう。
だって、実際にはこんな頼りない身体でそんなことを。
自分が一番怖くて不安だったくせにそんなことを。
裕がこうして亮と一緒に眠るのは、亮を安心させる意味合い以上に、きっと自分が安心したいからだ。
亮は今になってそう強く感じていた。
そして両親のことが落ち着いてその必要がなくなってから一年、またこうしてやってきた意味。
裕が安心を求めてこうしてやってきたのだとすれば、逆に亮はそれに不安を覚えた。
一体何が、今その心を不安にさせるのだろう。
「もう、15やで。俺」
亮は安らかな白い寝顔を覗き込んで呟く。
「もう、一緒に寝るんやなくて、話してくれたって、ええやん・・・」
もう守られてばかりではないのに。
自分だって守りたいのに。
それは自分には言えないことなのか?
亮は言葉にはせず、内心だけで呟く。
「ん、・・・」
その拍子に裕が小さく身動いだ。
起こしてしまったかと亮が注意深く窺うのを後目に、閉じられた瞼は上がることはなく、その代わり柔らかな赤い唇がうっすらと開く。
それは小さな小さな、本当にただの寝言だった。
けれども亮は聞き逃さなかった。
「・・むら、・・・・・さん・・・」
ほとんど空気だけの部分すらあったけれども。
その唇の動きで判った。
初めて聞く名前。
そしてそれは亮の頭の中に確実に強くインプットされた。
むらかみ。
それは姉をこうして再び安心を求める程に不安にさせるもの。心乱すもの。
そしてそれは同時に、亮をも不安にさせた。
さっきぼんやりしていた姉の様子がその名前に直結する。
「誰やねん・・・」
ぎゅっとしがみつくようにより強く腕を回して目を閉じる。
亮は自分の中に、拗ねたような気にくわないようなイライラしたような、そんな子供じみた感情が渦巻くのを感じていた。
その名前はきっと姉の例の仕事に関わるものに違いない。
もう守られているばかりではない。
今度は守ってみせる。
亮は密かに決意した。
そいつの顔、今度拝ませてもらわなあかんな。
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