それは願いでなく










部屋のシャワーが壊れたから、貸して。

なんて、下手な口実ではあったけども。
ただ壊れたのは本当だし。
それでもシャワーに入りたかったのも本当だし。
でもそこまでする程のことでもなかった。

泊まってるホテルは一緒で、部屋も隣。
けれどさすがに隔てる壁は一枚でもそれなりに厚くて、なんとなく会いたくなる夜ってやつもあるもので。
毎日仕事で会っていて、今は言ってしまえば四六時中いるんだけど、それとはまた意味合いが違うと思う。
別にセックスだけがしたいわけではなくて、ただ触れたいなぁと思う瞬間。
でもそんなことを馬鹿正直に言えば照れ隠しの悪態をつかれるのが関の山だから一応、の口実。
もちろんそんなあからさまなものに騙されるような人じゃないけど、ばれるばれないはこの際どうでもいいことだった。
一緒にいるだけでも、なんて俺も結構健気なやつやな。

「・・・えー、寝てるし」

でもこの場合は一緒にいるだけでも、には当てはまらない気がした。
確かに部屋に入れて貰った時も既に随分と重そうな瞼を擦って間延びした声をさせてはいたけれども。
まさか自分がシャワーに入っている間にもうベッドの上だとは思わなかった。

「ちょお、横山くん。横山くんー」

さすがにこれではつまらない。
その身体が転がったベッドサイドに腰掛けて声をかける。
横山くんは俯せになった状態で顔を枕元に伏せて寝転がっている。
見るからにとても寝にくそうな体勢。
そもそも苦しくないんかな。

「ねぇ」
「・・・なんやねんなぁ」
「あ、起きてた」
「おまえうるさい。入ったんならさっさと部屋帰れや」
「うわなにそのつれへんの。冷たい」
「俺ねむたいのー・・・」

もぞもぞと身動いで小さく欠伸。
確かに声も随分微睡んでいて判るけども。
しかも顔を伏せて転がるその体勢は、この人が寝る時にいつもしているスタイルだ。
寝にくそうとは思うものの、いつものことでもあるからさすがに慣れはした。

「横山くんお風呂は?」
「とっくに入った」
「もう寝るん?」
「せやからねむたい言うてるやろが・・・」
「早いなぁ」
「もーつかれてんねん・・・おっさんやからしんどいねん」

顔を伏せているせいで少しだけくぐもった声。
この人はいつもこうして眠る。
頑なに、顔を見せないように眠る。
どうしてだろうと思ったことはあるけど訊いたことはない。
望んだ答えが返ってくるとは思えなかったから。

「ふわぁ・・・も、ねる・・・。おまえも部屋帰り・・・」

そうして顔を伏せたままで声が段々小さくなっていく。
その姿はこんな関係になってからはよりいっそう多く見るようになった。
だからそうしていれば、ああ、眠るんだ、寝ているんだ、と反射的に思うようにもなった。

けれど俺は同時にこうも思う。
あんまりにも頑なにその顔を隠すようにして眠るから。
見せてはならないものがそこにあるかのようにそうするから。
眠っているんだと、当然のように思う俺の思考の何処か隅っこで違うものがふと過ぎることがある。

顔を隠すのは、泣いているからなんじゃないか。

馬鹿げた想像かもしれない。
今の会話から考えてますますそんなことはありえないと思うのが当然なのに、それを判っていながらも。
どうしてそんなことを思うのか。
そんなところを実際に見たわけでもないのに。

そう、見たことなんてない。
この人が泣いているところないんて、俺は見たことがなかった。
だからこそそんな馬鹿げた想像をしてしまうのかもしれない。
それは他の人ならあるんだろうか。
たとえば誰よりつき合いの長い村上くんやすばるくんなら。
でもそれは俺の知るところではないけれど、たぶんないだろうと変な確信みたいなものがあった。

すべすべした柔らかそうな白い頬。
その丸みのある輪郭を辿るように透明な滴が静かに伝う様はきっと、とても綺麗だろうに。
同時に幼子のように無垢過ぎていっそ痛々しいかもしれないけれど。
見たことがないからこそ想像してみる。
ただどうせ想像なんてしたところでまるで意味はない。

泣きたくないから泣かないのか。
泣きたくとも泣けないのか。
・・・もしかしたら涙なんて出ないとか。
たまに妙に人間味のないところがある人だから、と。
ありえないことを想像してみる。
そう、ありえないことではある。
泣いたことのない人間なんていない。
だからこそ思うんだ。
じゃあこの人は一体いつどこで泣くんだろう。
もしも本当に誰も見たことがないのなら、独りで泣いているんだろうか。

独りでいるのは嫌いなくせに。
心を許した人間といつだって一緒にいたいと思うくせに。
誰一人として失いたくないとその少し丸まった背中が常に言っているくせに。

でもそれは決して矛盾ではないのかもしれない。
みんなといる時は、まるで何一つとして一人では出来ないように見える、このどうしようもない幼稚性を抱えた不器用な人だけど。
もしかしたら独りの時は存外に器用なのかもしれない、と最近思う。
だってこんなに不器用なのに、誰かいなければ物さえ憶えられないのに、物さえ忘れてしまうのに。
何一つとして持たずに行ってしまうのに、そんなにもどうしようもないのに、そのくせ人に頼ろうとしない。
あくまでも見かねた誰かが手を差し伸べようとするだけで。
そしてそれをまるで待っていたかのように受け入れるだけで。
この人は本当は、誰の手も必要とはしていないんじゃないだろうか。
仮定するなら、本当に必要なのはそれは厳密には誰かの手ではなく、より大きな自分の手。
でもそれはなんだか哀しい想像だったからすぐに頭の奥でうち消した。

人の心の中を勝手に想像するのは悪趣味だろうけど、気になるんだからしょうがない。
だって見せてはくれないから。
見せたくないというのならしょうがないけど。
見たいと願うことは少なくとも俺の勝手だ。

願いとわがままはなんだか似ているとふと思った。


「よこやまくん」
「・・・」
「ねぇよこやまくん」
「・・・うるさい」
「ゆうちん」
「なんでまだそこおんの」
「ねぇ」
「も、ほんまにねむいの。俺ねむたいの」
「俺も眠たいです」
「ほんなら自分の部屋帰ってねりゃええやん・・・」
「一緒に寝ましょうよ」
「・・・いやじゃぼけ」

枕元に伏せた顔が僅かに動いて髪がぱさりと流れる。
その白い手がふらりと泳いで、緩慢な動作でシーツの上を這う。
確かに眠いんだろう、その動き。
けれどなんだかその動きだけ見ていると、同時に熱を帯びたあの潤んだ瞳も思い出してしまう。
言ったら耳朶を染めてしばかれるだろうから言わないけど。
・・・ああ、泣いたところなら見たことがあった。
今思い出した。
俺の下で微かに弱ったような甘い声で悪態をつく時。
内包したその色香みたいなものを滲ませて濡れた儚い鳴き声を漏らす時。
その淡い色の切れ長の瞳は確かに滴で煙っているんだった。
そういえばそんな時だってこの人は頑なにそれを隠そうとする。
熱にほんのり染まって色づいた身体でなおそんな仕草を見せる。
そんな姿を見られるのはたぶん俺だけなんだろうから、そう考えればこの人の泣いた顔を見たことがあるのは俺だけ。

でもそれだけ。
セックスの時だけでも泣き顔が見られるのならいいだろうか。
それともセックスの時だけなら、泣き顔なんていっそ見ない方がいいだろうか。

そもそも俺はそんなにこの人の泣き顔を見たいんだろうか。
別にそんな嗜好はないと思う。
ただ泣くという行為がイコールそれ程に心痛む状況なのだとしたら、それを誰にも見せずにいるのは辛くはないのだろうかと思うだけ。
でも本当に誰も必要としない人なのだとしたら、辛くはないのかもしれない。

だからただの俺の願い。
俺のわがまま。

「ねぇ」
「・・・せやからいつまでおんねん、おまえ」
「一緒に寝ましょうよ」
「寝ぇへんわ。も、おまえがおるとほんまに眠れへんから自分の部屋帰れって・・・」

顔は伏せたまま鬱陶しげにガリガリと手で髪をかく仕草を、ぼんやり上から眺める。
ふわんと舞った茶混じりの黒髪にふと指先で触れたら随分と柔らかかった。
初めて触れるでもないのに妙に胸がじわりとなるのはどうしてだろう。
この人はいつだって俺にそんなわけのわからない衝動を突きつける。
触れた髪のついでみたいに、その髪から覗く耳朶に触れた。
反射的に竦む身体。
けれど伏せた顔は上がらない。

「じゃあ今夜は寝かさへん・・・とかどうですか」

返ってきたのは身動ぐ身体の僅かな振動と、微睡んだような幼げな声。

「なにおまえ・・・も、めっちゃさぶい」
「俺、言うてなかったですけど、」
「なにぃ・・・」
「一人やと眠れへんの」
「・・・めっちゃ初耳やぞ」
「初めて言うたし」
「ごっつ後付設定やん・・・」
「今日からそうなりました」
「しゃあしゃあと言いよんな。つっこむ気も起きひん・・・」

呆れたような声。
同時にもぞもぞと動いた身体は更に緩慢な動作でシーツの上を泳ぐ。
俺が耳朶からやんわり手を離して肩の辺りに触れると、それを合図にしたみたいに猫背を丸めてしまう。
小さくもない身体をそうする様は傍目からすると少し滑稽で、同時にその丸まった背中がどこか寂しくもある。

「ほんまにねむたい・・・」

丸まった身体で幼げな声で。
そうやって眠る人は寂しがりなのだと、誰が言った言葉だっただろう。
でもそんなの知ってる。
寂しがりなことなんて知ってる。
だけど誰の手も求めないこの人。
それは決して矛盾してはいない。
だからこの人は誰かの前で泣かない。
俺の前で泣かない。

「せからねぇ、一緒に寝ましょうって」
「せやからてどっからつながってんの」
「抱き枕でええですから」
「なにがええねん。ようないわ」
「なんもしませんから」
「・・・めっちゃいややなそのセリフ」
「なんでですか」
「なんやされるんビビっとるみたいやんけ」
「ビビってるんですか?」
「誰がじゃ」
「ほんならええやんか」
「・・・あー、めんどくさい。もーどうでもええ」
「めっちゃ適当や」

そう言いつつ自分の身体を横たえて、目の前にある丸まった背中にやんわり両手を廻す。
予想通り柔らかな感触を返したその身体は、特におののくでもなく大人しくされるがままだ。
僅かにしか見えなくなってしまった貝殻のような耳がほんのり染まったことも、やはり予想通り。
次いで呟かれた台詞すらも。

「ほんまごっつさぶい・・・」

見せてくれなくても判ることは沢山ある。
知っていることも沢山ある。

見せてくれないものはそのままでもいい。
ただそれでもこうして傍にいれば、たとえこの仮定が正解でも間違いでも、俺の願いという名のわがままは叶えられるかもしれないから。

廻した両腕に力を込めて、囁く。
それはただ白をほんのり赤く染めるだけのものでいい。

「寒いんですか?大丈夫?」
「・・・さりげなく身体を密着させんな。そのまんまサカんなよ」
「したいならしますけど」
「せーへんわ。ねむたい言うてるやん」
「ほんなら寝ましょ」
「むしろ俺がねれんのかこれ・・・。意外とデリケートやねんぞ・・・」
「じゃあ俺の夢見るかもしれませんね」
「俺の夢の中にまで登場せんでええわぼけ・・・」

抱きしめた身体は小さくもないのに細くもないのに、どうしてこんなにも儚げなんだろう。
だからこそこんなことを思うのかもしれない。

「・・・よこやまくん?」
「んー・・・」
「ダイエット、頑張りましょうか」
「・・・なんでこの体勢で言うねん。そもそもなんでおまえに言われなあかんねん。はらたつ」
「お互い様やからええやんか」
「ごっついややわぼけ・・・」

抱きしめた柔らかな身体に手の力を込めるだけでいい。
ただこうしているだけでいい。
もしも独りで泣こうとしているとしても、そうでなかったとしても。
ただこうしてあなたにこの熱で存在を伝えられたらそれで。

「・・・おおくら」
「ん?」
「なんでこっち来たん」
「言うたでしょ。一人じゃ眠れへんからって」
「・・・はよ一人で眠れるようになれよ」
「がんばります」
「・・・」

その枕元に伏せられていた顔が廻した俺の腕にことんと置かれる。

独りでも生きていける人。
それでも独りにしたくない人。

俺の前で泣いて欲しいなんて言わない。
でも独りで泣くとしたらその時に、たとえ欠片みたいなちっぽけなものでもいいからその世界に俺を見つければいい。

願いなんてこの人には届かないのは知ってる。
だけどわがままなら聞いてくれますか。










END






空さんちの大倉誕企画に寄稿させていただいた倉横です。
なんかこれまた微妙な上に暗くてあれですけど。
大倉はなんとなく一番あの白い子の闇の部分も客観的に見られる気がする。
そしていい意味で自己犠牲精神もなければ同情もないというイメージ。
(200.6.24)






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