8.約束の呪文










玄関の扉を開けるとそこは真っ暗で誰もいなかった。
今日両親と弟が不在であることは初めから判っていたから驚きはしない。
村上は荷物を一旦玄関に置くと、壁に手を探るように這わせながら電気のスイッチを入れ、明かりが灯ると再び荷物を持ち靴を脱いで上がった。

台所に行って適当に荷物を放り投げ、そのまま冷蔵庫を開ける。
するとすぐそこに並んでいた父の缶ビールが目に入った。
確かにいつもあるそれだけれど、さほど気に留めたことなどなかった。
いつもならばさっさとその脇のポカリスエットを手にしているからだ。
村上は日頃メンバーなどから散々おっさんだと連呼されているが、それはあくまでも話し方や言葉遣い、あとは飲みの席での絡み方くらいなもので、実際生活様式までもがおっさんと言う程ではない・・・と、少なくとも村上本人は思っていた。
だから帰ったらまずビール、なんていう行動様式は村上にはなかった。
酒は飲めないわけではないが取り立てて大好きというわけでもない。
それはあくまでもメンバーや友達、または先輩や仕事のお偉いさん方と言った他の人間との食事の席における嗜み程度のものでしかなかった。
けれど村上は暫し冷蔵庫の扉を開けたままじっとその缶を見つめ、一瞬手に取ろうとした。
指先に触れた冷たく硬質な缶の感触はいつもとは違うものだ。
それを何だか妙に実感して、村上は結局最終的にはいつも通りその横にあるポカリスエットのペットボトルを手に取った。
やけ酒、なんてガラじゃない。

ペットボトルに直接口を付けながら、適当に居間のテレビをつけた。
バラエティ、ニュース、野球中継、次々にチャンネルを廻していき、結局はいつも時間が合えば見ているサッカー番組に落ち着く。
画面には今話題の日本代表特集が流れている。
ポカリスエットの爽やかな甘みと冷たさを喉に流し込みながら、暫くその場に突っ立ったままでじっと画面を眺めた。
どうやら村上が注目していた選手が次の試合で出場するらしい。
少し安定性に欠けるけれども、その代わりここぞという時の爆発力を秘めた選手。
そう村上が少し興奮気味に語ったら、とても嫌そうに顔を顰めて「知るか、あつっくるしい」とうんざりしていたあの顔がぼんやりと脳裏に浮かんだ。

「・・・」

村上は小さく息を吐き出すと、まだ三分の一程度しか減っていないペットボトルをそのまま居間のテーブルに置いて洗面所に向かった。
顔を洗おうと洗面台の鏡の前に立つ。
そこには当たり前ながらいつもと変わりない自分の顔がある。
それに村上は何だか少し満足したように笑った。
自分自身に向けて、笑ってみせた。
けれどそこに漏れたのは思うよりも疲れたような小さな呟きだった。

「・・・辛気くさ」

一気に蛇口を捻ると勢いよく水が溢れ出す。
両手で受け止めるようにしながら顔を水に浸して洗う。
ざばざばと音を立てて自分の顔を濡らすその感覚が気持ちよかった。
でもどうせなら風呂に入ってしまえば良かったのかもしれない。
今この身を内側から苛む言いようもない衝動など、この程度では所詮どうにもならないのだ。

やはりどうせなら大倉やすばると鳥鍋を食べてくれば良かっただろうか。
一人でいるとロクなことを考えないから。
けれどすばるにあの場で知られてしまった以上、あのまま一緒に行ってもあの鋭い大きな瞳が何もなかったことにさせてくれるはずもなかっただろう。
それを考えればやはりあの場は断って正解だった。
そしてまた、今日家族が皆不在であることもまた幸運と言えた。
村上は自分の性格や性質や状況をよく判っていた。
だからこそ今だけはどうしたって繕いきれないだろうことも理解していた。
一人でいるのが一番良い。
きっとまた明日にはまたいつもの自分に戻れる。
そこに今日までとは確実に違う関係になった二人を見たとしても、変わらぬ自分を見せられる。

そうだ。
二人は上手く行っただろうか?
自分の言った言葉が効いたのか、それとも彼の中で何らかの変化があったのか。
何かを吹っ切ったように覚悟を決めた顔をしていた錦戸だったから、恐らくは大丈夫だろうと思う。
これ以上何かこじれることもないだろう。
横山の優柔不断ぶりと往生際の悪さは村上もよく知っているところだけれど、そこはあの錦戸ならばきちんと捕まえることが出来ただろう。
あの一途で真っ直ぐな瞳で横山の閉じた心を開かせて、その細い両腕できつく抱きしめて。
横山もまた、消えない傷と隠しきれない恋情を奥に湛えた淡い色の瞳で錦戸をじっと見つめて、遠慮がちでもその白い手を応えるように伸ばして。
そうして物語はハッピーエンドを迎える。

そう、物語の最後はハッピーエンドでなければならない。
たとえ途中にどんなに辛いエピソードがあっても、主人公とヒロインがすれ違い引き裂かれても。
最終的にはそこには大団円とも呼べるべき結末がなければ。
それはもう随分と昔から村上には判っていたことだったし、そうでなければならないと思ってきた。
そしてまた自分も、その大団円の中で主役二人の幸せを祝福する脇役であるべきで。
たとえばこれが二人を不幸に陥れようとした悪役であれば、二人の間を引っかき回すだけ引っかき回して、最後は華々しく、また同時に惨めに散る道もある。
けれど村上は悪役にはなりたくなかった。そうはなれなかった。
それは単純な話だった。
村上自身が、横山を大事にしたかったからだ。
たとえ愛されなかったとしても。
それでも大事にしたかったから。大事だったから。
悪役にはなれなかった。
だから村上の役所はこれしかなかった。
きっとこの物語を客観的に見ることの出来る人間がいれば、悪役などよりいっそ滑稽に見えただろう、この役。


「はぁ・・・」

蛇口を捻って水を止めた。
ポタポタと水の滴る顔を下の排水溝に向けて俯けたまま右手を横に伸ばしてタオルを手に取る。
柔らかな風合いの白いそれで顔を拭く前に、もう一度目の前の鏡に顔を上げる。
当然びしょびしょに濡れた自分の顔はどうにも酷いものだった。
メンバーからは冗談交じりでブサイクと言われる顔が更に酷いものになっている。
ファンの子からありがたくも可愛いと言ってもらう笑顔だってそこには最早微塵もなかった。

「・・・」

鏡の中に映る自分を見て思わず笑ってしまった。
けれどその笑顔は最早笑顔と呼べるものではなくて。
自嘲気味な、乾いた、惨めなそれ。

ああ、酷い。
本当に酷い。
村上はおかしくてしょうがなかった。
笑えはしなかったけれど、おかしくてしょうがない。
村上は人並み以上に聡い人間だったし、自分のことをよく判っていた。
けれど案外、それも判ったつもりなだけだったのかもしれない。
それは一つの驕りとも言えただろうか。

自己犠牲のつもりなどさらさらなかった。
そんな崇高で高潔な精神の持ち主のつもりはなかった。
ただ自分が大事なもの、守りたいもののためにしたことだった。
あの諦めを宿した哀しい瞳を、そのくせ頼りなく伸ばされる白い手を、愛するもののために自ら傷つく道を選んだあの稚い心を、守りたかった。
そうあの幼い日に誓った。
その来るべき終わりを予感し、それに苦しむ自分を思い描き、たとえ本音では望まぬことだとしても覚悟はしていた。できていた。
けれど。

タオルは手にしたまま。
村上は濡れた顔を拭くこともなく、その場にしゃがみこんで俯く。
ぽたりぽたりと滴が頬から顎を伝って床に落ちる。

村上には判らなかった。
今自分が感じているこの感情が。

あの白い手を離したことを、今更後悔しているだなんて。

村上には判らなかった。
こんなにも愚かしい自分を、笑えばいいのか、それとも泣けばいいのか。
それすらも、もう判らなかった。
もう自嘲すら出来ない。



その時玄関のチャイムが鳴った。
村上は我に返ったようにハッとしてすぐさま立ち上がる。
一体誰だろう。
もう深夜にさしかかろうかという時間だ。
家族は誰もいないことだし、無視してやろうかと一瞬考える。
けれどもう一度鳴ったチャイムに小さく息を吐き出すと、手にしたタオルで無造作に顔を拭って玄関に向かった。


「どなたですか?」

扉向こうの相手に呼びかける。
正直あまり出たい気分ではなかったし、こんな時間にやってくる人間はあまり良い訪問者ではない気がした。
そしてそれは実際に、今の村上にとってみれば確かにある意味そうとも言えた。

『・・・・・・おれ』

たったその一言。
けれど村上にはそれで判ってしまった。
判らないはずがなかった。
そしてだからこそ、咄嗟に固まってしまって反応が遅れた。

『おれ。・・・横山』

扉向こうの声からは感情が読み取りにくい。
一体どういうつもりで来たのか。
一体何をしに来たのか。
・・・錦戸はどうしたのか。

村上に横山を拒む理由など何一つとしてない。
けれどいつものように何の躊躇いもなく扉を開け、そして笑顔で出迎えて手を引いてやることは今は厳しかった。
せめて、これが明日なら。
小さく眉根を寄せつつも、村上は至っていつも通りの明るい声を扉向こうに向けた。

「おー、ヨコ?どないしたん?」
『・・・なぁ、』
「うん?何か忘れ物か?」
『なぁ、・・・ここ、開けてくれへんの?』

横山は少しだけ落ちたトーンで、妙に静かにそう言った。
一瞬、もしやまた錦戸と何かこじれたのだろうかと思った。
それで落ち込んで相談に来たのかと。
けれど何となくそれも違う気がした。
扉を隔てているからその表情は見えず、判るのは声の調子だけだけれど。
それだけでも様子が判る程度には一緒にいたし、誰よりも近くにいた自負はある。
だからこそ村上には判らなかった。
その手を離し、あの手に連れていかれ、きっとそのまま彼とのハッピーエンドを迎えたはずの横山が。
何故、今?

「・・・んー、どないしたん?」
『せやから・・・開けてほしいねんけど』
「あんなぁ、今何時やと思ってんねん。もうはよ帰って寝なさいあんたは」
『・・・なんやねん。いつもは入れてくれるやんか。なんでだめなん』
「子供みたいなわがまま言わんの」
『そんなんおまえのせいや』
「なんでですの」
『おまえが甘やかすからやんけ』
「・・・甘やかされてることは自覚済みやねんな、一応。判ってんなら、なおさらちゃんとして。そろそろ大人としてやな、」
『開けてくれへんの?』

何故、今、今更、そんな頼るような声を向ける?

「・・・あのね、横山さん」

扉を挟んで一体自分達は何をしているのか。
これは一体どういう展開なのか。
村上は扉向こうの横山と話しながら考える。
確かにまたもや錦戸と何かこじれたというのなら、いくらでも相談に乗ってやるし、また背中を押してやる気はあるけれど。

「亮は?亮はどないしたん?・・・一緒におったんとちゃうの?」

確かめるべく訊いてみれば、横山はそのまま沈黙した。
ああやっぱりまたこじれたんか・・・全く世話の焼ける、と村上がため息混じりで言おうとした時。
その言葉よりも僅かに早く、小さく呟く声が村上の耳に届いた。

『・・・俺は、おまえに会いに、きたん』
「え・・・?」

それはどういう意味なのか。
言葉だけとればそのままの台詞でしかない。
村上の問いに答えてはいない。
けれど同時に、何だかそれは随分と重大なものな気がして。
村上は小さく息を飲み込んで扉向こうに意識を集中させながら窺った。

『ヒナ、』
「うん・・・?」
『ここ、開けてや』
「・・・・・・」
『なぁ』
「・・・なんで?」
『なんで、て・・・』
「亮がおるやん」
『・・・でも、』
「えっとな、ヨコ・・・」

扉向こうで横山が戸惑っているのを感じる。
どう説明すればいいのか、どんな言葉を向ければいいのか迷っているような。
けれどそれを思いやり受け止めてやるには、今は村上にだって余裕が足りない。

そして何より、村上は今内心恐れていた。
まさかさっきの今で来るとは思わなかったのだ。
だから予想だにしていなかった、こんなこと。
この扉一枚隔てた向こうに横山がいる。
その扉を村上が今開けようとしないのは、余裕がない自分のため、そして何より横山のためでもあった。
村上は恐れた。
この状況を、そして今の自分を。

「・・・・・・悪いけど、今日は帰って」

このままじゃ、横山に酷いことをしてしまいそうだから。

「ほんま悪いけど、」
『・・・』
「ちょっとな、調子悪いねん。せやから・・・話ならまた明日にでも聞くし」

一体何があってやってきたのか気にはなるし、話を聞いてはやりたいけれど。
今ここに横山を迎え入れることはイコール、折角のハッピーエンドを壊してしまうことに他ならない気がした。
今の自分を満たす感情の波が横山をどうにかしてしまいそうで怖かった。
折角今まで大事にしてきたのに。
たとえ自分のものにならなくても、大事にしたまま終わらせたはずだったのに。

村上には今さっき判った。
納得なんて本当はしていない。
満足なんて本当はしていない。
だって自分は愛した人を、その手を、みすみす自ら手放してしまった。
そして愚かしくもそれを悔やむ自分は、きっと今そこに再びその白い手が現れたら。
きっと。
全て、壊してしまう。

「せやからな、・・・今日は帰り?」

明日からはちゃんとする。
いつもの自分に戻る。絶対に。
笑顔で二人の相談にだって乗ってやれるような、そんな聞き上手の仲間になる。
だから、せめて今日だけは。

けれどそんな村上の思いを知ってか知らずか、横山はそれでも繰り返す。

『ひな、開けて』
「ヨコ・・・」
『おねがい、やから』

どうして?
卑怯過ぎる。
村上はぎゅっと眉根を寄せた。
そんな頼りない声で。
こっちの庇護欲をどうしようもなく刺激する声で。
それは確かに愛しくてしょうがないものだけれど。
だからこそいけない。
今はそんな声を自分に向けてはいけない。
そんなのは、もうあいつに向けるべきものなはずなのに。

そっとドアノブを握る。
開ける気なんかないのに。
開けてはいけないのに。
握った手がうっすらと汗をかく。
小さく震えている気すらする。

「ヨコ・・・もう、帰り・・・」
『いやや』
「俺の言うこと、聞けへんの?」
『きけへん』
「・・・侯隆」
『きけへん・・・ききたくあらへん・・・』
「侯隆」
『・・・』

少し声を荒げることだってもう辞さない。
それに無言ながら小さく気圧された気配を感じたけれど。
これで帰ってくれるならばそれに越したことはない。
ここで絆されて、開けてしまったら。
もう自分が何をするか村上には判らなかった。
それは今までの自分と彼を、そしてこれからの彼の幸せを、全て壊してしまうことのような気がした。

「なぁ、ほんま頼むから今日は帰って?・・・そうでないと、俺はお前に酷いことしてまうかもしれへん」

けれど横山はいつだって村上に頼り、甘え、そして困らせる。
実際にはそれこそが村上に手を伸ばさせた愛しさの塊であったのだけれども。
それはここへきても変わらなかった。
甘く舌足らずな声は扉向こうでやはり少し頼りなげに、同時に妙にきっぱりと言った。

『・・・ええよ』

息を飲む声が向こうにも伝わってしまったかもしれない。
ドアノブを掴んだ手が震えたのもまたしかり。

『そんなん、望むところやわ。いくらでもすればええやん。・・・ひどいことでも、なんでも』
「お前、なに言うてんの・・・?」
『・・・ひどいこと、してもええから。開けてや』
「アホか・・・っ」

何故だ。
折角ここまで物語は進んだのに。
ハッピーエンドを迎えたはずなのに。
何故いまさら、それを壊させようとするのか。
エンディング後の波乱なんて物語には必要ない。
その後のどんでん返しなんてありえない。
なのに何故、いまさらそんな煽るようなことを言うのか。
今の自分ならば容易く悪役にだってなれると言うのに。
村上は戦慄く自身をその場に押さえ込むので必死だった。

けれど横山はそれでも繰り返した。
横山自身もうそれしか選択肢がなかったから、ただただ、繰り返した。

『ひどいことしてええから。・・・開けて』
「・・・っ」

人並み以上には理性強い人間だと思っていた。
もちろん理性だけの人間ではないことも当然自覚していたから気をつけてきた。
底にある本能に理性が食い尽くされてしまうことのないようにと。
けれどいくら自分だけが気をつけたって駄目だ。
相手から理性を突き崩されてしまったら。
村上にだってもうどうにも出来なかった。

震える右手はドアノブを勢い良く引いた。
開いたドアの向こうにいたその姿が視界に飛び込んでくるや否や、ドアノブから離した手で代わりにまるで攫うみたいにその白い手を引いて。
そのまま中に引っ張り込むとすぐさま扉を閉め、そこにその身体を強引に押しつけた。
勢いがつきすぎてまるで背中から叩きつけるみたいになってしまう。
事実横山は一瞬痛そうに息を詰まらせて反射的に目を瞑った。
村上はその姿を可哀相だと思った。
同時にやはり、・・・愛しいと思った。

「・・・なんで?」

腕と肩を掴んで扉に横山の身体を押さえつけた村上は、小さく呟くようにそれだけ言った。
横山はうっすら目を開けるとそこにあった村上の顔を無言で凝視する。
今の村上の表情は何だか子供みたいだと思った。
どうしようもない感情を持てあまして困惑する子供。
あまり普段は見られない表情だと思った。
少なくとも自分よりは余程しっかりしていて大人だったから。
こんなにも長いこと一緒にいたのにそれでも知らないことはまだまだあるのだと、横山はぼんやりと思った。

「お前、何してんねん・・・」

大きく息を吐き出しながら、村上はただ強ばったようにそう呟く。
その声も表情も横山にはやはりあまり慣れない代物で、内心少し緊張する。
押さえつけられた部分が妙に熱い。
確かに村上の手は普通より体温が高いようだからそれはよく判っていたのだけれど。

「ん・・・遅くに悪いかな、とは思ってんけど、」
「そういう意味やあらへんよ」
「・・・家族は?」
「両親は旅行、弟は部活の合宿」
「そか」
「ヨコ」
「それならまぁ、・・・」
「ヨコ。ちゃんと答えなさい」
「・・・」

同い年だというのにまるで大人が子供に言い聞かせるような口調は村上の特長だった。
だからそれは珍しくもないのだけれど。
今の様子は何だか少し違う、と横山は思った。
それは何だか今の自分を必死に押さえ込むために必要な言いぐさのようで。

「・・・ちゃんと言うわ。せやから、おまえもちゃんと聞けよ」

押さえつけるその手を振り払うこともなく、横山はただじっと目の前の顔を見つめた。
村上は未だ困惑の色をそこに浮かべつつも小さく頷いた。

「さっき、錦戸と色々話してきてんけど」
「ああ・・・」
「・・・ちゃんと、伝えてきた」
「・・・・・・そか」
「すきやったて、ちゃんと言うた」
「・・・・・・」
「そんで、キスされた」
「・・・・・・」

どういう報告だ。
ちゃんと答えるって結局そういうことを言いに来たのか。
今時親にそんなことを報告する子供はいないし、友達にだってそこまで細かく言う必要はないだろう。
よしんば報告するにしても、村上の中に親でもない友達でもない感情が未だ燻っている以上、それは思う以上にきつい。
思わず薄く笑ってしまった。

「よかったやん。おめでと」
「・・・よかった?」
「よかったやん。やってお前ら、ようやく想いが通じ合ったわけやし。これで俺も一安心やね」
「・・・そか。まぁ確かに、よかったんかも」
「ほんまにな」
「よかったんやろな。・・・最後の最後に、気づけて」

横山は掴まれたのとは逆の手で自分の唇に何気なく触れる。

「・・・亮とは、どうもならんかった」
「え・・・?」
「すきやったて言ったら、過去形なんすね、て返されたわ」
「なに・・・そら、どういう・・・」
「なにて、そのまんま。俺の気持ちは過去形やったんやって」
「ちょ、待てや。何アホなこと言うてんの?」
「あほて言うなや。・・・せやからまんまやって」
「過去形?んなわけないやん。やってお前は・・・」
「・・・好きやで。好きやったわ、ほんま」
「知っとるわ・・・せやから、」
「でも、それでも、どうもならんかってん」
「うそやろ・・・」

村上には横山の言葉の意味が判らなかった。
主人公とヒロインはずっと長いことすれ違い、色々な苦しみを経て最後は結ばれるはずだったのに。
そんなハッピーエンドは訪れなかった?
どうして?
・・・過去形?

「お前、あんなに亮のこと好きやったやん。せやからあんなに苦しんできたんやろ?」
「せやな。自分でもそう思ってたわ」
「なら、なんでや」
「・・・なんでやと思う?」
「そら俺が訊いてんねん。ちゃんと答え」
「・・・なんや、随分今日は余裕ないねんな」

ふっと小さく笑われた。
それは決して人の悪い笑みではなかったけれど、村上は内心苛立った。
下手に曖昧な言葉を聞かされたら決意が揺らいでしまいそうだったから。

「・・・ヨコ?」

村上は肩を押さえつけていた手を離し、代わりに白い顎を掬うように当てた。
優しい調子で、けれど底に冷たいものを滲ませて。
努めてそう呟いた言葉は恐らく今まで横山に向けたことなどない代物。

「俺には最初から余裕なんてあらへんねんで。・・・ほんまに酷いことされたい?」

村上は友達、メンバー、そして中でも特に横山とすばるには格別に優しかった。
それは大事な人間は何よりも優しくしたいという至極単純な理由からだった。
ただ逆に、そうでない人間には村上はいっそ見事なくらいに淡泊でもあった。
どうでもいい人間に冷たくすることなど村上はどうも思わない。
そんなある種の冷たさを、村上は敢えて僅かに滲ませた。
けれど横山はそれに気圧されることもなく、小さくこくんと頷いただけだった。

「・・・されたいとまでは言わんけど、してもええで」
「お前、アホやわ・・・」
「ああそうかもな。ようおまえに言われるよな。失礼な話やで」
「・・・なんで、来た」

本当は酷いことなんてしたくない。
だって大事なんだ。
誰より大事で、・・・今でも好きなのだから。
そんな横山に酷いことなんて本当はしたくないに決まっている。
そんなのは脅しでしかないのに。
そしてその脅しは、早くこんな奴の元から離れろと、そういう意味なのに。
自分が悪役になってしまう前に。
早く離れて欲しかったのに。

自らの赤く艶やかな唇に緩慢に触れていたその白い指が不意に村上に伸びて、頬に触れた。

「・・・俺、あかんかってん」

唐突なその言葉はその白い指先を僅かに震わせる。

「おまえやないと、あかんかってん・・・」

村上はただ無言で、掴んだ横山の右手にぎゅうっと力を込める。
痛い程のそれに横山は僅かに眉根を寄せつつも、小さく俯きがちに続けた。
それは酷く自分勝手で身勝手で、都合のいい言い分だ。
自分だけが苦しめばいいなんて自己犠牲的な考えをする一方で、結局は錦戸も村上も巻き込むだけ巻き込んで傷つけた。
それは酷く苦しい現実。
けれどその痛みを噛み締めながらも、横山は足掻いた。
きっと初めて足掻いた。
そして藻掻いた。
その温かい手をもう一度確かめたかった。
ずっと長いこと諦めばかりの中で生きてきた横山が、初めて離したくないと強く思った。
きっとそれこそが答えだ。

「ごめん、ごめん・・・。おれ結局、だめで、おまえおらんと、あかんくて・・・」
「・・・・・・」
「ずっと知らんふりしておまえに甘えてきたし、錦戸も結局傷つけて泣かせてもーたし・・・」
「・・・・・・」
「ほんましょーもない奴やて思うわ・・・。けど、ようやくわかったから、ちゃんと言わなあかんて思って・・・おれ、」

辿々しく何処か弱い呟き。
村上はそれでもずっと無言だった。

怖い、横山はそう思った。
確かに村上は自分を想ってくれていた、それは確かだった。
こんな自分をずっと大事に、優しく、何よりも大切にしてくれた。
けれどだからと言って今更その手を取り戻せるとは限らないのだ。
一度離されたというのは、そういうことだ。

「・・・いまさら好きやとか、そういうん、都合よすぎやわ、て思うけど・・・けど、」

俯いた先の見慣れた床が僅かにぼやける。
今泣く気はない。
そんなのは余計なものでしかない。
だからぐっと堪えた。
けれど堪えたことで、逆にその言葉の語尾はどうしようもなくか弱く震えた。

「ひな、・・・おれは、おまえと一緒に、おりたい」

一緒にいたい。
ずっと一緒にいたい。
至極単純明快な気持ち。

今までずっと一緒にいた。
けれどその大事さも、大切さも、本当は判っていなかったから。
一番近くにいたのに、身体も心もずっと傍にいたのに。
そのくせすれ違っていたのは近くにい過ぎたせいなんだろうか。
一度失ってようやく気付く、なんて。
それはまるでチープなドラマのようで、どれだけ愚かなのかと嫌気が差すけれど。
もう躊躇いも戸惑いも、弱さ故の諦めも、後悔も、それに縛られていたら二度と取り戻せない手だと判ったから。

「一緒に、おりたい・・・。せやから俺を、離すなよ・・・っ」

最後は完全に涙声だった。
押さえきれなかった。
だってそれこそが横山の心の奥底からの叫びだったから。

そして、その涙を滲ませた語尾は村上の唇に強引に吸い込まれた。

「んっ・・・?ぅ、ふ・・・っ」

思わず顔を上げてその表情を窺おうとするけれど、あまりにも強引で翻弄するみたいな、何より余裕の欠片もない口づけは横山にそれを許さなかった。
顎が震えて瞼を開けていることもままならない。
舌が滑り込んできて絡め取られる感覚、呼気すらも奪われて肺を圧迫される感覚。
それらは今まで一度たりとも経験したことのないもので、横山はまるで大きな波に攫われるみたいな感覚でただ翻弄された。
そして震えは段々と顎から肩、腕、やがては下半身にも伝わって。
膝が震えて立っていることすらままならなくなる。

「・・・ぁ、・・・う、ひ・な・・・ぁっ」

僅かに空いた隙間から呼吸の代わりにそう漏らすけれど、その濡れた声はすぐさま奪い取られるようにして唇に飲み込まれて。
代わりに与えられた唾液の絡むような濡れた音に耳から犯されて。
ついに横山はガクンと膝を崩し、背後の扉伝いにずるずると崩れ落ちる。
そこでようやく唇が離れた。
横山は白い頬を紅潮させ、淡い色彩の瞳を潤ませながら、必死で奪われた酸素を取り戻すように浅く呼吸している。
村上はそれに合わせるようにしゃがみこみ、熱くなった白い頬を両手で包むようにして上げさせる。
未だ力が戻っていないからされるがままの横山は、ぼんやりと霞んだ視界に村上を映した。
見上げた顔は何かを我慢しているみたいに強ばっていた。
そして同時に、何度も何度も、何かを確かめるみたいにまじまじと横山を見つめた。

「・・・夢や、あらへんよな」
「ひ、な・・・」
「俺な、最近色々昔の夢とかな、ぎょうさん見とってん。
せやからな、これもその続きみたいな感覚やねんな・・・」
「ちゃうわあほ・・・夢でたまるか・・・あほっ」
「アホはお前やわ。・・・今更過ぎや」
「・・・そんなん、自分が一番ようわかってるわ。でもしゃあないやん・・・」
「何がしゃあないねん」
「しゃあないやんけっ。・・・ずっと亮のこと好きやった。好きやってん」
「そら知っとるわっ。痛いくらい・・・そんなん」

そうだ。
横山と錦戸は確かに運命の相手同士だった。
お互いに出逢った時から惹かれ合っていた。
その想いの強さをまざまざと見せつけられていたからこそ、村上はこの役割を選んだ。
それなら横山を幸せに出来る。
それなら横山を守れる。
それなら、たとえこの想いが叶わぬとしても、横山の傍にいられる。
だからこそ全ての痛みを飲み込んでここまで来たのだ。

「なんで亮のとこ、行かんかってん・・・。折角、お前・・・」
「行くつもりやった。そのつもりでさっき着いてった。
せやけど、そのはずやのに、あいつに言われていまさらわかって、おまえやないとあかんて、思ってもーてん。
おまえがおらんと俺はだめで、・・・もうおまえやないとあかんくなっててん。・・・もう、あかんねん、おれ」

村上はその辿々しい一言一言を噛み締める。
お姫様は王子様と結ばれるのがセオリーのはずなのに。
そうでなければこれは夢でしかないはずなのに。
これは現実だと、その柔らかで甘い唇はそう言っているのだ。

「・・・・・・アホやね、ほんまにヨコは」
「あほや、どうせ・・・」
「アホやわ・・・」
「しっとる・・・」
「あんなに亮のこと好きやったくせに、俺を選ぶなんて、な・・・」
「・・・・・・ひな?」
「アホな子や・・・」
「ひな・・・」

地べたにみっともなく座り込んだ自分を上から見下ろしてくるその、顔。
横山は堪らず手を伸ばして頬に触れた。
撫でるように触れた。
その顔を見上げた横山の顔が濡れた。
そして次々と濡れていく。
村上はそれを見てふっと小さく笑った。

「何泣いてんの、ヨコ」
「・・・あほ」
「あんま泣きすぎると干からびるで?」
「あほっ。ちゃうわっ。俺やないやろっ・・・」

横山は泣きそうに顔を歪めた。
そしてその顔は未だ濡れ続けている。
けれど横山は泣いていない。
涙は確かにその淡い瞳に滲んではいたけれど。
今泣いているのは、横山ではなくて。

「俺やないわっ・・・おまえやんか・・・」

ぽたり、ぽたり。
滴がひとつ、またひとつと落ちる。
横山の紅潮した白い頬を濡らしていく。
それは横山のすぐ上から雨のように降ってくる。
横山は両手を伸ばして首筋に絡ませると、唇を寄せた。
いつだって笑っていた、自分を安心させてくれた、その昔と変わらず今でも愛らしい瞳から溢れる滴を舌で拭う。
まるで猫がするように次々と舐めとる。

「泣いてるんは、おまえやんか・・・」

その舌に拭われる感覚で、ようやく村上は気付いた。
こんな濡れた感覚は久しぶり過ぎて判らなかった。

「ああ・・・なんや・・・俺かぁ・・・。うわ、止まらんわ・・・」

自覚すればなお溢れてくる。
ボロボロとこぼれ落ちる涙は、まるで涙腺が壊れてしまったように止まらなかった。

「なんやろコレ。びっくりやわ・・・」
「あほか。・・・おまえなんか、昔はもっとぎょーさん泣いとったやんけ」
「・・・ああ、せやね。せやったわ」

昔、遠い昔、その頃はもっともっと泣いていた。
横山やすばるなどよりも余程泣いていた。
辛いことがあると、苦しいことがあると、それは嬉しいことでも、その度に泣いていた。
そうして感情をさらけ出していたはずだったのに。
一体いつからだっただろう。
泣かなくなって。
それはいつしか笑顔で封じ込められるようになった。

「はは・・・うれし泣きて奴なんかな、これ・・・」
「しょうもな。・・・ブサイクが余計ブサイクになるで」
「そらしゃあないわ。綺麗になんて、人は泣けへんねん」
「・・・ごめんな」
「ん・・・?」
「知ってたわ。おまえが泣けんくなったんは、俺のせいやて」

自分が泣くから。
自分が頼るから。
自分が甘えるから。
自分が依存するから。
だから、村上はもう泣けなくなってしまったのだ。

「ん・・・でも、また泣かされたなぁ。お前に」

村上は未だこぼれる涙はそのままに、床に膝をついて横山を両腕で包むように抱きしめた。
遠慮なしの強い力で、まるで軋むくらいにきつく。
それに少しの苦しさと余りある程の幸福を与えるその手は、本当に温かかった。
横山はきゅ、と村上の服の裾を掴む。
その感触に村上はますます強く腕を回す。
首筋を金の髪がサラリとくすぐった。
ちゅ、と耳朶に唇を寄せて触れればぴくんと小さく反応するから、それがまた愛しくて。
村上の手の力は強まる一方で。
さすがに苦しそうにもぞもぞと身動ぎしながら、横山はくぐもった声で呟く。

「くるしいわ・・・ちょお、もう・・・」
「・・・しゃあない。少し我慢しとき」
「んー・・・んー・・・」
「ヨコは柔らかいなぁ、ほんまに・・・」
「・・・最近痩せた」
「ほんでも柔らかい。ずっと柔らかいまんまやね。もう離せへんかも」
「・・・離すなよ」
「離せ言われても離さんわ」

ずっと近くにいた。
ずっと一緒にいた。
けれどずっとずっと、遠回りしてすれ違ってきた。
だからようやく掴んだその手を、その温もりを、もう二度と離さぬように。

いっぱい言おう。
たくさん言おう。
今まで言わなかった分。
言えなかった分。

その言葉は今なら言っても許される。
その五文字が今なら言える。
言いたい。
言いたかった。
きっとその白い頬をまた染めるだろう言葉。
この柔らかな身体を両腕に抱きしめた今なら、喜んで言おう。

村上は浅黒い手でゆるりとその金色の髪をかき上げて、耳朶に唇を寄せた。
また口づけられるのかと横山は軽くくすぐったそうに肩を竦める。
それにふ、と表情だけで愛しげに笑んで。
唇は白い耳元でその五文字を形取った。

それはこれからずっと一緒にいるための、約束の呪文。

「ヨコ、     」

呪縛から解放された愛の言葉、全て君に捧げよう。










END






ようやくの最終回ですっ。
もー最後は難産だった・・・。めっちゃ時間かかった。
書くことは決まってたのに色々と試行錯誤。最後て難しいね。
村上さんについて考えすぎて知恵熱出そうになった(笑)。
でもとりあえずここまで書けて一安心というか、満足しています。
みなさんにどう読んで貰えるかはちょっと最終回だけにドキドキですけども(笑)。
ひとまずこの「愛してるなんて言わない」シリーズ(最後に決めた)もこれにて終了です。
もしかしたらアフターストーリー的なものを書くかもしれませんが、ひとまずはこれにて。
約二ヶ月のお付き合いありがとうございました!
(2005.8.17)






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