螺旋階段










すっかり手に馴染んでしまった合鍵で、出来る限り静かに扉を開けた。
それはまるで泥棒に入るかのような慎重さ。
けれどそれは毎度のことでもある。

扉を開けると、横山はフラフラとおぼつかない足取りを何とか支えながら中に上がった。
アルコールでだいぶ火照った頬を右手で冷ますようにさする。
自分でも判るくらいに吐息が酒気を帯びていて自然と顔を顰めてしまうけれど、今更どうしようもない。
既に時刻は深夜だというのに、視界の先にある部屋からは未だ明かりが漏れていた。
それに一瞬足を止める。
もう何度も何度も、言ってしまえば毎回のようにあることだというのに、横山はやはり今日も何となく重い気分だった。
やっぱり帰ろうかと今日も思った。
けれどすぐさま諦めたように緩慢な動作で今日もおずおずと部屋に入った。

深夜の一室。
その中ですらまるで太陽のような笑顔に横山は今日も出迎えられた。

「ヨコ、おかえり」

眩しいくらいに明るくて、爽やかで、可愛らしいと評判のその笑顔。
けれども真夜中に見るそれを横山はいつも直視できなかった。
今日もまた一瞬それに眉根を寄せて、すぐさまそこから逸らした。
しかしそんな横山を気にした様子もなく、村上は眩しいまでの笑顔を浮かべたままにゆっくりと自然な動作で横山に近づく。
そして大人が子供にするような仕草でやんわりと顔を覗き込んだ。

「おかえり」

まるで返答を促すように重ねてかけられたその言葉に、横山は視線は逸らしたままに小さく呟いて応えた。

「・・・ただいま」

その言葉は本来ならば間違っている。
ここは横山の家ではない。
村上の家だ。
そして二人は何も同棲しているわけでもなく。
おかえりも、ただいまも、本来ならば適した言葉ではなかった。
けれど深夜のこの部屋で村上が一人横山を待ち、横山は決まって酔った状態でやってくる。
その時交わされる言葉は二人の間では確かに、おかえりで、ただいまで、それはいつしか暗黙の決まりのようになっていた。

「遅かったなぁ?」
「ん・・・」
「だいぶ飲んだん?顔、赤いで?」
「・・・」
「ヨコはほんま色白いから、飲むとよう判るなぁ」

なんだか楽しそうにそう言いながら、村上は観察するようにその紅潮した顔を覗き込んで見つめる。
その視線を痛いくらいに感じていながら横山はそれでも視線を合わせようとはしない。
けれども逆に、視線を逸らすだけでそれ以上は何もしなかった。
村上はそれに気をよくしたように小さく笑って手を伸ばすとするりと横山の顎を取る。
逸らされた視線はそれでも合わされることはなかったけれども、その感触にもただ小さく肩で反応するだけで特に抵抗はない。
アルコールのせいか常よりも僅かに温度の高い滑らかな肌の感触を確かめるように、村上のしっかりとした指が頬から顎先をゆるゆると撫でるように滑る。

「今日は誰に遊んで貰ったん?」

耳元で何でもないことのように問う。
けれども横山は毎回の質問に毎回躊躇しては、その柔らかでぽってりとした唇を戦かせるように緩慢に動かすだけだ。
毎度のことながら・・・と村上はおかしく思う。
訊くことは同じだというのに、何故そうなのだろう。
その色づいた蠱惑的な唇をまるで誘うように震わせるだけ。
・・・いや、本当に誘っているんだろうか?
村上は冗談めいてそう思いながら掴んだ顎を軽く引き寄せると、何気なくスッと唇を合わせた。

「っ・・・」

それに反射的に目を閉じたけれど、それ以外横山は特に驚いた様子もなくそれを受ける。
すぐさま離れた唇はそれでもうっすら濡れて薄暗い照明に光る。
村上はそれに目を細めながらもう一度訊ねた。

「今日は、誰に遊んで貰ったん?」
「・・・・・・おお、くら」
「おー、たっちょんかぁ。また美味しいもん沢山食べさせて貰ったん?」

ゆるゆると頬を撫でながら穏やかに優しげにかけられる言葉は、まるで子供にするというよりか、最早犬猫にするものに近かった。
自分の飼っている猫に対して頭や顎下を撫でながら言うような。
外に出ている間誰にどんなおやつを貰ってきたのかと、そう上から問いかけるような。

判りきっていたことだ。
けれども今日をそれを実感させられて、横山は堪らずぎゅっと眉根を寄せると村上をまるで睨むように見た。

「・・・おまえ、最悪や」

けれど低く罵るようなその言葉すらも村上にしてみれば、どうにも必死で虚勢を張っているようにしか見えず。
事実そう言いながらもこの体勢に抵抗する様子すらない横山に何を恐れろと言うのか。
村上は愛しげにくすくすと笑うともう一度触れるだけで口づけた。
まるで機嫌を悪くした猫を宥めるような気軽さで。

「なに、ご機嫌斜めやねぇ?」

あくまでも優しいその口調に、けれど横山の表情はますます強ばって、いっそ泣きそうに歪む。
愚かしいことをしているのは自分だ。
確かに自分だ。
けれどもそれに眉一つ動かさないこの男が、横山は解らないし、いっそ恐ろしかった。

「おま、え、・・・なんで?」
「なんでて?なにが?」
「・・・俺、今日、大倉と、・・・キスした」
「へぇ?」

今日の成果を聞いている程度の頷き。
そこには依然として笑みが浮かんでいたし、欠片ほどのいらつきも見えない。
横山は繰り返し小声で呟いてみるしかなかった。
それに何の効果もないことなどとうに判っていたのだけれど。

「キス、した・・・」
「そうなん。あいつ上手かった?」
「それは、・・・」
「ま、どっちでもええけど」
「・・・っ」

本当にどうでもよさげなその言葉。
今日もやっぱり意味などなかった。
横山は堪らず顎を取るその手を振り払うと、無言で背を背けて寝室に飛び込んだ。

何もかも放り出すみたいにベッドに俯せに転がる。
どうしようもなく惨めで愚かで悔しくて、怖くて、・・・そのくせどうしてか確かに存在する目を逸らせない安堵感が混在した感情。
それらを持て余しながら横山は整えられた白いシーツをぎゅっと握りしめた。
けれどもその行動とて所詮は拗ねた挙げ句に誘っている程度にしか見えないのだ。
追うという表現すらそぐわない、続いてゆっくりと寝室に入ってきては楽しげにやんわりと笑むこの男には。

「よーこ、どしたん?」

俯せになったまま、ただよりきつくシーツを握りしめるだけの横山の元に歩み寄ると、村上はベッドサイドに静かに腰掛ける。
白いシーツに散らばった薄金茶の髪をさりげなく指で弄ぶように触れ、そっと身を屈めると耳元で宥めるように囁く。

「可愛いなぁ。やきもちでも妬いて欲しいん?」
「・・・おまえは、なんでなん」
「ん?」

横山には判らない。
その手の優しさ、その言葉の優しさ、その笑顔の優しさ。
その全てが横山には優しくて、甘くて、包み込むようですらあるのに。
どうして自分に何も言わないのだろう。
毎晩のように違う男と遊んで帰ってくる自分に何も言わないのだろう。
あてつけのようなその行動を諫めることもしないのだろう。

「なんで、」
「やったらお前こそなんで?」

上から覆い被さるように身体を押さえつけられながら囁かれた言葉のトーンが、少し低かったような気がして。
横山は反射的に身を強ばらせる。
けれどもすぐさまそれは穏やかなものに戻ってしまった。

「ってな、そういうことになるやん?
なんで、て訊いてまうとな、答えが必要になってくるやん。せやからお互い訊かんとこ?」
「や、や・・・」
「ん・・・?なに?」
「ヒナ、なんでおこらんの・・・」
「せやから訊いたらあかん、て言うてるのに。しゃあないなぁ・・・」

くぐもった声にも降ってくるのはただただ優しい手の感触と、欠片も揺らぐことのない絶対的な言葉。

「やってヨコは、それでも俺やないとあかんやろ?」

それは横山にとって唯一絶対の言葉。
逆らう術などありはしない。
ただそこには真実しかない言葉。
横山は最早反論する気も起きなかった。

あまりにも優しくて。
あまりにも甘くて。
あまりにも大切にしてくれて。
その全てを何でも受け入れて、許してくれたから。
ちょっと動揺させてやろうと思っただけだった。
最初はそんな悪戯心でしかなかった。
そうして相手の想いの強さを計ってみたいと。
こんなにも誰かから愛されたことなんてなかったから、それなのに今更こんなにも愛されてしまったから。
・・・きっと根底にある怯えがそうさせた。
けれどそれは逆に横山に思い知らせただけだった。
村上の愛の形は自分とはまるで違うのだと。
そしてそれを思い知っても自分がどれだけ村上に溺れているのかということを。

横山がたとえ他の誰と何をしようとも、村上は決して動揺などしなかった。
自分の注いだ愛情が正しく横山の全てを満たしていることを理解していたからだ。
普段どれだけ横暴な態度をとられても、悪態をつかれても、何をされても。
結局横山が自分しか見えていないとを判っているからだ。
自分がいなければ最早息も出来ないと判っているからだ。
たとえ誰の元に行こうとも、結局最後は自分の元に戻ってくると知っているからだ。
そうなるように、長い年月をかけてし向けてきた。
だからこそむしろ横山の行動は村上にその事実を実感させただけのことで。
愛しくこそあれ、怒るようなことなど何もありはしない。
決して横山には理解出来ない思考形態。
けれど村上にはごく自然なことでしかない。
たとえようもない程に愛して、愛して、そして愛されていることを自覚しているからこそ、この上もない程の愛を注げる。

「好きやで?ヨコ。・・・お前もそうやんな?」

疑問系であっても所詮疑問などではない。
確認でしかない。
その証拠に、村上が覆い被さりながら白いうなじに緩く舌を這わせても、ぴくんと小さく反応するだけで僅かに身体をずらすこともしない。
結局ただその熱に身を委ねるだけ。
疑う余地などありもしないのだ。
もしも言えるとすれば・・・他の手に触れられた分は自分が触れておかないと気が済まない、そのくらいだろうか。
村上は小さく笑うと薄金茶の髪をかき上げて耳朶に口づける。

「ま、やきもちくらいは妬くから安心し?・・・された分は、それ以上沢山キスしたるから」
「っ、ん、・・・ひな」

俯せになった体勢から僅かに顔をずらされると、半分だけ覗いた切れ長の瞳が潤んでいた。
この場所で、しかもアルコールで紅潮した頬とも相まって、それはまさに続きをねだっているように見えた。
村上はそれに愛しげに笑いかけ、ゆるりと髪を撫でる。
ほら、こんな愛に飢えた様子で自分を見つめる瞳に愛されていることを、どうしたら疑えるのか。
そう。
疑うことこそが終焉の引き金であることを村上は知っている。
だから疑わない。

「ヨコ」
「・・・」

僅か視線だけでゆるりと見上げられる。
その切れ長の瞳の奥にはいつだって安堵と不安とが入り交じっている。
村上にはそれごと愛しい。
自分の存在一つでその全てを左右されてしまう程の、いつまで経っても稚い魂。
きっとこういう存在こそが天然の魔性という奴なんだろうと思う。
こいつは俺がいないと駄目なんだと、相手にそう勘違いさせる。
実際には愛に飢えた魂は稚く愛おしいと同時に貪欲で油断ならない代物だと村上は判っているのだけれども。
だからこそ、その愛を与えて飢えの渇きを満たす相手が自分でなければならないようにし向けた。

「他の奴んとこ行きたい?」

訊いたわけではない。
確認しただけだ。
そしてそれは自分ではなく、相手に確認させただけ。
白い顔は視線を落としながらも緩くふるふると頭を振る。

「いやや・・・」
「ええこやね、ヨコは」

よくできました、とばかりに頭を撫でてくるしっかりした手。
横山は愛されていることを確認して安堵すると同時にやはり実感した。
自分達はいつの間にか、それは思えば最初からかもしれないけれど、もう取り返しのつかないところに来てしまったのだと。

「ヒナ、」
「ん?」
「・・・おまえ、は?」
「俺もヨコがええで?ヨコのこと好き。ヨコだけ愛しとるで」
「・・・」

こんなにも優しく、こんなにも甘くて、こんなにも大切にしてくれる。
いつだって深く愛を囁いてくれる恋人。
不満など持つべきではないのかもしれない。
ここまでしても、試すような愚かなことをしても、それでもこうしてこれ以上ない愛情を注いでくれる相手に。

ここに来ると、その手に触れられると、その笑顔に見つめられると。
横山は外で感じている恐れも不安も、そして確かな違和感も、全てがうやむやにされてしまうことを判っていたけれど。
結局はその甘い手に、唇に、言葉に、落とされてしまう。
頭の奥では酷く冷静にそれを実感しながらも。
そうやって甘い毒に犯されることを既に身体で憶えてしまっている。
支配されることを心地良く感じてしまっている。

村上はうっすらと笑んでそれはそれは愛おしげに口づける。
自分しか見えていない可愛い飼い猫のような恋人が、自分の気持ちを確かめるためだけにする些細な行動など所詮「おいた」程度のものでしかない。
本当に恐れるべきものがあるとしたら、そんなものではない。

もう戻れないのかもしれない、横山はそう思う。
もう戻る気なんてない、村上はそう思う。
戻るべき場所などもうここからは見えはしないのだから。

「・・・ヨコ、今日はいっぱいしよか?」
「おん・・・」

最早ただ従順に頷いてこくんと喉を鳴らす様に村上はただ優しく頭を撫でる。
その手が本当に優しくて、愛しくて、優しくて、優しすぎるから。
だからだろうか。
横山の、未だ伏せられた片方の瞳が、ひっそりとシーツを濡らしたのは。

愛しすぎたから、だろうか。










END






はーい来ましたよ問題作が!(また)
先日のレコメンでユウユウが村上さんに傷つけられた傷心旅行とか言ってあてつけで大倉と旅行行くとか言い出すから。
村上さんたらそれに超余裕顔で「慰めたるで?」とか言い出すから。
そんなこんなでうっかり生まれてしまいました問題作。村上さんが何やら怖い。
そしてうちのユウユウは村上さんに溺れ過ぎています。怖い。
今回はあの二人の強すぎる関係が負に働いてしまったバージョンというかなんというか。
これもある意味幸せと言えば幸せなのかもしれないというかなんというか。
(2005.10.4)






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