泡沫 10










「あの日のこと、忘れたことなんて一日だってなかったわ」

横山の襟首を掴み上げたままに、大倉は低く囁くように言う。
その長身に見下ろされ、薄暗い中に僅かに灯る街灯の明かりによって翳った大倉の暗い表情の先にいる横山は、まるで捕食者の前の獲物同然だった。
刺激しないようにと至極大人しくしていながらも横山は何とか今の状況を打開する術を頭の中で必死に考える。
こんな所で足止めされている間にもいつ何時彼らに発見されるとも知れないのだ。
いっそのこと大倉と彼らを鉢合わせて何とか出来ないだろうか、とも一瞬考える。
けれどそれはまるで漫画のように都合のいい展開でしかなく、あまりにも非現実的で考えたことさえ無駄だったと思わされる。
結局今のこの現状においての最善策は、やはり大倉から何とか逃れて表通りに出るしかなかった。
この際謝ってもいい。土下座したっていい。
今更プライドなんてものはありはしない。そんなものあったら生きて来れなかった。
ただそんなことをして相手の気が済むかと言えば、それは望み薄と言わざるを得なかったけれど。

「・・・大倉、さん」
「・・・なに?」
「何を、お望みですか?」

相変わらず首を圧迫されたままで苦しい体勢ながら、横山は何とか絞り出すように答えた。
少しだけ演技を交えて怯えた様子を滲ませながら。
大倉はそれをどう思ったのか、その変わらない表情では正直判らない。
ただ一瞬の沈黙が降りて。
それから穏やかな作りのその顔が僅かに歪んだ。

「・・・何、て?」

ぽつりと呟かれた言葉。
けれど動きのないそれとは裏腹に、大倉は襟首を掴み上げたまま横山の身体をそのまま引きずるようにして横の壁に叩きつけた。
瞬間、背中に受けた強い衝撃。
一瞬肺が圧迫されて息が詰まる。

「・・・ッ!」
「そんなん、一つしかないわ」
「ぐ、・・・っ」

壁に叩きつけられた身体はやはり逃げることなど到底許されず。
ようやく襟首を離されたかと思いきや、今度はその手で喉元を思い切り押さえつけられた。
さっきよりもっと直接的に喉を圧迫される感覚に息さえもままならなくなる。
空気を求めてひゅうっと喉の奥が音を立てるのが判った。

「・・・すばるを返せ」

それはとても空虚で切なくて悲しい響きだった。
横山にもそれは何となく理解出来た。

どんなに深い悲しみもいずれ時が癒してくれるのだと言う。
けれどそんなのは綺麗事だ。
決して癒えない傷だってある。
どんなに年月が経ったって忘れ得ない悲しみだってある。
その涼しげな瞳が奥に湛えた深い怒りと悲しみと、慟哭。

「すばるを返せ・・・返せ・・・」
「・・っく、・・・」
「返せ・・・・・・返してくれ・・・」

その瞳は静かで深く暗い色を湛えて横山をじっと見据える。
それは今にも狂ってしまいそうな・・・いや、もしかしたらもう、静かに狂っていたのかもしれない。
大倉が渋谷を失ったその時に。
横山が大倉から渋谷を奪ったその時に。

人の人生を狂わせたことなんてこれが初めてではなかった。
けれどこんな間近でそれを見たのは初めてだったかもしれない。
いや、実際には今までは間近で見たって、その人生を狂わされた悲しみなど横山には所詮伝わりはしなかっただけのこと。

横山はその時初めて、ようやく初めて知った。
いや・・・思い出したのだ。
人一人の命とは、これほどまでに重いものなのだ、と。

我知らず自分の胸の辺りをぎゅっと掴む。
そこには何か小さな物の感触があった。
背広の内ポケットに入れられた小さな、何か。

首を押さえつけた大倉の手が少しだけ緩んだのに何とか呼吸を浅く繰り返しながら、横山は小さく呟いた。

「・・・・・・返して、あげましょうか?」
「え・・・?」

大倉はあからさまに怪訝そうな表情を見せる。
その瞳をじっと覗き込むようにして囁いた。
その声には何処か甘さが滴り、まるで花が香るようにふわりと響いた。

「あなたに、あなたの大事な人を。・・・今だけ、返してあげましょうか?」










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