6.魔女の呪い
遠くで幼い少女の声がした。
テラスで読書をしていたエミリアは視線を落としていた本から顔を上げ、辺りを見回す。
この声の持ち主は当然知っていた。
少女特有の鈴を鳴らしたようなその声は、エミリアが乳母として世話を任されている、ほんの数年前に生まれたばかりの王女のものだ。
『エミリア!エミリア〜!』
その声は時に近くなったかと思えばまた遠のく。
ひたすらに乳母を探して走り回っているようだった。
その切迫した様子にただならぬものを感じ、エミリアはすくっと立ち上がるとすぐさま声のする方に走った。
とは言えエミリアが着ている重いドレスではそれはなかなかままならないのだけれども。
それでも、毎日のように庭師が丁寧に手入れする花々を脇目に、ドレスの裾を翻しながらエミリアは声の主の元へと急いだ。
エミリアが姿を現すと、王女は大きな瞳を見開いて走り寄ってくる。
ぱたぱたとやってきたかと思うとエミリアのドレスにしがみつくように飛びついてきた。
小さいながら仕立ての良いドレスの裾がふわりと揺れる。
咄嗟にそれを受け止めながらそっとしゃがみこんで顔を覗き込んだ。
「マーガレット様・・・?いかがなさいましたか?」
「あのね、あのね、たいへんなのっ」
「大変・・・?」
「おにいさまとアントーニオがねっ」
「・・・二人がどうかしましたか?」
「たいへんなのっ」
「どう・・・大変なのですか?」
「えっと、えっと・・・」
焦っているせいなのか、幼さに輪をかけてどうにも要領を得ない説明。
エミリアはそれを落ち着けるように、その柔らかな頬を細い指先でそっと撫でるとうっすらと笑いかけてやる。
目が覚める程に美しいけれども笑うことなど皆無で常に鉄面皮を崩さない女性、それがエミリアに対する周りの印象だった。
けれども殊マーガレットに対してだけはエミリアもこうして時折笑顔を見せることがあった。
「マーガレット様、大丈夫です」
マーガレットはぱちぱちと目を瞬かせてこくんと頷く。
その鉄面皮から僅か覗かせる仄かな笑みは何処か優しげであり、マーガレットは内心それが好きだった。
もっと笑ったらいいのに、そうすればみんなもっとエミリアのことを好きになるのに。
幼心にそんなことを思ったりもした。
そうして少しだけ落ち着きを取り戻すと、マーガレットはエミリアのドレスの裾を小さな手できゅっと掴むと困ったように眉根を寄せた。
「あのね、おにいさまとアントーニオがね、けっとうだって!」
「けっとう・・・決闘?」
「そうなの。どっちがつよいかけっとうだ、って」
「・・・それはいつの話ですか?どこで?」
所詮子供のやることとは言え放っておくことなどできはしない。
今王女の口から出た二人はこの宮殿内でも国の将来を背負って立つと言われる大事な存在なのだ。
特に片方はいずれ王位を継承してこの国の全てをその手中にすべきと・・・・・・そう言われる人間。
「えと、ついさっき・・・バラ園のまえでね、アントーニオのほうからおにいさまに・・・」
「アントーニオから・・・?」
「おにいさまもね、どっちがつよいかきめよう、って・・・」
「・・・全く、何をしているのか」
思わず小さくため息をついた。
いかにまだ子供とは言え、二人とももう自我も目覚めて立派に物事は考えられるくらいの歳だ。
自分達の行動で周りにどんな影響があるのか、そのくらいは判るだろうに。
特にアントーニオには日頃から、僅かでも目を付けられるような行動は慎むようにと口酸っぱく言っておいたはずだ。
そして聡い我が子はその言葉に深く頷き、常に母の言いつけを守っていたというのに。
一体どうして急にそんな展開になったのかとエミリアは思わず小さく眉を寄せる。
クローディオ王子は先王亡き今、いずれ成人した暁には王位を継承してこの国の王となることが決まっている。
だから妹姫であるマーガレットと違い、専属の家庭教師や摂政などから帝王学を学んでいる最中だ。
そしてまたアントーニオも母が王女の乳母であり、また幼い時分から王子や王女とは乳兄弟のような関係であったことから、将来その右腕にと期待され王子と共に学ばせて貰っていた。
だからクローディオとアントーニオの仲は決して悪くない。
むしろ同じ年頃の同性がほとんどいないこの環境においてそれは友と言っても過言ではなかったはずだ。
境遇が境遇だけにそれは一般的な友と全く同じとは当然言えないし、エミリアが内心それに僅かに苦い思いをしていたとしても、だ。
「マーガレット様、共に薔薇園に参りましょうか」
エミリアはそう言ってマーガレットの小さな身体を抱え上げると、足早に二人の元へ向かった。
幼い瞳は白い手に抱えられながらそうっと窺うようにその顔を見上げ、僅かに表情を曇らせる。
その顔には既に笑みなどなく、ただ触れただけでひやりとしそうな冷たい鉄面皮があるだけだった。
エミリアはマーガレットの小さな手を握りながらも二人の少年の顔を思い浮かべる。
己が野望のためにクローディオ王子は邪魔だ。
そしてアントーニオは絶対に必要だ。
二人が友になることなどありえない。あってはならない。
そして今二人が争うようなこともまたあってはならないのだ。
まだそれは時期尚早と言うもの。
全てはエミリアの予定するところの中で、そして掌の上で起こらなければ。
二人とも自分の意に反するようなことをするべきではない。してはならない。
クローディオとアントーニオが互いに真に解り合うことなどこの先ありえない。
それはまるで、幼く無垢な魂二つに魔女が呪いをかけるように。
そうしてエミリアは未だ幼い二つの顔を、共に意志の強さを奥に秘めたその瞳を思い、努めて心を冷え切らせたのだった。
『お待ち下さい』
・・・そのはずだったのに。
頼りなく動きづらいドレスは自らに科した戒めでもある。
常に心に絶望を深く刻みつけ忘れぬためにするひとつの、それ。
それは白い身体を重く縛り付け、時には足下を絡め取ろうとすらする。
けれどもその言いようのない苦しさこそが昏き野望の原動力となる。
既に内側から蝕まれた身体を叱咤する力となる。
エミリアはそのドレスの長い裾を翻して二人の前に躍り出る。
銀色の髪がヴェールからキラキラと流れた。
いつだってそれだけは静かで高潔な光を湛えている。
二対の意志の強い瞳が同時にそれを見た。
一人は地べたに膝をつき、もう一人はそれに長剣の切っ先を突きつけ。
既に遠い昔、咲き乱れる薔薇の前にあったその光景。
それは今この豪奢な大広間でまさにもう一度繰り返されようとしていた。
同じことを繰り返す、それはやはり魔女の呪いなのか。
けれど魔女は自らにも呪いをかけた。
だからだろうか、魔女もやはり繰り返すのだ。
大剣を落とし膝をつくアントーニオと、それに長剣の切っ先を突きつけるクローディオ。
決着はついた。
それは奇しくもあの時と同じ。
やはり繰り返す呪い。
そしてやはりエミリアも繰り返した。
ドレスの裾を翻し、咄嗟に二人の間に割って入ったのだ。
「お待ち下さい」
エミリアは躊躇うことなくアントーニオと切っ先の間に自らの身体を滑り込ませると、ドレスが汚れるのも構わず両膝をつき、じっとクローディオの顔を見上げた。
背後からはアントーニオの驚愕に満ちた、狼狽えてすらいるような声がする。
「は、母上っ!?何をしてっ・・・危険ですから離れてください!母上!」
アントーニオの手がエミリアの肩にかかり、退かそうとする。
けれども腹を浅くではあるが切り裂かれたせいなのか力が入らないらしく、声もまた苦しげだ。
それを振り返ることもなく、エミリアはクローディオを見上げたまま呟くような声で言った。
「もう・・・よい・・・」
「はは、うえ・・・っ」
その頼りない母の声によってアントーニオは自らの敗北を否が応でも思い知られる。
負けてはいけなかったのに。
そう自分に言い聞かせて臨んだはずだったのに。
エミリアは今前を向いているからその表情は判らないが、アントーニオはきっと悔しそうな泣きそうな、そんな顔をしているのだろう、そう思った。
ああ、慰めてやらなければ。
抱きしめて頭を撫でてやらなければ。
父として母としてそんなことをぼんやりと思いながらも、エミリアは目の前で自分に切っ先を突きつけて真っ直ぐに見下ろしてくる瞳から目を逸らせないでいた。
「そのような必死な顔は久しぶりに見るな、エミリア」
「・・・そうでしょうか」
「ああ。私がギルデンスターンでいる間には見たことはなかった。十数年ぶりだ」
細い切っ先を突きつけるクローディオの瞳は静かで、けれども奥に言いようのない激しい炎を宿していた。
そこには、自分から国も幸せも何もかもを奪った者の姿は一体どう見えているのだろう。
かつて幼い時分に傍で過ごした時間、そして国を追われて味わった辛苦の時間、その二つはクローディオの中でどう混ざり合っているのか。
それはもうきっぱりと割り切ったことなのか。
もう昔のことなど過ぎ去った遠い過去でしかないのか。
けれども同じように繰り返された光景。
クローディオとアントーニオの決着は一瞬だったと言っていい。
それはほんの刹那のできごと。
激しい応酬の最中、ふとできた隙にどちらの剣先が先に触れたか、その程度の違い。
けれどまるでその妖精の悪戯みたいな一瞬で、さっきとは逆にクローディオはアントーニオに膝をつかせた。
「お前はあの時もこうして私とアントーニオを止めたのだったな」
あの時。
まだ幼かったクローディオとアントーニオが戯れに決闘などと言って薔薇園の前で相まみえた時、マーガレット姫に知らされて駆けつけたエミリアが咄嗟にとった行動は、奇しくも今と同じだった。
今と違ってそれは単なるおもちゃみたいな木刀だったけれども、勝負がついてクローディオがその切っ先をアントーニオに突きつけた時。
エミリアはその一瞬で腕からマーガレットを降ろし、二人の間に割って入るとそれを諫めたのだ。
「昔のこと過ぎて・・・生憎とよく憶えてはおりませんが」
まさかクローディオがその時のことを憶えているとは思わなかった。
そして今それを持ち出してくるとは。
彼の中でその時のことは今とどう繋がっているのか。
「そうか。憶えていないか」
静かに呟くクローディオが切っ先の角度を変える。
シャンデリアの光を弾いて刃がキラリと光る。
それは更に正しくエミリアの白い喉元に狙いを定めて突きつけられたのだ。
当のエミリアはそれに微動だにしなかったけれども、背後のアントーニオは自分が切っ先を突きつけられた時よりも余程狼狽えた声で叫んだ。
アントーニオにとってエミリアを失うことは世界の終わりを意味する。
「待てっ!止めろ!母上にはっ・・・」
「アントーニオ」
「母上!お止め下さい母上・・・!」
「もうよい。よいのだ。これで」
「ははうえっ・・・!」
この状況では余計にエミリアはアントーニオの方は振り返れない。
もしかしたら次の瞬間にはもう命はないかもしれないというのに。
顔を見て別れすら言えないとは悲しいことだと思う。
けれど自分には似合いの最期であるかもしれないとも思う。
エミリアのこの行動は本人にとっても、言ってしまえば半無意識の産物だったと言っていい。
二人が激しい応酬をしている最中こそ冷静に見ていたはずだったというのに。
クローディオの剣がアントーニオの腹を浅く薙いだ瞬間、気付けばエミリアは動いていた。
そしてエミリアは遠い昔の薔薇園でのできごとをやはりクローディオと同じく思い出していた。
アントーニオも、もしかしたらそうだったかもしれない。
痛みに顔を歪めて膝をついた息子の表情に一瞬浮かんだ驚きのような表情を、エミリアは見逃さなかった。
これはあの時と同じだと、そんな顔。
クインスはその瞬間に思い知らされた。
結局、抱いた野望も最初から潰える運命だったのかもしれない、と。
己が野望のために幼い二人に呪いをかけた・・・それは言ってしまえば、結局二人への執着でしかなかったのかもしれない。
絶望と恨みの中で生きてきた。
裏切られた愛情と裏返しにある闇の中で生きてきた。
けれどもそんなクインスにとってみれば、それは二つの光だった。
意味合いで言えば対照的な、けれどもどちらも闇を照らしその先を示す光。
自分を絶望の淵に陥れた男の忘れ形見と、自分を絶望の淵から救ってくれた息子。
どれだけの昏い野望を胸に秘めながらも、結局その光を失うことに言いようのない恐れを抱いてしまったのならば。
それは結局最初から結末など見えていたも同然だ。
クローディオは静かに続ける。
彼には既に判っていたのだろうか。
それとも彼にも今判ったのだろうか。
「お前はあの時私とアントーニオの間に入って言ったのだ、エミリア。
このようなことで、私とアントーニオのどちらを失っても、自分は悲しい、と」
既に十数年前から結末など見えていた。
先王が死に、それから数年で権力を増していき。
それでも、まだ幼いと言って差し支えないクローディオを国から追い出すだけで殺すことができなかったのは、そういうことだったのだろう。
「私はあの時のお前が演技をしていたとは思わぬ。・・・どうしてだろうな、思いたくなかったのだ。そして、今も」
依然として突きつけた長剣は微動だにさせず。
クローディオはじっと真っ直ぐにエミリアを見下ろす。
エミリアはそれにうっすらと目を細める。
あの時はまだまだ小さかった太陽の光はもうこんなにも眩いものとなった。
「答えて貰うぞエミリア。・・・お前はそもそも、何者だ?」
それはクローディオにとってずっと謎だったことだ。
そして先王との最後の約束にもあったこと。
自分がまだ幼い時に妹の乳母としてやってきた正体不明の女。
昔も今も変わらぬ冷たい美貌を湛えた顔。
この女にクローディオの人生は狂わされ、そしてこの国は揺るがされた。
きっとアセンズの歴史に残るであろう魔女は、けれども今見下ろすクローディオの目には随分と儚げで頼りなく見える。
最後に縋っていたものすらも自ら諦めて捨ててしまったかのような。
傷を負った息子を背に庇い、自分を一心に見上げてくる瞳の奥。
そこには何が見えているのだろう。
「・・・・・・」
エミリアは一端目を伏せると、長剣の切っ先を恐れもせずにすくっと立ち上がる。
それにクローディオは微動だにしなかったけれども、周りで固唾を呑んで見守っていたシートンやアルバニーなどは自らの剣を構え直し注意深く窺う。
既にこの状況でエミリアやアントーニオに勝機はないだろうが、何せ今まで国を牛耳ってきた親子だ、何をするか判らない、と周囲は未だ緊張感に包まれていた。
そんな中でエミリアはまずその白い手で頭を覆うヴェールを一気に取り去る。
肩には届かないくらいの長さの銀色の髪がサラリと流れ、シャンデリアの光をキラキラと弾いて美しい。
周囲からは声こそなかったけれども皆一様に息を飲んだようだった。
若き摂政アントーニオの母君はいつまでも変わらず傾国とも言える美しさを湛えている、とは宮殿内は誰しも囁いていたことだ。
けれどもいつでもその分厚いヴェールに覆われた顔をまともに見た者は誰もいなかったから、今まさに何も遮る物なく晒された素顔はこの状況下においても周囲の視線を釘付けるに十分だった。
そして驚きは何もそれだけのものではなかった。
続いてまた躊躇なく自らのドレスに手をかけたエミリアは、それを手で掴むと無造作に引き裂くように脱いで床に捨て去ってしまう。
それに背後のアントーニオなどは傷口を抑えながら何とかそれを止めようとしたけれどもままならず。
せめてとばかりに小さく視線を落として逸らす。
大事な母が自分を庇ってついにはその姿まで晒さなければならないことへの悔しさと苦しさで顔を歪めながら。
そこから現れたのは、白い柔肌ではなく・・・確かに透けるように白いことに変わりはないが、決して女のものではない肌、そしてそれを覆う質素な白いチュニック。
ぴったりと身体にフィットしたそれであるけれども、その胸にはあるはずの膨らみはまるでない。
未だ切っ先を突きつけたままのクローディオとて目を見開く程の真実。
「お前は、誰だ・・・?」
ヴェールとドレスを捨て去ったエミリアはまるで違う人間のようだった。
纏う空気や雰囲気こそそのままだけれども。
それでも確実に、それは言ってしまえばクローディオがギルデンスターンであったことよりも更に重大で深い意味を持つもの。
その声は甘く低めに抑えこまれ、しんと静まりかえった大広間に響いた。
「我が真の名はクインス。ビスカリア・クインス」
淡い色彩の瞳はクローディオを映してゆらゆらと揺らめく。
重いローブを脱ぎ去った魔女は頼りない月の輝きだけをその身に、太陽の前に片膝をついて頭を垂れる。
魔女は呪いをかけた。
クローディオとアントーニオに。
そして自分自身に。
二人が自分の呪縛から決して逃れられない呪い。
同時に、自分が二人への執着を捨てられない呪い。
「全ては私が絶望の深い闇に落ちた時から始まったのです」
哀れなる魔女は、かつて呪詛を紡いだその艶やかな唇で真実を語り始めるのだった。
TO BE CONTINUED...
なんか久々の続きですが。
切り所がいまいちわからなくて中途半端な感じですなー。
なんかこの先また長そうで、ね・・・。
とりあえずここから怒濤のオリジナル展開になりそうですよ!
というか今回の分も十分オリジナルですけども。
いわゆる原作のラストシーンなわけですが、既に色々と変えてます。
舞台を実際に観た方にとっては「あれ?ここ違くね?」みたいなとこだらけだと思いますが、まぁわと版という感じでひとつ。
とりあえずクローディオ王子が好きですよ!(これアンクイ話ですけどわとさん)
(2005.11.20)
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