a Sigh of Happiness










錦戸亮は今この瞬間、自分は世界中の誰より緊張しているだろうと思った。
それを内心で嫌になる程に実感しつつひたすらに心の中で噛み殺す。
緊張しているような場合じゃない。
今こんなことを考えていること自体が無駄だ。
もっと考えるべきことは沢山ある。
そう、この後の流れだとか雰囲気作りだとか台詞だとか・・・。

錦戸は未だ慣れない真新しい匂いのするダブルベッドの端に腰掛けて、一人ぎゅっと手を握りしめた。
ベッドサイドにある置き時計にチラリと目をやる。
恐らくはもう少し。もう少しで戻ってくる・・・。
それを実感してはますます増していく緊張を自覚して、錦戸は大きく息を吐き出すと両手で頬を叩いた。
思った以上に強く叩いてしまった頬はジンと痛む。
けれど固まったように硬くなっていた身体を解すにはまだまだ足りなかった。
大きくため息をつく。

失敗は許されない。
この日のために沢山のことを考えたし、恥を忍んで人にも色々聞いて廻った。
それはこれからすることが自分と彼にとって紛れもなく特別であるから。
一生に一度の想い出として深く残るものでなければならない。
そして何より、彼に自分でよかったと思って貰えなければ意味がない。
ここまでの道のりは決して短くはなく、平坦ではなかった。だからこそ。
彼に幸せだと思ってほしかったし、また自分もそう思いたかった。
今日のこの日は何よりも大事で、錦戸は男としての矜持全てを賭けて今に臨んでいるわけで・・・。

「あ、亮ー、おまえもビール飲むかー?」

けれど寝室の扉が開くと同時にかかった間延びしたような声に、錦戸は一気に力が抜けそうになった。
確か結構前に風呂に入ってくると言って出ていったはず。
元々彼が長風呂であることは知っていたから、それから既に一時間も経っていることも錦戸は特に不満になど思わない。
むしろ気持ちを落ち着ける時間が貰えたと内心少しホッとしていたくらいだった。
そう、それは確かにそうなのだけれども・・・。

「・・・なにしてんですか、ちょっと」
「やー、風呂上がりのビールがうまくてなぁ〜」
「おっさんか」
「おーおー。どうせもうおっさんやで」
「・・・しょうもな」
「おまえもその内判るて。このうまさが。な!」

な!・・・やあらへん!
錦戸の機嫌は一気に降下した。
さっきから緊張もピークに達しつつある自分とは対照的過ぎる。
侯隆のその普段通りどころかいつも以上にゆるゆるな様子と言ったらどうだろう。

「んーおいし」

にこにこと。ごくごくと。
濡れた頭にタオルをかけて缶ビール片手に幸せそうな様は、確かに可愛らしいと言えば可愛らしい。
口では「おっさん」などと形容してみせた錦戸だが、実際のところそれはそれでやっぱり悪くないと思っていた。
長い憧れと片思いを経て、決して平坦ではなかった恋人時代をも経て、先日ようやく結婚に至った年上の妻。
錦戸にはそのどんな姿すらも愛しい。まさに恋は盲目だ。
けれどやはりそうは言っても、この状態はあんまりだった。
まるで自分ばかりが意識しているようで。
彼は既にこれからのことを忘れてさえいるようで。
自分よりも何年か多く生きている彼にとってみれば、こんなにも意識する程のことではないのだろうか?
錦戸は目の前の妻を前にしてどんどん思考の渦にはまりだしていた。

「・・・おーい。おーいっ。・・・りょおー?」

いつのまにか侯隆が隣に腰掛けていた。
錦戸がはたとしてそちらに顔を向けると、思う以上に近い距離にある白い顔。
きょとんと不思議そうに見つめてくる侯隆の顔は、よく見れば湯上がりのせいか微かに上気している。
この距離だからこそほんのり香るシャンプーの匂いに錦戸は思わず小さく唾を飲み込んだ。
ああやばい・・・と、けれどそう思ったのもつかの間。

「・・・きみくん?」
「んー?」
「なんや既に結構酒くさいねんけど・・・ソレ、何本目?」
「あーんー・・・こんくらい」

錦戸の眼前に掲げられた白い手は、人差し指と中指、それに薬指を立てていた。つまりは三本。
それに思わず深いため息が漏れる。

「飲み過ぎやろ・・・何してんねん・・・」
「せやからほら、風呂上がりのビール」
「そんなん一本で十分やん。なんや三本て。・・・これから酒盛りでもする気か」

最後はうっかり愚痴が入った。
こんなにも自分があれこれと考えていたというのに。
肝心の相手は普段以上にゆるゆるな上に、酒にうつつを抜かしているのだから。
侯隆は基本的に酒好きで、決して弱くはない。
むしろ錦戸よりは余程強い。
けれどそれでも、缶ビール三本でも飲めばそれなりにアルコールは廻る。
とりあえず正常な思考は出来なくなるだろう。
いつもその酒につき合えないことを錦戸は少なからず不満に思っていたが、今は既に不満なんてものではなかった。
こんなに自分が意識して緊張しているというに、その行動。
まるで自分に対して真剣に向き合おうとしていないような・・・。
ここまできて、結婚してまで、今更そんなことを勘ぐる方がどうかしているとは判っていても。
それは確実に錦戸の神経を逆撫でた。
けれど当の侯隆は何だかご機嫌な様子で。
一体何が楽しいのやら、きゃらきゃらと笑いながら缶ビール片手で錦戸の肩にもたれ掛かる。

「りょーおっ。どしたー眉間に皺寄ってんで〜」
「・・・ほんまに、あんたは、もう、いつまで、経っても・・・」

ほんのり暖かな身体。
香る石けんの匂い。
そしてそれに微かに混じる酒の匂い。
錦戸は今まで考えた流れやら雰囲気作りやら台詞やら全てがどうでもいいことのように思えた。

「あれ。・・・あれれ」
「・・・」
「あれれれ・・・。ちょ、・・・っ」
「もう、知らん」

急くことはなく、けれど強引に。
ゆっくりと、けれどしっかりと力を込めて。
錦戸は自分の肩に置かれた滑らかな白い手をとって、ベッドの上に押しつけた。
すると自然、侯隆の身体は後ろに倒れ込む。
呆気にとられたのか特に抵抗することもなく、そのまだ僅かに湯の熱を宿した身体は白いシーツに受け止められた。
濡れてしっとりとした金の髪がいやに映えて見える。
ぽけ、と抜けた表情で見上げてくる様がどうしようもなく幼くて。
紛うことなく年上であるはずなのに、錦戸は何だか少し罪悪感のようなものに駆られたけれど。
そもそもはアンタが悪い、と言い訳のように小さく呟いて、上から覆い被さるようにしてその顔をじっと見下ろした。

「・・・これから何するんか、判ってます?」

少し身を屈めて、顔を近づけて。
低く囁くように言ってやる。
侯隆はそれにも特に臆した様子はなく、さも当然のような顔をしただけだった。

「なにて。そらおまえ、ナニ・・・」

それに錦戸はまた一つため息をつく。
まさかあり得ないだろうとは思ったが、判っていなかったとしたらそれはそれでまた可愛かったのに。

「ああはいはい判ってんならええわ」
「・・・怒ってんの?」
「別に。あんたのそういう性格なんぞ今更やしな」
「・・・うそつけ。気にしとるくせに」
「うっさいわあんた。ええ加減黙らんとひどいで」
「怒ってんなら怒ってるて言えや」

むしろそっちの方が怒ってるやんか。
そう言いたくなるような少しご機嫌斜めな声。
それはいわゆる逆ギレというやつではないのか。
錦戸はまたも深くため息をつく。

ああでも、それでも。
まだ幼い時から憧れ、恋してきた彼をこうして前にして。
気まぐれに伸ばした指先でさえ容易く触れることが出来ることが。
錦戸にとっては、ただそれだけでも信じられない僥倖だったから。
僅か熱を持つ白い頬に触れた指先は、それだけで微かに震えた。

「・・・怒ってるかもしれへんけど、怒らへんよ」
「どないやねんそれは・・・」
「もうなんや色々考えて、人からも聞いて、考えて、・・・考えたけど、もう、ええわ」
「・・・ええて、なにが」
「あんた相手にはどうせ無理やしな。俺がアホやった」
「なんやねん。勝手に自己完結すんなや」

さっきまで考えたこと、聞いたこと、考えたこと。
そんなものとうに吹き飛んでしまったのだから。

触れられる距離にいるなら、触れたくなる。
触れられたなら、もっと触れたくなる。
もっと触れたなら・・・それ以上も。
それだけのこと。

錦戸は指先で侯隆の頬を小さく撫でて。
無言で顔を近づけるとふっと触れるだけでくちづけた。
侯隆は特に抵抗しなかった。
ただ瞼がぴくんと微かに震えた。

「・・・なぁ、きみくん」
「な、に」
「抱きたい」

たったその一言。
その一言しか言えない自分を錦戸はどうしようもないと我ながら思った。
けれど今の自分の限界がこれであることも自覚していた。
背伸びをするのは今だけ止めようと・・・本当に今だけ、思った。

「きみくん・・・なぁ」
「・・・なに、・・・も、おまえは・・・」

けれど背伸びを今だけ止めた錦戸は、逆を言えばそれだけの覚悟をしたということでもあって。
その表情はむしろいつもよりもずっとずっと、侯隆から見ればむしろ、一人の男の顔をしていて。
今度は逆に侯隆が少し困ったように小さく顔を俯けた。

「・・・むしろ、俺の方やねんぞ」
「はい?」
「わかってんのかおまえ・・・」
「わかってんのか、て・・・」

俯き加減でブツブツと呟かれても錦戸にはよく判らなかった。
けれど侯隆はそれに唇を小さく尖らせ、俯いたのはそのままに右手を伸ばして錦戸の襟首を掴んだ。
引き寄せられた錦戸の耳元で、小さな声が、なんだかひどく頼りなげに言葉を紡いだ。

「・・・はじめてばっかやねん、俺かて」

それって、と言葉を返しそうになって錦戸はすぐさま口を噤んだ。
二人はまさに今日初めての夜を迎える。
もちろんお互い初めて付き合う相手ではない。
けれどそれまでの相手は当然のように全て女性だった。
二人の関係は世間的には一つのイレギュラーだ。
だからこそ、当然この場合の侯隆にとってみれば、受け身であること自体も初めてと言えるわけで・・・。
錦戸はそこまで考えて、あれだけ考えていたのにそこに思い至れなかった自分に何度目かのため息をついた。

「・・・わかってんのか、そこらへん。こら」
「あー・・・・・・そう、っすね」
「あほ。どあほ。勝手に怒んな」
「怒ってへんよ」
「怒ってたやんか。・・・も、勝手にしろ」

つん、と白い顔を背けてしまう。
すると自然と目に入るうなじもまた真っ白くて、そこに湿った金の髪が張り付くのに錦戸は目を細める。

いつも以上に長風呂だったのも。
缶ビールを三本も飲んでいたのも。
妙にご機嫌な様子で自分から触ってきたのも。
彼なりに緊張を紛らわすためだった。

錦戸はもうため息はつかなかった。
代わりにその白い首筋にそっと唇を寄せる。
小さく息がかかって侯隆は肩を竦めた。

「んっ・・・」
「怒ってへんよ。なぁ、きみくん」
「なん・・・」
「触りたい」
「・・・う、ん」
「めっちゃ。ほんまに。・・・もう、どうもならんくらい触りたい」

触りたくて触りたくてしょうがない。
錦戸は首筋に何度も唇を這わせながら、同時に指先で侯隆のシャツの裾をまくり上げていく。
指の腹に触れた素肌はしっとりと吸い付くようで。
触れれば触れただけ更に触れたくなって。
どこもかしこも確かめるみたいに指先で辿っていくと、それは錦戸の動きひとつひとつに反応して熱を持つ。
その度小さく吐息を漏らす白い顔もまた同じ。
ゆるゆるとただ瞬きを繰り返す様がどことなく幼かった。

「くすぐったい・・・」
「ええよ、くすぐったがってて」
「なにがええねん」
「その内そんなん言うてられんくなるし」
「・・・ずいぶんおっきな口叩いたなぁ」
「やって俺がしたくてしゃあないねんから」
「・・・おまえ、は、」

真っ直ぐ過ぎる黒い瞳。
まるで子供みたいな。
けれどそれだけじゃない。
侯隆は思わずその頭を引き寄せて自分から唇を合わせた。

「ん、」

大人になりたいと。
もう大人だと。
・・・そう言わなくなった子供は、もう本物の大人なのかもしれない。

それが少しだけ寂しくもありつつ。
抱き寄せてくる、それでもまだまだ細い腕に、侯隆の胸はこれ以上なく甘く疼かされる。
逃げ道を残しておく必要はもうないのかもしれなかった。
侯隆はぼんやりとそれを自覚して。
悔しいとかどうしようとか思うよりも前に、妙に安心したような、むしろひどく心地よい気分だった。

まるでぬるま湯にでも浸かっているかのように。
ほわ、と柔らかな表情で自分を見上げてくる様に、錦戸は頬を緩ませつつ眉根を寄せるという複雑な表情を浮かべた。
しっとりとした金の髪を無造作に撫でると侯隆の顔を小さく覗き込む。

「・・・きみくん、きみくん?」
「ん・・・?」
「あんな、そない無防備な顔されるとな、」
「なにぃ・・・?」
「色々、あかんと思うねやんか、俺」
「・・・あかんて、なにが?」

ふ・・・、と。
これまた無防備に笑う侯隆に。
錦戸は一度きつく目を伏せてからまた開けて、衝動のままにくちづけた。
少し強引に。噛みつくみたいに。
けれど柔らかな感触のそれはむしろ受け止めてくれるから、更にそれは深くなっていく。
何度かそれを繰り返したらその切れ長の瞳が霞んで熱っぽい光を湛えつつ、それでもまだ微かに笑んでいた。

錦戸はもう既に数えるのも馬鹿らしくなるくらい何度目かの、ため息をついた。
でもそれは確かにため息だけれど、敢えて区別して言うなら・・・幸福のため息。

「・・・これから何するんか、ほんまに判ってます?」

常になくあまりにも彼が素直に可愛らしい様子を見せるから。
錦戸はこの夜が幻などではないと確認するみたいに、さっき向けた質問をもう一度向けてみた。

「あたりまえやん」

そしてそれは思った以上のものを錦戸に確かめさせてくれた。

「・・・これから、おまえのモンにしてくれんねやろ?」

当然のように返ってきた答え。
錦戸は伸ばし続けた自分の両腕が、愛しい人を抱きしめていることを今ようやく正しく実感した。
ただそれが幸せで腕に力を込めることしか出来なかった。

「・・・・・・」
「・・・ん?亮?なんやおまえ、返事とかないん?」
「・・・・・・ええと、」
「うん」
「・・・大事に、します」
「ふふ・・・うん、大事にしてや・・・、・・・」

少しだけおかしそうに侯隆が立てた笑い声を、そっと唇で掬い上げて。
錦戸は緩く伸ばした片手でベッドサイドの灯りを落とした。

そこにはもう言葉もない。
ただ、ただ、幸福のため息だけが、夜の帳に落ちる。










END






いよいよ第七弾、最後です。真打ち登場!というわけで亮横。
若干特別扱いです(笑)。まーさすがにね!この時くらいは亮ちゃんにイイ目を!
・・・見せてあげられたかどうかはまぁ置いておいて。
でもいつもよりだいぶラブかったような〜。
いいなおまえら幸せそうで・・・とこっちがため息ですよ(アカンよ)。
テーマは「初夜」です。これはもう真っ先に決まりました(笑)。
あー元が幸せそうなカプじゃないだけに、幸せになって欲しい度は高いですね亮横。
まーだいたい無理なんだけども(可哀相)。

何はともあれ、この亮横を最後に新婚企画も終了です!
お付き合いありがとうございました〜。
(2005.6.18)






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