Love Motion
『たまの喧嘩は夫婦円満の秘訣』
以前テレビだか雑誌だかでそんなことを言っていたのを内は思い出していた。
けれど正直よく判らない。
だって喧嘩なんてしないに越したことはない。
大好きな人と言い争うなんてしたいわけがない。
悲しいし、辛いし、何よりそのせいで相手を傷つけてしまったらと思うと。
ぎゅっと胸を締め付けられるようで堪らなかった。
ましてや好きな人を泣かせてしまうなんて絶対にしたくなかった。
・・・ただ、今現在で言うと先に泣きそうなのは内の方だったが。
「キミちゃ〜ん!誤解やってぇ!」
『うっさい。何が誤解やねん』
「俺浮気なんてしてへんよー!」
『ふ〜ん?やったらそれはなんやねん。その襟は』
「これはちゃうねんてばー!なぁキミちゃん、俺の話聞いてやー!」
『あーうっさいうっさい。・・・おまえなんぞ知らん。どっか行け』
「いややぁー!お願いやから聞いて!ここ開けてやー!」
内はさっきから寝室の扉に両手をついて必死の形相で叩き続けていた。
背広もネクタイもそのままで。
そのパリっとしていたスーツは既によれよれ。
綺麗にセットされていた髪は今やボサボサ。
キリリとした面立ちもすっかり情けない表情。
期待の若手として社内では熱い視線を浴び、
またその甘く整ったマスクで女性からは別の意味でも
熱い眼差しを送られる通称「王子様」も、今やすっかり形無しの様相だった。
「キミちゃん、キミちゃん!俺にはキミちゃんしかおらへんのに〜!」
『ようぬけぬけと言いよるわ。この女ったらしが』
「おっ・・・女ったらしやなんてぇ!俺がいつー!」
『そんなん自分の胸に聞けや』
狼狽え焦る内が叩き続ける扉の向こう側で
侯隆は扉を背にして膝を抱えながら座り込んでいた。
そして少しだけ怒っていた。
でも、本当に少しだけ。
実は口調程、そして扉向こうの内がそこまで狼狽える程ではない。
ただどうにも天然で自覚の足りない夫を
一体どう懲らしめてやろうかと考えていたのだった。
『おまえ、ほんまに身に覚えがないっちゅうんやったら、しょっちゅうかかってくる電話は何や。
代わる代わる違う女から。・・・どう説明つけんねん』
普段より低めの怒りを湛えたような声音に内は身の竦む思いをしながら
必死で身振り手振りを交えて弁解する。
・・・とは言え、無情にも壁一枚に隔てられた現状では
その様は侯隆にはさっぱり伝わらないのだけれども。
「あっあれはー、単なる社内の同僚の女の子であって・・・何もあらへんしっ・・・!」
『ほぉー・・・何もあらへん、か。ふぅーん?』
「あたりまえやんかぁ!俺はキミちゃん一筋やってー!」
『・・・・・・俺一筋の男が、シャツの襟にキスマーク、なぁ〜・・・?』
「そ、それはー・・・」
内は一瞬言葉に詰まる。
それに侯隆は扉向こうで眉をぴくりと動かした。
確かに言う程には怒っていない。
けれどやはりむかつくことはむかつく。
こればかりは理屈ではないのだ。
侯隆は内のシャツにつけられた赤い口紅の痕を思い出して軽く舌打ちした。
『こーんな漫画みたいにベタな展開があるやなんて。びっくりやわぁ、おれ』
そもそもこの喧嘩の発端は、いつも通り定時で帰ってきた内を侯隆が出迎えた時。
にこにこと嬉しそうに「キミちゃんただいまぁ」と甘えてくる夫の好きなようにさせてやりながら、
その背広を受け取った侯隆が目にしたもの。
それは白いシャツの襟にくっきりと残った口紅の痕。
唇の形まで判る程にくっきりと残されたそれに、侯隆も初めはただただ唖然としたものだった。
そして次には「・・・ああ、結構唇のぽってりした子やねんな」と、どこかずれたことを思ったりもした。
そうして動きを止めて自分の襟元をじっと見る侯隆の姿に、ようやく自分の襟元を見た内が騒ぎ始めたところで。
侯隆はやっと本来とるべき反応を思い出したのだった。
あとはひたすら狼狽え錯乱しつつ釈明する夫と。
一通り騒いで罵って適当に物を投げつけて寝室に籠城してしまった妻。
そんな光景だけが残ったのだった。
『まーさーにー、衝撃の証拠やわ』
「せやから!これは!ちゃうねんて!俺の話聞いて!」
『さっき散々聞いたっちゅーねん。
・・・なんやっけ?会社で同僚の女の子が転んでこけて?倒れ込んできたのを受け止めたったんやっけ?』
「そうっ、そう!やって女の子がこけたんやで?そらちゃんと受け止めたらな!ケガしたら大変やんか!」
必死の釈明の中にも見え隠れする、内のフェミニストぶり。
それは結婚前から変わらない。
いや、何も女性にだけではない。
内は誰にでも優しく親切に出来る男だった。
そしてストレートな愛情表現の出来る男だった。
自分にはないその素直さにこそ、侯隆は惹かれた。
だから内らしいその発言に侯隆は扉向こうでこっそり苦笑していたのだが。
そこは敢えて出さず、嫌みたらしく言ってみせた。
『・・・あー出た出た、王子様発言。せやからタラシやっちゅーねん』
「なんでやぁ!やって女の子たちはみんなハイヒールやねんで?
こけたら、下手したら大ケガになるかもしれへんし・・・」
『おーおー、お優しいことで。さすがは内くんやわぁ』
「っ、キミちゃんっ・・・」
一瞬内の声が震える。
泣きそうだ。
侯隆は暗い寝室で膝を抱えながら、もうそろそろか、とぼんやり思う。
けれどそんな侯隆の様子は扉越しでは伝わることはなく。
内は肩をわなわなと震わせ、目を潤ませる。
「内くんやなんて他人行儀な呼び方せんでぇー!」
『なにがやねんな』
「ひろきって呼んでやぁ〜!いややぁ〜そんなん〜!」
そんな夫の情けない声を扉越しに聞くにつけ、
我ながらいじわるやわ、と侯隆は小さく表情だけで笑う。
さっきまでの少しの怒りも既にどこかへ行ってしまっていた。
そもそもが、判っていない夫を少しだけ懲らしめてやりたかっただけなのだ。
しかしそこで侯隆の悪いクセが出てしまった。
何にしろどうにも加減を見誤ってしまう。
つまり、やりすぎてしまう。
『どうやろな〜。そろそろ潮時なんとちゃうん〜?』
「な、なにがぁ・・・?」
『ん?離婚、とかー?こうなったらひとつの選択肢かなーとかな・・・』
それは、そんなつもりが1%程もないからこその、失言。
「・・・キミちゃんっ!!」
一際大きく響く、両手で扉を叩きつける激しい音。
そしてさっきまでの情けない声からは信じられないような、怒声と言っても差し支えないような内の声。
侯隆は反射的にびくんと身体を戦かせる。
それが更に扉を小さく振動させた。
一瞬の沈黙。
侯隆は言葉が出てこなかった。
ただ自分の一言が不用意だったことはすぐさま悟る。
対する内は、そこで溜め込んだ何かを吐き出すようにしながらゆっくりと呟いた。
「キミちゃん・・・頼むから、そんな悲しいこと、言わんで・・・」
『・・・』
「頼むから・・・いくらでも謝るから・・・土下座でもなんでもするから、お願いやから。
そんなひどいこと、言わんでやぁ・・・」
・・・ひどいこと。
ああ、確かにひどいな、と侯隆はその場で俯いた。
依然として言葉は出ないまま。
素直で誰からも愛される、まるで太陽のような男。
こうして結婚してからだって周りは放っておかない。
だからこそ侯隆はただ確かめたかっただけだった。
怒っているフリをして少し懲らしめてやろう、なんて。
それすらも本当はフリでしかない。
いつだってストレートに愛を囁いてくれる夫に更に求めてしまっただけ。
あなただけだと、体裁も何もなく真っ直ぐにそう言ってみて欲しかっただけ。
『・・・欲張りやんなぁ、ほんま』
侯隆は思わず自嘲気味に笑った。
「キミちゃん?なに?なんか言うた?」
小さく呟かれたその言葉は扉に遮られ、その言葉は上手く聞こえなかった。
内は耳を扉にぴたりと当てて身体を押しつける。
『もー・・・つかれた』
「え・・・?」
『も、ええわ・・・』
「なに・・・?キミちゃん、キミちゃ・・・・・・うわっ!」
唐突に扉が開いた。
その言葉を聞き取ろうと扉に全体重をかけていた内は、
咄嗟の受け身が取れずそのまま思い切り室内に倒れ込む。
フローリングの固い感触。
けれどそこはさっきまで侯隆が座っていたから随分と暖かかった。
その場に倒れ込んだまま内が恐る恐る顔を上げると、そこには何だかうっすら笑う侯隆の顔。
しゃがんだ体勢でおかしそうに内を見下ろしている。
「きみちゃん・・・」
「ケンカも疲れるわ、ほんま。しんどいな」
正確にはあれは果たしてケンカというのか、それも若干怪しいところだったけれども。
そんな半泣きな顔を見ても、ただ頭を撫でてやりたくなるだけだから。
「それって、それって・・・」
「・・・おあいこな」
「え?」
「俺ひどいこと言うたから。・・・せやから、もうおあいこでええわ」
すっかりぼさぼさになってしまった内の頭をよしよしと撫でてくるその手の感触。
それは確かに気持ち良いもの。
うっとりしてしまいそうになるもの。
けれど同時にそれは、まだ出逢ったばかりの頃の幼かった自分を内に思い出させた。
内は反射的に思う。
もう、そんな無力やない。
内はがばりと起きあがり、堪らず侯隆を強く抱きしめた。
両腕にこれでもかと力を込めて。
かつて数多いたライバルたちから「まだまだ子供だ」と言われる度、
必死にそれを払いのけ成長してきたその腕で。
「きみちゃん・・・っ」
「・・・悪かったて。あかんこと言うたわ」
「ほんまやで、ほんまに・・・俺、キミちゃんと別れたら死んでまうー・・・」
「アホ。大袈裟やねん」
「うさぎは寂しいと死んでまうねん。せやから俺はキミちゃんと別れたら死んでまうねん」
「『せやから』の意味がわからん」
「とにかくキミちゃん愛してんねんー!」
「・・・・・・俺も」
「えっ?」
叫んだ愛に返事があるとは思わなかった。
内は思わず身体を離してその顔を覗き込む。
基本的に素直ではない妻がそんなことを言ってくれる機会は滅多にないのだ。
けれどその言葉とは裏腹に、覗き込んだ先には少しだけ拗ねたような表情。
いつだってキスしたいと思わせるそのぽってりと柔らかな唇が、ゆっくり近づいてきて。
反射的に小さく息を飲む内のシャツの襟にそっと押し当てられた。
そこにある他人の紅を打ち消すように。
「・・・ええか、博貴」
「は、はいっ」
「今度こんなんつけてきたら・・・さっきのも、冗談やすまんかもなぁ?」
「さっきのて・・・あ、離婚?離婚っ?だめっ!あかんっ!絶対いやや!」
ぶんぶんと頭を振りながら喚く内。
その唇に侯隆のものが噛みつくように合わさった。
内は反射的に目を瞑り、すぐにうっすら目を開けて自らも舌で応えつつ
やんわりと侯隆の身体を抱き込む。
その身体にもたれ掛かりながら、侯隆は内の唇に指で触れた。
「・・・言え、もっかい」
「キミちゃん・・・」
内は決して頭はよくなかったが、それを補って余りある侯隆への愛があった。
他人から見ればいっそ笑ってしまうくらいに馬鹿げた表現かもしれないが。
侯隆にとっては、それこそが大事だった。
それだけが大事だった。
「言ったら、ほんまにおあいこや」
じっと自分を見つめる侯隆の瞳に、
もっと強く抱きしめて離したくなくなるような、そんな愛しさを覚えて。
内はその言葉ににこりと甘やかに微笑んだ。
侯隆にだけ見せる甘い蜜のような笑顔。
「キミちゃん、大好きや。俺にはキミちゃんだけやで。ずっとずっと、愛してる」
くっさい台詞、と侯隆は正直思う。
でもそれがクセになってしまうんだから。
それがないとダメになってしまうんだから。
愛って奴は奥が深いというか、業が深いというか・・・。
侯隆はそんなことを思いながら堪らず声を漏らして笑った。
「よう言うわ、ほんま」
「えー。自分が言えて言うたのにっ」
「おまえはいつまで経っても王子様やなー」
「そういうキミちゃんはいつまでも俺のお姫様やで」
「あーさぶいさぶい」
「えーイケてるて思ったのにー」
内はアヒル口を尖らせながら、ぎゅうぎゅうと侯隆を抱きしめる。
けれどそこではたと何かを思いついたのか、すぐさま身体を離して勢いよくシャツを脱ぎ捨てた。
昔よりはだいぶマシになったとは言え、未だ細い自分の身体を晒すのはやっぱり少し気乗りしないけど。
他人の痕を残したままではこれ以上触れられないと思ったから。
「博貴・・・?」
不思議そうに自分を見ている侯隆に、内はまた甘く微笑んで。
再びぎゅう、と抱きしめた。
「なぁ、ちゃんと仲直りしようや」
やっぱり最後は、愛の力で仲直り?
END
ちょっと間が空きましたが、第三弾内横で。
テーマは「新婚さんのケンカ」・・・って別に新婚さんあんま関係ないような気もしなくもなく。
てかアホっぽいな〜ぴろき・・・。いくらなんでも。でもそんなぴろきは楽しいのです。
私的に内横は裕さんが一番甘やかしてそうな気がする。
なんだかんだと末っ子はお兄ちゃんに可愛がられていると思う。
姉さん女房って、いいよね・・・。
(2005.5.20)
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