6.叶わぬほどに募るのは










河合は自室のベッドに寝転がってぼんやりと窓の外を眺めていた。
そろそろ陽が落ちてきて辺りは赤く染まり始めている。

こんな風に一日中家にいるのも久しぶりすぎて、いつ方ぶりかも判らない。
ここ数年まともな休みもそうなかったし、オフ日でも大抵は出かけていることが多かった。
けれど久方ぶりに引いた風邪は思う以上に強力で、結局あのコンサート千秋楽後熱がかなり上がってしまったのだ。
無理をしたせいもあって、周りからは「とにかく休んで治せ」と念を押されてしまった手前、河合は渋々家にこもって養生していた。
だからちょうど先輩のツアーと次に出演する舞台のインターバル期間で元々休みがあったとは言え、一応それなりに立てていた予定は台無しになってしまった。

「あー・・・ヒマー・・・」

そう呟いたとて相手をしてくれるような人もいない。
こうしてベッドに転がっている状態ではできることも限られてくる。
こういう時ゲームでもあれば暇も潰せるのだろうし、実際河合も携帯ゲーム機自体は持っているのだけれども、いかんせん最近時間がなかったせいで新しいソフトなどほとんど買っていなかったからやるものもない。
そこら辺、筋金入りのゲーマーである彼などは、きっとこんな時困ることはないだろうに。

「・・・」

けれどそんなことをふと考えてしまった自分に、河合は思わずため息をついた。
なるべくならもう考えないようにしていたのに結局ことあるごとに考えてしまう。
むしろこうして考えるくらいしかできないような状態になってしまえばなおのことそうだ。
そしてそんな他愛もないことであろうとも、彼についての何かしらを思う度、今でも気分が沈みこむ。

こんなことでは駄目だ。
無理を言って、相手にあんなことを言ってもらってまで終わらせたことなのに。
仲間だと言ったのに。
これからも変わらないとそう言ったのに。
言った本人ができていないようでどうする。

でも、とそう思う度河合は考える。
あの目。
無理をして風邪を悪化させて、横尾に支えて貰いながら見上げた、あの目。
冷たい目だった。
そして苦しそうな目だった。
何故彼がそんな目をするのか判らない。
何故そんな目で自分を見るのか判らない。
それは熱で頭がやられかけていた自分の思いこみなのかもしれない。
けれど苦しい思いで全てを終わらせて・・・その手すら借りて終わらせたのに、何故いつものようにできないのだろう。
いつものように、なんでもないことのように、そう接することができないのだろう。
けれどその「いつも」とは一体どんなものだったのか、実はそれすらも既に曖昧だった。
あの日以来五関には会っていない。
だから河合はその「いつも」を取り戻すこともできずにいた。

「明日は、いこ・・・」

枕に顔を押し付ける。
本当なら今日は次の舞台の顔合わせと簡単な説明があったから、行くつもりだった。
けれど昨日塚田からメールで、「話だけだと思うから、明日までしっかり休みなよ」とメールで先手を打たれてしまったのだ。
その気遣いはありがたいけれども、こうして周りの仲間達に迷惑をかけている現状も河合にとっては輪をかけて苦しくて、気分は上向くべくもなかった。

明日からは早速本格的な稽古に入るだろうからちゃんと行こう。
改めてそう思って寝返りを打った拍子、不意に喉が詰まるような感覚に襲われて咽せこんでしまった。

「っ、けほっ・・・げほ、っ・・・ふ・・・」

元々扁桃腺の弱い河合の風邪は大抵喉に来ることが多い。
だから体調はほぼよくなったとは言え、喉は未だに本調子ではなかった。
何度か小さく咽こんで、その苦しさに軽く目を潤ませながらも明日のことを考える。
明日になれば否が応でも会うことになるだろう。
明日こそは普通に接することができるだろうか。
でも、できなかったらどうしたらいいだろうか。

ああ、でも、もしかしたら、とも思う。

『お前のこと、嫌いだよ』

頼んでそう言ってもらった。
自分の詮無い想いを終わらせるためにそう言ってもらった。
けれどそれは・・・嫌い、という言葉は、もしかしたら。

自分と彼との関係全てを終わらせるものでもあったのではないか。

「げほっ・・・けほ、・・はっ・・・・・・はぁ・・・」

その言葉の重大さに今更気づいても遅い。
嫌いだと言って欲しいと頼んでおいて、もしかして本当に嫌われてしまったんだろうか、なんて。
そんな恐れは愚かすぎることこの上ない。
河合は何度も咳き込んでは、それをなんとか抑えるように枕に顔を押し付ける。
けれどそんなことをすればますます苦しくて、河合は苦しさに詰まる喉と胸を持て余し、滲む目をきつく閉じた。











横尾は夕暮れで染まった道を一人歩いていた。
そこはいつもの帰り道ではない。
とは言え全く知らない道でもない。
そう多くはないが、何度か行ったことはある。
横尾は右手でバックを肩にかけ、左手で見舞い品の数々が入った紙袋を持っていた。
次の舞台の顔合わせ初日である今日、風邪で来れなかった河合の元へ見舞いに来たのだ。

元々特に誰にも言わず一人で行くつもりだった。
けれど今日の顔合わせの際配られた資料の類をどうせだから届けてやろうと思い立ち、それならば同じグループのメンバーに訊いた方がいいだろうと思って塚田に言ったところ、「お見舞い行くの?」と何故か少しだけ驚かれたのだ。
小学生でもあるまいし、熱は相当上がったようだが、それでもただの風邪くらいでわざわざ帰りにさして近くもない河合の家まで見舞いに行くなど、確かに予想外だったのかもしれない。
けれど横尾としてはそこで驚かれることはなんとなくばつが悪くて、「まぁ、ちょっと」などと言葉を濁すしかなかった。

自分でも判らないのだ。
こんなにも河合のことが気になる自分が。
あの日、あのホテルの夜に見た、あの涙。
自分の胸にせめてと押しつけたそこから聞こえてきた、あのくぐもって引きつった嗚咽。
五関くん、五関くん、五関くん、五関くん・・・。
涙に濡れたその名を、その時一体何度聞いただろう。
こんなにも強く切なく何度となく呼ばれて、求められて、それなのに何故彼はここにいないのだろうと思った。
何故、と。
どうしようもないことだとは冷静に思いながらも、横尾はそれでも思わずにはいられなかった。

河合の一体何が駄目だと言うのだろう。
少なくとも横尾の目から見て、五関が河合に特別な感情を抱いているのは判るのに。
そうでなければ、いつだって気付けば河合を見ているだなんて、そんな事実の説明がつかない。
時に呆れたように、時に心配気に、時に微笑まし気に・・・そして時に愛しげに。
そこに特別な感情がなかったなんて信じられない。
それとも、それは河合とは違う種類のものだとでも言うのだろうか。
恋ではないとでも言うのだろうか。

・・・ただ、横尾はそこで気付かなかった。
何故自分にそんなことまで判るのか、どうしてそんな五関の視線に気付いていたのか。
それには今は気付かず、ただ小さく息を吐き出して俯きがちに考える。

判らない。
横尾は小さく溜息をついて角を曲がった。
そもそも彼の考えていることは判らないことが多い。
少なくとも彼が固く秘めておこうとしていることならば、自分に判るはずもない。
そして同時に、今までなら判ろうともしていなかった。
関係のないことだった。
それなのに何故今更こんなにも気になってしまうのか。
その理由はたぶん、河合のことが気になるからだ。

ならば何故河合のことが気になるのか。
大事な親友だからか。
大事な親友に泣いて欲しくないからか。
大事な親友に幸せになって欲しいからか。
・・・それだけか?
それなら、何故自分までこんなに胸が苦しくなるのか。





事前に連絡もなく急にだったというのに、河合の母は喜んで横尾を迎えてくれた。
横尾は丁寧に挨拶をしていくつか言葉を交わしてから、河合の部屋のある二階に向かった。
まだ父も妹も帰ってきてはいないのか家の中は静かで、横尾は自分の足が階段に立てる音が気になって仕方なかった。
そんなのは気にしてもしょうがないのだけれども、ギシギシと小さなその音が耳に妙に響くのだ。

河合の部屋の前まで来ると、横尾は一度足を止める。
扉向こうの部屋からは特に音がなかった。
てっきり音楽でも聞いているかと思ったというのに。
寝ているのだろうか。
それとも漫画でも読んでいるのか。
考えても仕方ないことをつらつらと考える。
けれどそこで、不意に室内から小さな音が聞こえた。
思わず反射的に扉に耳を寄せると、それは小さく咳き込むような音だった。
小さな、けれど断続的に続くそれ。
河合の母から聞いたように、まだ喉が治りきっていないようだ。
今日は食事以外は一日中部屋に籠もっていたと聞いていたが、きちんと薬は飲んだのか。
横尾は扉越しにそんなことを思っていたけれど、その咳き込む音がなんとなくくぐもったようなものに変わったのを敏感に感じ取って、意を決したように扉を叩いた。
するとワンテンポ置いて咳が止み、部屋の中から小さく掠れたような声がした。

『・・・なに?母さん?』

それに横尾は一瞬躊躇してから小さく呼吸して、おずおずと呟いた。

「や、・・・俺。横尾」
『え、よこお・・・?』
「お見舞いに来た」
『あっ、あー・・・そっか、・・・あ、どうぞー?』

言われるままに、横尾はゆっくりと扉を開ける。
するとそこにはベッドの上に慌てて起きあがった風の河合がいた。
当然頭はセットなんてされていなくてボサボサで、心なしか目が潤んでいた。
横尾はそれに一瞬目を細めてから、まず自分の肩にかけていた荷物を降ろす。

「寝てていいって」
「うん・・・でも、もう寝飽きちゃったし」
「せめて横になってろよ」
「それも飽きちゃった」
「病人は寝るのが仕事なんだって」
「はいはい、わかってますよー」

言いながら河合は再びごろんとベッドに転がる。
見た感じ、確かにもうだいぶ体調はよさそうだけれども、と横尾は紙袋を手に歩み寄る。
それからベッドの前にあぐらをかいて座った。

「薬はちゃんと飲んでんの?」
「飲んでる飲んでる」
「喉は?」
「喉はまだちょっと・・・アレだけど、まぁ、そこら辺はなんとか」
「咳、辛いの?」
「んー、そうでもない。たまにちょっと咳き込んだりはするけど」
「そっか」

横尾は心配性だなぁ、なんて河合はぼんやり思いつつ、その手にある紙袋にふと関心が行った。

「もしかしてそれって、お見舞いの?」
「あー、そうそう、今日いたヤツから」

資料で渡すものは何かあるかと横尾が塚田に声をかけたところ、横尾が今日河合のお見舞いに行くことはそこら中に伝わってしまったのだ。
そうして結局その場にいた親しいメンツはこぞってコンビニに行ったり、また今手元にあるものをお見舞いにと横尾に託したのだ。

「マジでー?うわ、なんか嬉しいなー、そういうのって。病人の役得ってヤツ?」

そう言って再び起きあがりながら本当に嬉しそうに笑う河合に、横尾は小さく頬を緩めて頷いてやりながら、紙袋の中身を次々に取り出していく。
これは誰からか、それは誰からか、それを横尾に聞く度に、河合は手に取りながら一つ一つ違う反応を示す。

「あ、これお守り?・・・って、交通安全?なにこれ?」
「あー、それな。千賀から」
「千賀?・・・相変わらず感性がわかんねーなーアイツ」
「俺も突っ込んだんだけどさ、なんか今持ってるお守りがそれしかないからすいません、だって」
「いやまぁ、いいけどね」
「風邪でフラフラして車に轢かれないようにって」
「いや、そりゃお前だろ・・・」

前に何人かで待ち合わせた時、本気で車に轢かれそうになった人間には言われたくない。
河合は思わず呆れたように呟いたけれども、あの憎めるはずもない愛すべき天然の弟分の前では、そんなどこかずれた行動も可愛いものだ。

「・・・明日、ありがとうって言わなきゃなー」

そのお守りを手のひらに小さく握りしめて、河合はこくんと頷いて微かに笑った。
けれど横尾が最後に袋から取り出したものを見て小首を傾げる。

「あれ、それって、DSのソフト?」

その小さなパッケージを手に、横尾はどこか視線を落としがちに小さく頷いた。

「うん・・・五関くんから」
「・・・五関くん?」
「うん」
「そう、なんだ」
「うん・・・あ、あげるんじゃなくて貸すだけだから、って」
「あ、なるほどー。なんだ、くれんのかと思った。五関くんさすが太っ腹ー!って思ったのに」

でもさすがにそんな安いもんでもないしね。
だいたいこれって五関くんが最近買ったばっかのヤツだもんね。
でも貸してくれるってことはもうクリアしたのかな?
さすがはゲーマーだよねー。
あの人一体一日何時間やってんだろ?

河合はそんなことをつらつらと喋りつつ、そのパッケージを受け取ってまじまじと眺めてみせる。
それに横尾はなんだか妙な息苦しさを覚えた。
同時に、それを自分に渡した時の五関のいつもと変わりない、けれど自分を見ていなかったあの表情を思い出す。
彼も内心苦しいのかもしれない。
でも、と横尾は思わずにはいられない。

自分から振っておいて?
河合にあんなに辛い思いをさせておいて?
あんなに痛い涙を流させておいて?
けれど所詮第三者でしかない自分には、本当のところは判らない、と冷静に思いもする。
そしてきっと、判る意味もない。

「あのさぁ・・・横尾?」

そのパッケージを手にしたまま、少しだけ落ちたトーンで呟かれた言葉。
横尾はそれで思考の渦から帰ってきたように顔を上げる。

「五関くん、どうだった?」
「・・・どうって?」
「なんか、言ってた?」
「なんかって・・・?」
「だから・・・」

河合は手にあるパッケージに小さく視線を落とし、僅かに口ごもる。
言いたいことはなんとなく判るのに敢えて訊くのは意地悪だろうか。
取り出した見舞いの品を全てまとめて脇にやってから、横尾は座っていた体勢から膝を立てて起きあがる。
それに気付いてふっと顔を上げる河合の顔を真正面に捉えた。

「特になんも言ってなかったよ」
「そ・・・っか」

それを聞いて頷くと、河合はそのままベッドに転がってしまう。
枕にぼふんと頭を預け、未だ手にしたままのそのソフトのパッケージをどこか遠い目で眺める。

「どうなんだろうなー・・・」
「・・・なにが?」
「お見舞いくれたってことはさ?・・・ああ、貸してくれただけだけど。でも、これなら、まだ、だいじょぶかな・・・」

横尾に向けられたそれは、けれどその実独り言のようでもあって。
返す言葉を探してその姿をじっと見下ろしながら、横尾はただ掠れた声を聞いていた。

「せめて、まだ、仲間って言えんのかな・・・?」

けれどその疑問の言葉は、まるで自分に言い聞かせるような儚いものでもあって。

「まだ、だいじょぶかな・・・嫌いって、言って・・・・・・ああ、うん、そんなこと言わせちゃったけど・・・・・・そっか、言わせちゃったんだよな」

自分で言った傍から何かに気付いたように小さく俯くその姿。

「・・・そんな都合よくないよね。自分から言っといてさ、それでも仲間として仲良くしててほしいとかさ、マジわがまま」
「河合・・・」
「でもそれでもメンバーだもんね、どうしようもないか。・・・ていうか、どうしよう、それじゃ今でも俺、すっげ、迷惑かけてんじゃん・・・?」

叶わぬのなら、せめてこれ以上自分の重すぎる想いで苦しめたくないと思ったから、だからあんなことを言った。
けれどその時最善だと思ったはずのその選択が、もしかしたら今も五関を苦しめているのかもしれない。
だからあの日彼はあんな目をした。
冷たい、そのくせ苦しそうな瞳。
どんなにそっけなくてもどんなに呆れても、それでも優しい瞳をした人だったのに。
自分の大好きだったそれすらも変えてしまった。

「もう、わかんないな・・・」

どうしたらいいのか判らない。
これ以上どうしたらいいのか。
どうやったって顔を合わせないわけにはいかない。
この仕事を続けていく以上、それはほぼ毎日のように。
事実明日には確実に顔を合わせることになる。

「言わなきゃ、よかったのかなぁ・・・」

河合はパッケージを枕元に手放すと、そのまま枕に顔を埋めてくぐもった声で呟く。
それを見下ろして、それでも横尾は黙ったまま耳を傾ける。

「あんなことさ、言わなきゃよかったのかな」

そうすれば、確かに苦しいかもしれないけれど、傍にはいられた。
少なくとも彼をそこまで苦しめることもなかった。
迷惑をかけることもなかった。
今感じるのは後悔ばかりだ。
けれど決して後悔だけでもない。

「でも、それでも、もう終わったのに、それでも・・・好きって、言ったら・・・だめかな・・・」
「・・・いいんじゃねーの」
「バカだってさぁ、わかってんの・・・ちゃんとわかってんだけど」
「大丈夫だって・・・」
「・・・・・・ほんとに、さ・・・どうしたら、いちばん、いいのかなぁ・・・?」

喉が詰まる息苦しさを覚えながら、河合は今それを吐き出してしまうことすらも苦しく思った。
そちらを見ることもなく掠れた声で呟く。

「・・・横尾、ごめん」
「ん・・・?なにが」
「おれ、お前にも迷惑かけてる」
「・・・なんでだよ。誰も迷惑だなんて言ってないだろ」

なんで今そこでそれを言うんだと、横尾はなんとなく苦々しい気持ちで思ってしまった。
今彼はいないのだから、せめて気にせず思う存分吐き出してしまえばいいのに。
むしろ自分はそうして欲しいのに。
できる限りで頼って欲しいのに。

何物にも邪魔されない強い想いと、そのくせ相手の苦しみを思ってしまう優しさと、それでも誰かに縋らずにはいられない弱さと。
それら全てを内包したその心を放っておけなかった。
そして放っておけないのは、河合だからだ。

横尾は小さく顔を歪めると、その大きな手でそっと布団を引き寄せて河合の身体を覆うようにかけてやる。
それでも河合は顔を上げることもなく小さく身動ぎするだけだ。

「ほら、ちゃんと暖かくして寝ないといつまで経っても治んねーぞ」
「・・・うん。ごめん」
「いいから」
「ありがと・・・」
「もう、寝ろよ」

その顔は結局最後まで上がらなかった。
息苦しくなったのか枕から顔は離したけれども、やはり本調子ではなかったのか、そのまま目を閉じてしまった。
その内眠るだろう。
けれどそれでよかったと横尾は思った。

もしもここでもう一度その弱った顔を見せられたら、もはや客観的な第三者でいられる自信がなかった。










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(2007.1.19)






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