8.雁字搦めの蝶










『ごめん。やっぱ今日は帰る。ほんとごめん。』

たったそれだけのメールを送り、携帯の電源を落とし、河合は隣駅までの道を俯きがちに歩いていた。
わざわざ隣駅まで行くことにしたのは、先程の電話で横尾が最寄り駅まで迎えに来てくれると言っていたから、万が一鉢合わせるのを避けるためだ。
こんな自分の都合で、自分を気遣ってくれる親友との約束をないがしろにするのは申し訳ないと思った。
けれど今こんな状態では、会えばいっそう相手に気を遣わせてしまうのは目に見えていたし、何よりこんな酷い状態の自分を誰にも見せたくなかった。
涙なんてあの日とうに尽きたと思っていたのに。
河合は今また瞼から滲み出そうになるそれを我慢するので精一杯だった。
一体自分はどれだけ弱くなってしまったのだろう。
いや、思えば最初からこんなものだっただろうか。

既に陽も落ちきった辺りは薄暗くなっていて、街灯や通りにある店の灯りが道を照らしている。
それらを視界の端に入れてぼんやりと歩きながら、河合の頭の中にはひたすらに先程の五関の言葉がぐるぐると渦を巻いていた。

『次、見つかってよかったね』

それが誰を指しているかなんて判りきっている。
親友の好意に甘えて頼っている自分を咎められているような気もした。
事実横尾にはここ最近目に見えて気を遣って貰っていたし、気晴らしの意味で色々な場所に連れていって貰っていた。
それが正直申し訳なくもあり、その無償の好意がありがたく嬉しくもあった。
けれど言われたことは決して事実などではない。

次、なんて。
そんな酷い言われ方をするとは思わなかった。
そして同時に、もう駄目なのだと判った。
せめて今まで通りの仲間でいようなんて、無理なのだと判った。
自分ではできる限り気を遣って変わらぬ仲間として、特別な恋愛感情なんてそこにはない、そんな普通の仲間としての関係を保とうと必死だったのだ。
けれどそれは見事に空回り。
横尾と出かけるなんて今までだって普通にあったことだ。
そんなことさえあんな風に言われてしまう。
その視界に入るだけでも駄目だと言わんばかりに、何をどうしても彼を苛立たせてしまう。
つまりそれは、自分達の関係がもう今までと同じようになんてできないという証拠でもあった。

会う度に傷が増える。
顔を合わせる度に自分が傷つくのが判る。
そしてその度に、相手が苦しそうな顔をするのを見ていられない。

こんなことなら言わなければよかった。
こんなことならただ自分一人の胸に秘めて片思いしている方がよかった。

こんな恋、しなければよかった。



コンビニの一際明るい灯りが視界の端に入る。
まるで彷徨う蛾が引き寄せられるように、河合はそちらにふらふらと近づいていって、駐車スペースの縁石に力なく腰を下ろした。
何もかもが面倒で、帰ることすらもはや放棄してしまいたい。

暫くそこに座ったまま身動ぎ一つせずぼんやりしていた。
けれど頭の中をからっぽにするということは意外と難しくて、明日の集合は何時だったとか、明後日の番組収録はどこだったかとか、そんなことは自然と浮かんでくるのだ。
染みついた生活スタイルというのは厄介なもので、そこには付随してその仕事を共にこなす仲間がいる。
そうして自然と浮かんでくる顔、その中から彼を追い出すなんてことは到底無理で、結局自分は今この状況から逃れることなどできはしないのだと思う。

次なんてない。
前だってないのに。
忘れることなんてできないのに。
諦めることすら未だ欠片もできてはいないのに。

冷たい声。
けれど苦しそうな声。
見えなかった顔はどんな表情だっただろう。
苛立っていた?
呆れていた?
それとも軽蔑していた?

河合は縁石に座ったまま両膝を抱え、そこに頭を押しつける。
身体が震える。
もう迷惑をかけないからと、あの最後の夜にそう言った。
けれどもしも自分の存在がそこにあるだけで彼を苦しめてしまうのだとすれば、自分はもう彼の前に存在していることすら許されない。
それなのに、終わらせたはずの恋心は反比例するようにますますこの胸の内に膨れ上がるばかりだ。
相手の苦しさを、そして自分の傷を、それらを自覚すればする程に思い知らされる。

「次、なんて、・・・」

たとえ五関の言葉のその裏に、暗に次の相手を早く見つけろというものであったとしても。
それでも河合にはできない。
それはできない。
たとえ五関に命令されたとしたって、どうしても。

「・・・・・・ッ?」

不意に腕を掴まれた。
一瞬身を固くした河合は、恐る恐る顔を上げる。
そろそろ夜も深まってくる頃だ、この辺の柄の悪いのに絡まれたのかもしれないと思った。
けれどそこにあったのは、少し怒ったような顔をした、けれどそのくせどこか安堵したような表情。

「横尾・・・」
「なにしてんだ、バカ」
「なん、で・・・」
「そりゃこっちのセリフ。勝手に約束ドタキャンの上に、携帯繋がんねーし。超探したっつの」

見ればその向こうに横尾がいつも乗っている単車があった。
エンジンがかかったままのそれは、きっと走っている最中に河合を見つけてすぐさま乗り入れてきたのだろう。
未だ激しくエンジン音を鳴らすそれから目の前へとゆっくりと視線を戻す。
けれど視線は合わせられず、何かを言うこともできず。
河合はそのままばつ悪そうに俯いてしまった。
それを見て横尾は無言で深く息を吐き出すと、掴んだ腕を強引に引っ張り上げてさっさと歩き出してしまう。
強引な力に咄嗟につんのめりそうになりながら、河合は無理矢理引きずられるようにして後をついていかされた。

「よ、よこおっ・・・」

腕を振り払おうとしてもできず、後ろから呼んでも答えない。
足で踏ん張ろうとしても、それなりに体格差があるから、横尾が本気を出してしまうと河合にはそれ以上の抵抗ができない。
結局エンジンがかかったままの単車の前まで引っ張られていって、ようやく腕が放されたかと思うと、次の瞬間には両手で身体を抱え上げられ座席の上に降ろされた。
咄嗟に降りようとしても、両手で肩から押さえ付けられるような格好になってままならない。
そのまるで子供のような扱いにはさすがの河合もムッとして、上目で睨むように横尾を見る。

「ちょ、なんだよ・・・」

けれどそれ以上は言えなかった。
両肩を押さえ付けられたままの格好で、横尾は少し身を屈めるようにして河合と目線の高さを合わせると、じっと間近で見つめてきたのだ。
その瞳は真剣で、逸らせない強さがあった。

「何された」
「え?」
「五関くんに何された」
「な、なにって・・・・・・別に、なんも、」

そもそも五関くんのことなんて一言も言ってない。
そんな言葉すら紡げはしなかったけれど、横尾には当然判っただろう。
けれど今の河合に絡むことで五関以外などありえるはずもない。
そしてさっきの電話で、すぐ後にあのメールなのだ。
何もなかったなど信じられるはずもない。
横尾は両肩に置いた手に力を込めると、更に視線を強めて低めの声で言った。

「いいから言えよ」
「・・・だから、なんも、ないって」
「河合」
「なんも、ない・・・・・・なんで、そんなこと言う・・・」
「河合」
「やだ・・・言わない・・・」
「・・・なんで」
「なんでも・・・・・・いいから、離してよ・・・」

ふるふると子供みたいに頭を振る河合は頑なだ。
強情で、そしてそれ以上に何かに怯えるみたいな様が堪らなくて、横尾は肩を押さえ付けた内の片手で腕をゆっくりさすってやる。
その優しい感触に、河合は小さくひくんと喉の奥を引きつらせるけれど、それでも緩く頭を振っては駄目だと自分に言い聞かせるようにする。
横尾に頼ってはいけないと言い聞かせるようにする。
まるでその目を見ることも、こうして慰めるように触れられることすらもいけないことだと言うように。

「・・・そっか」

河合は言わない。
けれど横尾はなんとなく理解した。
一体五関が河合にどういう態度をとったのか。
そして同時に言いようのない怒りを覚えた。

手放してなお手放さない。
突き放してなお離れることを許さない。
受け入れないくせに目を逸らさせない。
傷つけて傷つけて癒す隙すら与えない。

五関の考えていることも本当の気持ちも横尾には判らない。
けれどただ判るのは、五関はどうしようもなくタチの悪い独占欲を河合に抱いているということだ。
横尾にとってそれは、河合を、自分の大事な親友を、幸せにしてくれるものだとは到底思えなかった。

そして同時に、眼前に露わになってしまった自分の本当の気持ちから、もう目を逸らすことができなかった。

「河合、ごめんな」
「え・・・?」

横尾は謝った。
これからすることに謝った。
河合が何をされても、どんな仕打ちを受けても、それでも五関への気持ちを捨てられないことなんて知っている。
その程度の柔な恋ではないと知っている。
思えば初めてその恋心を知らされたあの日から今までずっと、他の誰より知っていた。

横尾は河合が大事だった。
できるなら、その一途な恋が報われればいいと密かに願っていた。
それこそが自分の望みであると思っていた。思いこもうとしていた。
だからこそ願っていた。
けれどそんな願いは、たった今捨てた。

「ごめんな。恨んでいいよ」
「よこ、お・・・?」

河合は目を見開いて横尾の顔を呆然と見る。
その大きな手が自分の頭をゆっくりと撫でてくる、その慣れた感触が、何故か妙な焦燥感を煽り立てた。
心臓がばくばくとうるさく音を立てる。
頭の中でけたたましく警鐘が鳴る。
頭を撫でていたその手が、ゆっくりと頬に触れる。

目の前の親友の顔が、今まで見たこともない人間の顔に見えた。


「・・・恨んで、いいよ。無理矢理忘れさせるから」


次なんてない。
代わりもいない。

けれどそんな河合の声は言葉にならず、誰にも届かない。
目の前の親友にすら、もう届かない。










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(2007.3.23)






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