9.単純な感情、掛け違う釦
客もまばらな店内の、一番奥にあるテーブル。
メニューを捲るその手を視界に入れつつ、なんで今自分はこんな所にいるのだろう、と五関はぼんやりと思った。
「あ、俺カルボナーラにしよ〜。五関くんは?」
「・・・あー、じゃあ、ボンゴレで」
「さっすが渋いね〜」
「ボンゴレって渋いの?」
そもそもパスタに渋いとか渋くないとかあるのだろうか、と五関は呆れたように思って手つかずだったグラスに口をつける。
予想以上に冷えていたそれがひやりと喉に刺激をもたらす。
その感覚にふっと息を吐き出す五関を後目に、塚田は手を挙げて店員を呼ぶと、カルボナーラとボンゴレを注文した。
店員が奥に下がると、塚田は手にしていたメニューをパタンと閉じて脇に立てかける。
それを視界の端で確認してから、五関は何気なく腕時計で時間を確認した。
時刻は既に21時を廻っている。
「あ、今日なんか用事あった?」
「いや、別に特にはないけど」
その言葉に軽く頷くと、塚田は何事もなかったかのように携帯を取りだして、何やらカチカチとボタンを打ち始める。
メールでも打っているのだろうか。
しかしそうすると当然五関は暇になってしまう。
別に携帯をいじるのが悪いなんて言うつもりはないが、その真意も判らずなんとなく連れてこられたようなこの状況でのそれは、なんとなく居心地が悪い。
五関は再び冷水の入ったグラスを手に取ると、ゆるりと口をつけて息を吐き出す。
なんとも言えないみっともない姿を見せたものだと思う。
塚田とはそこそこ長い付き合いにもなるし、今更何を気取ったり繕ったりする必要もない間柄ではある。
けれどそれとこれとは別問題で、先程のあれはいただけなかった、とまさに文字通り後悔の溜息が漏れた。
先程一体河合と何があったのか、それは話してはいなかったし、塚田自身も訊いてきたりはしなかったけれど、聡い塚田のことだ、何かしら薄々感じ取ってはいるだろう。
だからこそ逆に詳しいことは訊かず、こうして自分を食事に引っ張り出したに違いない。
何より五関と河合の微妙な関係に関して、恐らく仲間内では誰よりも感じていたのが塚田なのだ。
さすがに説教でもされるかな、と。
まるで母親を前にした子供のような心境で、五関はグラスの中の冷水を更に喉に流し込む。
そうしていつの間にか水がなくなってしまい、手持ちぶさた気味にグラスをテーブルの上に置く。
ことん、と小さく音を立てたそれに、塚田はディスプレイに向けていた視線をちらりと五関に向け、おもむろに携帯を閉じた。
そしてふふっとおかしそうに笑う。
常と変わらぬ、どこか癒されるようなその笑顔。
「帰りたそうな顔〜」
「・・・別に?」
「そう?」
「お腹空いただけだよ」
「あー確かにお腹空いたね。俺ミートソースも頼めばよかったかな〜」
「塚ちゃん、相変わらずよく食べるね」
その言葉が冗談でもなんでもなく、本気で悩んでいるような様子だから、五関は思わず呆れ混じりで笑ってしまった。
塚田はそれに心外だとばかりに軽く眉を上げる。
「そりゃ毎日頑張ってるもん。お腹も空くでしょ?」
「でもそれにしたって塚ちゃんはよく食べるなと思うけど」
「そう?ていうか五関くんが小食なんだよ」
「や、俺は普通だと思うけど?」
「たまには沢山食べなよ〜。おいしいご飯は幸せを連れてくるんだから」
「幸せ、ね・・・」
塚ちゃんらしいとなんとなく微笑ましく思う。
五関が頬杖をついてそれに緩慢に頷くと、更に当然のように言葉が続いた。
「五関くんも、あと河合もね。二人とももうちょっと食べなきゃだめ。二人とも結構不摂生だしさ」
「・・・ああ、うん」
さりげなく出た名前に、五関は一瞬何かを躊躇ってから、また小さく頷いた。
「苦しい時とか辛い時程、沢山食べなきゃね」
「・・・そうだね」
一応そう返しはしたけれど、反面、五関はもはや食欲なんてほとんどなくなっていた。
胃も、それ以外の部分も、身体の中を満たす感情でいっぱいで、何も入らない気さえしている。
ああでも、今頃あの二人は楽しく食事でもしている頃だろうか。
そんなことを一瞬思って、それからまたじわりと苦しさが胸を満たす。
河合のことを考える度に自分の醜い部分が見えてくる気がした。
手放したくないなら、始めからそうすればよかった。
相手はこれでもかとその気持ちを真っ直ぐに向けてくれていたのだから、そのまま受け入れるだけでよかった。
じゃあ何故そうしなかった?
それは傷つけたくなかったからだ。
いずれ傷つけると思っていたからだ。
何故傷つけるかと言えば、それは自分の感情と相手の感情はベクトルが違うから。
五関はそう思っていた。
傍目には「両思いなのに」と、そう見えるだろうか?
けれども決して同じではない。そう、決して。
でも今結局こうしてどうしようもないくらい傷つけているのなら、どうせ傷つけるのを避けられないのなら、それはどちらでも同じことだったのではないのか。
同じならば、もう何も考えずに捕まえて、離さないようにすればよかった。
結果は見るも明らかに、最悪だ。
傷つけることを恐れてその手を払ったくせに、その手が別の手をとることをもまた恐れて傷つける。
それら全て、自分の身勝手な感情でしかない。
もういっそ、河合が自分のことを嫌いになってくれればいいのに。
いっそのことそんな感情すら芽生えた。
それすらも身勝手なことこの上ないものではあったけれど。
少なくともそうすれば、自分もいい加減この泥のように澱んだ感情を捨てざるを得ない状況に追い込まれるだろうに。
「・・・ひっどい顔〜」
「え?」
ふと考えに没頭していたら、呆れたように間延びした声がした。
思わずはたと顔を上げると塚田が小さく溜息をついた。
仕方ない、そんな声が聞こえてくるような表情で、静かに呟くように言う。
「俺、実際そんなに心配してなかったんだよね」
「・・・?」
「二人とも、なんだかんだお互い好きなんだと思ってたから」
「・・・ああ」
言っている意味をなんとなく理解して小さく頷いた。
けれど五関にしてみればそれは違う。
河合は五関に一途なまでの好きという想いを向けているし、五関とてまた河合に対してそういう想いを抱いてはいる。
けれど決して同じではないのだ。
「何を拘ってんだか、さっぱりわかんない」
「・・・俺にも、よくわかんないよ」
「うそ。五関くんはわかってるでしょ?」
「・・・」
「言うのめんどくさいって顔してる」
「・・・そんなことないけど」
「五関くんの悪い癖だよ。言わなきゃわかるわけないんだからね」
決して責めるような調子でこそないけれど、常に比べると少しきつい口調。
やっぱりお説教か。
そんなことを思って、どうしたものかと考えるように視線を彷徨わせた。
「別に言いたくないんならいいよ。そういうつもりで連れてきたんじゃないし」
ご飯食べたかっただけだし、そんなことを言って塚田はそれきり黙ってしまった。
さすがに怒らせたかな。
滅多に怒ることのない、いつも笑顔の仲間をそんな風にむっつりと黙らせてしまったことすらも、今の五関には苦しかった。
無意識の内にグラスを手にとって、けれどもう中身が空であることに気付くと、ばつ悪げに再びテーブルに戻す。
するとほとんど減っていないグラスが向かいから置かれて、思わずそちらを見ると困ったように笑う顔とかち合った。
「ほんっと、五関くんも案外だめだよね〜」
「・・・まぁ、ね」
「意外と打たれ弱いっていうか」
「そうかもね・・・」
「そんなんだから河合ちゃんに逃げられちゃうんだよ〜。あ、でもこの場合逃げたのは五関くんになるのかな?」
「・・・はっきり言うなぁ」
そう言えば、いつも笑顔だし気遣い上手だけれど、特別優しいというわけでもなく、むしろ容赦はないタイプだった。
今更ながらにそんなことを思い出して、五関は思わず苦笑しながら受け取ったグラスに口をつける。
「この際言うよ?もう、言いたくなかったけど、言わなきゃだめみたいだしさ」
「はいはい・・・」
「はいは一回!」
「はい・・・」
ほら、やっぱりお説教だった。
そんなことを内心だけで思いながらも、きちんと顔を上げて目の前の顔を見る。
塚田は穏やかな調子ながら、きっぱりと言ってのけた。
「自分のものはちゃんと自分で捕まえてなきゃ、だめ。そうでなきゃとられたって文句は言えないでしょ」
塚田にしては些か乱暴なその表現に、五関は思わず眉根を寄せる。
「・・・ものって。別に、あいつは」
「あ、ものって表現はだめだった?さすが五関くん紳士だね〜」
「塚ちゃん」
「でも実際自分ではそう思ってるでしょ?河合は俺のもの、って思ってる」
「そんなこと、」
「あるよ。ある。だからああいう態度とれんの、五関くんは。河合が自分のこと好きだから、イコール自分のもの」
「・・・それ、ちょっと酷いんじゃないの」
「うん、酷いよ。実際酷いもん」
はっきり言ってくれる。
まるで苦虫を噛み潰したような表情で溜息をついて、グラスに口をつける。
パスタはまだ運ばれてこないんだろうか、なんて思わず逃避にも似て思う。
「でも別に俺は、それを非難してるわけじゃなくて。
それならそれで、自分のものなら自分のものらしく、ちゃんと懐に入れてさ、大事にしてあげなよって言ってるの」
「・・・そんな簡単じゃないよ」
「そう?五関くんが勝手に難しくしてるだけじゃない?」
別に腹が立ったわけではない。
けれど容赦なく向けられる言葉に、五関も思わず呟くように漏らしてしまった。
「傷つけるの・・・嫌なんだ」
「誰が傷つくの?」
「誰って・・・」
「河合?それとも、自分?」
「・・・」
鋭い一言だったと思う。
河合を傷つけたくないからと繰り返すくせに結局傷つけるのは、つまり自分が傷つきたくなかった故でもある。
思わず黙り込んだ五関に、塚田は少し困ったように眉を下げ、ぽつんと言った。
「五関くんはもうちょっと、河合のことをわかってあげなよ」
「・・・俺、わかってないかな」
「たぶん、肝心なとこがね」
「結構見てたんだけどね」
「うん、知ってる」
「・・・知ってるんだ」
「五関くんも意外とわかりやすいんだよ〜?実は。河合のことになるとね」
「そう、かな」
なんとなく気恥ずかしくなった。
わかりやすいと言われたのは初めてだ。
そのばつ悪げな表情に、塚田はくすりと声を漏らして笑う。
「見過ぎてわかんなくなっちゃったんじゃない?」
「・・・そうかもね」
そうして五関はまた思い返していた。
あの最後の夜、自分にのしかかるようにして切なる瞳を向けて、綺麗な雫を零した。
河合はあの時言っていた。
いや、その前からずっと言っていた。
自分は判っていないと。
ただ好きなんだと、そう判ってくれればよかったんだと。
そして自分は、そう言って震えながら伸ばされる腕を掴んで引いて、抱きしめてやればよかった。
その機会はもう何度もあった。
その度喉の奥にせり上がった熱いものはきっと、抱きしめた腕の中に囁く言葉だったはずだ。
でもできなかった。躊躇ってできなかった。
「大丈夫だよ」
けれど向けられる柔らかな言葉。
そして柔らかな笑顔。
「五関くんはさ、懐に入れた大事なものを傷つけたりしないよ」
「・・・そうだと、いいんだけどね」
何より怖いのは自らの執着心だ。
河合が自分に向けてくる一途なそれとは似ても似つかない。
昏い願望。
けれどそれを言葉にせずとも、塚田はまるで笑い飛ばすように言った。
「むしろ懐に入れとかないから、ああいうめんどくさいことになるんだよ〜。
しかもさ、河合がこれからもずっと五関くんのこと好きだとは限らないんだから。
好きでいてくれる内に、逃げられないようにしときなよ」
「さりげなく怖いこと言うなー・・・」
「とられてからじゃ遅いんだから」
「まぁ、ね」
「河合ってさ、アレでも結構モテるんだよ〜?」
「知ってるよ」
本人はあまりその自覚がないけれど、河合の周りはいつも人が溢れている。
それは本人の持つ天性の魅力だろうと思う。
「知ってる・・・」
そう、知っている。
そこで浮かぶ顔は、さっき河合を連れ去ってしまったあの電話の主だ。
河合を傷つけるものから守ろうとした親友。
今更にこの手を伸ばしたなら、彼はどうするのだろうか。
「あ、ようやくきたよ〜」
心なしか嬉しそうな声がしたかと思うと、店員が皿を二つテーブルに置いた。
湯気を立てるそれに塚田がフォークをとる。
それに倣って五関も手を伸ばした。
けれどそこでふと着信が鳴って手を止める。
ポケットの中から携帯を取りだし、ディスプレイを開いた。
そこにあった名前。
「・・・・・・五関くん?」
不思議そうな塚田の声にも、五関は一瞬固まったようにそのディスプレイを見ていた。
向けられた声も聞こえていないかのように。
『河合郁人』
塚田の声にも反応することなく、五関は指先で通話ボタンを押していた。
そして緩慢な仕草で携帯を耳に当てる。
ただそれでも無言だった。
言いたいことは沢山あったけれど、何から言っていいのか判らなかった。
電話口には暫しの沈黙が流れる。
五関の反応がないからか、電話向こうの相手も何も喋らない。
それから数秒して、向こうに聞き慣れた声がした。
けれどそれは、予想していたものとは違った。
『・・・俺、わかる?』
わからないはずがない。
河合ではない。
河合の携帯から、河合ではない、彼の声がする。
その事実に、そしてその意図に、五関の頭は一瞬何も考えられなくなる。
『なぁ、もう、解放してやってよ』
「・・・なんのこと?」
『あんたじゃ駄目なんだ。・・・でも、あんたじゃなきゃ駄目なんだ』
「どっちだよ」
『どっちもほんと。だからむかついてしょうがない』
決して激しているような様子はない。
けれども抑えられた声音には確かに、この電話口だろうとも隠せない感情が見える。
『なぁ、もうはっきり言うよ』
「・・・」
『俺、あいつのこと好きなんだ』
特に衝撃はなかった。
思えば予想はついたことだった。
そして自分があんな態度をとり続けたことが、彼の気持ちを煽り立ててしまったことなど容易に想像がつく。
「・・・そう」
『驚かないんだな』
「なんとなく、感じてたし」
『さすが。・・・じゃあ、貰ってもいいよな?』
「俺に訊くことじゃないんじゃないの。それに、あいつは物じゃない」
それこそ自分の言う台詞じゃない、と内心自嘲気味に思いながらも、努めて抑えて呟いた。
嫌な予感がして堪らなかった。
『うん。単に確認で言っただけ。単なる、事後承諾』
「・・・・・・」
事後承諾。
その一言に込められた意味を半ば理解して、何かが軋む音がした。
『五関くんを責めたりしないよ。・・・泣かせたって意味なら、俺もさ、もう同じだから』
また更に軋む音。
それは自分が携帯をきつく握りしめた音なのだと今気付いた。
「・・・横尾」
『うん?』
「河合に・・・なに、した」
『・・・それを、あんたが言うんだ?』
「お前・・・」
『あんたこそあいつに何したよ?・・・って、まぁ、もういいや。自分を正当化するつもりはないから』
今まで聞いたこともないような声だと思った。
つまり横尾は、今まで自分が保ってきたスタンスを捨ててしまったということだ。
頭の奥が痺れて熱するような感覚に眩暈すら覚えた。
そのまま携帯を握りつぶしてしまうのではないかと言う程に、軋む音が続く。
けれど最後に耳に届いた、なんだか妙に力ない声に、その音すらも止んで再び沈黙が降りた。
『あんたはずるいよ。そんなに好きなら、離すなよ・・・』
その声が、まるで泣いているように聞こえた。
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(2007.3.23)
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