11.手負いの猫を捕まえる方法










舞台の稽古も終盤に差し掛かり、本番まであと一週間に迫っていた。
既に稽古場を本番のステージに移し、一通り通して流れを確認するくらいの段階だ。
全体で見ればほぼ順調に進んでいたけれど、その中で一つ、演出家に渋い顔をさせている部分があった。
それは見せ場の一つでもあるフライングだ。
フライングは派手で見応えがある分、その特性上危険を伴うのも確かで、十分な集中力と注意力が求められるものだ。
ただA.B.C.にとってそれはもはや毎度のことで、本人達の技術力や集中力は皆認めるところだったから、誰も特別な心配はしていなかった。
けれど実際やってみれば、どうにもいつもと様子が違う。
塚田と戸塚のペアはいつも通りなのだが、問題は五関と河合だった。

命綱をつけて宙吊りになった状態の二人を見上げ、演出家がまた手を振る。

「ストップ!・・・二人とも降りてこい」

ため息交じりのその言葉に、吊られていた二人もまた宙で小さくため息をつく。
そしてスタッフの合図で吊られていた身体がゆっくりと降りてくる。
地面に足をつき、ハーネスを外してやってきた二人に、彼らの父親程の年齢の演出家は二人を交互に見やるとまたため息をついた。

「どうした?全然息が合ってない。らしくないな」

その演出家は今までにも数多くこの事務所関連の舞台を手がけていて、A.B.C.と仕事をしたことも何度もある。
だからそれなりに気心は知れていたし、彼らの力量はよく知っていた。
何より息がぴったりで信頼しあったペアだと思っていた二人だけに、この不調は解せないのだ。

その言葉に五関はちらりと隣を見たけれど、河合は俯きがちに黙ったままだ。

「特に河合。ちゃんと五関の動きを見ないと駄目だろ。合わせる気があるのか?」
「・・・はい、すいません」
「ちょっとした油断が命取りになることくらい、わかってるな?」
「はい・・・」

けれどその言葉には覇気がなく、視線も未だ地面に向かったままだ。
なんとなく顔色もよくないように思う。
普段明るくて人懐こくて礼儀正しくて、何より仕事熱心な河合の性質をそれなりに知っているだけに、その演出家も眉根を寄せて少し心配気だ。

「調子でも悪いのか?」
「いや、そんなことは・・・。ほんと、すいません」
「・・・自分がプロだってわかってるか?」
「はい・・・わかってます」
「・・・ならもういい。今日はこの辺にしとくか」

河合の様子に盛大にため息をつくと、彼はそう言い渡して周りのスタッフに機材を片付けさせ始める。
今日の稽古はもう終わりのようだ。
周りで見守っていた他の出演者達も各々その場を後にする。
その中には、五関と河合の方を心配気に見る視線もいくつかあった。
それを感じていながら、河合はそちらを見ることもなく、無言で首にかけたタオルで額を軽く拭うと足早に出て行った。






控え室に戻る気にはならなかった。
仲間達に心配されるのは目に見えていたからだ。
それになんとなく気分もよくない。
ただそれはこの間のように風邪を引いたわけではなくて、完全に精神的な問題だ。
そして精神的な問題を仕事に影響させてしまっていることにまた気が滅入る。
こんなことでは駄目なことは十分判っているのだけれども、どうにもならない。
河合は伏し目がちに大きく息を吐き出すと、暫く風に当たろうと裏口から外に出た。

外に出るとちょうど目の前に大きな樹があって、その葉がそよそよと揺れていた。
今日はそれなりに風があって気持ちがいい。
何歩か歩みを進めてから、その風を感じるように目を閉じる。

どこかに行きたいな、と漠然と思った。
どうせならこんな風の感じられる場所がいい。
ここ一週間どこにも出かけず毎日稽古ばかりだったから。
その割に調子はいまいちで、演出家や振り付け師には怒られ、溜息をつかれる連続で、仲間達にも心配されて、ろくな状態ではなかったから余計に。

どこか、何も考えなくてもいい場所に、行きたい。

そよいだ風が河合の柔らかな甘い色の髪を揺らす。
その背後から呼び止めるような声がした。

「河合」

ゆっくりと目を開けた。
一気に身体が緊張に満たされるのが判る。
それでも静かに振り返った。
そこには当然のように年上の相方の姿がある。
追いかけてくるとは思わなかったけれど、たぶんさっきのことだろう。
僅かに眉を下げたその顔を認め、河合はゆっくりと視線を動かすと地面の方にやった。
その姿に五関は小さく息を吐く。

「・・・さっきの、どうなの、お前」
「うん、ごめん」

あっさり返ってきた謝罪の言葉だけれど、その視線はやはり地面に行ったままで、五関は眉を寄せてその顔を注意深く見る。
この一週間、言いたいことはたくさんあった。訊きたいこともたくさんあった。
けれどそれどころではなかったのだ。

「昨日も一昨日も、集中力なさすぎ」
「うん、ごめんなさい」
「もうあと一週間だよ?わかってる?」
「うん。・・・明日からちゃんとするよ」

そう言って、じっと視線を落としたまま。

こんなにも喪失感を覚えるとは思わなかった。
その目が頑なにこちらを見ないことが。
それは本当の意味で他の手をとったということなのか。
五関はそう思うと、この一週間口を噤むしかなかった。
一週間前のあの日の電話の意味を確かめることもできずに。

けれどそれにとて限界はある。
正直わかりやすすぎるのだ。
こうまであからさまに視線を逸らされ、話しかけてもこないとなると。
それらは自業自得と言えばそれまでなのかもしれないけれど、それがちょうど一週間前のあの日以来だということを考えると、五関は今のままではいられないと感じた。
少なくとも、もう自分で動かなければどうにもならないところまで来てしまった。
それすらも、今まで動かなかったツケと言えばそれまでだったかもしれないけれども。

俯いたままのその顔。
高い鼻筋と長い睫が強調されて見える。
五関は一度小さく息を吐き出すと、ゆっくりと呟くように言った。

「なんで、俺のこと見ないの?」

その言葉には長い睫が瞬くのが見えた。
けれどそれだけ。

「ほんとに俺が嫌になった?」

今度は妙に艶めいた下唇が微かに震えたのが見えた。
それでもそれだけ。

「あいつの方が、よくなった?」

それは言ってはいけないことだと判っていた。
一週間前のあの日、それでまた傷つけたから。
けれど今のそれは確かに言わなければ、訊かなければならないことだと五関は思っていた。
その答えがなんであろうとも、自分のとる行動はもう変わらない気もしたけれど。

目の前にすれば否が応でも突きつけられる。
あの煌く大きな唯一無二の瞳が、自分が最初に囚われたそれが自分を見ないことに、こんなにも喪失感を覚えるのなら。

けれど返ってきた言葉は予想外のもので、消え入りそうに小さかった。

「・・・もう、いいんだ」
「え?」

その答えの意味がわからなかった。
それを問い返そうとしたら、いつの間にか現れたもう一つの声に遮られてしまった。
一週間前のあの日、電話越しに聞いたそれだ。

「もうすぐ閉めるって。二人とも早く出る準備しろよ」

誰かなんてわかっていた。
けれど五関は振り返らなかった。
目の前の顔から視線を外せなかったからだ。
その声にあからさまに震えた華奢な肩。

何故そんな反応をするのか。
自分だけでなく、親友相手にまで。
よしんば五関の想像通り、既に親友を超えてしまったとしても、それでもその反応は。

固まったように河合をじっと見る五関。
やはり俯いたままでいる河合。
その二人を訝しむでもなく、横尾はそちらに歩み寄ると、河合の手を無造作に掴んだ。

「・・・ッ!」

今度は顕著な反応があった。
まるで打たれたように顔を上げ、横尾をじっと見上げる。
けれど腰が引けている。
明らかに一週間前とは違う二人の間に流れる空気を五関は敏感に感じ取った。
いや、今初めてではない。
この一週間、河合は五関とはもちろんのこと、横尾とも一言たりとも言葉を交わしている様子はなかったのだ。
河合は五関だけではない、横尾からも頑なに視線を逸らしていた。

その意味。
一週間前のあの日にあったこと。

五関は静かに口を開いた。
それはあの電話口と同じ問いだ。

「横尾」

けれど今度なら答えるはずだと、何故か確信があった。

「河合に、何した?」

それに真っ先に反応したのは、横尾ではなく河合だった。
横尾に手を掴まれた時と同じように五関を見て、緩く頭を振る。
訊くなということだろうか。
けれどそれは半ば五関の問いを肯定することにしかならない。
そして問われた当の横尾は一拍置いてから、あの時と同じように言った。
乾いたような声。

「それを、あんたが言うんだ?」

そして河合の手を依然として掴んだまま、続きを答えた。

「無理やりヤった。・・・そう言えば満足?」

手を掴まれたままの河合はその言葉に一瞬驚いたように横尾を見て、すぐさま顔を歪めると強引に手を振り払った。

その光景をどこか遠くに見るような心地を覚えつつ、五関は言われた言葉をなんとか消化するように大きく息を吐き出す。
冷静になれと内心で自分に言い聞かせ、頭の中で整理する。
何より重要なのはそこじゃない。
重要じゃないなんて口が裂けても言えないけれど、それでも。
自分が言える立場ではないと判っていても、それでも。
あんなにも懐いて頼って笑顔を向けていた親友の顔も見られなくなってしまった河合が、哀れでならない。

「お前、河合が好きだって、言わなかった?」
「・・・それがなに?」
「好きなら、なんで、傷つけるようなやり方するんだよ・・・」

自分に傷つけられる河合が見ていられなかったのなら。
自分を好きになって苦しむ河合を想ったのなら。
自分から守りたいと思ったのなら。
親友として長い間守り続けてきたその心を、どうして敢えて引き裂くようなことをしたのか。

けれど五関に言う権利はなかった。
だからそれ以上は言えなかった。

歪められた薄い唇からこぼれた、嘲るような声。

「・・・あんたこそこいつに何したよ?」

それもまた一週間前の電話口と同じ台詞。
そう、同じだ。
何も違うことなんてない。
結局五関も横尾も、なんだかんだと理由をつけたって、自分の身勝手で河合を傷つけたことに変わりはない。
河合のたった一つの想いを踏みにじって、傷つけたことは同じなのだ。

「それでも・・・お前は傷つけないと思ってた」
「ほんとに勝手だよ、五関くんは」
「お前は俺じゃないから」
「そうだよ。俺はあんたじゃない」
「だから、」
「だからっ、あんたじゃなきゃ駄目だって言ったんだよ!」

五関の言葉を遮るようにして放たれた怒声は、けれどその強さに反して脆かった。
その声もまた傷ついているようで、五関はそれになんと返したらいいのか一瞬判らなかった。

「・・・やめてよ」

小さな声。
視界の端に映った河合の姿に五関は思わずそちらを向いた。
河合は二人から後ずさるように二人から離れようとしていた。

「河合・・・?」

横尾もまた異変を感じたのか、咄嗟にそちらを見た。

河合は何度も何度も頭を振る。
そして一歩、また一歩と離れる。
小柄な手をぎゅっと握って、きつく握り締めて。

「もう、いいよ・・・いいんだ・・・」

この恋に落ちて。
たくさんのものを壊して。
この一週間、壊れた心で河合が導き出した答え。

「もう、いらない・・・。もうなんにもいらない・・・」

河合は二人から離れていく。
たった一つ、自分だけの胸に固く持ち続ける想いなら許されると思っていた。
けれどそれこそが全ての元凶なのだとしたら。

「近づかないから、なんにもしないから、なんにもいらないから、」

何もかも壊すこの心を、捨てていく。

「もう、俺に、なにも言わないで」

それらの時をここで止めていく。


まさに時を止めてしまったかのように、五関も横尾もその場から動けずにいた。
けれどもう一歩後ずさった河合に、五関はなんとか口を開いた。

「行くなよ」
「言わないでって言ってる・・・」
「河合」
「もう、言うなってば・・・」
「でも、俺は、言いたいことがあるんだよ」
「もういらないっ・・・」
「河合っ」

五関の足が動く。
横尾はそれを固唾を呑んで見やった。
河合はもう一歩後ずさる。
けれどそこで、誰かにぶつかった。

「なにやってんの?」

思わず咄嗟に振り返った。
河合と同じくらいの背丈の、女好きのしそうな童顔。

「きた、やま・・・」

北山は無言で河合を見て、向こうの五関と横尾を見て、もう一度河合を見て、首を傾げると軽い調子で言った。

「マジでもう閉めるって。呼びにいった横尾まで帰ってこないし・・・呼びにきたんだけど」
「あ、ああー、ごめん、うん、今いく・・・」
「早くしろって」

この異様な空気に何も感じないはずがない。
けれど北山は敢えて何も言わなかった。
たださりげなく河合の背中を押すようにして扉の方に押しやる。
そして一瞬顔だけで振り返ると、二人に意味ありげな視線をやって、再び河合の背中を押して出ていってしまった。

『河合ーたまには飯いくかー』

そんな声が向こうから聞こえて消えていく。
それに五関と横尾は二人とも何か感じ取ったのか、互いにちらりと顔を見合わせた。

北山は普段河合を夕飯に誘うことなどまずない。
そういう間柄ではないからだ。
決して仲が悪いわけではないけれど、そういうことをするような仲でもない。
言葉では言い表せない微妙な関係性なのだ。
その意味を考えれば、きっと遠巻きでも少なからず何かを感じ取った北山が寄越したメッセージは。

横尾は手持ちぶさた気味に懐を探ると、四角い箱を取り出して、その中から煙草を一本指に据える。

「・・・どうするよ」

それを横目に五関は前髪を無造作にかき上げて溜息をつく。

「どう、するか・・・」

追い詰められた手負いの猫はより臆病になってしまっている。
どうしたらもう一度擦り寄ってきてくれるのだろうか。










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(2007.5.14)






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