13.あの日から辿り着いた場所
それはこの目に突然飛び込んできた宝石の煌めきだった。
『・・・だれ?』
今にもこぼれそうな程に目に雫をいっぱいに溜めた瞳。
座り込んだその身体がじっと固まったようにこちらを向き、見上げてきた。
まるで星屑を落とした湖のように煌めくそこに自分が映っていることが、なんだか不思議な気分で。
同時に、そこに映った自分のなんともしょげ返ったような顔が恥ずかしくなって、咄嗟に被っていたキャップのつばを少しだけ下げた。
けれどすぐさま踵を返す気になれなかったのはきっと、それをもう少しだけ見ていたいと漠然と思ったからなんだろう。
キラキラと光る、宝石みたいな瞳。
『ね、だれ・・・?』
答えない様に少しの怯えと警戒心を持ったのか、少しだけ寄る眉根。
ここはレッスンスタジオの裏手だ。
そんなところに見たことのない顔があることからして、恐らく最近入ったばかりのジュニアだろうと思った。
一瞬名乗ろうかと思ったけれど、名乗ったところでどうせ知らないだろうし、そんな気分になれなかったから心なしかそっけなく返した。
『・・・おまえこそ、誰?』
そもそもここは自分のお気に入りの場所なのに。
そんな少し気にくわない気持ちもあったんだろう。
言えないモヤモヤをこっそり吐き出しにくる自分だけの場所だったのに、と。
けれどそんな返しに、涙を溜めた瞳は少しだけ不思議そうにパチンと瞬いた。
いっぱいに溜められた雫が瞬きと共に散る。
『お、おれ・・・かわいふみと』
なんだか少しだけ頬が紅潮して子供じみていた。
実際子供だし、自分よりも年下だろうというのは見てすぐにわかったけれども。
『・・・かわい、ふみと?』
『うん』
『いくつ?』
『えと、11さい!』
『ふーん。ジュニア?』
『うん・・・。でも、もう、くびかも』
しょぼん、と見るも見事に項垂れては鼻をすする。
そんな簡単にはクビにならないと思うけど、と内心おかしく思いながらその顔を覗き込むようにしてみた。
『クビって、なにしたの?』
『あ、あのね、おしゃべりしてたらさ、せんせーにおこられた・・・』
『レッスン中にってこと?』
『うん・・・でも、でも、あれはますだがわるいのにさ!』
『ますだ?』
『うん。いっしょのてすとではいったの、ますだ』
つまりは同期の奴とレッスン中に喋ってたら先生に怒られてしょげてるってことか。
即座にそう理解して、呆れたようにため息をついた。
『そんなの、おまえがわるいんじゃん』
『なんで!』
『レッスン中はちゃんとやらなきゃだめにきまってるだろ』
『・・・でも、おれ、うまくおどれない』
『ちゃんとやらないからおどれないんだろ。ばかじゃないのおまえ』
『ばかってゆーなよ!』
『そんでめそめそしてんだ?』
『うっ、うるさいなー!』
妙に赤い唇を尖らせて頬を紅潮させて眉をキリリと上げてみせる様がどうにも生意気だ。
大人しくめそめそしてる方が可愛く見えるのに、なんてぼんやり思ったけれど、今の様子の方がたぶん本来のこいつらしいのかも、なんてことを思いもした。
もちろん初めて会ったのにそんな感想はおかしいと、幼心にも判っていた。
けれど未だ濡れたその瞳は、今そうして強い意志を垣間見せた方がより一層輝いていたから。
より綺麗な方がそれらしいに決まっているんだ、なんて子供心に決めつけて思った。
『ちゃんとやれば、そのうち上手くなるよ』
『・・・ちゃんと?』
『うん。おしゃべりばっかしてないでさ、ちゃんと先生の言うこときいて、がんばるんだよ』
『・・・ほんと?』
『うん。俺はがんばってるもん』
それは少し嘘だった。
本当ははもう頑張れそうになかった。
だから今日はレッスン着を持ってきていなかった。
でも濡れた宝石が星のような光を宿してキラキラ、キラキラ、自分を見ている。
そんなにじっと見るなよ、なんて思わず言いそうになってしまう程。
けれどそう言わなかったのは、自分もそれを見ていたかったからだ。
そんなにも綺麗なものは見たことがなかったからだ。
泣いて俯いているのも綺麗。
でも真っ直ぐに強い意志を宿して顔を上げた方がもっと綺麗。
そしてきっと、もっと、もっと・・・そう。
『・・・・・・うん』
ほら、やっぱり。
『じゃあ、おれも、がんばる・・・』
白い歯を見せて、目尻を下げて、長い睫を瞬かせて。
花が綻ぶように笑った。
その時の瞳は、何よりも綺麗だったから。
もう辞める、なんて。
そう言いに今日ここに来たことなんて、すっかり忘れてしまっていた。
『・・・じゃあ、がんばれよ。俺もういくから』
レッスン着を借りに行かなければならない。
もうやるつもりなんてなかったから、持ってきていないのだ。
『あっ・・・ねえ!』
『なに?』
踵を返した後ろ姿に声をかけられて、何気なく振り返る。
『なまえ!』
『え?』
『なんてゆーの?』
キラキラ光るそれが自分を映していることが、なんだか凄いことのように思えた瞬間だった。
『・・・・・・ないしょ』
『えー!』
『どうせそのうち会えるよ』
『あっ、まっ・・・』
じゃ、ばいばいふみと。
そう言ってキャップを目深に被り直すと走り出した。
後ろに何か言っている声が聞こえたけれど、立ち止まらなかった。
あの綺麗な綺麗な宝石をずっと見ていたいなと思った。
できればこっちをずっと見ていて欲しいなとも思った。
けれど今は駄目だと思った。
挫けかけていた自分ではきっとすぐに逸らされてしまうから、それでは駄目だから、もっともっと、向こうが目を離せないくらいにならなければ。
今度会って名乗った時は、その瞳を釘付けて離さないように。
ふっと意識が浮上して目が覚めた。
「・・・」
小さく欠伸を噛み殺して目を擦る。
どうやら稽古の休憩時間にうたた寝をしていたようだ。
しかも、随分と懐かしい夢まで見た。
結局それから暫くしてから同じステージに立つ機会があって名乗った時、あいつ憶えてなかったんだよな。
そんなことをぼんやりと思い出しておかしくなった。
でもどうやらあれ以来ダンスはとても頑張っているようで、振り付け師からも筋が良いと褒められていたから、それでいいと思ったのだ。
何より、あの宝石のような瞳が踊っている自分にじっと向けられているのを肌で感じたから、それだけで嬉しかったのだ。
思えばまだあの頃は純粋だった、なんて。
幼い自分を思い出してはまた笑ってしまう。
そして更に思う。
どうしてこんな風になってしまったんだろう、と。
あの一途な想いをはね除けてまで追いかけさせることなんて、縛り付けて離さないことなんて、到底純粋とは言えない。
でもそんなことは判っていた。
そんな気持ちを抱いた時から判っていた。
だから傷つけると思った。
だから触れるべきではないと思った。
あの一目で心を奪われた綺麗な宝石に、傷を付けるなんて、そんなことは。
それでも思い知ってしまった今となればどうしようもない。
傷つけるのが怖い。
それでも傷つけてしまう。
手放したくない。
それでも今離してしまいそうなら。
あとはどうすればいいか。
五関は無言で立ち上がると部屋を出た。
そこはスタジオの裏手。
まだ幼い時によく一人で来ていた場所。
そして初めてあの宝石に魅せられた場所。
あの日からこの場所は自分のものではなくなったのだ。
「・・・なーんで、五関くんていつもここだってわかるんだろね」
座り込んだ体勢でじっと見上げてくる瞳はあの日と変わらない。
あの日のように雫を溜めてはいないけれども。
ただ、あの日よりももっと最近でなら、同じような濡れた瞳を見た。
間違えた瞬間はきっと沢山あっただろうけれども、一つ言うなら、きっとあの瞬間なのだろうと思う。
そしてそれをやり直せるのなら。
「お前知らないだろうけど、もっとずっと昔は俺が来てた場所なんだよ、ここ」
その言葉にはなんだか少しだけ驚いたような表情が返ってきた。
けれど軽く納得したように頷いては、うっすら笑ってみせる。
この間のように逃げられることはないようだ。
そこに一体どんな僅かな変化があったのかは窺い知れないけれど。
その隣にゆっくり腰を下ろす。
河合はそれが気になるようで、チラチラとこちらを窺っている。
けれどそちらは敢えて向かずに呟く。
「こないだ言ったこと、憶えてる?」
「え・・・?」
「お前に言いたいことがある、って」
「・・・」
河合はなんと言って返したらいいのか判らないようだった。
けれど何気なくそちらを見ると、ちょうど微かに頷いたのが見えた。
「聞いてくれる?」
またしても返ってくる言葉はなかった。
ただひたすら戸惑ったような表情で、まるで迷子の子供のような表情で、頼りない声を漏らした。
「・・・それ、俺が喜ぶこと?それとも・・・」
「さぁ、それはどうだろ」
今まで散々好きだと言ってきた相手に、それでも受け入れて貰えなかった相手に、今更に受け入れられたなら、想いを告げられたなら、普通は喜ぶだろうか。
けれどもう今となるとそんなに簡単なことではない気がした。
ここまで来るのにはもう沢山のことがありすぎた。
そして何より、巻き込むだけ巻き込んでしまった人間がいる以上。
「ねぇ、五関くん・・・」
思うことはきっと河合も同じだっただろう。
目を伏せて小さく息を漏らしながら呟いた。
「その前に、言っても、いい?」
「なに?」
「五関くんには関係ないことかもしれないけど・・・俺が言っておきたいから」
「・・・いいよ」
関係ないかもしれないと言ったけれど、きっとそれは自分にとって大事なことだと感じた。
だから五関はじっとその言葉を待った。
河合は暫し口を開いたり閉じたりして、言いあぐねた様子を見せる。
そして少しだけ視線を落とし、長い睫を瞬かせ、掠れた声で言った。
「横尾のこと、誤解しないでほしいんだ」
「・・・どういうこと?」
「あいつ、こないだあんなこと言ったけど・・・でも、あいつ、ほんとは・・・」
一旦言葉が途切れた。
五関はその間に言葉を挟むことはなかったけれど、確かに思った。
河合が今その名を出すということは、今五関の言葉がなんであろうとも、それを聞くために河合は彼の存在を避けては通れないのだ。
「ほんとは・・・あの時あいつ、俺になんにもしなかったんだ・・・」
言葉こそ発しなかったけれど、五関は少なからず驚いていた。
横尾の気持ちを思い知って、あの電話口の声を聞いて、面と向かい合ったその表情は、確かに言われたことを事実だと肯定したと思った。
けれど違った?
「俺がごめんって、言って、泣くから・・・五関くん五関くんて泣くから、だから、・・・」
ごめん。
ごめんなさい。
それでも五関くんが好きなんだ。
そう言って、その涙は目を覆ってくる大きな手のひらを濡らし続けた。
「・・・」
五関は手を伸ばしたくて堪らなくなった。
でも最後まで聞かなければならないと思ったから堪えた。
親友の想いに応えられないことに、それでも自分の想いを捨てられないことに、河合はその時どれだけ傷ついただろう。
そしてそれを目の当たりにした横尾は。
「だから横尾、そのままじっとしてたんだ・・・ずっと、なんにもしないで・・・・・・泣いてる俺になんにもしないで、」
河合は両膝を抱えてそこに顔を埋めた。
くぐもった声は、もうそこに雫がなくてもまるで泣いているように聞こえる。
「声も出さずに、泣いてたんだ・・・。横尾も、泣いてたんだ・・・」
手で目を覆われていたから見えはしなかった。
けれど唇や喉に落ちてくる雫を確かに感じた。
ぽつん、ぽつん、と自分の涙に混じるそれに気付いてしまった。
横尾の流した涙は一体どんなものだっただろう。
それは守りたかった親友を他ならぬ自分が傷つけたことにか。
そこまでされても想いを捨てられない河合にか。
どんなに想っても報われることのない自分にか。
「それなのにあいつ、自分だけ悪者になろうとしてんの・・・」
無理矢理に自分のものにすることすらできなかった。
それくらい大切だった。
そうして涙を流して、最後の自分の手からすら守って、五関を焚きつけるようなことを言って。
思い知らされる。
あの男の方が余程河合を大事にしていた。
「でも俺、どうしたらいいのかわかんなくてさ・・・。
仲直りしたい・・・けど、もうそれもできないかもしれなくて、なんて言ったらいいのかわかんなくて・・・」
そんなにも大きな気持ちを向けられてなお応えることのできない自分は、一体どうしたらいいのか。
河合はわからなくて横尾の顔すらもう見れなくなってしまっていた。
「俺、間違えた・・・?」
そっと顔を上げて、河合はなんとか五関の方を向いた。
もう目を逸らしたくない。
捨てることすらできない想いだと思い知ってしまった以上。
それでも前を向いて見つめることを止められないのだと判ってしまった以上。
けれどその曲げられない想いこそが親友を追い詰めたことに、河合は今板挟みになっている。
五関はそれに暫し黙して、せめてとゆっくり伸ばした手で宥めるように頭を撫でた。
あの電話口の声を思い出す。
泣きそうな声だと思った。
けれどそうじゃなかった。
泣きそうだったんじゃない。
横尾はあの時、泣いていたんだ。
どんなに想ってもどうにもならない恋に泣いて、それでも想い人を自分の欲望から守りきって、その上で、好きなくせに動こうとしない五関をけしかけて。
「・・・お前が間違えたんなら、俺はもっと、間違えたよ」
五関は深くため息をついて、掠れた声で呟いた。
傷つけたくないなら、手放したくないなら、それでも自分だけを見ていて欲しいなら。
するべきことは受け入れないことでも、突き放すことでも、迷わせることでも、誰を巻き込むことでもなく、昏い願望など振り払って。
真っ直ぐに手を伸ばして、抱きしめて、守ればよかったんだ。
それこそ、他の誰かが手を伸ばして傷つく前に。
答えはこんなにも簡単だったのに。
「ごめん・・・。お前には、いっぱい、謝ることがあって・・・・・・ああ、横尾にもか・・・」
五関は力ない腕でその甘い色の頭を抱き寄せた。
とん、と肩口に預けられたその顔。
息を飲んだ様子が耳に届く。
身体が強ばっているのが判る。
それが自分がしてきたことの結果なのだと、五関はまたため息を吐いて、それでも手は離さない。
「俺は、お前に言いたいことがあって・・・」
「ごせきくん・・・?ま、待って・・・」
「聞いて。聞いてくれるって言っただろ」
「でも、でもなんか・・・」
何を言われるのか判ってはいないだろう。
今更想いを受け入れて貰えるとは、想いを告げられるとは思ってはいないだろう。
そして何より横尾のことが、今の河合に躊躇わせる。
五関とこんな体勢になっていること自体既に罪悪感を感じるのだ。
五関にもその気持ちは判る。
痛い程判る。
けれどだからこそもう躊躇ってはいられない。
ここを踏み越えなければもう自分達にこの先はない。
「かわい」
緩くもがいて身体を離させようとするのを押さえ込んで、代わりにそっと顔を上げると、その顔を真っ直ぐに見た。
目と目が合うとその動きがぴたりと止まる。
うっすらと開いたその唇。
五関は極自然な動作でそこに自分のものを押し当てた。
「っ・・・」
その瞬間河合はギュッと目を瞑り、その身体が一際大きく震えた。
まるで何か熱いものに触れたような。
そう、今この唇はきっと熱いのだろうと五関は思った。
今までずっとずっと、喉の奥をせり上がっては留められてきた、その熱い言葉のせいで。
この言葉のせいで。
「ほんとは、俺も、お前のこと・・・好きだよ」
閉じた瞼が再びゆっくりと開いていく。
初めてここで出逢った宝石がキラキラと煌めいていた。
それはとてもとても綺麗で。
だからそう、もうこれは間違ってなんかいないはずだ。
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(2007.5.14)
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