14.嘘じゃない、夢じゃない










開いた瞳はまるで夢でも見ているような。
むしろ今耳に届いた言葉が現実のものではないような。
そんな風にゆるゆると瞬くだけだった。
けれどそれでも否応なしに突きつけられるのは、今触れたばかりの唇の感触。
それこそがこの現状を確かに現実だと思い知らせるのだ。
ただ河合はそれでも信じられないと言うかのように、その細い指先を緩慢な仕草で自らの唇に触れさせる。
そこから漏れるのは戸惑いだった。

「う、そ・・だぁ・・・」

声が震えている。
それになんとも複雑そうな、苦笑したような表情を布きながらも、五関はそれでも目の前の呆然とした顔をじっと見つめた。

「嘘じゃないよ」

けれど五関がその一言を発しただけでも、河合はまた驚いたように息を飲む。
まるでそこに五関がいること自体が信じられないかのような。
そして河合からしてみれば、それはあながち間違っている表現でもなかった。
河合には信じられないのだ。
自分に好きだと言う、そんな五関が目の前にいることを、夢ではないなんてそう簡単には思えない。

「なんで・・・?」

そんな簡単に信じられるはずがない。
何故なら河合は憶えているからだ。
何度好きだと告げてもかわされて、はぐらかされて、やんわりと拒絶されて、それでも諦められずにここまで来てしまった、その過程を。
その中で壊れたものがあることを。

「うそだよ・・・。だって、言ったじゃん・・・」

河合はふるふると頭を振っては瞬きもせずに目の前の顔を凝視する。
未だに都合のよい夢だとしか思えないのだ。
好き過ぎて、想い過ぎて、もはや白昼夢を見るようになったのだと、そう思うことしかできなかった。
きっと手を伸ばせばそれは触れる寸前で目が覚めてしまうに違いない。

「応えられないから、やめとけって・・・言った・・・。言ったのは、五関くんじゃん・・・」

けれどゆるゆると伸ばした手は、その肩の辺りに触れた。
その感触にも河合は驚いてしまう。
さっき唇さえ触れたというのに。
この間の夢でさえ、それは何度見た夢でさえ、唇には触れられなかったのに。

「なんで、いまさら・・・?」

疑念の拭えない声。
それは当然だろうと五関はため息交じりで思った。
そういう態度を今までとってきたのだ。
だからこそ、その分の誠意を今見せなければならない。

「なんでいまさらなのかって、それはこれから説明したいんだけど・・・」

さて一体どこから始めればいいだろう。
五関は目の前の顔を窺いながら考える。
どこか怯えが見える表情。
好きだと言われて怯えられるのもなかなかに傷つく。
けれどそれこそが河合の傷の証でもあるのだと思い知る。
手負いの猫が自分を傷つけた相手にもう一度擦り寄ってきてくれるのには、それなりの過程が必要だ。
たとえ相手が誰より懐いた飼い主であったとしても。

「・・・からかってる、とか?」
「わざわざお前からかうのにこんなこと言わない」
「じゃあ、慰めてくれてる?」
「なんで慰めるのに好きとか言う必要あるんだよ」

好きだと言ってキスまでしてもまるで信じて貰えていない。
当然かもしれないとも思う反面、その傷の深さと存外な臆病さに戸惑う。
伝える覚悟はしてきたつもりだけれども、一体何をどう説明すればいいのか五関も迷った。
今この気持ちを伝えるのに、言ってしまえばまだそのドアの入り口すら開けられていない状態なのだ。

その心なしか困ったような表情を敏感に読み取って、河合は眉を下げてうっすら力なく笑ってみせた。
それは何度も傷ついた果てに、どうしようもなく後ろ向きな心の守り方を憶えた者の言葉だ。

「優しいね、五関くん」
「・・・なに?」
「俺がすごい落ち込んでるから、見てらんなくなった?」
「誰もそんなこと言ってないだろ・・・」
「なんかもう、ボロボロだしね。本番もうすぐだっていうのに、稽古もロクなもんじゃないし。
ちょっとなんとかしないとって思うよね。俺がちゃんとしないと、舞台で困るの五関くんだしね」

河合の言葉は力ないものだった。
けれど力ないそれらが、今自分の胸を鈍く突き刺していくのを五関は感じていた。

「諦めろって言われても、嫌いだって言われても、それでも諦めらんなくてさ。
グズグズして調子崩して、友達まで巻き込んで、どうにもならなくて・・・しょうがないから受け入れてみた?
好きって言ったら・・・俺単純だし、浮かれて絶好調になるかも?
キス一つで、この後のフライングも成功しちゃうかもね?」

小さく笑い混じりでそんなことを言ってみせる胸の内などわかっている。
けれどこの無力感と脱力感はなんだろう。
自分の本気を、本当の気持ちを、それらを真摯に向けてもそれが正しく受け取られるとは限らない。
それはしょうがないことだ。
相手のせいじゃない。
そう、それはわかっている。
けれど相手の気持ちがどうあれ、自分の唯一無二の気持ちを受け入れて貰えない悲しさ。
今ようやく思い知らされた。
河合は今までずっとこんな思いをしてきたのだ。
どれだけぶつけても返ってくることなどない想いを胸の内に抱え込んで、それでも笑ってみせた。
五関への親愛をなくすことはなかった。
応えてやれない、と。
返ってくることなどないと、そう突きつけられた想いを捨てず、捨てられず、抱え込んできた。

「ごめんね。そんなこと言わせて」

どうしたらいいだろう。
どうしたら伝えられるだろう。
何よりも欲しかった想いを目の前に与えられても、それでも泣きそうな顔で謝ることしかできない、そんな相手に。
そこまで追い込んでしまった大事な人間に。
どうしたら。

「嫌いって言わせた上に、今度は、好き・・・なんてさ・・・」

嫌いだなんて嘘だ。
そう、そんなわけない。
そう言った時に笑ってみせたあの泣き顔が、今も脳裏に焼きついて離れない。

「無理に言わせてばっかで、ごめん・・・」

でも違う。
これは違う。
これだけは本当。

「嘘じゃない。嘘なんかじゃない」

好きだ。
好きだ。
本当は好きだったんだ。
沢山のものに縛られて拘って、言えなかっただけなんだ。
どうしたらそれを今伝えられる。

「俺は、ほんとに・・・」

けれど河合は緩く頭を振って立ち上がると、それを遮る。

「・・・もうすぐ休憩終わっちゃうよ。行こ?」

五関は未だしゃがみこんだままでその顔を見上げた。
声が出ない。
一体何度それを経験してきた。
去ろうとするその姿を引き止められなかったことが一体もう何度あった?
喉の奥にせり上がる熱いもので息苦しいままに、またその姿が視界から消えるのを見ているだけなのか?

「でも、あれだなぁ・・・」

けれど今ようやくわかったこともある。
そうやって去り際に見せるその顔の意味は、いつだって自分に引き止めて欲しかったのだということ。

「嘘でも、嬉しかったよ」


それならば、今こそ、その手を引きとめられたなら。


「・・・もう一回、好きって言ったらもっと嬉しい?」
「え?」
「もう一回キスしたら、もっと嬉しい?」

伸ばした手はその小柄な手を確かに掴んだ。
戸惑う表情を意に介さず、掴んだそのままに引き寄せて、壁に背中から押し付けて、逃げないように強く力を込めて。
余すところなく伝えるように、真っ直ぐにその顔を見つめて。

「お前が好きだよ。今すぐ信じろって虫のいい話かもしれないけど、それなら何度でも言う」

河合は抵抗すら忘れたように呆然とした表情だ。
そちらに顔を近づけると、五関は耳元で、そこに注ぎ込むように静かに繰り返す。

「いまさらって言われても、それでも言う。だって嘘じゃないから。
お前が好きで、お前じゃなきゃ駄目で、だからお前がいまさら言うなって言っても、俺も嫌なんだよ・・・」

一言紡ぐ度に河合は忙しなく瞼を瞬かせる。
何かを堪えるようにじっとしている。

「それ・・・ほんと・・・」
「ほんとに。・・・色々俺も怖くて言えなかったし・・・ほんとは、好きなんてもんじゃなかったし」
「すき、じゃない・・・?」
「そこだけ言葉抜き出して捉えるなよ」
「だって・・・」

すっかり染まってしまった耳朶に更に囁きかける。

「ほんとはずっと昔から、好きだったよ。
それこそ簡単に言い出せないくらいには・・・好きだった」

その言葉に耳の赤が一気に顔にまで移ってしまったみたいに、河合は紅潮した顔を俯かせて頭を振った。
けれど今度は否定ではない。
その手が五関の首に弱く廻ったから。

「・・・そこまで言ったら俺、さすがに、信じちゃうよ?」
「うん」
「もう、嘘とか言われても、だめだよ・・・?」
「うん」

頷く合間に唇に緩く触れる。
その度河合は吐息を震わせて、廻った手に力を込める。
そして裏返りそうな声で言った。

「やっば・・・」

震える両手でついには顔を覆ってしまう。
その指の隙間から見える真っ赤になってしまった肌。

「ひざ、くだけそう・・・」

そこで五関はようやく笑った。
けれどそれは余裕など欠片もない安堵の表情。
顔を覆う両手を外させると、それをやんわり掴んだまま宥めるようにゆっくりと唇を合わせる。
河合はその瞬間また身体を震わせたけれど、今度は改めてその言葉とその唇の熱さを確かめるように、夢ではないと胸に刻み込むように、静かに瞼を下ろした。










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(2007.5.14)






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