10.それは水面の月に手を伸ばすにも似て










気付いた時には、その瞳はもうただ一人しか見てはいなかった。



それはまだ横尾が河合よりも小さかった頃。

『あのさ、こんど五関くんとシンメ組むことになったんだ!
すごくない?あの五関くんだよ!?おれがんばらなきゃ!』

今と変わらぬキラキラした瞳で興奮気味にそう言われた日のことはよく憶えている。
当時からその年代のジュニアの中ではずば抜けてダンスが上手かった五関は、よく目標にされていた。
ダンスが好きな河合もその例外ではなくて、よく一緒にステージに立つ機会が多かった分、間近でそれを見ては追いつこうと必死だった。
だからこそ、そんな彼の相方に指名されたことは河合にとって言いようのない喜びだっただろう。



少し身長が伸びてきて、目線の高さが合うようになった頃。

『・・・俺、もしかしたら・・・好きなのかもしんない・・・』

誰を、と反射的に訊ねた言葉に、口ごもるように忙しなく耳朶を指先で弄っていた。
見ればその耳は真っ赤になっていて、それになんだか妙に胸が騒いだ。
そして消え入りそうな声で告げられた名前には、驚きよりも妙な納得の方が大きかった。
傍で見ていればそれは当然だと言ってしまえるくらい、河合はまるで抗えぬ重力に引き寄せられるように五関に恋をしていた。



ほとんど身長の止まってしまった河合を後目に、急激に身長が伸びて一気に見下ろすくらいになった頃。

『ずっと一緒にいて、嬉しいけどさ、なんか、辛い時がさ、あるんだ・・・』

好きだと告げても上手くかわされる。
そのくせ微妙な距離で惹きつけて離さない。
傍にいるのが当然で、だけれどもそれは特別な意味を持つべきではないと、まるでそんな言葉が聞こえるようだと。
大きな瞳は伏せられて、長い睫が所在なげに揺れる。
けれど、それでも好きだからしょうがないんだけどね、と最後には無理矢理笑ってそう言っては自分を納得させるように頷いていた。



横尾はずっと見ていた。
河合は大事な親友だったから。
時に励まし時に叱咤し、その言葉に耳を傾け、無言で見守り、必要あらば手も差し伸べた。
全て自分でしたくてしたことだ。
友情に見返りなどない。
明るくて人懐こくて少しバカで、けれどその実とても思いやりがあって仲間思いでいつも沢山のことを考えていて、少しだけ臆病で傷つきやすくて。
そんな親友が初めて経験した苦しいくらいの一途な恋を、せめて応援してやりたかったことに他意などない。

恋の叶う条件は想いの強さではない。
その事実を容赦なく突きつけられてなお、想うことを止められない。
そんな様は見ていることすら苦しくもあった。
だからこそなんとかその恋が成就すればいいと願っていた。
そうして親友が幸せになってくれれば、自分も安心できるのにと、そう思っていた。
けれどそんな思いとは裏腹に、日々恋に傷つく河合の姿に、いつの間にか横尾の想いも変容してしまっていたのかもしれない。

友情ではもう守れないなら、愛情なら守れるだろうか?
彼ではなくても、幸せにできるだろうか?

答えはノーだと判っている。
彼でなくては駄目で、その代わりは誰もできなくて、結局自分には何もできない。
けれどそう判っていても止められないのだとしたら、確かに想いはそう、変わってしまったのかもしれない。

一途に恋するその姿に、いつの間にか恋をしていた。











「や、だ・・・」

蚊の鳴くような小さな声だった。
こうして抱きしめていなければ聞き取れない程に。
腕の中で小さく身動ぐ身体は、あまり大きな抵抗がない。
それはまるで剥ぎ取るように上着を脱がされた身体が肌寒いからか、それとも恐れに竦んでしまっているからか。
薄いシャツの上から熱を伝えるように、廻した腕の力を強める。

「よこ・・・離してよ・・・」

ただそんな小声だけで、罵るような言葉がないのはやはり恐れからか。
それとも血迷った親友をなんとか宥めようとしているからか。

片手で首筋を撫でるように触れたら、腕の中の身体がピクンと小さく跳ねた。
そして触れた部分がうっすら赤くなったような気がする。
皮膚が薄いからなのか、血が集まりやすいからなのか、河合の肌は赤くなりやすい。
それは知っていたけれど、初めて見る反応だった。
当たり前だ。
こんな風に、こんな気持ちで、その身体に触れたことなどなかった。

「俺、帰るって・・・もう、だいじょぶ、だし」

そう言って腕を掴んで離させようとする。
まるで気分を悪くした自分を介抱してくれた友達に言うような、その調子。
きっとなんとかしてなかったことにしたいんだろう。
横尾が抱いている気持ちを薄々感じ取ってもなお、そんなはずはないと、あるはずがないと、そう思おうとして。

「ね、ほんと、平気だし、おれ・・・」

なんとかそう笑おうとする。
ぎこちない笑顔。
今壊れそうな何かを必死に両手で押さえようとしているかのような。
そうしてじっと横尾を見上げる。
敢えて周りを見ないようにしてもいる。
それはそうだろう。
今のこの現状を否定したいのなら、周りを見るわけにはいかない。
見てしまったら、もう駄目だと、判っているのだ。

必死に見上げてくるその顔に、横尾は笑い返してやった。
なんだか少しだけ哀しそうな笑顔。
河合はそれに目を見開いて、何かを口にしかけた。
同時に手を伸ばしかけた。
けれど横尾はその手を逆に掴むと、河合の身体を一旦離し、それから強い力で後ろに倒して掴んだ手ごと押しつけた。

「ッ・・・」

河合はその衝撃に一瞬目を瞑る。
痛みはなかった。
柔らかな感触が受け止めてくれたからだ。

それはベッドだった。
大きなベッド。
人二人が余裕で乗れる程の。
ベッド以外にはほとんど物のない部屋。
使う物はそのベッドしかないのだからそれは当たり前だ。
だから河合は周りが見られなかった。
ラブホテルなんて場所に横尾が自分を連れてくる意味など、判るはずもなかった。判りたくもなかった。
それでも、こうして背中に感じるその感触。
自分を押し倒して、手を強い力で押さえ付けて、上からじっと見下ろしてくるその瞳が今まで見たこともないそれで。
河合はもはや身動ぎすら忘れて、呆然とその顔を見上げるしかなかった。

「俺とさ、こういうことすんの、やっぱ嫌?」

硬直したようなその顔を見下ろして、横尾はなんでもないようにそう訊いた。
ただ手を押さえ付けた力だけはそれでも痛い程だったけれど。
河合はその問いに一つ唾を飲み込んでなんとか口を開いた。

「おれ、と・・・お前は、そういうんじゃ、ないじゃん・・・」
「・・・そうだよな」
「そう・・・だよ。だって、友達じゃん・・・ねぇ・・・」

まるで懇願するような言葉。
けれど決して恐怖から助けを求めているわけではない。
ただこんなことをして欲しくないだけ。
友達にこんなことをして欲しくないだけ。
さっき横尾が言ったような、「恨んでもいいから」なんて、そんな風になりたくないだけ。

「でもさ、もう見てらんないんだよ、俺は。お前を見てらんない」
「おれ、俺の、せい・・・?」
「ある意味そうかもな。でも俺が勝手にやってるだけ。だから恨んでいいよって」
「やだっ、そんなの、やだ・・・」
「ごめん」
「やだ、やだ、そんなこと言うなよっ・・・友達だろっ・・・!」

まるで癇癪を起こした子供のように必死に頭を振る。
それは自覚してしまった横尾にはある意味残酷でもある。
けれど河合からしてみれば、想い人に拒絶された挙げ句に、親友まで失いたくなかった。
どうして横尾がここまでするのか、本当はきちんと聞かなければならないのだとぼんやりとは思う。
けれど今の河合にその余裕はない。
そして何より、そのどんな想いを聞いたところで、河合には結局頷けないのだから。
五関に次を探せと言われても、横尾に自分を次にしろと言われても、二人のどんな言葉だって、この唯一の気持ちは変えられない。
だから今の河合には結局横尾を拒絶する以外の選択肢がない。
このままでは五関との関係だけでなく、横尾との関係まで壊れてしまう。
それが、それこそが、怖くて怖くて仕方がなかった。

「やだぁ・・・」

自分の手を押さえ付けた手に、もう片方の手で縋るように掴む。
縋り付いて、なんとか思い直して貰うようにと、ぎゅっとそこにしがみつく。
きつく目を瞑る。

「よこお・・・お前のこと大好きなんだ・・・大好きな友達なんだ・・・。だから、やめてよ・・・」

大きく骨張った手にしがみついて漏らす。
暫し沈黙が降りた。
そして河合がしがみついたのとは逆の手が、ゆっくりと河合の頭を撫でた。
慣れた感触が気持ちよくてそっと息を吐き出して目を開けた、けれど。

「・・・俺も、やだって、言っていい?」
「え・・・?」

思わず顔を上げた。
けれど、それを合図にしたように、髪を撫でていたその手が不意に目を覆うようにして頭を押さえ付けてきた。

「っよ、よこ・・・ッ!」

視界が一気に真っ暗になる。
片手と併せて頭を押さえ付けられて、頭の奥がカッと熱くなる。
その手が熱いのだ。
熱すぎて思考をぐちゃぐちゃにさせられてしまう。
そして、片手と、頭と、更にもう一カ所。

「や・・・ッン!」

唇が、相手のそれで塞がれた。

「ぅ、うんんッ・・・!」

それは容赦のないキスだった。
キスというよりか、完全に口封じが目的のような。

残されたもう片方の手でなんとか相手の肩を押し返そうとする。
けれど元々の体格差と、押さえ付けられたこの状況と、更に真っ暗にされた視界では、ようやくの本気の抵抗も微々たるものにしかならなかった。
咄嗟に蹴り上げようとしても、それすらも上手いこと下半身で押さえ込まれてしまう。
河合は真っ暗になった視界の奥で、あまりの息苦しさと絶望感に意識が遠のきかけた。
ただそれは皮肉にも、離れた唇と、暗い視界の向こうに降ってきた声に引き戻される。
乾いた、飢えた、そのくせ悲しそうな声。

「お前があの人に傷つけられんのがやだ。
お前がそれでもあの人諦めらんないのがやだ。
お前があの人じゃなきゃ駄目なのがやだ。
どうやったって、自分の手じゃお前のこと幸せにできない、自分がやだ」

大きな手のひらに押さえ付けられ封じられた視界。
そこがじわりと濡れるのが判った。

伝わってしまった。
判ってしまった。
横尾が自分と同じであると、河合には漠然と判ってしまった。
一人ヒロインのような感傷に浸っている裏側で、親友をこんなにも傷つけていたなんて知らなかった。

この恋は、この恋に落ちた自分は、想い人との関係だけではない、親友との関係まで、壊してしまった。

「よこお・・・よこおー・・・」

薄く開いた唇が緩慢に開いて動き、震える声で親友の名を呼ぶ。
まるでもういない人に帰ってきて欲しいと切に願うような声。
目を覆う手のひらがみるみる内に濡れていく。
横尾はそれに顔を歪め、もう一度、今度は羽のような軽さで一度唇に触れて呟く。

「・・・結局、俺も泣かせちゃうんだな」

判っていたこと。
それでも止められなかったのは、一度でも友情以上を望んでしまったからだ。
望んだ自分を自覚してしまったからだ。

できるなら自分の手で幸せにしたいと、その恋する笑顔を向けられたいと、願ってしまったからだ。










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(2007.5.14)






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