1.美しきもの
傾けたグラスは中の赤い液体がゆらりと揺れる度に複雑な光彩を映す。
それはどうやら特殊な加工を施した特注品らしく、僅かに傾ける度違う色合いを見せるガラスは決して単一の色では持てない、様々な色が折り重なった美しさをそこに無機質に浮かべている。
様々な色が混ざり合い、その時その時で全く違う色合いを見せ、そこにはたとえその時は見えずとも常に全ての色を内包しているのだ。
まるで人間の感情のようだ、とクインスは小さく唇の端を上げる。
そのまま唇に小さく押し当てられたグラスの端からは、その唇のように赤い液体が口内へゆるゆると流れ込んでいく。
熟成した香りが口から鼻に抜けるような感覚。
ふっとグラスを離し、その赤い水面が揺らめくのを見てクインスはまた小さく表情だけで笑う。
「・・・今日は随分とご機嫌がよろしいのですね、父上」
声のした方を見上げると、そこには息子がこちらを窺うように立っていた。
その手には中身の僅かに減ったワインボトルが一本。
今クインスが持つグラスと同じ赤い液体を湛えたそれは、ついさっきまでは円卓の上のワインクーラーに入れてあったはず。
クインスが当然のような顔でそちらにグラスを差し出すと、アントーニオは恭しく腰を屈めて優雅な仕草で赤い液体をなみなみとグラスに注いでいく。
複雑な光彩を映すグラスが再び赤に満たされていくのを見つめながら、やはりクインスはうっすらと微笑む。
「このグラスは初めて見るな。なかなか美しい一品だ」
「それは今日謁見に訪れた大陸向こうの商人が持ち込んだ品です。なんでも月光石という宝石を砕いてガラスに混ぜてあるのだとか」
「ほう・・・月の光が閉じこめてあるというところか。美しいわけだ」
口ほどにはさほど感心した様子もなく、ただ指先で弄ぶようにゆらゆらとグラスを揺らす。
そこに浮かぶのはまたも薄い微笑みだけ。
それは室内の薄明かりを弾いて煌めく銀色の髪、そして灯りの下でもなお透けるように白い肌と相まって妙に妖しげで、美しかった。
アントーニオはまるでそれに魅入られたようにじっとクインスを見つめる。
クインスはアントーニオの父親だ。物心ついた時から傍にいる。
だから毎日ずっとその姿を目にしているはずなのに、すっかり成長した自分と違って父の姿が幼い頃から何の変化もないことを、アントーニオは内心不思議に思っていた。
「そういう父上こそ・・・」
「ん?」
「いつまでも変わらず、お美しい」
それはいつまでも若々しいなどというレベルでは最早なく、まるでその姿形に全く変化がないのだ。
こうして二人きりでいる時以外は父は「母」という仮面を被り薄いヴェールに顔が隠れがちだったから、それは周囲にはさほど不審には思われないけれども。
実際のところ十数年間まるで姿の変わらない父の姿はやはり不思議だった。いや、本当は不思議などというレベルではないのだろう。
けれどアントーニオにはまるで気にならなかった。
あくまでも不思議に思うだけだった。
そしてその不思議に思うということも、ただ単にその変わらぬ美貌への感嘆と、隠しきれない慕情から生まれたに過ぎない。
それ以外はまるで関係ない。考える必要もない。
それだけアントーニオにとっては父は絶対的な存在だった。
じっと見つめてくる息子の眼差しにふっと笑い返して、クインスはグラスを傾けながら呟くように言った。
「・・・アントーニオ。父に美しい、とはさして褒め言葉ではないぞ」
「そうでしょうか?」
「普段ならともかくとして。・・・これが母相手になら、いくらでも言うがいい」
「もちろん、母上にも言いますが。・・・父上に言うことも、出来れば許していただきたい」
「・・・どうして?」
そう問いかけつつも、クインスは全て判っている顔で随分と楽しげに表情だけで笑う。
当然のように見抜かれていることを少しばつ悪くは思うが、そもそもアントーニオはクインスに隠し事が出来るとは思っていない。
父は全てを見抜き、全てを察し、全てを理解してくれる。
その絶対的な存在はアントーニオにとって居心地の悪さなどよりも、むしろ安堵感を覚えさせた。
アントーニオはマントを右手で翻すとその場に片膝ついて跪く。
それに特に驚きもなくそのまま豪奢な椅子に座って冷たい美貌で見下ろしてくるクインスの真っ白い顔をじっと見上げ、そのグラスを持ったのとは逆の手をそっと取る。
アントーニオが今まで戯れに、そしてまるで義務のように抱いてきた女達のものよりもなお滑らかで染み一つない白い手はまるで男のものとは信じられず、そしてまた女のものとも違う。
どちらにも属さぬ、特別な人間。
まるで根拠もないがそんな風に感じられる父の容貌と雰囲気は、アントーニオにますますの父の絶対性を植え付ける。
「・・・父上」
そのまま身を屈めると、その取った手におずおずと唇を寄せ、白い手の甲に恭しく口づける。
まるで騎士が姫君にするような従順で忠誠心に溢れたそれにクインスはただ小さく微笑する。
その微笑みはやはり冷え込む夜の月のようであったけれども、何処か僅かに優しさも感じさせる。
「なんだ?」
「その、・・・」
アントーニオは顔を上げ、少し窺うように父の顔を見上げる。
それにやはり全て判っている顔で、クインスは優しく、まさに父が子に言うような柔らかさで問う。
「どうした?」
「・・・その、今日、よろしいでしょうか?」
「何がだ?言いたいことは自らの口ではっきり言わねば相手には伝わらぬと、そう教えたつもりだが?」
判っていらっしゃるでしょうに、そう口にしたいのを押さえてアントーニオはそれでもじっと父を見上げる。
そこに熱っぽい光を湛えた瞳で。
「はっきり言ってもよいのですか?」
「他ならぬ大事な息子の言うことならば」
「・・・・・・抱かせていただいても、よろしいでしょうか」
見上げてくるその真っ直ぐな瞳の強さと熱さがクインスには心地良かった。
自分にはまるでないそれが少し羨ましくもあり、また自分に似なくて良かったと心底思う。
自分に似た息子など可愛くも何ともないだろうから。
ただどうせ、似ることなどあり得ないと言えばそうだったのだけれども。
「ふふ、随分言うようになったな。お前もいい大人になったというわけか」
「父上、はっきり言えと仰っておいて茶化すのはお止め下さい。・・・意地悪な方だ」
「そんな父が好きなのだろう?」
当然のような、当たり前の顔で。
けれど少しだけ悪戯っぽく笑う顔は普段には見られない幼さがあって。
常に心の奥底に秘められた野望など微塵も感じさせない、その稚いと言っても差し支えない表情が、アントーニオは好きだった。
自分にしか見せないそんな表情に胸が掴まれるような感覚を覚える。
再びその白い手の甲に恭しく口づける。
自らの唇が酷く熱を湛えている気がした。
いつもひんやりと冷たい白い手にはそれが伝わってしまう気がしたが、むしろそれでよかった。
「・・・はい、父上。このアントーニオ、父上を心よりお慕い申し上げております」
「ああ、よい。よい。こんな時にそんなにかしこまるな。・・・言っただろう、お前は私の大事な一人息子だ」
「では・・・」
「今日の私は機嫌がいい。・・・おいで、アントーニオ」
そこに柔らかく浮かべられた微笑みに、アントーニオは嬉しそうにもう一度甲に口づける。
「・・・はい、父上」
ゆるりと立ち上がると、依然として座ったままのクインスに身を屈め、今度はその赤い唇に口づけた。
今度のそれは騎士が姫君にするものなどではなく、正しく情愛を伴うそれ。
クインスはやはりそのままで身動ぎ一つしなかったけれど、うっすらと目を細め従順にそれを受け入れる。
アントーニオがそのしっかりとした手をそっと白い頬に添えて優しく撫で上げる。
何度かゆるゆるとそれを繰り返すと、ひんやりとした白いそれが段々と熱を持ち、僅かに紅潮する。
その瞬間がアントーニオは言いようもなく好きだった。
何だか妙に倒錯的で、何か言い難い罪を犯しているような。
いつだってその瞬間に欲情させられた。
自分にとって絶対的な父が自分にされるがままでその白い頬を染めるのだ。
興奮しないはずがない。
最初こそ戸惑ったし、躊躇った。
敬愛する父にこんなことをしていいものかと迷いもした。
けれど他ならぬ父が、その白い手でアントーニオの手を引いたのだ。
共に罪を犯そうと、そう囁くように赤い唇が自分に触れたのだ。
まるで甘い誘惑の手に陥落するように、アントーニオはその手で白い身体を開いていく。
自分にはまるで似ても似つかぬ真っ白で何処か柔らかな身体。
人ならざる魔性を感じさせる、それ。
「父上、必ずや私があなたの野望を叶えてみせます」
「ああ・・・」
「アセンズも、望むなら他の国だって。その望む何もかもをあなたに捧げてみせます」
まるで呪文のように、ともすれば睦言のように、優しく柔らかく耳元で囁かれる言葉にクインスはゆるりと頷く。
身体を預けるようにそうっと手を伸ばして首筋に廻せば、浅黒い手が少しだけ性急になってクインスの胸元をはだけさせる。
開いた胸元にもまた熱っぽい口づけを受けながらその鳶色の頭を緩く抱きしめた。
「全てはあなたのために、父上・・・」
「ああ・・・期待している、クラッスラ・アントーニオ。全ての富はお前のもの。我が息子よ。私にはお前だけだ・・・」
「はい、父上。我が美しい人。あなたのためならばこの命すらも惜しくはない」
「・・・ああ」
ゆっくりと、まるで遅効性の毒のように徐々に身体を犯していく熱に、段々と意識を奪われながら。
クインスは息子の肩に顔を埋めて小さく顔を歪めた。
美しいものに永遠などない。
それはあのグラスとていつかは何かの拍子に割れてしまうように。
普遍のものなどありはしない。
それは人とて同じだ。
クインスは自らが内側からじわじわと犯されていくのを感じていた。
時と共に醜さと弱さと恨みと孤独とに段々と蝕まれていくのを感じていた。
自分の息子をここまで堕としたことを人は何と言うだろう。
外道だ、とクインスは思う。
入れ物の美しさで中身の醜さをひた隠し、最初から自分しかいなかった息子を幼い時から甘い毒で犯した。
息子はもう毒を毒とも思わないのだろう。
少しだけ息子を哀れに思う。
いずれは目覚めて欲しいと思うのは、僅かにでも残った親心だろうか。
けれどそれも所詮は心の奥底で毒に覆われているだけの代物。
クインスは復讐する。
自分を拒絶した世界全てに。
自分を拒絶したあの男に。
けれど神よ、とクインスは願う。
全てが終わったその時は、いくらでも罰を受けよう。
地獄の業火に焼かれたとて構わない。
だからどうかその時は、この哀れで愛しい、何より醜い自分を何より美しいと言う、この大事な息子だけは救ってやって欲しい。
世の穢れを見尽くしたクインスにとって、それは最後の美しきもの。
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(2005.8.23)
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