2.月と太陽の仮面










火照った身体を冷まそうと、クインスはそっと寝所を抜け出すと城の中庭に出た。
その時に傍らで眠る息子を起こさないようにするのは必要最低限のことであり、それはいつものことだった。
それは昔からの習慣と、そしてクインスが許したせいでもあるが、アントーニオはクインスを抱いた夜は必ず同じベッドで眠る。
しかもクインスを抱きしめるように、ともすれば子供が甘えるようにその両腕をクインスの白い身体に廻したまま。
もし万が一誰かに見られでもしたら、と思わないでもなかったがクインスはそれに特に何も言わなかった。
息子は父の望みを常に精一杯叶えようとしてくれているのだ、そのくらいは許してやってもいいだろう。
それに・・・万が一誰かに見られたとしても、その場で斬り伏せてしまえば何の問題もない。
クインスは昔と違いその身を重苦しいドレスとヴェールで覆うようになった今でも、剣は常に肌身離さず持っている。
それは服の中に隠せる程度のナイフでしかないし、実際には常に周りに誰かしらがいる状態では使うこともままならない。
けれどそれでも常に刃を身に潜めることはクインスにとって自らの恨みと野望を忘れないために必要なことだった。
いつだって強く暗く冷たく、心を研ぎ澄ませていられるように。

中庭に出ると、空には月がぽっかりと浮かんでいて思うより視界は悪くなかった。
そよぐ風に重いドレスの裾がなびく。
風に当たりに来たというのに、結局はこの格好をしなければ外も出歩けないこの現状は不便で仕方がない。
けれどそれも、もう十何年も続けてくればいい加減慣れを通り越して当たり前になっていた。
最早クインスとエミリアを使い分けることも無意識の内に出来るようになった。
女のフリなど出来るのか、と思っていた当初が懐かしいくらいだ。
そこには皮肉にも、クインスが内心良く思っていない自らの容姿が多大なる利となったせいが大きいのだが。

薄手のヴェールがその頭を覆っていたけれども、そよぐ風のせいで時折クインスの髪は悪戯にたなびく。
月の光を閉じこめたような見事な銀髪はまるで同じ属性であるかのように月明かりを受けて一層輝いている。
けれどそれはクインスにとっては忌々しい以外の何物でもなく、髪が風にサラサラと舞う度に鬱陶しげにそれをヴェールの中に追いやる。
そうして何度目か髪に手をやっていたその時。
背後で物音がして、クインスはぴくりと動きを止めた。
すぐさま振り返るでもなくその気配に注意深く意識を向ける。
そして悟った。
その気配の持ち主。
静かだが妙に強く凄烈なオーラ。

「・・・ギルデンスターン?」

夜風に溶ける程度の小さな呟きだったけれど、背後の気配はそれに応えるように姿を現した。
カツン、とブーツの踵が石の床に立てる音。
それにゆっくりと振り返ると、そこには宵闇に溶けそうな漆黒の髪と漆黒の瞳を持った小柄な男が立っていた。
ギルデンスターンはクインスの一メートル程手前までやってくると、その場に片膝をつく。

「おくつろぎ中の所を失礼しました、エミリア様」

声音自体は決して低くはないが、敢えて低く無感情に押さえ込んだ話し方はその恭しい言葉遣いを酷く無機質なものに感じさせた。
元々愛想の良い男ではなかったから今更気にするようなことではないのだけれども。
クインスは正直あまりこの男が好きではなかった。

「・・・いいえ、少し寝付けなかっただけのこと。気にすることはありません」

クインスの言葉にもただ丁重に頭を垂れるだけ。
けれどその小さな身体は決してそんな風に頭を垂れるべきものではないような、そんな漠然とした何かをクインスは確かに感じ取っていた。
そこには本当は眩しい程の強い何かを秘めているのに、敢えてそれを押さえ込んでいるような、そんな気がした。
ただクインスの懸念は、クインス自身にも今ひとつその正体が掴めなかった。
これがただ自分に取り入っていずれは己が野望を叶えるために利用しているような輩であれば、クインスはすぐに気付いただろう。
そして何も言わずに斬り伏せていた。
クインスは自分がいわゆる「悪」であることを知っていたからこそ、他人の悪意にも敏感だった。
けれどギルデンスターンに感じるものはそういう類のものではなかった。
それはもっと根本的な、クインスの心の奥底に深く根付くものを刺激するような・・・そんな恐れを抱かせる・・・。
ただそれはいくら考えても自分自身でさえさえ判らぬことだったから、結局クインスはギルデンスターンをどうこうしようという気にはならなかった。
実際ギルデンスターンはとても有能で腕の立つ男だったし、今ではアントーニオが一番の信頼を寄せている腹心だ。
そんな使える駒を判らない自分の感情などで無駄にすることもない。
もしもいずれ自分に刃向かうようなことがあればそれはその時に対処すればいい。

クインスは頭を垂れるその黒い頭を見下ろす。
見た所こんな真夜中に中庭をうろついて、しかも胸当てからバックルから装備を全てを身につけ、その腰にはいつも彼が愛用している長剣も差してある。
寝付けないから散歩、などという格好ではない。

「あなたこそどうしたのです、こんな真夜中に」
「見回りをしておりました」
「見回り?あなたが?そんなもの、衛兵達に任せればいいでしょう」
「もちろん毎日しているわけではありません。今日は特別です」
「・・・何かありましたか?」
「今日の昼謁見に来た商人が献上した品の一つ、サーベルタイガーの一匹が逃げ出しました。
先程門番の一人が襲われ怪我を負ったようです。恐らくはこの中庭付近に潜伏しているのではないかと」

淀みない口調で淡々と話される事柄は決して穏やかな話題ではなかった。
けれどギルデンスターンは常にその口調を崩さない。
ただクインスはそれが嫌いではなかった。
ギルデンスターン自身は好きではなかったけれど、その口調や態度は悪くなかった。
自分の権威に怯えるか媚びへつらうかの二択しかないクインスの下々で、彼だけが特異だった。
そんなことを内心で思いながらもクインスは少し声のトーンを落としてきつい調子で言う。

「サーベルタイガー・・・本来なら一級指定の危険動物ですよ。管理はどうなっていたのです」
「どうやら檻の強度が甘かったようです。管理者には後ほど厳重処罰を与えておきます」
「・・・そう、判りました。ではお行きなさい。早く捕らえねばいつ犠牲者が出るとも知れぬのですから」
「は、・・・しかしエミリア様」
「・・・なんです」

その淡々とした口調をやはり崩すこともなく。
クインスの言葉に頷き頭を垂れつつも、その場を動こうとはしない。
それを怪訝に思ってじっと見やれば、ギルデンスターンはやはりそのままの体勢で淀みなく言った。

「私はこのままで行くわけには参りません。あなた様の御身を守れなくなります」
「・・・私にいつまでも中庭をうろうろしているな、と?」
「いいえ。エミリア様がここでおくつろぎになられている間は私もこの場を離れることはないと、ただそれだけのことです」

怯えもへつらいもないその無機質な口調だからこそ、それは逆にギルデンスターンの本心のようにも感じられた。
・・・そうして判るわけもない他人の感情を都合良く想像してしまう自分を内心でどうかしていると嘲りながら、クインスは小さく息を吐き出してその場から身を翻した。

「兵達の仕事を邪魔するつもりはありません。・・・今日はこれで休むとします」
「は、ではお部屋までお送り致します」
「結構です。あなたは早くサーベルタイガーを処分しなさい」

そう言って城内へと続く裏口の扉の方へと一歩を踏み出した時だった。
クインスの斜め前方の茂みがガサリと大きく揺れ、同時に一瞬にして飛び出してくる、身の丈にすれば二メートルを優に超える赤褐色の剛毛に覆われた巨体。
凶暴だとされる虎の中でも最も危険とされるサーベルタイガー。
アセンズでも毎年何人もの犠牲者を出している猛獣だ。
月明かりの下でギラリと凶悪に光った鋭く長い牙はその種の特徴であり、それこそが彼らを凶悪なさしめる血塗られた凶器であり、それは今確かにクインスの方を向いていた。
低く唸るような咆吼が空気を震わせて辺りに響く。

「・・・」

肉食獣特有のぎらつく眼に自分が映されたことを瞬間的に感じ取り、クインスは特に動揺することはなかったが咄嗟に身を固くして胸元に手を当てた。
掌に当たる感触は固い、刃。
次の瞬間にそれを抜き取り、サーベルタイガーの太い喉元に突き立てること、それはクインス程の腕があればさして難しいことではなかった。
けれど余裕であったはずのモーションに割り込んできたのは、その場にギルデンスターンがいたことを思い出したことだった。
ここでクインスが・・・今はエミリアであるクインスが、本来なら持ちうるべきもない武器を平然と取り出し凶悪なサーベルタイガーを一閃するなど、決して見せてはならない姿だった。
ギルデンスターンはクインスとアントーニオの野望を知っている。
けれどもそんなものよりも知られてはならない秘密が、エミリアの正体だ。
だからクインスは一瞬迷った。
そしてその一瞬こそが命取りになることを、クインスはかつての経験上当然知っていた。

「・・・エミリア様!伏せて!」

滅多に聞くことのないその張り上げた声。
いや、もしかしたら初めて聞いたかもしれない。
クインスはそんなことを思いながらも咄嗟にその場に倒れ伏すように身を屈めた。
そして一瞬前までクインスが立っていた場所を長剣の一閃が煌めき、そして赤褐色の剛毛に覆われた巨体を切り裂いていた。
そこからは赤黒い血がドクドクと流れ、サーベルタイガーはそのまま地面に着地しながらもよろめく。
けれどなお低く唸りながら飛びかかってこようとするその巨体に向かって軽やかに飛び乗った小さな身体は、その身にも余りそうな長剣を夜空に掲げると容赦なく巨体の背に突き刺した。
ズブリ、と肉を引き裂く鈍い音が夜風に混じる。
そして一瞬遅れて獣の低い断末魔の悲鳴。
それは暫くの間唸るように続いていたけれど、やがてその背に銀色の煌めきを突き刺されたまま獣はガクリと息絶えた。
中庭の芝生を赤黒い血が血溜まりを作っていく。
それを暫し眺めてからクインスはゆっくりと立ち上がり、ドレスについた汚れを手で叩き落とす。

「・・・次の檻には電流を流しなさい。この牙ではただの檻など無意味です」
「は、そう言いつけておきます」
「それと、すぐに衛兵を呼んでここを綺麗にさせなさい。あと庭師も。芝生が汚れてしまいました。血は植物にはよくありません」
「は、ただちに」

衝撃でヴェールから覗いていた銀髪を奥に押しやるクインスにひたすら頷きながら、ギルデンスターンは再びその場に跪く。
自らの長剣を未だ獣の身体に突き立てたまま。

「お怪我はございませんでしたか」
「ええ」
「出過ぎた真似をして申しわけありませんでした」
「・・・出過ぎた真似?あなたがあそこでやらなければ、私は恐らくあの鋭い牙に喉笛を噛み切られていたことでしょう。何を謝ることがあるのです」

それは何気なく返した言葉だった。
何の他意もなく、ただ謙遜など普段しない男が言うには少しらしくない言葉だったからそう返しただけだった。
しかしギルデンスターンはやはり無機質な口調で淡々と、けれど何故かその時だけふっと顔を上げ、真っ直ぐにクインスを見て言った。

「私が出るまでもなかったかと」
「・・・どういう意味ですか?」
「いえ、エミリア様は武術のお心得があるのかと思いまして」
「・・・あるわけがないでしょう」
「は、それは大変失礼致しました。・・・ただ、あまりにも臆さぬご様子と隙なく獣と対峙する視線が、そのように感じられただけのことです」

クインスは、やはりこの男は好きではない、と思った。
その感情を抑えた無機質な声音は決して真実を見誤ることなどないと言うかのように、クインスに何か落ち着かないものを突きつけるから。

「・・・そう。では、本当にそうなるように、私も護身用にでも少し武術を嗜むべきかもしれませんね」
「いえ、あなた様は私がお守り致しますので」
「あなたがいつもいるわけではないでしょう」
「お呼び下されば私はいつなりと馳せ参じます」

この男は好きではない。
その無機質な声音は本心を言っているように感じてしまうから。
何処かで警鐘が鳴らされるような感覚。

ギルデンスターンはただ者ではない。
その身の内に強い輝きと高貴な光、そして何より強い意志が押し込められているのを感じる。
どう考えてもそれが将来の自分にとって良いものとは思えなかった。
けれどどうしてかその場で斬り伏せる気にもなれなかった。
太陽はたとえ近づくだけでもクインスの白い手を灼いてしまう。

「・・・もう、休みます」
「は、ではお部屋までお送り致します」
「さっきも言ったでしょう。・・・結構です」
「・・・は、ではお休みなさいませ。エミリア様」

そう恭しく頭を垂れるギルデンスターンを一瞥してから、今度こそ裏口の扉をくぐる。
すっかり目が冴えてしまった。
そして身体は冷え切ってしまった。
また息子の元に戻ってその温もりを分けて貰わねば眠れそうになかった。


今背中に確かに感じた強すぎる視線を、唯一の温もりで忘れなければ。
今夜は眠れそうになかった。










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(2005.8.24)






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