1.変わらないもの、変えてはならないもの









『選べる道は3つしかないねん。・・・4つやないねん』



霞がかったような映像。
それは恐らく夢だ。

けれども横山がそう自覚した途端、それは途切れて意識はふっと引き戻される。
何処か少し重たいようなはっきりしない感覚は、未だ僅かに残ったアルコールのせいだろうか。
それとも今さっき見ていた夢のせいだろうか。
既によく憶えていない。

覚醒する意識の外、少しの肌寒さを感じて横山はぼんやりと目を開けた。
視界には白い天井が広がっている。
自分の家ではないけれども準じるくらいには見慣れたそれに、今自分が何処にいるのかを思い出す。
背中には硬いフローリングの感触。
小さく欠伸をすると改めて肌寒さを感じた。
アルコールが抜けてきている証拠だ。
遠くに水音が聞こえる。
恐らくはキッチンだろう。
横山はぼんやりと起きあがろうとして、けれどそこでそれが容易ではないことにようやく気付いた。
肌寒い中でそこだけがやたらと暖かい腹の辺り。
ふとそちらを見ると、そこには黒い頭が自分の腹を枕よろしく無防備に預けている。
緩やかに上下する小さな頭に艶やかな黒髪が揺れている。
横山はふっと小さく苦笑してからそっと息を吐き出すと、眠る彼を起こさぬようにと上半身だけをゆっくり起こし、何とかその頭を太ももの上辺りに移動させた。
黒い頭は僅かに動いて一度だけむにゃむにゃと寝言か何かを呟くような仕草を見せたかと思うと、横山のシャツを右手でぎゅっと握りしめて再び安らかな寝息を立て始める。
その身体は横山と同い年とは思えぬ程に小柄で細くて、普段ならば相手を射抜く程に強く大きな瞳は今や閉じられてしまっているから。
そのせいなのか、その寝顔はまるで幼い子供のように見える。
思えばまだ本当に幼い時代はお互いどことなく苦手意識があってあまり近寄らなかった。
それを考えれば今のこの状況のなんと穏やかなことだろう。
単純に歳をとってお互い丸くなっただけだろうか。
自然と柔らかく表情だけで笑むと、横山はその白い手でそうっとまるで壊れ物にするようにその黒髪を一度だけ撫でた。

「・・・お。起きたん?」

不意に上からかかった声は、その地声の大きさからすると随分と小さく潜められていた。
彼は彼で既に現状をきちんと理解しているようだった。
横山がそのままの体勢で見上げると、どうやら洗い物をし終わって戻ってきたのかタオルで手を拭きながら小さく笑ってこちらを見ていた。
それに小さく頷いて再び視線を自分の膝上に落とす。

「なんや寒いと思って起きてんけど、妙に腹だけあったかいねん。なんやと思ったらコレやった」

白い指先が黒い頭を指さしてそんなことを言うのに、村上はおかしそうに小さく声を立てて笑うとその寝顔を覗き込むようにしゃがみ込む。

「なんや、猫みたいやなー」
「な、すばるなら黒猫やな」
「その黒猫ちゃんはね、ヨコが寝てもーてヒマやー言うててね。
んで、キミやらかーい言うて腹の上でゴロゴロしとる内に気付いたら一緒に寝とったわ」

その図はあまりにも容易く想像できる。
横山が気にしているのを知っているだろうに、すばるはことある事に横山の引き締まっているとは言い難い、その妙に柔らかな腹に触りたがるのだ。
いかに寝ている間のこととは言え、またかと思わず眉根を寄せて無邪気に眠る顔を見下ろす。

「・・・俺は布団か」
「まぁ少なくとも枕やったね」
「おまえ相手したれや」
「やー、うっかり二人でヨコの寝顔見とったから」
「なにをしてんねんおまえらは・・・」

確かに久々の三人での飲みの席で不覚にも寝てしまったのは自分だ。
けれどもそれならそれで起こすとか、そうでなければ二人で酒を酌み交わしていればいいものを。
にっこりと人好きのする笑顔でそんなことをのたまう村上に、白い顔は呆れたような表情を浮かべては手持ちぶさた気味にまた黒髪を撫でる。
その様に村上は不意に呟いた。

「疲れてんのかな、て。言うててん」
「あ?」

その声に何かと顔を上げると、村上はしゃがみ込んだままの体勢で、けれどもすばるではなく横山の方を見てゆるりと手を伸ばした。
しっかりとしたその指先が何か確かめるように滑らかな頬に触れる。

「なんやいつもより飲んでへん割にはあっさり寝てもーたから。
しかもすばるが上乗っかっても起きひんし。なんかあったんかな、て」

その表情は未だ笑顔だったけれども、確かに窺わし気な様子が感じ取れる。
昔から気を遣うことに長けた、長けすぎて逆に自分が損をしてしまうくらいのその性質。
横山はその手を特に離させるようなこともなく、ただそれにふっと笑い返した。

「別になんもないわ。単に最近あんま家で眠れへんだけ」
「眠れへんて?・・・なんで?」

今度は触れる黒髪に小さく笑みを落とす。

「・・・弟がなぁ」
「弟?」
「最近ギターにハマったとか言うてな、夜中まで練習してんねん。うっとうしくてかなわん」
「あー、なるほど。もう高校生やっけ?確かにハマる頃やんな〜」
「あんまりにも必死やからなかなか文句も言えへんし、ほんまかなわんわ」
「お前は弟には甘いもんなぁ」
「ええ兄ちゃんやからな」
「・・・ふふ、確かになぁ?」

どこか含みのある笑い方をされて横山は何かと怪訝そうにそちらを見る。
それに村上は白い手を指さしてみせた。
すばるの黒い髪をどこか遠慮がちに撫でるその手。

「ヨコ、今めっちゃ優しい顔しとる」

思わぬ所を指摘されて、元の造りこそ冷たい美貌が一瞬きょとんと虚を突かれたように妙に幼げになる。
村上はそれに自分こそこれ以上ない程に優しく笑うと、もう一度柔らかな頬を手の甲で撫でた。

「そういうん、すばるが起きとる時にも見せてやりゃええのに」
「・・・どこ見てんねんおまえ。うっとうしい」
「やって俺好きやねん」
「なにが・・・」
「ヨコの、そういう顔」

それは眠るすばるを起こさないようにするためか、それとも横山に意識させるためか。
落としたトーンで囁くようにそう言うと、村上は白い頬を撫でていた手をそのまま滑らせて顎をとると、軽く触れるだけで口づけた。

「ん、・・・ヒナ、」

一瞬ですぐ離すと、うっすら濡れた赤い唇が小さく動く。
村上はそれに目を細めて身を屈めるともう一度口づける。
その唇を受けて、今度はその切れ長の瞳がそっと閉じられた。

「・・・ん、ん・・・・・・っん、な・・っ?」

バタン。
横山は呆然とした顔で目を瞬かせた。
一瞬にして自分の身体が後ろに押し倒されて視界が反転したからだ。
しかし見上げた視線の先には今さっきまで唇を触れ合わせていた村上がいて。
やはり少しだけ驚いた様子で、けれどそれ以上におかしそうに横山を見下ろしていた。
正確には横山と、今横山を凄まじい勢いで腹から押し倒したすばるを。

「なにしてんねんオマエら・・・・」
「す、すばる・・・?」

いつのまに起きたというのか。
ついさっきまでは安らかな寝息を立てて膝の上で可愛らしく眠っていた黒猫は、今その大きな瞳を見開いて横山を上から見下ろしていた。
しかもつまらなそうに唇を尖らせて。

「なんやねんオレが寝とる隙になにしてんねんっ」
「なにて・・・」
「オマエ先寝てまうからつまらんし、しゃあないから寝とったいうのに何をしてんねん!」
「ちょ、知るかっ!ちゅーかおまえいつまで人の上乗ってんねんええ加減どけやっ」
「いややっオマエずるいやんけヒナとばっかっ」
「なにがずるいねんっ・・・・・・おい、ヒナっなに笑って見てんねんっ」

何とか言ってくれ、と横山が助けを求めようとして視線をやった先。
村上は今にも声に出してしまうのを手で押さえて堪えるようにしながら二人を眺めていた。
なんとも微笑ましい、まるでそんな様子で。

「あー、いや、かわええなぁ〜て」
「あほかおまえ!そもそもおまえが急に・・・・っん!」

こんな事態にそんな感想が出る辺りこいつはやっぱり頭がおかしい、と横山が噛みつこうとした開いたその唇は、すばるの薄いそれに上から覆われるように塞がれてしまう。
咄嗟のことに思わず目を瞑ると、小さな身体が上からのしかかって押さえつけてきた。
その拍子にうっすら開いた唇からは舌が滑り込んできてさすがに焦る。

「んっ、・・・すば、」

口内を一舐めすると唇はそこで離れた。
思わず大きく息を吐き出しては忙しなく目を瞬かせる横山の上に乗ったまま、すばるは大きな瞳いっぱいに横山を映して見下ろす。
意志の強さがこれでもかと表れたそれで縛り付けるように。

「ヨコ」
「なんや・・・」

横山は小さくため息をつくとそのまま見つめ返した。
身体だけなら抵抗なんて容易くできる。
何せこの体格差なのだ。
けれどすばるは体格には恵まれなかったが、代わりにその瞳を持っていた。
それだけで横山を逃げられないようにすることができる瞳を。

「オマエはヒナだけのもんやないぞ。・・・ヒナとオレの、や」

目を逸らすことが叶わなかったから横山からは見えないけれども、村上はそれにうっすら笑っているだけだ。
それは肯定の意でしかない。

あまりと言えばあまりの台詞。
あまりと言えばあまりの状況。
けれど言ってしまえば、それは一般的にはどうだろうと、この三人の間では既に当然のことでもあって。
だからこそ横山は特にそれに反論するでもなく噛みつくでもなく、ましてや悪態をつくでもなく。
小さく息を吐き出すと、一言呟いただけだった。

「・・・あほ、いまさら確認すんなて」

それに大きな瞳をぱちくりと瞬かせるとすばるは嬉しそうに満面で笑う。
子供のように無邪気なそれが可愛らしくて横山も思わずつられて笑ってしまった。
そしてゆるりとすばるを引き寄せると、ちゅ、と自分から触れるだけで口づける。

「おまえが寝てんのがあかんねんぞ。俺のせいやないわ」
「んー。ヨコちょもっかい」
「なに甘えてんねん」
「目覚めのチューやん」
「もうとっくに起きとるやんけ」
「もっかい起こせや」
「何度起きたら気がすむねん・・・」

とは言いつつ横山も満更ではないのか、もう一度すばるを引き寄せるとそのぽってりした唇を押し当てる。
すばるはそれに少しくすぐったそうにしながら身を寄せて自分からも啄むように触れていく、けれど。

「・・・はいはい、そろそろその辺にしといてね。俺を一人にせんといてや」

村上はさすがに苦笑した様子ですばるの襟首を掴んで軽く後ろに引っ張る。
確かにその光景は可愛いと言えば可愛いが、自分の存在を無視されるのは些かいただけない。

「あっ、なんやヒナー邪魔すんなてー」
「お前も邪魔したやん」
「オマエのは抜け駆けやからアカン」
「それこそヨコの言う通りお前が寝てまうからやんか。
・・・ちゅーか、ほんまにそろそろ寝ましょか。明日もあるしね」

はたと時計を見れば時刻は既に深夜を廻っている。
いい加減明日に響きかねない。

「んー・・・ねむたい」

すばるが降りてようやくちゃんと起きあがることができた横山は、村上の言葉で今まさに眠気を思い出したとでも言うかのようにひとつ大きく欠伸をする。
それにつられたのか、一度起きたというのにすばるもまた眠たげに目を擦ると横山の隣に転がった。

「ねるかー」
「ねる」
「・・・あんたらそのまんまやったら普通に風邪引くから。ちょお待ちなさい」

フローリングの床に隣同士でゴロゴロと転がっては既に半分寝そうになっている二人に、村上は呆れたようにため息をつくと足早に寝室に行って戻ってくる。
その手には毛布と掛け布団が二枚ずつ。
それを毛布、掛け布団の順番に二人の上からバサバサとかけていく。

「んっ、・・・あったかいわ」
「なーモコモコしてんでヨコー」
「毛布てええよな、妙に幸せな感じするわ」
「めっちゃよう眠れんねんな」

24にもなった成人男子が毛布一つで嬉しそうに笑い合ってはその中で身を寄せ合う様は一般的にどうなのだろう。
けれどそれは二人の性質故なのか、なんだか妙に微笑まし気にも見える。
二人の精神性が何処か幼いからだろうか。
村上は小さく笑って内心そんなことを思いながら、電気を暗くすると自分も横山の隣に潜り込んだ。
するとふわりと肌に触れた毛布が確かに随分と暖かくて、なんとなく二人が言うことも判る気がする、と思った。
そしてふと隣の横山を見て、向こう側のすばるを見て、ひとつ思いつく。

「あ、これ川の字やん」
「おっええやんオレら家族やん!」
「・・・ちゅーかひとつええか。真ん中が一番でかいんはすでに川とちゃうやろ」
「まぁまぁそない細かいこと気にせんでもええやん」
「せやで。そういう川もアリやろ」
「あほか・・・。これやとどっちかっちゅーと、真ん中は子供やなくておかんとかおとんやんけ」

どう考えても自分が一番大きいのだ。
それで合ってるはず。
思わずくだらないことを真面目に考えてみたりする横山を、村上とすばるは両側からおかしそうに見る。

「あれ。じゃあヨコがおかん?」
「えーイヤやこんなおかんー」
「そうすると俺ら息子は苦労するなぁ?」
「オレらがしっかりせんとなー?」

なー、と何故か変なところで同意しあう二人の間に挟まれて、横山はなんだかくだらないことながらバカにされているような気になって唇を尖らせる。

「おまえらみたいなあほな息子持ったおぼえないわ。・・・もー寝る。おまえらも寝ろっ」
「はいはいじゃあ寝ましょかー」
「蹴んなよー」

いい歳をした男が三人身を寄せ合って眠るというのも、これまたどうにも寒い光景なのかもしれないが。
でも本人達にとってみればこれこそが暖かいのだからしょうがない。


そうして暗い室内は一気に静寂に満たされる。
既にさっき一度寝たせいか今度もまたあっさりと眠ってしまったすばる。
そして元々の寝付きがいいからかやはりすぐさま眠りについた村上。
横山は二人の間で身動ぎ一つせずにぼんやりと天井を眺めていた。

暗くなってしまった白い天井。
さっきは普通に寝ていたというのに、横山は今何故か眠れなくなってしまった。
右手をすばるに、左手を村上に握られているからだろうか。
それこそ子供が母親にするように。
身動ぎすらままならない程に。
けれどもそれは元々身動ぎしたいとすら思わない程に暖かく。

性質は真逆のくせにその実は寂しがりな二人。
いや、それは横山とてそうだ。
まるでタイプの違う三人の共通点はそこだった。
けれども横山は、だからだとは思いたくなかった。
そうっと息を吐き出す。

寂しかったから、人恋しかったから、一人でいられなかったから。
だから身を寄せ合ってきたわけじゃない。
今までの年月はそんなものじゃない。
誰でもよかったわけじゃない。

誰でもいいなら。
こんな関係は誰も選ばない。


まだ幼い時分、やはりこうして見上げた天井は今とは違うけれど。
三人の関係は変わらない。
変わらない。
変わらない・・・そうでなければ。
横山はそっと目を閉じて呪文のように自分に言い聞かせる。

しかし目を閉じてもやはり眠れない。
眠れない。

眠ったら、またあの夢を見てしまうから。



何か変わってしまう気がしたから。










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(2005.11.30)






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