4.夢から覚めた夢
夢を、見た。
それはもう随分と昔の話。
何年前の何の時かなんて、もうよく憶えてはいないけれど。
それは確かにまだ自分たちが今よりも幼かった時の話。
「・・・お。おったおった。探したで」
幼く愛嬌のある子犬のような顔がひょこんと扉から覗く。
レッスン場の裏にある用具置き場の役割を持った倉庫。
いつも締め切られたそこは埃と僅かなカビ臭さで正直あまり快適とは言い難かった。
無造作に放置されていた少し錆び付いた大きな機械の上に、適当な具合にマットが敷かれている。
その上にごろりと転がっていた横山は、その声に酷くかったるそうに半身を起こす。
その拍子にさらりと揺れる金髪はこんな薄暗い場所でもキラキラと輝き、それは否が応でも人目を引く。
村上は揺れた小さな輝きに何だか少しホッとしたように頬を緩めてみせた。
けれど横山は僅かに眉根を寄せたままチラリと村上を見下ろし一瞥する。
「なに。なんか用?」
ぼそぼそと呟くような声は、元々の柔らかく舌足らずな口調と相まって聞き取りづらかった。
村上は少しだけ考えるような様子を見せてからちょこちょこと横山の方へと寄っていった。
何かと横山が怪訝そうに見ている先で、村上はそのすぐ傍まで来ると細い身体でひょいと機械の上に飛び乗り、横山の隣に座った。
そして特に何の前置きもなくあっさりと言ってのけた。
「すばるがな、悪かったて」
「・・・なんや。すばるに言われて来たんか?」
少し嫌味な口調になってしまったことを内心で自分自身舌打ちしながら、横山はふいっと村上から視線を逸らす。
かと言って見ていたいようなものはそこには何もなかったから、ただ空虚に視線を彷徨わせた。
それに村上は特に気にした様子もなく生白い横顔をじっと見つめて、ちゃうよ、と明るく笑いながら否定した。
「すばるが俺に言うてきてんもん。言い過ぎてもうた、て。どないしよ、て。どうやってヨコに謝ろか、て」
「やっぱ言われてきたんやんか」
「せやからちゃうて。すばるは単に俺に相談してきただけ。
そんで俺はその相談に乗ってやって、さらにお節介したなっただけ」
「・・・お節介?」
胡乱気な表情を浮かべる横山の視線が再び村上の方を向く。
村上はそれににっこりと人懐こい笑みを浮かべて頷いた。
「まぁ簡単に言えば、間取り持とう思って」
「・・・うわ、なんやこいつ。うっとうしいな。ほんまお節介やわ」
「せやからお節介や言うてるやん。放っとけへんねん」
「放っとけや」
「放っとけへん。・・・すばるも、悪気とかあらへんから」
「わかっとるわ、そんなん」
どれだけ鬱陶しがっても止めることなくじっと横顔を見つめてくるのに、横山は半ば呆れたように息を吐き出す。
実際怒っているわけではない。
あんなものは単なる子供の口喧嘩程度のものだ。
すばるも横山も口は悪い方だったし、手より先に口が出る方だったし、何よりお互い我が強い。
そんなある種の似たもの同士が時に行きすぎた言い合いで失言をしてしまったとしても、致し方ない。
「あんなんいまさらやで。あいつ口わるいもん」
「あんたも大概ですけどね」
「うっさいしっとる。・・・せやから別に気にしてへん。そう言うとけや」
「や、明日あたりあっちから謝ってくると思うで。せやからそん時言うたって」
「・・・なんでやねん。おまえから言うときゃええやんか」
「それこそなんでやねん。俺関係あらへんやん」
「せやったらなんで今ここに来てんねん!あーうっとうしいっ」
「さっきからうっとうしいうっとうしいて失礼やねぇ」
「めんどいねんうっとうしいねん。・・・俺そういうんめんどいねん、ほんまに」
「照れ屋やねぇ」
ブツブツと悪態をついてみせる横山をにこにこと微笑まし気に見つめる様は、いっそ同い年には見えない。
身体は横山よりも小柄だし顔立ちも愛嬌があるから、歳の割に完成されて大人びた横山に比べれば見た目はむしろ年下にだって見えるというのに。
知り合ってだいぶ経ち、知り合いとか仕事仲間というくくりから何となく友達というくくりに入れられるくらいになってきたのかもしれない、そのくらいお互いのことを知るようになった。
なんや妙に馴れ馴れしくて人とうち解けるのが得意な奴、そんな横山の村上に対する第一印象は、元の形は留めたままながらも少しずつ新たな色を帯びるようになっていた。
「・・・そんで、おまえの用はそんだけなん?」
「んー。放っとけへんな、て。思うて」
「そらさっき聞いたわ。もうほんならええからあいつんとこ行ったれよ。俺はもう一眠りすんねんから」
「せやからな、お前のこと放っとけへんから。まだ出てけへんよ」
「・・・なんで俺やねん。気にしてへん言うてるやろ」
じろ、と軽く威嚇するみたいに自分を見る横山の視線を軽く受け流して、村上は腰掛けた機械の上で両足をブラブラさせる。
「自分を欠片も見せへんような奴は、誰にも理解なんてされへんのやぞ、て」
村上の口から淡々と呟かれたそれは、他愛もない言い合いから発展した口喧嘩の末にあの小さな身体から発された言葉だった。
「すばるな、何か言うて欲しかったんやて。さらけ出せとかそこまで言わへんけど、言うて欲しかったんやて」
「・・・おまえにそう言うたん?」
「ん。でもお前がその言葉にさえ何も言い返さへんから。それがまたショックやったて」
「・・・・・・」
横山はまるで少女のようなその妙に艶やかな唇を噤み、軽く視線を落とす。
判っている。
横山にとて判っていた。
すばるが言いたいことの意味。
それは横山に対する苛立ちのあまり言ってしまった言葉だったということ。
横山は事実として、恐らく自分が悪いんだろうと思っていた。
馴染めないわけではないし馴染まないわけでもない、けれど何処か妙に周りから浮いてのらりくらりとしている自分。
新入りとは言え売れてきたと言えるのか、顔が知られるようになって、固定のファンがつくようになって。
やがてこの業界にお約束の陰口というものを叩かれるようになって。
そのお綺麗な顔で一体何をしたんだか、さすが社長のお気に入りは違う、と。
東京のジュニアと違って社長の目に触れること自体が極端に少ない、いっそ不遇とも言える関西ジュニアの中では、臆することなく社長に物を言える横山の存在はまさに浮いていて。
白磁の肌に通った鼻筋、輝く金色の髪、そして艶やかでふくよかな唇、それらに彩られた長身は歳の割に完成され過ぎていて、それでいて未だどこか少年特有の危うさや鋭さも残していて。
この業界でも十分に目を引く横山のその容姿は、皮肉なことに囁かれる陰口を後押しするかのようですらあった。
横山自身それらに気付いていないわけではもちろんなくて。
けれどそれでも特に何を言い返すでもなくて。
「陰で色々言う奴らがな、許せんかったんやって。そんで言い返さへんお前がむかついたんやって」
「意外と熱血やな、あいつ」
「そうか?普通やろ。友達が陰口叩かれたら、そら許せへんし。理不尽なことなのに言い返さへんかったら、むかつくわ」
さらりとそう言う村上の言葉にはさりげないけれど強い力がこもってて、横山はそれにまたむっつりと眉根を寄せながらも僅かに俯く。
そんなにも眩い色の髪色を自らしているくせに、眩しいものは苦手だとでも言うかのように。
「・・・おまえら短気やねん。もっとこう、俺みたいにな、温厚になれや。大人っちゅーか」
その俯き加減で翳った顔を、村上は無言でそっと覗き込む。
歳の割に大人びた横山はその思考もある意味確かに大人びていた。
それは言い換えれば諦観とも言えた。
まだ言っても十数年、村上とほとんど同じだけの年月、それだけしか生きていないはずなのに。
それなのに沢山のものを諦めてきた、諦めざるを得なかった、そんな哀しさを何処か常に映した瞳。
村上はそれがいつも少し悲しかったし、同時に放っておけなかった。
それはすばるとて同じだ。
彼は今回それを不器用にしかぶつけられなかったけれど。
「すばる、結構お前のこと気に入ってんねんで」
「・・・そら初耳やな」
「まぁ意地っ張りやからそういうとこは見せへんけど」
「見せられても反応に困るわ」
それは冗談めかした口調だったけれども、実際には冗談でもなんでもなくて。
きっとそんな好意を露わにされても横山は戸惑ってしまうだろう。
嬉しい、照れる、やっぱり嬉しい、・・・けれど、どうしていいのか判らない。
人の好意には敏感なのに、その先をどうしたらいいのかが判らないのだ。
そしてそんな自分を横山は何よりも諦めている。諦めてしまっている。
それが横山の紛れもない真実だけに、村上は横山とは逆側についた手を密かに小さく握りしめた。
「困らんでも。・・・喜べばええやん、そんなん」
「・・・喜ぶんか」
「それでええやん。そこで悲しむんはおかしいやろ」
「おかしいか」
「さすがにな」
「せやな。・・・別に悲しくはないしな」
「せやで」
この世に生まれた人間誰しもに、もしも運命の人というものがいるのならば。
早く横山に出逢って欲しいと村上は思う。
運命の人、すなわち、生まれ持った何かを両手を広げて全て受け入れてくるような、生まれ持って足りない何かをそっと優しく撫でるように埋めてくれるような。
どうか早くと、村上はひたすらに願う。
手遅れになってしまう前に。
「・・・とにかく、ちゃんと仲直りすんねんで」
「おまえ、おかんか何かか」
「あんた意地っ張りやからね」
「あいつ程やないわ」
「あんたも大概ですよ」
「うるさい」
「ほんま素直やないなぁ」
「うっとうしい」
「ええ加減聞き飽きたわそれ。それは自分でもよう判ってますんで」
「ほんまうっとうしいねん。・・・いつまでそこおんねん」
今度はあからさまにばつ悪そうに視線を寄越すのに、村上はおかしそうに小さく笑ってみせた。
自然と手がその金色の髪に伸びる。
触れた髪は予想以上にサラリとした触り心地で、村上の胸の奥が何か小さな音を立てた。
こんな風にまじまじと触れるのは初めてだったけれども、横山は酷く鬱陶しげな表情をしてみせつつも特に嫌がる様子は見せなかった。
「・・・うっとうしい」
「ふふ。ほんまそればっかやね。・・・せやなぁ、いずれここに座るような人が現れたら、譲りますわ」
「はぁ?」
何のことだとぽかんと口を開ける様が妙に真抜けていて、村上は今度は声に出して笑う。
「まぁまぁ。とにかくそれまでは我慢しとき」
「・・・なにこいつほんまいちいち偉そうやわ。何様やねん」
そう、いつの日か。
横山にそういう人間が現れたなら。
運命の人と呼べるような、そんな人間が現れたなら・・・。
・・・でも本当は知っていた。
心の奥では知っていた。
もうそんな人間はとっくに現れていること。
まだまだ自分たちよりも幼く無垢な、同時に強く真っ直ぐな瞳を持った少年。
村上はずっと隣で横山を見ていたから、知っていた。
横山の視線の先にいつの間にかあった存在を。
運命とはすなわち出逢った瞬間に惹かれ合うのだとしたら。
まさにこれこそがそうなんだろうと、村上自身まだ幼いながらに思った。
横山は目の前に立ちはだかる大きな現実に躊躇するから、そしてかの少年は未だ幼すぎる故に気付いていないから、その見えない糸は未だ結ばれることもないけれども。
「俺ねぇ、結構好きやねん、こういうの。相談事とか」
「アホか。おまえ勝手に来て勝手にベラベラ話しとっただけやんか。俺は相談なんぞ、ひとっこともしてへんで」
「まぁええやん。何かあったら俺に話し。俺将来そういう仕事で食ってこ思てるから」
「うわ、でた仕事。ほんま金の亡者やな」
「大事やでー金は」
「うるさい。うっとうしい」
「ね、せやからうっとうしいついでに、何かあったら言うてええねんで」
「・・・・・・ほんま、うっとうしい」
ふい、とついには背けられた顔。
その耳が少しだけ赤くて、村上はふっと微笑む。
そして心の中で密やかに誓った。
この場所にいる限り、自分は彼の心を守れる最後の砦でいようと。
諦観の色を映した瞳は決して自分自身を守ろうとはしないから。
それならば自分が彼を守ろうと。
けれど運命の人間はもうとっくに現れている。
この場所に本来いるべき人間はかの少年でしかない。
横山とかの少年の性質や現実問題を考えれば、それは確かに容易ではないだろうけれど。
もしかしたら横山はたとえようもない程に苦しい想いをするかもしれないけれど。
そのギリギリのラインは自分が守ればいい。
そして来るべき時を待つ。
村上には判っていた。
譲るべき時、それはいつか必ず来ると。
それは絶対的確信を持った、予言だった。
カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
むくりと起きあがり、小さな欠伸を一つと共に何度か瞬きをして頭を覚醒させる。
村上は今見た懐かしい夢を思い返してはふっと笑って呟いていた。
もう忘れかけていた。
「・・・ほら、な。当たった」
予言は当たった。
運命の人。
いずれこの場所を譲るべき時。
けれど村上は同時にもう一つ思い出す。
そんな予言は当たらなければいいと、そう思った自分があの時確かにいたこと。
本当は夢を見ていたかった。
それでも夢はいつかは覚める。
覚めた夢に思い知らされる。
電話向こうで、想いを告げることを未だ躊躇う声。
自分を見つめて、躊躇うことなく想いを示してみせる瞳。
最初から判っていたことだ。
けれど村上とて聖人君子ではなかった。
もしもこのままでいられたら、と。
そんな夢も見た。
できるならずっと見ていたかった。
眩く、まるであの甘い蜜色の髪のように差し込む光は、もう村上にそれを許してくれそうもなかったけれど。
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(2005.7.27)
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