12.マシュマロ
シャッター音だけが響く空間に二人きり。
それは村上が裕が載る雑誌の中の一つを担当するようになってから、もう何度目かになる。
けれど裕はほんのつい最近になって考えるようになった。
そう言えば、亡き父親以外でこうして男と二人きりになるのなんて村上が初めてだったのだ。
セットの白い椅子の上で膝を抱え、指示通りに軽く視線を落としながらぼんやりと思う。
亮はあくまでも弟だし、忠義は亮と自分の幼馴染みであるわけで。
裕からしてみればこの二人は厳密な意味では「男」には当たらない。
精々が「男の子」と言った所。つまりは子供扱いなのだ。
周りからはよくモテるだろうと言われるけれども、意外なことに裕にはその手の経験が全くなかった。
それどころか告白すらされたことはないし、もちろんしたこともない。
別に男嫌いなわけではないし興味がないわけでもないのだ。
むしろ興味は人一倍ある。
けれども裕はこう見えて意外と奥手で、そのくせ傍目からすると美人だけれどもどこか冷たくきつい印象を与えるせいもあって。
周りから熱い視線を受けることは多々あっても、実際にどうにかしようとする男は今まで現れなかった。
だから裕自身も自分には恋なんてものは縁遠いのだと齢18にして達観してしまっていた節もあった。
ただ、その中の何割かは一途に姉を慕う弟の虫除けという名の威嚇による弊害なのだということは未だ知らない。
そうして必然的に裕が「男」として認識するような存在と二人きりになったことは今までなかったのだった。
けれど裕はそうして「二人きり」という言葉を頭の中に思い浮かべる度に頭を振るようにそれを打ち消そうとする。
何だか自意識過剰な気がしたのだ。
所詮これは仕事の内で、言ってしまえば相手は仕事で自分を撮るためにこうして来ているわけで、自分とてまたそうで。
このスタジオ内の一室に自分と村上しかいないのだって、今までのカメラマンが必ず助手やスタッフを他に連れてきていたのに比べて、相手がそれを必要とせず一人で撮ることを好んだだけの話。
特別な理由なんて何一つとしてない。
だからこそ、裕はそれをなんだか殊更に意識してしまう最近の自分を持てあましていた。
「どした?疲れた?」
シャッター音が不意に止み、膝を抱えた状態の裕の上に影ができる。
ハッと我に返ったように見上げると、そこには小さく笑顔を浮かべた村上が小首を傾げて自分を見下ろしていた。
「もう結構時間経つからなぁ。少し休憩しよか?」
「別に、つかれてへんで」
「そう?でもなんやぼんやりしとったから」
笑顔を絶やさぬその様は、裕からすれば自分よりも余程撮られる側に向いているように思う。
けれどもそうして笑顔のままにさりげなく被写体を気遣う様は、こうして撮る側に向いているとも思う。
特徴的な八重歯を見せながら笑う顔は人懐こくて安心できる。
口にしたことはないけれど、裕は村上がそうして自分と目を合わせて喋ってくれるのが好きだった。
だけどそれなのに、それに対して笑うことは愚か、目すらもさりげなく逸らしてしまう自分が嫌だった。
「ちゃうもん。・・・おなかへっただけや」
「あー、そか。お腹減ったかー」
「おなかへった」
「ふふ、じゃあ休憩改め、おやつの時間にしよか?」
「・・・おやつなんてあるん?」
「今日はなー、色々持ってきてんで。裕ちゃん何が好きかな〜て思うて」
そう言ってカメラを置くと村上は自分の荷物をガサガサと漁り出す。
裕が少しの興味を引かれてそろりとそちらに寄っていって肩越しに覗き込むと、その目の前に色とりどりの袋が掲げられた。
キャンディ、チョコ、スナック、それにマシュマロ。
特に統一性のないそれらは、とりあえずどれか一つは好きなものがあるであろうラインナップ。
それらひとつひとつに視線を移し、裕は切れ長の瞳をパチパチと瞬かせる。
「ぜんぶ食べてええの?」
無邪気なまでのその台詞は、さっきレンズ越しに何処か憂いのある伏し目がちな表情を晒していた少女と同じには見えないくらいに幼く、村上は思わず声に出して笑ってしまった。
「うそ、全部食べるん?」
「なんやねん、食べてええから持ってきたんとちゃうん。あかんの?」
「や、あかんくはないけどな。・・・全部好きなん?」
「おん。好き。あ、でも、チョコとマシュマロが特に好き」
好き、と言う視線は既にそれら二つの袋に注がれている。
村上はそれに頷くと他の袋をしまい込み、マシュマロの袋を両手で開けた。
「そうかー。じゃあとりあえず今はその二つ食べればええんとちゃう?残りは終わってからってことで」
「えー・・・」
「あれ、あかん?」
「・・・終わったら残りもくれるん?」
「あはは、あげるあげる。心配せんでもちゃんと全部あげるから」
身体つきや雰囲気は随分と大人っぽいのだけれども、殊言動や仕草はなんだか稚い。
そして基本的にあまり視線を合わせようとしない割には、時折見つめてくるその瞳の奥の幼さ。
それはどうにも庇護欲を疼かせる。
村上は裕と出逢って今までで彼女に感じた印象を改めて頭の中に浮かべながら、開けた袋の中からマシュマロの入った小袋をいくつか取り出した。
「ほら、手出して」
「ん?」
「はい。マシュマロ」
「あ、おん、ありがと・・・」
裕は嬉しそうにほんのり笑むと、その白くて細い指先で袋をガサリと開けていく。
そうして現れた白くて丸くて柔らかな感触。
なんだかそれに少しの懐かしさを覚えながら、口の中に放り込んだ。
ふんわりと口の中に広がる特有の甘みに白い頬がまた緩む。
「ん、おいしい」
「お、ほんま?」
「中にな、チョコ入ってんねん。おいしい」
「へ〜そうなんや。今そんなんあんねんなぁ。やー、おっちゃんマシュマロなんてもう何年も食べてへんわ」
からりと笑ってそんなことを言う村上に、裕は未だ掌の上にいくつかの小袋を載せたままちらりとそちらを見上げた。
「・・・食べる?」
「あれ、くれるん?」
「ちょっとならええよ」
「ほんならちょっとちょうだい?」
「ん、ちょおまって・・・」
切りやすい場所が判らないのか、そもそもが開けにくい袋なのか。
小さな袋ひとつに依然として苦戦しながら白い手がまた一つマシュマロを取り出す。
「はい。いっこだけな」
「おー、ありがと」
裕はそれを何気なくそちらに掲げ、村上が手に取ってくれるのを待った。
その白く滑らかな指先で摘まれた、これまた白くて柔らかなマシュマロ。
けれどもそれはそのしっかりとした手からではなく、不意に顔がこちらに傾けられてそのまま唇に運ばれてしまった。
「え、」
自分の指先にあったものが一瞬にしてその口の中に直接入ってしまったのを目の当たりにして、裕はきょとんとその口元を見つめた。
もぐもぐと小さく動いては咀嚼して、今自分が持っていた物体がその喉の奥に飲み込まれていくのまでも全て見てしまった。
そして更にそのまま自分に浮かべられた笑顔までも同様に。
「なんや、こんな甘いの久々に食べるわ」
「・・・・・・じ、」
「ん?」
自分で食えや、そう言おうとしたけれど。
裕は言葉に詰まって結局止めた。
相手はおっさんだからきっとこんなことは何でもないことなのだと、そう自分に言い聞かせて。
「もっと食べる」
またひとつ袋を開けてマシュマロを口の中に放り込む。
そして更にもうひとつ。
こうすれば言葉なんて出て来なくても当然だから。
「ほんま好きやねんなー。でもそない一度にいっぱい食べたらもったないで?ゆっくり食べ?」
そんな風になんだか優しく笑う顔が、口内に広がる甘くてふんわりした感触と相まって、それすらも甘く感じてしまう。
裕は妙にふわふわしたものや気持ちを持てあましながらまたひとつ、小袋を開けて口の中に放り込んだ。
そのマシュマロの甘みがそのまま自分の中に溶けてしまうような錯覚に陥る。
「裕ちゃん、マシュマロ好き?」
「・・・好き」
そうだ。
そうに違いない。
くすりと笑みを含んだその声すらも甘く感じてしまうのはきっと、マシュマロが自分の中に溶けてしまったからだ。
「そっか。じゃあ俺も、好きかな」
その言葉がこの上なく甘く、そしてどうしようもなく胸を疼かせるのは。
そのマシュマロがこの身体の中に溶けてしまったから。
そうに違いない。
そうでなければ、自分はきっとおかしくなってしまったに違いないから。
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