3.呼ぶ碧き声に耳を塞いで










碧き碧き森。
宝石を散りばめたかのようにキラキラと輝く不思議な森。
そこは陽気で愛らしい妖精達が住まう魔法の森。

心優しく、そしてちょっぴり悪戯好きな二人の妖精は、今久方の来訪者に興味津々だった。

「わぁ、本物のお姫様だー」
「ねぇ、本物のお姫様だ〜」
「綺麗だねぇ、エルフィン」
「可愛いねぇ、コンフィ」
「眠ってるけど、きっと起きたらもっと綺麗で可愛いんだろうなぁ、エルフィン」
「ねぇ、起きたらもっともっと綺麗で可愛いんだろうねぇ。でもお前の方がもっともっともーっと、可愛いよーコンフィ」
「な・・・そんなことは言わなくていいっもうっ」
「え〜?」

赤くなりながら叩いてくる小さな手に、エルフィンは何故叩かれたのが判らないと言った表情できょとんとしている。
本当にそう思うから言ったのに、とそんな様子すら表情に浮かべつつ。
だから言うなって言ってるのに、とコンフィティは思っているからこそ叩くのだが。

妖精の中では高位とは言えまだまだ年若い二人は、物心ついた時から一緒にいる割に未だにこんな初々しいやりとりを交わす。
彼ら妖精には所謂人間のような「恋人同士」という言葉は存在しないが、何の理由もなくずっと一緒にいる二人を人間に当てはめれば確かにそう言えるのだろう。
しっかり者で強気だけれど照れ屋なコンフィティと、のんびりでうっかりだけれど優しいエルフィンは傍目から見れば羨ましいくらいに仲が良く、いつだってこうだった。
けれど、はぁ、と大きく息を吐き出したコンフィティは自分を含めて今こんなことをしている場合ではないのだと思い起こす。

「・・・エルフィン、今僕らが考えなきゃならないことは、なんだ?」
「今考えなきゃ・・・いけないこと・・・」
「そうだよっ。うっかりお姫様に見とれちゃってたけど、今って大変なことになってるんだぞっ」
「大変・・・。ええと、なんだっけ・・・」
「もうっ。だからっ、今ここにマーガレット姫がアルバニーって兵士と駆け落ちしてきて、それに怒った公爵達がここに向かってる、そうだろっ?」

ホープランドの森はアセンズ国に隣接していて、昔からそこの妖精達はアセンズ国の内政には実は詳しかった。
妖精達は元々好奇心旺盛なせいもあり、森から出ることこそまずないものの、魔法の力でアセンズの様子を探るくらいのことは平気でしている。
だから最近のアセンズがエミリア・アントーニオ親子に牛耳られていること、そしてマーガレット姫がアントーニオ公爵と政略結婚させられそうになっていること、加えてマーガレット姫が想いを寄せる一
兵士のアルバニーとついには駆け落ちしてきてしまったこと、だから今その姫を捜しにアントーニオと腹心ギルデンスターンが森にやってきていることも全て知っていたのだった。

エルフィンはそれをようやく思い出したようにこくこくと頷いた。

「あ、うん。うん。うん・・・」
「もうっ。しっかりしろよーエルフィンっ。僕らが何とかしなきゃいけないんだからっ」

コンフィティが小さな身体をめいっぱい大きく見せるように大きなアクションでそう言ってくるのが、何だか可愛らしくて。
エルフィンはほわん、と妙に柔らかく笑ってコンフィティの柔らかな髪をその大きな手で撫でた。

「うん、うん。判ってるって。・・・でもほら、そんなにプンプンしてるとゆだっちゃうよ、コンフィ」
「・・・もう。お前と話してるからだよっ」
「んー?」
「・・・もう」

また撫でられた。
自分が小さいことを強調されているような気がしてそれはちょっぴり癪だったけれど、その手の感触は好きだったのでそれ以上の文句は止めた。
確か生まれたばかりで物心つくかつかないかくらいの時には全く差がなかったはずなのに。
あっという間にエルフィンは大きくなってしまって、今では森の妖精達の中でも一番かもしれない。
ただ彼ら妖精族は物質的な肉体を持つわけではないから、見た目の質量の大きさなどは本来なら問題ではない。
けれど単純に見た目としてやはりそれなりに身体はあった方が何となく気分はいい。
そんな意識はコンフィティがまだまだ幼い証拠なのだけれど、生憎とそれを指摘する者は今ここにはいなかった。

「とにかくっ、今は早いとこ姫を隠さなきゃ」
「うん。魔法で見えないようにさせればいいんだよね?」
「だね。それで何とか公爵達を蒔いて・・・諦めさせないと」
「よーし。じゃあやろっか」
「上手くいくかなぁ・・・」
「上手くいかせないとー」

二人は互いに顔を見合わせると、こつんと手の甲を合わせて同時に頷き合う。
そして懐から取り出した魔法のステッキを掲げると、口早に詠唱される呪文に反応してステッキ先端の宝石がキラキラと輝く。
そこから生まれた煌めきが目の前で眠るマーガレット姫に降り注ぐと、やがて姫の身体はいずこかへ消えてしまった。
いや、実際には未だそこにあるのだけれど、森の花々の力によって人の目には見えないようにさせられただけ。
実際魔法をかけた本人であるコンフィティとエルフィンの二人にはうっすらと姫の姿が見えている。

「・・・よしっ。ひとまず姫はこれで隠せたぞ」
「あとはー・・・えーと、公爵?」
「そう、公爵達が万が一にも姫を見つけないようにしないと」
「んー・・・でも怖いなぁ・・・公爵・・・」
「何を言ってるんだよーエルフィンっ。僕たちはこのホープランドの森の妖精だぞ?この森にいる以上、利があるのは僕らだ」
「あーうん、そうだよねぇ」

うんうんと頷くエルフィンに頷き返しつつも、コンフィティは少し気がかりそうに眉を下げた。
エルフィンは公爵が怖いと言ったが、コンフィティにとっては公爵よりもその母であるエミリアの方が何となく怖かった。
確かに公爵は見るからに冷酷そうだし手酷いことも沢山しているようだったし、傍目からすれば怖いけれど・・・。
それでも公爵はやはり人間だ、自分達をどうこう出来るわけもないことはよく判っている。
けれどエミリアは何か違う気がした。
いや、彼女も人間なのだからそれは公爵と大差ないはずなのに。
何故だかコンフィティは彼女に関しては言いようもない不安を残していた。
人間だから、生きる世界がまるで違うから、大丈夫。
そんな理屈が彼女には何故か通用しないような気がするのだ。
その理由はコンフィティにも上手く説明が出来なかったし、だから実際エルフィンにも何も言わなかったのだけれども。

コンフィティはあの親子が十数年前、アセンズにやってきた当時の様子を魔法で見ていたのだ。
妖精族の中ではまだ年若いとは言えそれでも人間に比べれば随分長い時を生きているコンフィティだから、その時のことはよく憶えている。
アントーニオはその時まだ幼い子供だった。
エミリアに手を引かれて歩くのがやっとくらいの。
その頃はまだまだ可愛らしい子供だったのに、とコンフィティはその頃を思い出す。
けれどそれと同時に思い出す、エミリアの今と全く変わらぬその姿。
ヴェールに隠された顔は見づらかったけれど、それでもそこから覗く銀髪と冷たい美貌は今とまるで変わりなかった。

コンフィティは人間の命の儚さを知っている。
自分たちが僅かな時を森で戯れている間にも人間達は生まれ、成長し、老いて、死んでいく。
だからこそあんな風に日々を精一杯生きているのだと知っているから、コンフィティは人間が好きだった。
けれどエミリアはこの十数年間まるで変わらぬ姿を保ち続けている。
何か特別な薬でも使っているのかとも考えたけれど、そんなものを人間が持っているはずがない。
若さを保てる薬など妖精族でも早々作れるものではない。
考えても判らないことだったけれど、だからこそ、コンフィティはその正体の今ひとつ掴めないエミリアに何か漠然とした不安を感じていたのだった。

「・・・コンフィ?どうしたの?」
「あ、・・・ううん、なんでもないよ」

眉を下げて考え事をしているコンフィティに気付いたのか、エルフィンは少し心配気にその顔を覗き込む。
この子はこれで結構深く考え込む方だから、と宥めるように頭を撫でる。

「怖い?大丈夫?」
「もーお前じゃないんだからなっ。僕は大丈夫だよ」
「僕だってもう怖くないさ」
「ほんとかー?」
「ほんとー」
「よしっ。じゃあそろそろ公爵達がやってくる頃だから・・・・・・っ!?」

そうしてコンフィティが立ち上がろうとした時、風が吹いた。
森の木々の間を風が駆け抜けた。
コンフィティは呆然とその場に尻餅をついてしまう。
またエルフィンも何かに気付いたように辺りを忙しなく見回している。

「なんだ・・・?木々が、花々が・・・ざわついてる・・・?」

この森に息づく幾千、幾万の緑の命達がざわめいているのだ。
それが風となって今や大樹をも揺らしている。
まるで今までにない何か大きな動揺が森中を駆けめぐっているような。
そしてコンフィティもエルフィンも気付いた。
森の最深部、高位種族である二人ですら滅多に足を踏み入れることは叶わない場所にそびえる、森の守り神とも言うべき「希望の樹」が揺れている。
こんなことは初めてだった。
一体今この森に何が起きているのか。
一体この森に何がやってきたというのか。

コンフィティは狼狽えた様子で辺りを見回す。
下位の妖精達などは一様に怯えて木々の陰に隠れてしまっていた。

「揺れてる・・・希望の樹が、揺れてるよっ・・・」
「コンフィ、落ち着いて、大丈夫、大丈夫だよ」
「だって揺れてる・・・あの樹が揺れるなんて今までなかったのにっ・・・」
「大丈夫だから、落ち着いてコンフィ・・・」

けれど宥めるエルフィンとて内心では少し怖かった。
希望の樹はこの森の中心。そしてこの森そのものだ。
この森の全ての命はあの樹から生まれ落ちた。
その命の源とも言うべき樹は、妖精族に伝わる伝承ではこの大地が創世された時からあるという。
人間の起源が海ならば、妖精の起源は樹だ。
その母なる樹が揺れるなど今までなかったことだ。

「・・・でもコンフィ、僕には判らないよ」
「え・・・?」
「これは怖いことなのかな?・・・それとも、そうじゃないことなのかな」
「そうじゃない、こと・・・?」

確かに今森は揺れている。希望の樹は揺れている。
しかしそれは何も悪いことが起きる前兆と決まったわけではない。
実際木々も花々も風に揺れていたけれど、それは確かに悪い前兆を知らせるもののようでもあり、逆に何かを歓迎するざわめきのようにも感じられた。
ただそれがどちらかまでは二人には判らない。
だからコンフィティはそれを確かめるように、訊ねるように、小さくぽつりと呟いていた。

「妖精王さま・・・」

もちろんそんな声は届くはずもなかったし、応えてくれるわけもなかったけれど。
希望の樹に宿るという、けれどほとんど誰も見たことがない、妖精達の頂点にいるその存在ならば何か知っているのではないかと思ったから。










「全く・・・この森はどうなっているのだ」
「さっきから同じ場所を廻らされているようですね」

薄暗い森の中でアントーニオは不機嫌そうに木々をかき分け、枝を踏みしめる。
式の当日に逃げ出したマーガレット姫を捜しに来たのはいいものの、鬱蒼と茂った森はまるで意志を持ったように彼らの足取りを阻んでいた。
実際それはコンフィティやエルフィンの指示で彼らよりも下位の妖精達が魔法で阻んでいたのだが、そんなことは判りはしない。
ただギルデンスターンは何か不思議な力が働いていることは感づいているようで、手にしたカンテラで暗い足取りを照らしながらも注意深く辺りを窺っている。
行けども行けどもどうしてか同じ場所ばかり廻らされる。
しかも自ら緩く絡みついてくるような蔦や草が鬱陶しくやがて体力も消耗してくる。
これはこのままいるのは得策ではないかもしれない、とギルデンスターンは内心思う。
ちらりとアントーニオの方を見れば彼はやはり不機嫌そうに眉根を寄せたまま、けれど何故かその場で立ち止まり、何かに意識を集中させているようだった。

「アントーニオ様?」
「黙れ。・・・少し静かにしていろ」
「・・・は」

何か見つけたのだろうか。
アントーニオは意識を集中させながらも時折辺りを見回し、何処か場所を探っているようだった。
そして暫くしてそれがようやく定まったのか、斜め右前方の方を向いて小さく呟いた。

「・・・母上」
「え?」
「母上が来ていらっしゃる」
「エミリア様が・・・?」
「あれだけお止めしたというのに・・・」

ギルデンスターンの言葉には答えることもなく、アントーニオは小さく呟くとさっさと早足で歩き出してしまう。
さっきまで悪戦苦闘していた蔦を手で颯爽となぎ払い、何の障害でもないかのようにただひたすら何かを目指して突き進んでいく。
それに後ろから着いていきながら、ギルデンスターンも確かに段々と何かの気配が近づいてくるような気はしていた。
ただ森には小動物の類も沢山生息しているし、何よりそれを人間と断定するとこまで行ったとしても、その人物まで特定するとは。
何の迷いもなく、不機嫌そうだった先程までの様子も微塵もなく、ただ思考を一点に集中させて進んでいくアントーニオの行く先はさしもの森の不思議な力も阻めそうになかった。

これなら・・・とギルデンスターンは気付かれぬように小さく唇の端を上げた。
姫は見つけられなかったとしても、言う通り本当にいるとすればそのエミリアは見つけられるだろう。
つまり、公爵にとって大事なこととはそういうことなのだ。
この森に働く何か得たいの知れない不思議な力に対抗出来るのが、仮に何物にも代え難い強い意志の力だとしたら。
なるほど、利用するためだけに求めた姫などよりも余程大事な母親を捜すことの方へ意志は働くだろうな、と納得したように思った。
それは当のエミリアの望むことではないだろうけれども。

しかし何と母思いの息子か、とギルデンスターンは内心いっそ感嘆したように思った。
冷酷で、自己中心的で、恐らくこのアセンズを乗っ取ったならばその時はきっと絵に描いたような独裁者になるであろうアントーニオは、けれど母親にだけは過ぎるくらいに従順だった。
むしろ母親に操られているのではないかと思う程に。
けれどエミリアにだけ向ける何ともいえない愛情に満ちた表情は、操られているというよりかは、その抱えた野望の理由全てがそこに集約されているからという方が正しかっただろう。
アントーニオは時折夜伽のための女を呼ぶことがあったが、それは決して多くはなかった。
ましてや側室どころか正妻すらいない。
今や宰相という地位にある公爵にはあるまじき状況だ。
それに関してエミリアは、公爵はいずれマーガレット姫と婚約するため、と言ってはいたが。
実際のところ公爵が姫を利用する以上のものとして特別な感情を抱いているかどうかは一目で判ることだった。
だから城内では密やかに囁かれたものだった。
アントーニオ公爵はいつまでも美しい母君に夢中なのだ、と。
それがもしも本当ならば、近親相姦は重罪とされるアセンズにおいて由々しき事態ではあった、が。
今の権力構図を鑑みればそんなことを大声で言う者など皆無なのだった。


「母上!・・・母上!どこにおられますか!」

やがてだいぶ距離が近づいてきたのか、アントーニオは声を張り上げて母を呼んだ。
するとそれが届いたのか、向こうの方から何か小さな声がする。
アントーニオとギルデンスターンが耳を澄ますと、それは確かにエミリアの声だった。
どうやらアントーニオを呼んでいるようだ。
それを聞くや否やアントーニオは走り出す。
最早絡まる蔦も木々も何もかもその障害には成り得なかった。

二人が生い茂る木々を剣でなぎ払って進むと、少し開けた場所に出た。
今まで邪魔してきたものたちが嘘のようにぱったりと止む。
そこにはエミリアが一人辺りを見回して何事か探っているようだった。

「母上!!ご無事ですか!」
「ええ・・・私は大丈夫。あなたこそ怪我はありませんか?アントーニオ」
「私のことならご心配召されるな。・・・それより、あれだけお止めしたというのに母上・・・」

アントーニオはすぐさまエミリアの元へ駆け寄ると、その無事を確かめるように心配気に全身をくまなく見つめた。
けれどその心配をよそに、エミリアの身体には本当に怪我一つなく、それどころかドレスに僅かな汚れすらも見られなかった。
それにアントーニオは安堵した様子で胸を撫で下ろしていたが、ギルデンスターンは密かに首を捻った。
この夜の鬱蒼とした森で、しかも今不思議な力が働いて自分達の行く手を阻んでいる中で、ここまで何事もなくこんな森の奥まで、しかも一人で来れるものだろうか。
自分達でさえ絡まってくる蔦のせいでだいぶ汚れたし、中には擦り傷だってあるというのに。
エミリアは一体どうやってここまで来たのだろうか。
まるでアントーニオとギルデンスターンの二人のようには阻まれなかったかのような。
むしろ森が自らエミリアに道を開けたかのような・・・・・・当然見てはいないから判りはしないし、馬鹿馬鹿しい想像でしかなかったが、そうでもなければ説明のつけようがない気がした。

「・・・それよりアントーニオ。マーガレットを見つけましたよ」
「それは本当ですか!」
「ええ。・・・けれど口惜しい、どうやってもこの先へ進めないのです」

そう言ってエミリアが指さした方にじっと目を凝らすと、確かに。
大きな切り株の根元に誰かが横たわっているようだった。
いつの間にか辺りに薄霧がかかっていてよくは見えないが、どうやら身にまとう質素なドレスからそれが若い女だということが判る。
そして僅かに覗いた手の、その中指にはめられた指輪は確かにマーガレット姫がしていたもので、それは姫の母である今は亡き王妃の形見だったはずだ。
それが間違いなくマーガレット姫であることを確認すると、アントーニオは母の言葉を聞きつつもそちらに一歩足を踏み出す。・・・踏み出そうとした。
けれどそれはままならなかった。

「な、・・・なんだ?前に、歩けない・・・?」

アントーニオの足は確かに前を向いて進もうとしたはずなのに、それはまるで本人の意思を無視して後ろに下がってしまう。
それは何度試しても同じ。
ある一定より先に進もうとするとそれを阻む強い力が働くようだった。

「だから言ったでしょう。・・・恐らくは、この森の妖精どもの仕業でしょうね」
「妖精・・・?ここにはそんなものがいるのですか?」
「・・・ええ、アセンズには古くから言い伝えられているでしょう?」
「ああ、確かに・・・。けれど本当にそんなものが?」

ホープランドの森には妖精達が住まう。
それは確かにアセンズに住むものならば誰しもが知っている話だったが、それは結局のところ童話と言っても差し支えないレベルのものだ。
つまり妖精は人の目に見えないから、誰も肉眼で確認したことなどない。
誰も見たことがないから、それは童話の域を出ない。
だからこそアントーニオには少し不思議だった。
現実主義者の母がこれほどまでにきっぱりとその童話的な存在を肯定し、話を進めていることが。
けれどエミリアはそんな息子の疑問を一蹴し、進めない向こう側をまた指さす。

「この今の現状が何よりもそれを示しているでしょう」

自分の言葉に納得するように頷く息子を後目に、エミリアは内心苛立ちを隠せなかった。
さっきからざわざわと木々や花々が煩くてしょうがない。
一歩を踏み入れた瞬間からまるでそれが大事のようにざわつく森がエミリアの・・・クインスの神経を逆撫でた。

今更何の用だ、とも。
漸く戻ってきてくれた、とも。
どちらともとれるざわめきは、けれどどちらにしろクインスにとっては大袈裟でしかなく、鬱陶しい以外の何物でもなかった。
別に戻ってきたわけではない。
誰が今更こんな場所に戻ってなど来るものか。
クインスは内心吐き捨てたいような、同時に後ろめたいような、そんな複雑な衝動に駆られながらここまでやってきた。
幸いにも低位の妖精程度がかけた魔法ならばクインスには効かなかった。
むしろ森は自ら道を開けたのだ。
それはこの森がクインスを未だに憶えているということに他ならず、それがまたクインスを苛立たせたが、とりあえず苦労なしに先に進めたことだけはよかった。
けれど今ここにかかっている魔法はどうやら高位の妖精がかけている魔法のようで、今のクインスにはどうにもできなかった。
いや、もしかしたら何とかなるかもしれないという手段はあったが、正直試す気もなかった。

「・・・仕方がありませんね。今日は帰りましょう」
「マーガレットはどうするのです?」
「そう急ぐこともないでしょう。早々逃げられるものでもない。・・・ギルデンスターン」
「は、」
「マーガレットは明日あなたが連れ戻してきなさい」
「は、仰せのままに」

ギルデンスターンが恭しく頭を垂れると、エミリアはそのまま踵を返す。
マーガレットは仮にも自分が育てた姫だ、アントーニオ達に任せてばかりではいられない、そう思いわざわざ一人でここへ来てはみたものの。
やはり何十年かぶりに訪れたこの場所は居心地が悪くてしょうがなかった。
一度捨てた場所になどもう二度と来るものではない、エミリアは小さくため息をつくとアントーニオの手をそっと取る。

「母上・・・?どうされましたか?」

二人きりでもない時に母が自分に触れてくることは珍しい。
野望のためにいつだって神経を張り詰めているから。
具合でも悪いのだろうかと覗き込めば、エミリアは小さく微笑んで息子の手を握り締めた。

「少し、疲れてしまいました。手を引いて歩いてくれませんか?」
「もちろんです母上。さぞやお疲れでしょう。母上さえよろしければ私が抱えて帰りましょうか?」
「ふふ。重いですよ?」
「何を仰る。・・・ほら、母上は羽のように軽い」

アントーニオは母に頼られ、その上滅多にない甘えまで見せて貰えて上機嫌だ。
最早姫を取り戻せなかったことの不機嫌などこれで帳消しだろう。
何だかとても嬉しそうに両手で母を横抱きに抱えあげると、今来た道を歩き出す。
確かに母は実際には父であり、身の丈で言えばアントーニオよりもあるのだから決して軽くはない。
けれどもアントーニオにはそんなことはまるで気にならなかった。

「ギルデンスターン、行くぞ。前を照らせ」
「は、かしこまりました。足元にお気をつけください」

ギルデンスターンはカンテラで地面を照らしながらアントーニオの前に出る。
その際一瞬ちらりと横目で二人の様子を見て、あながち噂は噂だけのものではないのかもしれない、と思った。
だってこれではまるで恋人同士ではないか。
エミリアはアントーニオに抱えられ、そのドレスの豪奢な袖から覗かせた白い両腕を息子の首に絡ませている。
そして息子の腕の中で頭を胸に預けて。
眠るようにそっと目を閉じた様はどこか無防備でまるで何も知らない少女のようにすら見える。

「・・・母上、お眠りになられましたか?」

エミリアは返事をしない。
それに本当に眠ってしまったのだろうと思ったのか、アントーニオは腕の中の白い顔に一つ愛しげに微笑んで、まるで壊れ物にするかのようにそっと抱えなおす。

アントーニオの腕の中、目を閉じて眠るようなクインスには今どんな音も届かない。
そう、この腕の中なら届かない。
何も聞かなくて済む。

ざわざわと煩いこの森の何もかも。
何故捨てたと、戻ってきてくれたのかと、煩くざわめく何もかもを、聞かずに。










NEXT






(2005.8.26)






BACK