2.恋の魔物










視線を感じる。
横山は今日も人知れずひっそりとため息をついた。

そう、今日も。今日もだ。
今日も昨日も一昨日も。その前の日だって。
それは辿々しくも一途な想いを告げられたあの日から毎日。
いや、正確にはいつからかなんて横山自身にもよく判らなかった。
錦戸がいつから子供の殻を破って大人になったのか。
いつから自分にそんな想いを抱くようになったのか。
それすらも判らないのだから。

結局人間なんて自分のことで手一杯なのだと横山は内心で自嘲する。
いかに昔の自分が幼なかった錦戸の将来を想い、守った、なんて言い訳しても。
つまりは怖かっただけだ。
先のない関係に、幼く無垢で愛しい存在を巻き込むことが。
たとえその時実ったとしても、いつの日か未来の見えないそれに気づいた錦戸に、重い枷のように捨てられることが。
一度愛を告げたら、受け入れてもらえたら、そして受け入れたなら。
もう二度と離れられなくなる。
もしも離されたなら壊れてしまう。
臆病で弱い自分を横山は誰よりよく判っていた。
だから、何もかもが始まる、その前に。
全てなかったことにした。

横山が必死の思いでなかったことにしたはずのもの。
けれどそんな甲斐も空しく、横山にとってひどく恐ろしい「恋」という生き物は、それでも密やかに錦戸の中で生まれ、育っていた。
そして「愛」という名の凶器を右手に携え、もう左手で横山の白い喉元を押さえつけようとしている。
その熱っぽい視線を感じる度に横山は苦しくて堪らなくなる。
いっそ叫びだしたい程に心臓が騒ぎ立てる。
何度も出て行きそうになった叫びは、その度何とかギリギリのラインで飲み込まれた。
出て行きそうになる度に・・・彼が、ずっと傍で横山を支えてきたあのしっかりとした手が、戦慄く唇を塞いでくれたから。
時にはその唇で、慰めるようにも塞いでくれたから。
その手と唇はその瞬間だけでも横山に安堵をもたらしてくれた。

ただ。
抱きしめられて眠り、そして起きた瞬間は、やはり何故か苦しさが残るのだけども。



「じゃ、お先失礼しまーす」
「おー・・・」
「横山くん、携帯とお財布と、あと傘!忘れたらあきませんよー?」
「んー・・・」
「特に傘絶対忘れそうや〜」
「わかったっちゅーねん」
「じゃあほんまに俺帰りますねー」
「おー。おつかれ」
「おつかれさまでーす」

大倉が横山の忘れ物チェックをしてくれるのはいつものことだ。
ただいつもならチェックをしてから一緒に帰るところを、どうやら今日は先約があるとかで、間延びした声と共にグループ一の長身は控え室を出て行った。
それを視界の端で見ながら横山はひどく緩慢な仕草で帰り支度をしている。
もう控え室に残っているのは横山だけだった。
特に急ぐ必要もないだろう。

荷物を適当にかばんに突っ込みながら、横山はこれからの予定をぼんやりと考える。
今日は特に誰とも約束はしていない。
自然と頭の中にはよくあるコースが思い浮かぶ。
このスタジオの最寄り駅から電車に乗って5駅、乗換えをして3駅、そこから歩いて15分程の場所にある彼の家。
そこであの人懐こい笑みに出迎えられて・・・と。
そこまで考えてから横山は、はたとして小さくため息をついた。
今彼はドラマのロケで不在だった。
だから今日のグループでの仕事にもいなかったのだ。
あまりにも鈍く緩慢な動きしかしていない自分の頭に、横山は顔を顰めて力ない動きでかばんの口を閉めた。

そろそろ出ようと、荷物を手に、一応と言った様子で控え室を改めて見回す。
自分と、そして既に帰ったメンバーの忘れ物がないかどうか。
けれど後にして思えば、そんならしくもない心配りなどしなければよかったのかもしれない。

鏡台の前にぽつんと残された携帯。
横山の物ではない。メンバー誰かの。
その誰かが一瞬にして判った横山は思わず動きを止めた。
それは錦戸の物だった。
ゆっくりとそちらに歩み寄ると、その携帯をそっと手に取る。
今日届けてやった方がいいだろうか。
それならばあいつの家に寄って、おばさんに渡してすぐ帰ろう。
すぐさまそう考えて、そしてすぐさま思考を断ち切った。
その携帯だけで妙に落ち着きをなくす自分を内心嘲りながらも、落ち着けるように。

けれど横山のそんな内心での努力など無意味だった。
横山の背後でゆっくりと扉が開く音がする。

「あ、・・・まだおったんですね」

すっかり声変わりをして久しいその低めの声は、いつからこんなに横山の胸を騒がせて締め付けるようになったのだろう。
横山はひとつ小さく唾を飲み込んでから、その携帯を見せるようにして振り返った。

「・・・これから帰るとこやってんけど。これ、忘れたやろおまえ」

呆れたように笑ってやると、錦戸はばつ悪そうに苦笑しながら頷く。

「ちょお急いどって。うっかり」
「おまえもアレやなー、大倉とかヤスとかに忘れもんチェックしてもらわなあかんで」
「・・・そんなん、今回だけやん。横山くんと一緒にせんといてくださいよ」
「1回も100回も変わらんでそんなん」
「だいぶちゃうやん」

グループの忘れ物キングと一緒にされたくない、と嫌そうな顔をしてみせながら。
錦戸は横山が手にした携帯を受け取るために何気なくそちらに歩み寄る。

「ほれ」
「どうも」

横山の手から携帯を受け取って、錦戸はそれを無造作にジーンズのポケットへ突っ込んだ。
それからまた視線を戻すと当然ながら、まだそこにある白い手。
思えば出逢った頃から変わらない、男にしては妙に綺麗なその手。
当然のように視界に入ってきたそれに何故か錦戸はそこでふと自覚してしまった。

幼かった自分の頭を優しく撫でてくれていたその手を、自分だけのものにしたい。
そこから始まり、そこから生まれ、そうして育った、「恋」だったのだと。

「・・・ねぇ、横山くん」

錦戸は携帯をポケットに突っ込んだその手で、白い手を掴んだ。
いつだって妙にひんやりとした、恐らく人より低い温度を持ったそれを。
自分の手はその白い手をこんな風に掴めるくらいには大きくなったのだと思えば、何だか少しおかしくて。
錦戸は小さく表情だけで笑った。

「に、しきど・・・?」

けれど逆に横山の顔は強張る。
妙な緊張が身体を包んでいることが錦戸にさえ感じられた。
それが何だか少し理不尽なような、寂しいような、そんな感覚を覚えつつ。
錦戸は触れれば自然と溢れ出す想いを隠しもしない表情で、じっと横山を見つめた。

「俺じゃだめですか?」
「おまえ、・・・」
「俺の何があかんの?」

その熱っぽい視線に横山の白い顔が僅かに俯く。

「・・・せやから、それは、」
「うん、あかんて言われた。受け入れられんて言われた。・・・けどそんなん聞けへん」
「そんなん、おまえ・・・勝手やわ・・・」
「勝手なんはよう判ってる。でも諦められへんねん」

一度振られておいて追い縋るなんてみっともない。
錦戸はかつてはそう思っていた。
一度告白してだめならそこで諦めろと。
往生際が悪いと。
それ以上なんてやっても無駄だと。

けれど往生際だとか、無駄だとか。
そんな問題ではないのだと、錦戸は自分の立場になってみて実感した。
たとえ可能性が低かろうと、ほとんどなかろうと。
そんなこととは関係なしに、自分の中の「恋」という生き物はただ相手を求めて自分を突き動かすのだ。
相手が困惑しようと拒絶しようと、関係なかった。
それは「恋」の本能だから。
そう考えれば恋なんて所詮はお綺麗な代物などではないのかもしれない。

「あかん・・・あかん。むり、・・・」
「なんで?誰か他におるん?」
「せやから、それもこのまえ・・・っ」
「ちゃんと聞いてへん。あんた誤魔化したやん。あかん、無理、・・・そればっかりで」
「・・・おまえの気持ちには答えられへんいうのに、それ以上理由なんか必要か」

努めて低く呟かれた言葉は、今の横山の精一杯だった。
それしか言えなかった。
それ以上の言葉は、横山が望まぬものとして溢れ出ていってしまいそうだったから。
そして今この場所には、横山の唇をそっと塞いで抱きとめてくれる彼は、いない。

「理由なんか、あらへんて?」
「そうや」

言葉少なにただ拒絶する横山に、彫りの深いその顔は苦悩を刻む。
どうすればいいのかと考えれば考える程に錦戸の中の「恋」が暴れる。
本能に理性が食い破られそうだった。

「そんなん、納得できるわけあらへんっ・・・」
「・・・できんくても、しろ」
「無理言うなや」
「しろ言うてんやろ」
「それこそ無理や」
「・・・堂々巡りやな。おれ、帰る。離せ」

完全に視線を外して強引に腕を振り払おうとする横山に、錦戸の中で「恋」が低く呟いた。


『何をしてでも欲しいなら、決して離すな』


「・・・ッ!?にしきどっ・・・!」

振り払われそうになった手を逆により強く掴んで。
錦戸は力任せに腕を振ると、横山の身体を鏡台の上に引き倒した。
咄嗟のことに抵抗することができなかった横山は受身すらもとれず。
僅かな痛みを背中に感じながら、自分を上から見下ろす後輩の顔を睨むように見上げた。

ありえない体勢だった。
少なくとも横山にはこんな事態はありえないことだった。
ありえないようにと、あの日死ぬ思いで全てなかったことにしたのだから。
けれど錦戸の中では既にこの段階まで「恋」が育ってしまっていた。

「ねぇ・・・好きなんです」
「せやから、おれはっ・・・」
「愛してるんです」
「ッ、・・・やめろ、言うな」

「恋」という名の魔物が右手に携えた「愛」という名の凶器。
左手で横山の白い喉元を押さえつけ、今にも貫かんばかりの凶器をぴたりと左胸に押し当てる。
横山は苦しくて苦しくて、怖くて、今にも震えだしそうな身体を保つことで必死だった。
けれど錦戸は容赦なく魔物を暴れさせる。
理性を押さえ込み、本能を開放する。

「横山くん・・・あんたのこと好きや。愛してる」
「言うなぁッ・・・!」

喉を引き裂かんばかりの悲痛な声に、さすがに錦戸も顔を歪める。
「恋」は強いけれど、同時に脆い生き物でもあった。
だから心の底から全てで拒絶されたなら、そのまま息絶えることもあったかもしれない。
けれど横山にはできなかった。
そこまではできなかった。
心の底には、錦戸と同じ魔物の亡骸が未だ密やかに眠っているのだから。

「・・・にしきど、たのむから、も、離して、やめて、おねがいやから・・・」

最後は懇願しかできなかった。
震える瞼をぎゅっと閉じて、わななく赤い唇を薄く開けて、引きつる白い頬を僅かに紅潮させて。
けれどそれは錦戸の中の恋の魔物にはまるで甘美な獲物のように映った。

「・・・よこやまくん」
「っ・・・」

錦戸は身を屈め、そっと顔を近づけると優しく囁く。
それは魔物の囁きだ。
それにすら慄く身体を押さえつけ、細い指先で横山の滑らかな首筋を辿るように触れる。

「そない嫌なら、そう言えばええねん。俺のこと嫌いやて」
「はな、せ・・・」
「お前なんぞ俺は愛してへん、て。それだけでええねんで。そんだけで離したるわ」
「・・・・・・」

横山にはもう何を言ったらいいのかも判らなかった。
ただ震えるばかりのその身体にゆるりと触れながら、錦戸は横山のシャツの裾から手を差し込む。
それに横山は一際大きく震えたけれど、もはや抵抗らしい抵抗も出来ない。

「なぁ、言わんの?それ言うだけで離したるのに」
「いやや・・・」
「嫌なら言えや。・・・はよ言えや!」
「・・・・・・」
「・・・言わんてどういうこと?嫌や言うくせに、どういう意味なん?」

そうしてシャツの裾から差し込まれた手が明確な意思を持って動き出す。
横山は喉の奥だけで小さく引きつった悲鳴を上げる。

嫌いとひとこと言うだけ。
愛してないとひとこと言うだけ。

でも言えなかった。
それがこの現実だ。
殺したはずの「恋」という魔物は、たとえ亡骸になってもなお心の奥底で横山を縛り付ける。
このまま魔物に身を任せてしまえばきっと楽になれる。
つまりは心の奥底では自分だってそれを望んでいる。
望んでいるからこそ、消せなかった想い。

けれど結局横山には何も出来なかった。
錦戸の言うひとことを言って魔物を完全に消し去ることも。
かと言って魔物に身を委ねることも。
出来たのは、いつだって押さえつけていたものが溢れそうになる時、横山の唇をそっと塞いで抱きしめてくれた彼の名を呼ぶことだけだった。

「・・・ひ、なぁ・・っ」

瞬間、錦戸の手がぴたりと止まる。
呆然としたような表情で横山を見下ろして。

「・・・ヒナ?村上くん?」

頭の中でその名前を反芻してから、錦戸はふらりと後ずさるようにして横山から離れる。
けれど横山は咄嗟には起き上がれなかった。
横山本人も今自分の口から出た名前が信じられなくて、硬直したようにただ錦戸を見やることしか出来なかった。

彫りの深い顔立ち。
昔に比べれば随分と男らしく大人になった。
けれど今そこにあるのは、泣き出す寸前の子供の表情だけだった。

「にしき、ど、」
「・・・そ、か。むらかみくん、か・・・」
「にしきどっ・・・ちゃうねん・・・」
「せやな、よう考えれば判るやんな。昔っからあんたら仲ええもんな。ずっと一緒やったもんな」

錦戸は隠すように自分の顔を片手で覆うと、低く押さえ込んだ声音で搾り出すように呟いた。

「ほんなら、最初っから、言えや。ただそんだけ、言うてくれれば・・・」

それで諦められたかと言えば、錦戸にはそうは断言出来ない。
その程度で諦められる恋じゃなかった。
けれどだからこそ言って欲しかった。
敵うとは到底思えない程に横山と強い絆で繋がった彼がそこにいるなら、なおのこと。
その名前さえ出さず、最後の最後で拒絶することも躊躇って。
横山の理解し難いその態度は、錦戸の中の魔物の神経を逆撫でた。

「俺のモンになる気があらへんなら、同情なんかすんなやっ!」
「ちゃ、同情やない・・・っ」
「拒絶するだけすればええやん!なんでやねん!
あんたどこで躊躇してんねん!めっちゃ腹立つわ!バカにしてんのか!」
「・・・ちゃ、ちゃう、ちゃうねん、」
「何がちゃうねん!・・・それともアレか?
村上くんと二人して俺のこと笑ってたんか?ガキが生意気言いよるて?」
「にしきどっ・・・!」

ひどく自分勝手な台詞だと、錦戸自身判っていた。
自分が気づかなかっただけ。
そして遅すぎただけ。
でもそれでは本能は納得しない。
だってそれじゃあ、この抱えた「恋」の魔物を、自分はこれからどうしたらいいのか。
致命傷を避けて鈍い痛みと共に生殺しにされたこの恋心は。
錦戸はその痛みに呻き、まるで呪詛のように・・・それでも愛の言葉を紡ぐ。

「・・・でもおあいにく様や。それでも俺は、あんたが好きやねん。・・・諦めへんからな」

ふらりと背をそむけて出て行く姿はひどく力ない。
それでもその言葉は横山を縛りつけ、左胸に凶器をなお突きつける。

「横山くん・・・愛してますよ」

錦戸はそのまま部屋を出て行った。

中途半端に乱された衣服もそのままに、横山は依然として鏡台の上から起き上がることすら出来なかった。
ただ呆然と扉の方を見つめて。
熱くなる目頭もそのままに、漏れそうになる想いと、言葉と、そして嗚咽とを押さえ込んだ。

あの日「恋」を殺して、守ったつもりだった。
それなのに今またこうして傷つけた。
じゃあいっそのこと最初から殺さなければよかったのか?
素直に想いを告げて、受け入れてもらって、受け入れればよかったのか?
そうすればこんなことにはならなかったのか?

いや、恋の魔物は最初から殺せてなどいなかった。
所詮眠らせていたにすぎなかった。
亡骸だと思っていたものはいつの間にか目覚めていた。

「にしきど・・・」

愛していると、そう凶器を突きつけて自分を縛り付ける男。

「・・・ひな」

愛しているとは一度として言わず、ただ暖かな腕の中で自分を抱きしめる男。



その時自分が一体どちらを想って泣いたのか、それすらも判らず。
横山はただ静かに、嗚咽もなく、白い頬を濡らした。










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(2005.7.5)






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