3.彼の白い闇










横山が電話もメールも嫌うことを村上は昔からよく知っていた。
面倒だの束縛されたくないだの、ラジオや雑誌でもネタにするくらいだからそれは周知の事実でもあった。
ただ、嫌う理由をあと一つ付け加えるとすればそれは、上手く自分の気持ちを伝えることが出来ないから。
本人に直接聞いたわけではないけれど、村上はそう感じていた。
根本的に横山は妙な所で臆病なのだ。
傍目から見れば羨ましいくらい自由奔放に生きているように見えて、その実見えない裏側では人目を気にしている。

上手く自分の気持ちを伝えられないから。
それで他人にどう思われるかが怖いから。
そうしてどんなに親しい人間にも余程のことがない限りは自分から携帯で連絡をとったりはしない横山は、いつのまにかグループ内では面倒くさがりな機械オンチという認識が浸透した。
今やその携帯はもっぱらマネージャーからの仕事連絡にしか使われなくなって久しい。

だからこそ。
村上は数日に渡るドラマのロケで遠征した帰り家路に向かう電車がやってくるのを視界に入れながらも、ブルブルと忙しなく振動する携帯のディスプレイに「横山侯隆」と表示されているのを見て。
目の前に停車した電車を躊躇なく見送り、携帯を耳に押し当てた。

「もしもし?」
『・・・・・・ひな?』

もう随分と聞き慣れたはずのその声が妙に頼りなく聞こえるのは。
何も珍しい電話向こうという状況のせいだけではなかった。
生温い風が頬を撫でる夜のホームで、村上は全神経を電話向こうに集中させる。

「おー。今ちょうど帰るとこやってん」
『今、だいじょぶか?』
「おん。電車待ってんねん。あと30分くらいで帰れるんとちゃうかな」
『・・・そか。おつかれさん』
「どうもどうも。今回も頑張ってきたでー。おかげさまでええもん出来ましたわ」
『ふーん・・・。今回もギャラがっぽりか。また引っ越しか』
「そない何回も引っ越してどうすんの。何で稼ぐたんびに引っ越しやねん」

小さく笑いながらいつも通りの返しを送る。
依然として向こう側の声は力ないけれど。
村上には自分から何かを問いかけることはしない。
それは村上が自分自身に課したルールだった。
横山が自分から何かしらのサインを発しない限りは何も問わない。アクションも起こさない。
ただ僅かでも何かを自分に求めてきたのなら惜しみなく手を差し伸べる、と。
それは村上が自分を律するために必要なものだった。
村上は決して自分を過小評価してはいなかったけれど、過大評価もしていなかった。
他人が思う程に自分が理性的な人間ではないことを知っているからこその、ルール。

だから敢えて村上はいつもと変わりない、他愛もない会話をする。
横山がそれに乗ってこようと無視しようとそれはどちらでも構わなかった。
ただ自分がここにいることを、今話しているのは自分であることを、村上はそれだけを暗に伝えられればよかった。

「やーほんまええとこやったで、今回のロケ地。ええ感じに晴れたしなー」
『あっそ。・・・おまえ、ロケ帰りでなんでそない元気やねん。うっとうしい』
「タフなんが俺の取り柄やからね」
『うっとうしい』
「二回も言わんでええよ」
『なんでそない元気やねん』
「それも二回も言わんでも今更ですから」
『・・・俺は、ちょおつかれた』
「・・・ヨコ?」

そのままの会話の流れで呟かれた言葉。
それこそがサイン。
驚きはしなかったけれど、それは予想以上の代物だった。
語尾がかき消えそうな程に脆かった。

『・・・・・』
「ヨコ?・・・ヨコ?」
『・・・錦戸が、』
「亮が・・・どないした?」

ああ、やっぱり。
そんなことを頭の奥で思いながら、村上は続く言葉を待った。

『・・・あいつ、また言うた』
「また・・・?」
『せやから、おれ、なんや苦しくて、こわくて、・・・ようわからんくなって、そんでおまえのこと・・・。
・・・・・・にしきど、それでも諦めん、て、』
「ん・・・・・・」

横山の言葉は到底理解し難い代物だった。
それは元から自分の考えや気持ちを言葉で説明するのが苦手な上に、更に弱っているのと混乱しているのが重なっているのだろう。
自分がいない間に・・・そう思うと村上は苦々しい気持ちになった。
何があったのかと訊いてしまいたい。
錦戸に何をされたのかと・・・。
ただそんなことを思う反面、頭の中では自分が今何をすべきかを冷静に考えている自分を村上は自覚していた。

『ひな・・・』
「うん・・・?」
『俺、いまさら迷ってもーた』
「・・・そか」
『わからんねん・・・』

助けを求める子供のようなその声。
村上はこの電話越しの会話がもどかしくて堪らなかった。
横山が自分から電話を寄越してくることなど滅多にない。
しかも村上が別の仕事に行っている間ならなおのこと。
それだけで、今横山の精神状態がどんな状況に置かれているかくらいは判る。

『・・・俺な、ほんまは、今でもな、』
「うん・・・」
『あいつのこと、・・・』
「ん・・・」

その先に続く言葉は知っている。判りきっている。
それは村上が横山に想いを抱いた時には既に。
けれど横山は言わない。
未だ恐れているから言わない。

『・・・』

言えない。
けれどだからこそ、自分は何をすべきかも村上には判りきっていた。

「・・・ヨコ、言いたいなら、言うてええねんで?」
『・・・言うてええのん、おれ』
「ええよ。もしも言いたないことなら言わんでええ。でも言いたいなら言うてええ。そんなん誰もあかんなんて言わんよ」

言えずに苦しい思いをしていた横山の唇をいつだって望まれるがままに塞いできたのは村上だ。
けれどそれは横山が言いたくないと、言ってはならないと、本当にそう思っていたから。
・・・けれど、錦戸が想いを自覚した今。その均衡が崩れた今。
もはや横山がそこまで堪える必要は実際の所ないのだろうと、村上はそう客観的に思う。
横山は過去の傷の痛みがトラウマになっていて未だ恐れているけれども。

『・・・ふぅん。・・・そうなん』
「そうやで」
『ん・・・』

けれどそれ以上は会話も発展しそうになかったから。
村上はやんわりと小さく笑い声を含ませて先を続けた。

「ヨコ?もう眠いんやろ?声がぼんやりしとる」
『・・・もうねる時間やねん、おれ。おまえと違ってかよわいねん』
「か弱さと眠さは関係あらへんよ。そもそも、か弱いとかそない威張るもんちゃうで」
『うるさいおまえ声でかい。・・・ねる』
「はいはい。もう暖かいからって腹出して寝たりしたらあかんよ。ちゃんとタオルケットはかけとくねんで?」
『うーるーさーいー。・・・じゃな』
「おう。・・・おやすみ」

ピ、と小さな電子音と共に通話が切れる。

結局さして実りあるような会話ではなかった。
ただあれ以上は電話では無理だと思ったから。
出来るなら今すぐにでも飛んでいって傍にいてやりたいと思うけれど、さすがに時間も時間だ。
お互い実家暮らしでは早々ままなるものではない。

村上はその場で深く息を吐き出した。
ちょうどそこへやってきた電車。
けれど村上はそれもまた目の前で見送ってしまった。
そこに強く吹いた生温い風は以前よりも短くなった髪をも揺らす。
電車が通り過ぎ、向こう側に見える街の明かりに村上はうっすら目を細めた。

横山は未だ様々な物に縛られて、迷うのだろう。
けれど少なくとも自分が迷うことなんて一つもない。
するべきことなんて決まりきっている。
確かに状況は昔と変わったけれど。
それでも、決まり切っている。

次の電車が来るまでの間、村上はずっとそのことだけを考えていた。









その日はレギュラーラジオの収録日で、二週録りの関係上メンバーの内半分がスタジオ内にいた。
組み合わせは村上と安田、錦戸と大倉。
先に収録を終えた村上は次の二人が収録をしているのを横目にスタッフと談笑していた。
安田は大倉と一緒に帰る約束をしているとかで、妙ににこにことブースの中を眺めている。
基本的に錦戸と大倉は二人して喋るのが得意ではなかったけれど、その分何だか独特の空気感があって見ていて妙に面白い。
二人のテンションの低いやりとりに安田がおかしそうに笑うのをちらりと見て、村上は更にブース内にも視線をやった。
なんだかんだとあれで仲のいい二人は、会話が弾むのとは違うけれど楽しそうにやっているように見える。
錦戸はかわいげのない口ばかり叩いている中にも小さく笑顔を浮かべている。
ああして笑っている顔は昔と変わらず幼いな、と村上がぼんやり思っていると、まるでそれが伝わったかのように錦戸がブース内からふっとこちらに視線を向けた。
村上の姿を認めた途端にその幼い笑顔は消える。
けれどその視線はまたすぐさま逸らされ、目の前の大倉の方を向いた。

そこで村上は悟った。
ああ、俺のこともばれてんねんな、と。

そろそろ潮時なのかも知れない。



収録も終わり、さっさとブースから出てきた大倉を安田は待ちかねたように出迎えていた。
これからご飯食べに行くんです、と妙に楽しげに言っては連れ合って帰って行った二人を村上は笑顔で見送った。
けれど村上自身は荷物は全てまとめてあるにも関わらずそのまま帰ることもなく、ただ黙って椅子に座って待っていた。
そしてその背後からかかった声。

「・・・村上くん、ちょっとええですか」
「おん。ええよ」

村上は待ちかねたように立ち上がる。
立てばほとんど同じ高さにある目線。
まさに真っ直ぐに絡む視線と視線の間には今、きっと同じものが見えている。

「歩きながら、話そか」
「・・・はい」



既に辺りはすっかり暗くなっていた。
最寄り駅までの道を歩きながら、二人は互いに無言だった。
錦戸は言うことを考えているのかどうなのか。
軽く俯き加減で村上の横を歩いている。
それを横目でちらりと見て、村上は自分から口を開いた。

「話、あるんとちゃうの?」

錦戸はぴたりと足を止めた。
それに合わせて村上も足を止める。
街灯の明かりが二人を上から照らしている。
白い光にうっすらと浮かび上がる錦戸の顔は僅かに強ばり、それでも黒い瞳のに宿る強い光は変わらない。
お世辞にも口が達者とは言えない錦戸の、それよりも余程雄弁なその瞳には今様々な色が見てとれた。
けれど今村上に一番強く感じさせたのは、隠しきれない、嫉妬。
熱いものと冷たいものと、その両方を同時に奥に湛えた瞳に見据えられるのに、村上はそれでも何でもないように見つめ返した。
穏やかで、なおかつ何処か諦観の色を宿した瞳で。

「この前な、ヨコから電話あってん。ほら、俺がドラマでおらんかった時、収録あったやろ?あの日」

特に躊躇いを見せることもなく、村上は平然と言う。
錦戸は黙ったままじっとその言葉に耳を傾ける。

「なんや疲れた声しとってん。ノリもいまいちでなぁ」

黙ったまま・・・けれど錦戸は内心舌打ちしたい気持ちで思っていた。
どうしてこの人は、こんなにも落ち着いた様子で自分と話せるのかと。
今言うように彼から電話があったのなら、自分とのことだって当然聞いているはずで。
そのくせまるで自分を探るように遠回しに言ってくる。

「ほんで自分から電話してきたくせに、最後は寝る時間やからとか言うて切ったんやで?子供やで、ほんまに」

感情が表に出ないわけではない。
普通に笑うし怒るし喜ぶし、悲しむ。
それなのに村上はここぞという所で感情の底を見せない。
人懐こい笑顔で親しげに笑ってみせるだけで。

「あいつほんま子供やねん。不器用やし」

錦戸には村上の本音が見えない。
こういう人なのだと、長い付き合いでそう思っていたはずなのに。
今横山に絡むことに関して言えば、それが悔しくてしょうがない。
黙ったまま半分睨むようにじっと見つめてくる錦戸に、村上はやんわりと、まるで大人が子供に言い聞かせるように言った。

「せやから亮・・・あんま、あいつのこと追いつめてやらんといて?」

自分の手の内ばかり見せるのは癪だった。
けれど錦戸は村上のように上手いことなんて話せない。そんな余裕もない。
ひとつ小さく息を吐き出して、ぎゅ、と手を握る。

「・・・・・・村上くんは」
「うん・・・?」
「横山くんと、付き合うてるんですか」
「付き合おうてへんよ」

答えはあまりにもあっさりと返ってたから。
逆に錦戸は顔を顰めて低く呟いた。

「・・・嘘や」
「嘘やないて。そもそもがどっから出てきたん、そんなん」
「どこて・・・やって、横山くんが・・・」
「ヨコ?ヨコがそう言うたん?俺と付き合うてるて?」
「それはっ・・・」

そうは言われていない。確かに。
けれどだからと言って楽観視出来る程に錦戸は前向きな性質ではなかった。
それに何より、いくら直接そういう事実を聞いたわけではないとは言え、その名前が出た状況は明らかに普通ではなかった。
たとえばくだらない馬鹿話の中で出てくるようなものとは訳が違ったのだから。

「・・・俺、こないだ横山くんに告白しました」

唐突に話題を変えて話し出した錦戸に、村上は特に顔色を変えることもなく。
いつも通りの聞き上手なお兄さんと言った風で頷いた。
実際の所錦戸には、村上が自分と横山のことをどれだけ知っているのかは判らない。
もしかしたら全然知らないのかもしれないし、逆に全部・・・もしかしたら自分が知らないことまでも全て知っているのかもしれない。
結局錦戸には判らなかったから、それを読みとるような術も当然持ち合わせてはいなかったから、いっそのこと自分から全てさらけ出すことにした。

「いつからとか、ようわからんけど。いつの間にか好きになっとって、段々我慢できんくなったから。告白しました。・・・断られたけど。
でも、あの人なんでとかそういうこと全然言うてくれへんから。他に好きな人おるんですかて訊いても、誤魔化すし。
俺そんなん納得できんかった。そら、ダメなこともあるて、そんなん最初から判ってたけど。
そんならそれなりのちゃんとした理由とか、言葉とか、言うてほしくて。せやから俺、この前もっかい、訊きました。そんで、言うた。
・・・たぶん、村上くんに電話してきたって日やと思います」

その言葉は決してすらすらと、というわけはなく。
むしろ必死で、辿々しくて。
ああ、こういうことか、と村上は冷静にそれを見て聞いていた。
横山が白いベッドの上で遠い目をして言っていた物そのままだ。

錦戸が必死に考えながら紡ぐ言葉たちを、けれど村上は聞いている顔で実際には半分程度しか聞いていなかった。
それは村上にとっていまさらというのもあったけれど。
単にそれを言う錦戸の真っ直ぐさが・・・だからこそ時として鋭い刃のように煌めき、横山の心を離さず逆に引け腰にさせる程のそれが、何だか少し羨ましいような気がしたから。

「・・・・・・俺は諦めへん」

最後を締めくくった言葉は、まさに今村上が思った通りに煌めく刃だ。
そしてその刃は今真っ直ぐに睨むような視線と共に村上に向けられている。
村上はそれから逃げるでもなく、かといって受け止めるでもなく。
ふ、とまた人懐こく笑った。

「ええんとちゃう?」
「・・・なんすか、それ」
「せやから、諦めへんで。人それぞれやり方っちゅうもんがあるしな。お前の納得するまでやればええんとちゃうかって」
「そんだけっすか」
「ああ、たださっきも言うた通り、あんま追いつめんといてやって欲しいけど。アレで意外と繊細で臆病やから」

まるで保護者か何かのような口ぶり。
実際の所、昔から人付き合いのあまり得意ではないすばるや横山の面倒をなにかれと見てきたのは村上だ。
錦戸はそれをよく知っていた。
だからこそ、その延長だと思っていて気付かなかった。
でも錦戸にだってもうそれが単なる保護者としての物かどうかくらいは感じ取れた。

「・・・確かに追いつめてもうた。俺、余裕なくて、そんで」
「うん、まぁせやろなぁ・・・。だからこれ以上は、」
「けど追いつめられて咄嗟に助けを求めた相手の名前を、単なる何でもない友達やと思える程、俺は鈍くもお人好しでもないっすよ」

瞬きもせず鋭利に輝く瞳が村上を更にきつく見据えた。
村上は特に何か反論するでもなく視線を返す。

錦戸にだって追いつめた意識は確かにあった。
あの時、何処か強ばった表情で自分を見上げてきた想い人の顔は見ていて苦しくもあった。
同時にこのままどうにかしてやりたいとも思った。
だからこそあの時聞いた予想だにしなかった名前は錦戸を打ちのめすに十分だった。
好きだからと、諦めることなんて出来ないのだと、せめて自分をちゃんと見て欲しい、と。
そう思って伸ばした指先がまるで振り払われたみたいな感覚だった。
必要なのはお前の手ではないと言われたみたいな。
その時の煮えくりかえりそうな気持ちと言ったらなかった。
ああこの愛しい白い身体は全部あの人の物なのか、と。
目の前が真っ暗になりそうだった。

「・・・ねぇ、村上くん」
「なに?」
「付き合うてるんでしょ?いい加減言うて下さいよ、そんなん」
「いい加減て言われてもな。付き合うてへんもんをそうやとは言えへんし」
「じゃあなんで横山くんは、あの時あんたの名前呼んだんですか」
「さぁ。俺はその場に居合わせてへんから何とも言えへんな」
「・・・村上くんっ!」

ちゃんと答えているようでその実なぁなぁに聞こえる返事に、錦戸はついに堪りかねたように声を荒げる。
先輩相手に、とは頭の隅で思ったけれど、今は関係ないと自分に言い聞かせて。
あの時白い顔を見下ろして溢れた恋情は、この場においては隠しようもない嫉妬の炎に変わってチリチリと胸を焦げ付かせているのだ。

けれど実際の所、村上は別に誤魔化しているわけではなかった。
ただ単にどうでもいいだけなのだ。
そんなことは村上にとって今更問題にするべき所でない。そんなのはとうの昔だ。

「ええやん、そんなん。お前にとって重要なんは、俺やなくてヨコやろ?」
「どうでもええならこんなん言いませんよ」
「なんで?」
「あの人の心にあんたがおるなら、同じことや」
「そんなんヨコは言うてへんねやろ?それとも、俺のせいでダメやったて言いたいんか?」
「完全に断言するつもりはありませんけど、きっとそうや、くらいは思ってます」
「あんなぁ、気持ちは判るけど、無闇に人のせいにしたらあかんで?」
「すんません。・・・でも、少しでも可能性のあるモンから潰してかなあかんと思って」
「潰す、か。怖いこと言うわぁ」

冗談でも何でもない調子で言う錦戸に軽く肩を竦めてみせながら村上は薄く笑った。
軽く視線を落とした拍子に頭上から照らす街灯の光の角度が変わって、人懐こい笑顔に影が差す。

「でもなぁ・・・それはあかんな」

ぽつりと呟かれた言葉は、先ほどよりも更に表情が見えなくなったことも手伝って一瞬上手く伝わらなかった。
怪訝そうな顔で自分を窺ってくる錦戸に、村上はゆっくりと歩み寄ってすぐ至近距離で今度は確かに聞こえるように言った。
村上には珍しくトーンを落とし、押さえ込んだ声音で。

「・・・人のこと気にしとる前に、さっさと捕まえろや。お前はあいつのことまだ判ってへん」
「えっ・・・?」

錦戸が小さく肩を揺らして思わずその顔を覗き込もうとするのを遮って、その耳元に口を寄せる。
まるで言い聞かせるように・・・けれどそれはもはや到底兄貴分としてのものではなく。
村上は更に低く呟いた。

「捕まえて、全部聞いて、抱きしめて、そんで離すな。・・・絶対、離すな」
「村上、くん・・・?あんた・・・」

ようやく自分から起こしたアクションは、傍目から見れば随分と拍子抜けで滑稽だったかもしれない。
結局最後はこんなもの。こういう結果に落ち着く。
村上は自嘲気味にそんなことを思って小さく目を伏せた。

「・・・俺が言いたいんは、そんだけ。もう帰るわ」

言われたことを理解するのに時間を要して、錦戸はさっさと歩き出す背中を追うことも出来なかった。
ただ自分が思っていたのとは状況があまりにも違うと、困惑を持てあましながら咄嗟に叫んだ。

「村上くんっ!」
「・・・ん?」

一応、と言った体で立ち止まる。
振り向きはしなかったけれど。

「さっぱり判らん・・・言うだけ言うて・・・」
「あー、すまん。でもほんま、おまえが思うように俺とヨコが付き合うてるとかそんなん、全然ないし。
まぁ色々話し聞いたり、たまに慰めたったり。・・・確かに普通の友達以上ではあるかもしれへんけど。それは否定せぇへんけど」
「・・・あんたはほんまに、昔から判らん。あの人とは違う意味で」
「そうか?自分では結構判りやすいと思うねんけどなぁ」
「・・・じゃあ、最後にもう一個」
「ん?」

二人を照らす街灯がパチパチと点滅する。もう換え時なのかもしれない。
照らされたり、翳ったり。
そうして入れ替わる先輩の後頭部をじっと見つめる錦戸が、その言葉を聞いて一番に思ったこと。

「村上くんにとって今一番大事なんは、何なんですか?」

背後からのそんな問いかけに、村上は一旦頭上の点滅する街灯を見上げて。
点いたり消えたりする頼りない灯りに目を細めて答えた。

「もうあいつが泣かんこと、かなぁ」

その言葉はとてもさりげなく、何でもない風で。
ともすれば日常会話程度のトーンだった。
けれど何故だか妙に錦戸の胸にズシリと重く響いた。
錦戸は横山が泣いた所など一度も見たことはなかった。

「・・・村上くんっ」
「まだ何かあるん?」
「俺はほんまに好きです。あの人のことが好きなんです」
「うん」
「愛してるんです」
「うん・・・」
「諦めることなんてできへん」
「判っとるよ」
「そのためならそこに何があろうと、誰がいようと、何だってしてやろうと思ってた」
「ええんとちゃう。そのくらいして当然なんかもしらん」
「逃げるなら追いかける。そんで捕まえたる」
「そっか。うん・・・」
「好きやから誰にも渡したない」
「うん・・・」
「・・・・・・村上くん」

この人はもしかしたら。

「横山くんのこと、愛してますか?」

村上は何でもないみたいにふっと振り返って、また人懐こく笑った。

「・・・何やお前、さっき最後にもう一個て言うたやん。質問タイムはもう終わりやで」

咄嗟に錦戸は聞かなかったことにした。
自分で訊いておきながら。
実際答えなんて聞いてもいないのに。

何を聞いたって同じだった。
何度聞いたって諦めるつもりもないのに。
こんなことで揺らがされるくらいなら恋じゃない。
それならこんなに苦しくはならない。
だけど。

聞かなければ想像もしなくて済んだはずだった。
苦しい時、声もなく泣く人間と、荒れる感情のままに叫ぶ人間と・・・それでも笑う人間がいるのかもしれない、そんなこと。
・・・そんなこと、知ったってどうにもならないのに。

錦戸はどれだけ苦しくても、それでも、自分の「恋」を守るために。
今感じたそれをなかったことにした。
なかったことにしなければならなかった。


言わないことも一つの愛だなんて、思いたくもなかった。









NEXT






(2005.7.12)






BACK