何ひとつとして言葉に出来なかったのは、確かに自覚してしまったからだ。
レイニーラブソング 2
脱衣所に置いてあったタオルを一つ手に掴み、階段を足早に、けれど物音を立てないようにと上る。
まだ時間は午前を廻らないくらいだけれども1階は既に暗くなっていた。
早寝早起きな両親だから既に寝てしまったんだろう。
内心、少し助かったと思った。
手にした白いタオルのふわふわした感触を掌に感じながら階段を上りきる。
けれど自室の扉のノブに手をかけると同時、不意に隣の部屋の扉が開いた。
「・・・あれ、兄ちゃん今帰ったん?」
顔を出したのは上の弟。
上下ともジャージで、普段外ではかけない眼鏡をしていた。
元々あまり俺には似ていないと言われる上の弟は、そのあまりしゃれっ気のない黒髪とも相まって一見随分と真面目そうに見える。
実際のところ、俺なんかよりもずっと真面目だろう。
きちんと高校を出て、大学にも行って。
俺が一つ憧れもした、いわゆる「人並みの青春」ってやつを真っ当に謳歌しているようだった。
「おう。ただいま」
「おかえり。雨すごかったやろー?」
「ほんま、疲れた身体に鞭打たれた感じやわ」
「お疲れさん。明日は?」
「あー・・・と、夕方から雑誌の取材だけ。おまえは?」
「・・・俺?訊きたい?」
ちょっともったいぶったようなにやけ顔。
ああ、そう笑うとおまえ俺によう似てるわ。
「あー聞きたい聞きたい」
「俺なー、明日合コンやねん」
「はぁっ?合コン?おまえが?誰とっ」
「N女の子たちと。友達がセッティングしてくれてん」
「うわー、なんやそれ。合コンなんて兄ちゃんかてまだ一度もしたことないっちゅーねん!」
「兄ちゃんはアイドルなんやから当たり前やん。これは一般人の特権や」
「なっまいきやなーコイツはほんま。かわいくないわ」
そう言いながらも、言葉とは裏腹に頭を撫でる。
俺より少し下にある頭。
その身長はちょうどあいつと一緒くらいか。
そう言えばその黒髪だってそう。
家に入り何よりも先に俺の部屋に押し込んだあいつ・・・。
「・・・兄ちゃん?」
「あ、なに?」
一瞬意識が自室の方に行っていた。
またすぐにそちらを見ると、少しだけ不思議そうな顔をされた。
「今日、傘持ってかんかったん?」
「いや持ってったで?」
「せやんな?別に特に濡れたりしてへんよな・・・」
やはり不思議そうに俺をまじまじと見る。
そこで俺ははたとした。
恐らくその疑問は、今手にした白いタオルが原因。
うっかりしていた。
けれどこの程度のことを誤魔化すのなんてわけもない。
そもそもが隠すような相手でもない。
「錦戸が来てんねん」
「錦戸くん?今?」
どうやら驚きはしたようだったけれど。
特にそれを不審に思うことなどないはずだ。
あいつはもう何度もうちに遊びに来ているからこいつとも当然顔馴染みだし、歳も近い。
「なんや相談事があるとかでな。時間遅いけど、まぁ明日は仕事も夕方からやからって。
でもあいつ結構抜けとるからなー。駅で待ち合わせたんやけど、電車に傘忘れてきてもうたらしいわ」
「へー、そら災難やったなぁ。今日はほんま寒いから」
「そうそう。そらもうびしょ濡れやったで」
「そっか。じゃあそれ、はよ持ってってやらな。あ、挨拶・・・は遅いから明日でええか。錦戸くんによろしくな」
俺の言葉にひとしきり納得すると、元々トイレに出てきたのか、ゆっくりと階段を下りていく。
「おう。おやすみ」
「おやすみー」
その姿がやがて階段の下に見えなくなったのを確認して、一つ小さく息を吐き出した。
手にしたタオルの感触をもう一度確かめる。
たとえ肉親相手にだろうと、この口はさらりと平気で嘘をつける。
言葉は平然と出て行く。
誤魔化すことに最早罪悪感などない。
厳しくも優しい両親と、可愛い弟達と。
そんな家族に囲まれて何故自分はこんな風になってしまったんだろうと、誰かのせいにしたくなる。
柔らかな布の感触を三度確かめて、ゆっくりと扉を開けた。
「遅いっすよ」
扉を閉めると同時、かかった声。
見れば錦戸は濡れたそのままの格好でフローリングの床に座っていた。
軽く膝を抱えて、俺をじっと見上げて。
捨てられた子犬みたいやな・・・なんて、ガラでもなく詩的な感想が頭を過ぎる。
しかもどうにも笑えない類の感想だったと我ながら思う。
「ん、悪い」
「声、聞こえてましたよ」
「あー・・・おまえによろしくって」
「元気そうやんな?」
「明日合コンやって」
「らしいっすね。なんや羨ましいわ」
「ほんまやで」
そのままそっと歩み寄り、視線を合わせるようにしゃがみこむ。
真正面にあるその顔はやはりさっきと同じ。濡れたまま。
その頭からくるむようにして白いタオルをかぶせる。
「服、脱いどけって言うたやろ?風邪引いたらどないすんねん」
「脱いだら脱いだで寒いやん」
「暖房つければええやろが」
まずは存分に水を吸ってしまった髪をタオルで拭く。
少しだけ強めに、かき回すように。
錦戸は軽く目を細めて肩を竦め、くすぐったそうな様子を見せる。
それはなんだか幼くて、それに俺の心は何だか昔に帰ってしまったようになっていた。
そうだ、確か随分昔にも、今よりもっと幼かった錦戸の頭をこうして拭いてやった記憶がある。
「んっ・・・。やってリモコンがどこにあるんかわからへん。この部屋、相変わらずっすね」
「なに言うてんの。俺の部屋はいつでも綺麗やろが」
「確かに片づいてはいますけど、いかんせん物がどれもこれも変な場所にあるでしょ」
「変てなにが。普通やろ」
「普通ちゃいますよ。テレビのリモコンが本棚でCDと並んどるとか意味わからん」
「アレは・・・アレやで、テレビで流れとった曲の入ったCDを確か持っとったはずやって思って、探しとったからや」
それで目的のCDを発見して、うっかりリモコンをそこに置き忘れたんだ、と。
その時を思い出しながらそう言い訳すれば、錦戸はおかしそうに笑った。
その笑顔を瞳に映しながら顔、首、腕と順番に拭いていく。
拭いた先から乾いていく毛先がふわりと舞うのが鬱陶しかったのか、小さく頭を振る仕草がますます犬っぽい。
いや、こいつの性質からすると猫なんだろうか?
そんなどうでもいいことを頭の隅で考えながら手を動かしていく度、白いタオルは水気を含んで重くなっていく。
「結局、エアコンのリモコンは見つからんかったんすよ」
「あー・・・ちょお待てよ。今探すわ」
一旦手を止め、タオルを持ったまま立ち上がる。
確かアレはあそこにあったはずだ。
あのテーブルの下の・・・。
「んー・・・と、」
本来なら作詞用に、とちょっと前に買った小さなテーブルだったけれど。
今や雑誌が山積みされている物置状態だった。
でも確かその雑誌を整理した時に置いたような気がする。
床に膝をつき、背の低いテーブルに手を置いてその下を覗き込む。
「お、あったあった」
そのまま下に手を伸ばし、放られているリモコンを掴もうとするけれど。
それは結局ままならなかった。
不意に背中に感じた温もりに手が止まる。
身体に廻される手に小さく息を飲む。
後ろから抱きしめられ、肩口に感じる吐息に、手にしていたタオルが床に落ちた。
「錦戸・・・」
「もうええよ、そんなん」
「やって、おまえ、寒いて・・・」
「ええって。・・・あんたが暖めてくれればええことやろ」
そう耳元で囁かれた言葉は熱かった。
ああ、そうだ。
そうだった。
幼かった錦戸なら、こんなことをするわけがなかったんだから。
昔を思い出して懐かしむ、なんて。
今更馬鹿げたことだった。
もうさっき、覚悟したはずだったのに。
「・・・服、冷たい」
「ああ、せやな。気になる?」
「いや・・・」
濡れた服がその肌に張り付いて、抱きしめられた形になった俺にもぴたりとくっつく。
その濡れた、けれど妙に生暖かい感触に胸がざわつく。
錦戸は急くことはしなかった。
ただそれでも確かに意志を持った動きで俺の身体に手を這わせていく。
急いてはいない・・・いないけれど。
同時に首筋に押し当てられる唇は、何かに飢えたように俺の首筋に吸い付く。
それだけでも何かが奪われていくように感じて小さく身震いする。
それに気付いた錦戸は、肩越しに俺を覗き込んでくる。
「寒い?」
「・・・そうでもない」
「そ。・・・やったら、感じてるんや」
「・・・誰も、そないな・・・・・っ?」
言葉の途中で耳朶の裏をきつく吸い上げられた。
恐らくは痕が残ってしまっただろう。
「やめ、おい、錦戸っ。痕はつけんな」
「大丈夫やって。あんた髪長いから見えへんよ」
そう言いながら、身体を這っていた手が俺のシャツの中に滑り込んでくる。
冷えた手に肌が粟立つような感覚。
同時に妙な興奮。
俺は変態かもしれない。
ずっと可愛がってきた弟分相手に、欲情してる。
本当は知らなかったわけじゃない。
けれど自覚してしまった。
「感じるあんたが悪い」
「・・・っん、は、」
するりとシャツを捲られ、背中に舌を這わされる。
ざらついた感触が肌をなぶるようで。
小さく俯きながら、身体の中に生まれていく何かを吐き出すように息をつく。
「もう結構長い付き合いになるけど、」
俺が俯いたのを合図に。
後ろから強い力で押され、テーブルの上に俯せにさせられた。
その拍子に積んであった本がバサバサと崩れ落ちる。
真夜中には決して小さくはないその物音に、思わずビクリと硬直する。
「あんた、こんな感じやすかったんや。知らんかったわ」
錦戸は小さく呟きながら容赦なく俺にのしかかり、テーブルに押しつけてくる。
それにまた何冊か雑誌が落ちた。
「あんま音立てんな・・・弟気付く・・・」
「・・・ああ、せやな」
確かに、と納得したような声をさせたから一瞬安心したのもつかの間。
次の瞬間には頭を押さえつけられ、それとは逆の手で下肢の中心を躊躇なく掴まれた。
全身に走る鈍い痛みと、それだけではない感覚。
漏れそうになる声を反射的に唇を噛んで堪えた。
「ぅ・・・っ、ん、」
「せやからそうやって、声我慢せな」
気付かれてまうで?
そんな風に低く囁かれ、小さく戦く。
この部屋と隣の部屋とを隔てる壁はあまりにも薄い。
僅かな声も許されない。
俺は改めて唇をきつく噛んだ。
それに錦戸は薄く笑ったようだった。
「そうそう、頑張らなあかんで?きみくん」
下肢の辺りを彷徨っていた手が、ついには俺のジーンズのジッパーを降ろし始める。
その先を予感しては小さく息を飲み、震えそうになる手をぎゅっと握りしめた。
何一つとして口にすることは出来ない。
「まさかあんたを抱ける日が来るやなんて、思わんかったわ」
聞き取りにくい程に小さなその声は、壁の薄さを考慮してくれてのものなのか。
それとも単にふと呟いたからだったのか。
けれどそれを考える間もなく、ジーンズの中に忍ばされるその節張った細い指が直接下肢に絡められる。
「っ・・・」
声を堪える代わり、また唇を噛んで。
それだけでは堪えられず、ぎゅっと瞼を閉じて。
自然とずり上がりそうになる身体を押さえつけられて。
上から覗き込まれたかと思うと緩く唇を舐められた。
「・・・もったない。あんたの唇好きやのに」
その声に薄く目を開ける。
目の前にあるその顔は僅かに霞んで。
どこか淡いフィルターがかかったようだった。
ぼんやりと、薄い水のような膜。
遠くに雨の音が聞こえる。
依然として下肢に絡む指は執拗に這い回り、段々と動きをきわどい物にしていくから。
次第にどうしても息が上がってきて、それを堪えるので精一杯になる。
声は出せなかった。
何も言えなかった。
「なぁ、」
ただ息を殺し、声を殺し、抵抗することもなく、無言で耐え続ける俺をどう思ったのか。
その声は僅かな苛立ちと、確かな不安を載せて俺の耳に届く。
「なんで何も訊かへんの?」
そう言って急にその手が下肢から離れ、押さえつけていた手も離れたかと思うと、
両腕が俺の身体に廻されて強引に抱き起こされる。
「・・・っ」
不意なそれに思わず後ろにバランスを崩しそうになったところでしっかりと受け止められた。
依然として耳元に当たる吐息。
前をくつろげられ、外気に晒された中途半端な状態にさせられた下肢。
だらしなく錦戸にもたれかかる、疼かされた身体。
自分でも頬が上気しているのが判る。
そんな顔を後ろから覗き込まれた。
「同じ男相手に・・・しかも後輩にそんなんにされて。なんで何も言わへんの?」
「・・・」
「あんた、ようわからんな」
それにゆるりと顔を上げて何とか振り返る。
何かを言わなくてはと。
確かにそう思った。
ちゃんと訊かなければと。
さっきから思っていた。
何がお前を傷つけるのか。
この行為にはどんな意味があるのか。
俺はお前に何をしてやればいいのか。
・・・俺たちの関係はどうなるのか。
けれど結局何一つとして訊けなかった。言えなかった。
「ほんまあんたは昔から優しいな。いつも俺の面倒見てくれて、手を引いてくれて、頭撫でてくれて。
・・・最後は俺に抱かれんのまで、許してまうんやから」
侮蔑すら籠もったようなその声音は、きっと俺にというよりは・・・自分自身に向けてのものなんだろう。
「・・・でもな、ええねん。別にな」
首筋に押し当てられた唇が緩慢に動く。
くぐもった声が微かに震える。
「ただあんたが、俺を、俺の存在を、受け入れてくれれば。・・・あんた、だけでも、」
途切れ途切れの言葉。
俺はその頭を撫でてやりたくとも、手を握ってやりたくとも、抱きしめてやりたくとも。
後ろから抱き込まれ、反応させられた身体では無理だった。
そして息を殺し、声を殺し、言葉を封じた唇では、何かを言うこともやはり出来なかった。
「おれ・・・どこにおるんか、わからへん・・・。いま、どこにおるんやろ、おれ」
その痛みはどんなものなのか。
どれだけその純粋な心を傷つけているのか。
確かめることも訊くことも出来ない俺は、ただ僅かに感じ取るだけだった。
「なぁ横山くん・・・確かめさせてや」
まるで哀願するように囁かれた声。
けれどそれとは裏腹に、その手に強く込められた力。
抱き込まれていた身体が床に押しつけるように倒された。
それはちょうど先ほど落としてしまった白いタオルの上。
雨を含んで湿ったその感触が、布越しにも伝わってきた。
「ぅ、・・・・った、ぁ・・・」
僅か漏れてしまった声は、やはり言葉にはならず。することも出来ず。
上から覆い被さってきた錦戸の手によって剥がれていくシャツを後目に、ただ唇を噛んだ。
結局何も言えなかったのは何故だろう?
それは、お前のため?
傷ついたお前が求めるこの身体を与えるには、余計なことなど言えなかった。
今のお前が下手な慰めの言葉なんて求めていないと思っていたからなおさらに。
そして、思えばそれは自分のため?
今何かを口にしたら最後、きっと全て言ってしまうから。
この胸の内に閉じこめられ、墓場まで一緒に持っていくつもりだった想い。
ずっとずっと気付いていた。知らなかったわけじゃない。
でも改めて自覚してしまった。
自分では綺麗なものだとそう思ってきた、想い出も、想いも。
それをめちゃくちゃにされてもいいと思って身体を開いて。
でも、現実はどうだ。
そんな綺麗なものは所詮まやかしで。
蓋を開けてみれば浅ましい限りの代物で。
めちゃくちゃにされてもいい、なんて言いながら。
他ならぬ自分の手で、もうとっくに壊してしまっていたんじゃないか。
なんで今更自覚してしまったんだろう。
大事なのは知っていた。
大切なのも知っていた。
自分のことなんだ。判らないはずがない。
でもその開いた傷口を見て、思い知った。
本当はもう長い間ずっと、お前を愛してしまっていたこと。
だってそうじゃなきゃ、感じるはずがなかったのに。
お前のためと言いながら開いた身体は、今確かに快感を感じてる。幸福を感じてる。
「確かめさせてや。あんたの中に、俺を」
熱っぽく、同時に縋るように。
覆い被さられながら囁かれた言葉に。
ただ、僅かに顎を震わせながら小さく頷いた。
組み敷かれ、肌を暴かれ、その熱で犯されていく。
その最中の俺はただ唇を噛んだり、指を噛んだり。
そうして何とか声を押し殺し続けた。
時には錦戸がその薄い唇で俺のものを塞いでくれもした。
その奪われるような感覚は、正直嬉しくもあって。
ああ、やっぱり。
そう思ってきつく瞼を閉じた。
お前が求めるものは、お前を受け止められる身体と心。
なら、俺の言葉なんて、気持なんていらない。
お前を助けたかった。
綺麗なままでいて欲しかった。
守ってやりたかった。
それは、俺自身からすらも。
でも。
「・・・っぅ、っ!」
その熱で身体を貫かれた瞬間。
身体はこれ以上ない程に跳ねて、頭が真っ白になる。
でもそれはすぐさまその細い両腕に抱き込まれる。
うっすらと目を開ければ飛び込んでくる、苦しそうな、でも気持ちよさそうな顔。
お前はそれで、少しは楽になれるんか?
なぁ、俺、やばいくらいきもちええわ。しあわせかも。
でも言えないから。
代わりに、ひとつだけ。
鈍い痛みと駆け抜ける快感とに揺さぶられながら、ぎゅっとしがみつく。
なんとかその耳元に唇を近づけて。
お前にしか聞こえないように。
「りょ・・お・・・っ」
名前を呼べるだけで幸せな相手、なんて。
お前以外いないんだって今更気が付いた。
だから大丈夫。
痛くなんてない。
大丈夫。
ちゃんと受け止めてやるから。
大丈夫。
ちゃんと確かめさせてやるから。
だから、なぁ。
そんな痛そうな顔、するなよ。
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(2005.4.1)
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