間違えた。全てあの雨の日に。間違えたんだ。










レイニーラブソング 7










『悩んでも凹んでも怒っても、何したってええで。なーんも問題あらへん。
・・・少なくとも俺は、ここにおんねんから』



もう随分と昔の話。
あんたは憶えていないかもしれない。
でも俺は一生忘れはしない。
荒れ狂う感情に攫われそうになる俺の身体をきつく抱きしめて、与えてくれた言葉。

頭を撫でてくれた。
抱きしめてくれた。
涙を拭ってくれた。
笑いかけてくれた。
叱ってくれた。
励ましてくれた。

あんたは知りもしないだろう。
あの時から、ずっとずっと好きだった。

眩い光と醜い闇とが入り交じるこの世界で。
まだ幼く弱く小さな俺を守ってくれた。
ともすれば弱い心そのままに落ちていきそうになる俺を掬い上げてくれた。

あんたがいるから頑張れた。
あんたがお前なら頑張れると言ってくれた。
あんたが俺の存在を意味のあるものにしてくれた。

あんただけや。
ねぇ横山くん。
もう誰のどんな言葉だって関係ない。
そんなものはこの耳には届かない。

もう、あんただけでええねん、俺は・・・。






堪らず掴んだ手があの人のものではないことに気付いて目が覚めた。
あの白くて滑らかな手じゃない。
それは俺以上に細く節張った長い指・・・。

「・・・う、ち?」
「あ・・・ごめ・・・」

何故だか謝られた。
眉を下げてしょぼくれたような顔。
なんやねん、人の起き抜けに辛気くさいツラしよってからに。
・・・そう思ってから、俺は寝ている間に無意識にその手を握っていたんだとようやく気付いた。

「なんや・・・お前か・・・」

握り、遠慮がちに握りかえされたその手を離す。
正直ばつが悪い。
俺は夢の中であの人だと思ってこいつの手を掴んでいたんだ。
我ながら飢えすぎだと思う。
三日でこの飢え様。
この手が、身体が、心が、全てあの人を求めて止まない。
夢でだって離したくなかった。
ここまで我慢が利かない人間だっただろうかと、少しおかしく思う。
想いを言えずに抱え続けてきた昔を思えば信じられない。
それはあの人を手に入れることが出来るなんて思っていなかったから。
だから今の俺のこの様を言うとすれば、タガが外れた、そんなとこだろう。

小さく欠伸を噛み殺しながら、同じ体勢だったせいで妙に凝った首を廻す。

「もう着いたか?」
「あ、いや、まだ・・・もうちょっとかな」
「そか。・・・ふぁ、起きてもーたわ」

今度の欠伸は噛み殺し損ねる。
今回のスケジュールも結構ハードだったから眠気が抑えきれない。
東京は行くだけで疲れる。
この単純な往復もそうだし、精神的にもくるものがある。
もう割り切ったつもりでも実際に見れば目をそらしたくなる・・・
たとえば手越のあの無邪気に俺に笑いかけてくれる顔とか。
考えたくない。
もう考えて辛くなるのは嫌だ。
早く帰りたい。

「なぁ・・・亮ちゃん・・・?」

遠慮がちに呼ばれた。
何かと見れば、なんでか妙にじっと俺を見る内の顔がそこにある。

「はよ横山くんに会えると、ええなぁ・・・?」

なんやこいつ、いきなり。
ぼんやりそう思った。
けど実際俺の心はあの人の元に既に飛んでいて。

「・・・せやな。はよ着かんかな」

夢の中でももう一度あの人に会いに行くために、また眠りについた。

どうかまた早く俺を抱きしめて。
そして抱きしめさせて。
俺の腕の中で笑って。
そして少しだけ悪態をついて。
俺を受け止めて。
俺を受け入れて。
あんただけでいい。

あんただけが、いい。










「ただいま、きみくんっ」
「おーおーお帰り。・・・ほい」
「なんすかこの手」
「みやげ」
「あるか」
「なんやねん。しけてんな」
「いまさら東京で土産なんてあるわけないやん」
「東京バナナとか。甘いもんとか。あるやん。あるやろ」

なんやこの人。
甘いもん甘いもんて。
せやったら今手にしとるそのポッキーはなんやねん。
そもそも、折角人が帰ってきて一番に会いに来たって言うのに。

「・・・あんたが待っとたんは、甘い土産なんか」

我ながらガキくさいことを言っている自覚はある。
でも俺は行く前から、行ってからも、帰ってくる時だって、
ずっとあんたのことばかり考えていたのに。
あからさまにむっと眉根を寄せたら。
目の前の白い顔がふっと苦笑して。

「そんだけなら、こんな時間から家に引っ込んでへんわ。ヒキコモリ寸前やで」

その部屋、もはや俺も自分の物のように使い慣れたベッド。
そこにゆったりと腰掛けると、横山くんはちょいちょいと俺を手招きした。
じっと視界にその姿を収めながら近づく。
その切れ長の瞳がやんわりと撓んで、妙に柔らかく微笑んだ。

「おかえり、亮」

その言葉が、仕草が、嬉しくて。
ぎゅうっと抱きしめるようにしてしがみついた。
腕に心地よいその身体に心が安堵する。

ほんとうにうれしい。
いつからだろう。
あんたを手に入れてからだろうか。
妙に優しくなった気がする。
妙に柔らかく笑ってくれるようになった気がする。
うれしい。

やっぱり、あんただけがいつだって俺を受け入れてくれるんだ。




「なぁ、俺がおらん間なんかあった?」

僅かでも離れていたせいか、いつも以上に昂ぶった熱を
その柔らかく解れた中に収めきって、囁くように訊いた。
その衝撃に耐えるようにしてぎゅっと閉じられていた瞼が微かに震えながらゆっくりと開く。
いつもは冷たく見える程にきつい目元が潤んでいて、言いようのない高揚感を覚えた。

「なんか、て・・・なにぃ・・・」
「変わったこととか」
「あー・・・ロケ、走ってて、ヤスがこけたわ・・・」
「またか。ちゅーかそれ、いつものことやん」
「あいつ走り方おかしいねん・・・」
「たしかに」

ちょこまかと小動物のようにすばしっこく運動神経も抜群のあいつは、そのくせ妙な所でドジでよくこける。
どうしてなのか不思議に思うけど、想像するとそれがまたあいつらしくて笑ってしまった。

「っん・・・」

笑った拍子に中に収まった俺のものと内部の襞とがこすれたらしい。
上擦ったような声が湿った空気に響く。
その拍子に震えた唇が何だかやらしくて、思わず吸い付くようにくちづけた。

「ん、ん・・・」
「ぅ・・ふ・・・・・は、にしき、ど・・・」
「・・・他には?」

啄むようにくちづけながら、ゆるゆると前の方にも触ってやる。
ひっそりと勃ち上がったそれは絡まる俺の指に反応して小さく震えた。

「んっ、ほか・・・ほか・・・・・・ひなと、すばる、けんか・・・」
「ほんま?珍し・・・くもないか。でもなんで?」
「ひなのあほが、うわき・・・」
「え、嘘やろ?」
「うわきの疑い、かけられてん・・・」
「ああ、疑いな・・・。でもどうせすばるくんの勘違いやろ?あの村上くんが浮気とか考えられへん」
「あたりまえやん・・・。あいつはすばるにベタ惚れやで・・・」
「せやんな。浮気とかありえへんよな」
「どうでもええけど、ほんまうっとうしかったわ・・・二人しておれんとこきよって・・・」
「・・・ああ。なるほど」

浅く息をしながら途切れ途切れにそう漏らす様は呆れかえったような代物で。
思わず小さく笑みが漏れる。
いつも他のメンバーを引っ張ってまとめていく村上くんと、中心にいるすばるくんだから。
その二人がそういう状態になったら確かに面倒だろう。
そしてその二人が頼るとすればこの人に他ならない。
更に言えばあの二人が頼るくらいだから、
うちのグループのメンバーは何かあると最後にはみんなこの人に頼る節がある。

「・・・じゃあ、あんたは?」
「は・・・?」
「浮気。してへん?」
「なに、言うてん・・・あほか」
「言うとくけど、冗談やあらへんで」

離れている間堪らなく不安なのは。
何も会えないってだけじゃなく、いつ何時他の誰がこの人に触れるか判らないから。
それを想像するだけで冷たい何かが心を満たす。
・・・他の誰か。

たとえば、

「大倉とかな?」
「あいつが・・・なんやねん」

その上気して僅かに染まった白い頬を撫でる。
あの男は要注意だと、俺の中の何かが言っている。
ただの一瞬、ほんの偶然だろうとも。
俺の手からこの人を奪おうとした。
あの何を考えているんだか、それとも考えてなどいないのか、
ここぞという所でいまひとつ読めないポーカーフェイス。

「・・・ま、なんとなくやけど?あんた、あいつとはしょっちゅう飯とか行っとるから」
「飯なら、他の奴とだって行っとるわ。・・・それにここ三日間は、誰ともどこへも行ってへんし」
「そか。なら、ええけど」

その言葉が本当かどうかなんて、俺には所詮判りはしないけど。
そう言うのなら信じる。
俺がこの人を信じなくてどうするんだ。
俺にはこの人しかいないのに。
そう言って俺の凶器のような熱だっていくらでも受け入れて、そんな風に柔らかく笑ってくれる人。

「ん、りょお・・・」
「うん?」

俺の首にその両腕が廻される。
こちらからも片手を廻して抱き寄せた。
俺が身動いだせいでまたひくんとその身体を震わせながら、じっと見上げてくる。
潤んだ瞳が俺の下で緩く瞬く。
まるで安心させるように何度か小さく頷く。

「・・・ちゃんと、ここにおるで」
「きみくん・・・」
「おれは、ちゃんと・・・」

うれしかった。
あんたはいつだって、なんだかんだ言ったって、最後には俺の欲しい言葉をくれる。

今回東京へ行った前の晩。
自分ではもう考えないようにしていた向こうでのことを訊かれて、つい苛々してしまって。
そのせいで随分と手酷いことをしてしまった。
初めての時のことがあったから、もう二度とそんなことはしたくなかったのに。
優しくしたかったのに逆に泣かせてしまった。
滅多に見ることなんてないこの人の涙、しかも子供みたいに泣きじゃくる様。
正直それがより俺に快楽を与えたことは否定できない。
でも相手が辛い思いをするような真似はやっぱりもう嫌だ。

「なぁ、今回も俺がんばってきた。あんたのことばっか考えて・・・」
「ん、ぅ・・・っん、んっ・・・」

段々と動きを早めていく俺に、ただ頷くしかできなくなっていくその白い顔。
薄く染まったそれに、戦慄く赤い唇。
白いシーツにはらはらと揺れる薄金茶の髪。
薄く水の膜を張ったような淡い瞳が揺らめきながら、見下ろす俺を映す。
全部俺のもの。
・・・そう思ってもええよな?
たとえ拒絶出来なかった優しいあんたを、他でもない俺が縛り付けているのだとしても。

「これからやってずっと、がんばる。あんたのためにがんばる。・・・もう、戻れへんのやから」
「は・・ぁ、あ・・・・っ」

ぐいっと奥を抉るように突き上げたら、白い背がびくんと仰け反る。
それを閉じこめるようにめいっぱい抱きしめた。
視界の中で白い頬に小さく滴が散った。
まるで泣いたみたいに濡れた頬。
愛おしくて、そこに子供騙しみたいなくちづけを送る。

「はぁ・・・」

廻した俺の腕に頭を預けて、横山くんはやんわりと笑った。
柔らかく、やわらかく。
思えばこの人には珍しい笑い方だった、少し前までは。
でも最近は何だか見慣れてしまった。
どうしてだろう?
けど理由なんてどうだっていい。

やわらかく、やわらかく・・・。
俺の全てを受け止めてくれる柔らかな笑顔。

思えばそれは、俺がこんな風にこの人と身体を重ねるようになってから。
俺がこの人を手に入れてから。
この人が俺を受け入れてくれるようになってから。
それはいっそ何だか儚げであるほどに。
きれいで、やさしく、いとおしい。
それは俺だけに向けられるもの。
俺だけのもの。

それがそこにあれば、あとはどうでもいい。










翌日から一週間くらいは毎日エイトの仕事が続いた。
それは雑誌の取材だったり、番組やラジオの収録だったり。
忙しいけどとても充実した気持ちで精神的にも安定していた。
ちらりと視線をやれば、あの妙に柔らかな微笑みを向けてくれるあの人。
さすがに毎日とはいかないけど、それに近いくらいは俺と一緒にいてくれる。
なんだか俺は結構な幸せ者なのかもしれない、なんて。
アホみたいに思った。
けどこのアホみたいな幸せ、それを守ることが今の俺の全てで。

だからそのために邪魔なものは力ずくでも排除する。



「横山くん、これから飯行きません?」

それは俺の言葉じゃなかった。
のんびりと柔らかな調子。
グループ一のその長身を折り曲げて。
帰る途中の廊下、階段の一段目に腰掛けて靴ひもを結ぶ横山くんを覗き込んでいる。
自分の頭の奥がざわざわと小さく音を立てるのが判った。

ラジオ収録の帰り。
二週録りの関係で、今日いたメンバーは俺と横山くんと、大倉、そして内の四人だけ。
ただ内は今トイレに行っていてここにはいなかった。
横山くんは最初きょとんとした表情で大倉を見上げていたけれど。
すぐさま苦笑しながら肩を竦めてみせた。

「なんや、ちょっと久しぶりやな」
「ね、そうなんですよ。最近行ってなかったな〜て思って。どうです?」
「んー・・・せやなぁ・・・」

間延びした声をさせながら考えるような仕草を見せる。
俺は無意識にぎゅっと手を握った。
けれどそれを見越したように、横山くんはすぐさま立ち上がると一瞬だけ俺を見る。
また、あの妙に柔らかな微笑み。
俺はそれで少し安心する。

「・・・今日は止めとくわ」
「そう、ですか?」
「ん」
「なんか先約とか?」
「まぁ、そんなとこ」
「誰?」

なんや、今日は妙に絡むな・・・。

視線を横山くんから大倉に移す。
ああ、やっぱり、どこかで冷静にそう思う俺がいた。
やっぱりこいつは危険だ。

仲間として、友達として、いい奴だと思う。
遊んでて楽しい奴だと思う。
気張らなくて楽でいられる相手だと思う。
だけど。
この人のことに限って言えば、俺にとっては危険でしかない奴。

「亮ちゃんですか?」
「ん・・・」

横山くんは少し困ったように首を傾げる。
ああ、そんな顔せんでもええのに。
今日はお前とは行かん、って。
いつもみたいにすげない調子でそう言ってやればいいのに。
なんで今日はそんなに弱った様子を見せる?
そいつにそんな顔するな。

俺は耐えきれなくて二人の間に割って入った。
階段の手すりに手をかけて。
下の段に立っているせいで、いつも以上に上にあるその顔を軽く睨むように見る。

「せやで。今日は俺と先約あんねん」
「・・・ふーん、そっか」
「せやからまた今度にしてくれ」
「うん、そうするわ・・・」

こくんと頷いてみせたから、俺は内心でホッと胸を撫で下ろした。
けれど。
次にはその長い腕が伸びてきて。
俺の後ろにあった白い手を掴んでいた。

「・・・って、言いたいとこやねんけど。もうな、そういうわけにもいかんねん。ごめんな」
「お、大倉・・・?」

俺は一瞬何が起きたのか判らなかった。
横山くんの戸惑うような、弱ったような。
なんでそんな声をするのか、表情をするのか、判らないけど。
妙な焦燥感だけが煽られるものたちに、俺は後ろからせっつかれるような感覚を憶えて。
大倉の手が、俺以外の手が、その白い手に触れていることに心の奥が冷たいもので満たされて。
ただ反射的に、大倉の手を横山くんから思い切り振り払っていた。

「・・・さわんな」

我ながら随分と低い声が出た。
けれど大倉は一瞬黙り込んだだけで、俺をじっと見つめる。

「またその目やね。・・・冷たい目」

また。
それがいつのことを言っているのかすぐに判った。
何せ俺はあの時からこいつのことを警戒していたんだから。
ああ・・・頭の奥でざわつく音が大きくなっていく。

「大倉」
「なに?」
「俺、言うたよな?」

邪魔する奴は許さない。
俺とこの人の間に入るなんて、絶対許せない。

「言うたよなぁ・・・二度目はないって」

だってずっと好きだったんだ。
俺にはこの人だけだったんだ。
そして今だってこの人だけで。
きっとこれからだって、そうで。

真っ当な想いなんかじゃないこと。
判ってる。とっくに判ってる。
初めてこの人を抱いたあの時、自分の最低さなんてとうに自覚した。
傷ついた自分を可哀相だろうと、まるでそう言うようにしてこの人に突きつけて。
自分の弱さも躊躇いも執着も愛も狂気も、全てを無理矢理に受け入れて貰ったんだ。
この人が受け入れざるを得ないことを、俺を見捨てることなんて出来ないことを、知ってて。

あの雨の日に。
もう戻れなくなることを、知ってて。
むしろそれを望んで。
雨の音で耳を塞いで。
水の膜が全てを覆い隠すのに任せて。

「・・・言ったな、確かに」

呟くような大倉の声。
妙に冷静な、落ち着いた、勘に障る・・・頭の奥をざわつかせてしょうがない。

「でもな、亮ちゃん。俺も・・・ああ、俺の方は言うてへんかったけど、思っててん」

その涼しげな目が俺を見て、すぐさま俺の後ろの横山くんを見て。
何だか一瞬悲しげな色を映した。

「そっちに二度目がないなら、こっちも三度目はない、って」
「三度目・・・?なんのことや」

訳が分からず眉根を寄せる俺に頓着した様子もなく。
大倉は怪訝そうにじっと俺を見据える。

「なんでそんな顔させんの」
「は?」
「なんでそんな顔、させられんの」
「なに言うて、」
「・・・大倉。それ以上言うな」

後ろから咎めるような声が割り込んだ。
ゆらりと振り返れば、横山くんの俯きがちな顔がただ無言で横に振られていた。
何処かぼんやりとそれを見やる俺に気付くと、また・・・また・・・妙に柔らかく・・・微笑ん、で・・・。

「・・・なんでそんな、傷ついた顔、させられるん。亮ちゃん」

苦虫を噛み潰したような、とはこういう顔のことなのか。
あまり感情が表に出ない大倉の、珍しく苦しげな顔。
それは横山くんに向けられている。
俺に柔らかく微笑むその顔に・・・。

「錦戸、」
「傷ついた・・・?」

大倉はもう何も言わない。
ただ依然として眉根を寄せたまま俺たちをじっと見つめるだけ。

その白い手が宥めるみたいに俺の頭を軽く弾く。
撫でるみたいに。
笑ってみせる。
安心させるように。
・・・何を安心させようって。

「ちゃうで。んなわけない」
「傷ついた・・・うそやん・・・」
「そうや。嘘や。ちゃうから」
「やって横山くん、笑って・・・」
「ああ。大丈夫。大丈夫やから」
「きみくん・・・?」
「大丈夫。俺は大丈夫やて」
「きみく・・・」

彼がそう笑うようになったのはいつからだった?
それは、そう、身体を重ねるようになった日から。
あの雨の日から・・・?

頭の奥のざわめきが止まない。
それはあの日の雨の音だった。
その全てが過ちだったのだと、俺を責めているような。

「・・・二人を引き裂きたいわけやない。けど、見てられへんねん」

絞り出すような大倉の声が、どこか遠くに聞こえる。
頭の奥にある雨の音のせいで。

「亮ちゃん、判らへんの?横山くんの傷ついた顔。
ずっと亮ちゃんに向けられてんのに、亮ちゃんがそうさせてんのに、判らへんの?」

一瞬、止んだ。
雨の音が止んだ。

その声がキンと頭に突き刺さるように、響いた。

「っ、亮、やめろ・・・ッ!」

横山くんの焦ったように叫ぶ声。
それは俺の起こした行動の前だったのか、後だったのか、もうよく判らなかった。

気付けば大倉の胸ぐらを掴んで。
冷たい心そのままに冷え切っていた気がする自分の手で。
力任せにその身体を引きずり落とそうとしていた。

「っ、りょ、ちゃっ・・・」

咄嗟に階段の手すりに掴まって腰を落とした大倉は、必死に俺の手を振り払った。
・・・ああ、むかつくわ。
やっぱこいつ俺より力ある。
この体格差もどうにも気にくわない。
でも今一番ついてなかったのは、きっと俺の身体がこいつより下の段にあったこと。
重力は俺の方により大きくかかって。
振り払われた反動で俺の身体は無様によろめいて、後ろに傾いた。

身体がふわりと宙を浮く感覚。
落ちる、妙に冷静にそう思った。
スローモーションみたいにゆっくり反転していく視界。
大倉が目を見開いて咄嗟に手を伸ばして俺の手を掴もうとするけど、間に合わない。
珍しく何か叫んでいるようだったけど、聞こえない。

身体が下に落ちていく。
何も聞こえない空間の中。
ただ再び、雨の音だけが頭の中を支配して。
雨に全てが塗りつぶされる。
笑顔は涙に塗りつぶされる。

彼は笑っていたはずなのに。

なのに・・・。



「亮ちゃんっ!・・・横山くんっ!横山くんっ!?」

・・・横山、くん?

再び世界に音が戻ってきた。
それはいつの間にか戻ってきた内の悲鳴だった。
見上げれば大倉と二人、青い顔でこちらを見下ろしていた。
そんな顔で見られる程に。
俺はどこまで落ちてきた?

たった今聞こえた。
どさり、と何か物が落ちたような音。
それを他人事のように聞いていた自分。
だって俺が立てた音じゃなかった。
だって俺は欠片ほどの痛みも今感じていないんだから。

・・・どうして?

そこでようやく気付いた。
咄嗟に俺を下で受け止めてくれた身体。
鈍い音は、それが立てたものだった。

「・・・・・・よこやま、くん?」

自分の下にある身体を呆然と見下ろした。
白い床に散らばる薄金茶の髪。
それはもう何度も見てきたコントラストのはずだった。
薄く開かれた唇も。
うっすら潤む切れ長の瞳も。
俺をじっと見上げて、やんわりと、妙に柔らかく・・・微笑むのも・・・。

「りょ、お・・・」
「よこやまくん?きみくん・・・?」
「だい、じょぶ、やで・・・。おれ、ここにおるから・・・。いちばん下は、おまえやなくて、おれが・・・」
「き・み・・・く・・・?」
「ちゃんと、ここに・・・。もう、それだけしか、言えへんけど・・・それだけなら・・・」

まるで思考が停止してしまったみたいに、何も言えなかった。
生気の抜けた人形みたいな俺を横山くんの腕がふらふらと力なく抱きしめた。

「ごめん、なぁ・・・りょお・・・」

あの遠く幼い日。
俺を守ってくれた手が。
また。
守ってくれた。
でも、今度は随分と力なく。

「間違えてもーた・・・」

間違えた。
それはやっぱりあの雨の日に?

「守ってやれんで、ごめんなぁ・・・」

そんな泣きそうな声で。
何言ってんねん。
守ってくれたやん。
今。
今こうして。
あんたはまた俺を。

守れなかったのは俺だ。
むしろ傷つけたのは俺・・・。

「あ・・・あ、きみくん・・・っ」

その顔を見下ろしていまさらに思った。
俺を受け入れてくれて、受け止めてくれた。
あの雨の日から生まれた、その柔らかな微笑み・・・。
けれどそれは、笑顔なんかじゃなかったんだ。

こんな痛い代物が笑顔のはずない。
こんな傷ついた表情が笑顔のはずない。
俺の瞳には水の膜がいつのまにかかかっていて。
この人のことなんか何一つちゃんと見えなくなっていて。

こんな風に笑う人じゃなかった。
元々笑うことは苦手な人だった。
それでもたまに向けてくれる笑顔は優しかった。
こんなものじゃなかった。
そんな顔ばかりするようになったのは、そうとしか出来ないようになったのは、誰のせいだ?
誰がこんな風にした?


あの雨の日に間違えた、俺だ。


「・・・ぁ、あ、・・・・・・あ−−−−ッ!!」



自分の悲鳴にも似た絶叫が、頭の奥の雨に紛れて響いた。









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(2005.5.27)






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