あの時、ただ一言そう言えればよかった。
レイニーラブソング 8
病室はその人の密度に反してシンと静まりかえっていた。
あるのは時折漏れる小さな嗚咽だけ。
ベッドサイドに村上くんが立って、その横でパイプ椅子の背もたれを抱えるようにしてすばるくんが座っていて。
その少し離れたところでさっきから泣きじゃくっている内と、その背中を必死に撫でて宥めようとしているマルがいて。
その逆側には大倉が無表情でぼんやりと立ち、そんな大倉とベッドの方をヤスが交互にチラチラと窺っていて。
そしてベッドからは一番離れた扉のすぐ前に立ち尽くす俺がいた。
数多の視線を一点に受ける何の変哲もない白いベッドの上で、それ以上に青白い顔が今眠るように目を閉じている。
口を閉じていれば随分と整ってることが判るその顔は、今こんな白いベッドの上には嫌味なくらい似合いすぎていて、いっそ恐ろしくなる。
もうこのまま目を開けないんじゃないか、なんて馬鹿げた思考が頭を過ぎる程に。
全員が揃ってもう15分以上は経過していた。
俺と大倉と内は最初からいたし、あとの四人はマネージャーが連絡したところちょうどマルとヤスも大阪市内にいたおかげで全員捕まえられたらしく、少し遅れてすっ飛んできた。
事情が飲み込めていない四人、特に村上くんとすばるくんは俺達に説明を求めた。
けれど俺は一言、自分が横山くんを傷つけた、とそう呟くことしか出来なかった。
内はその時から既に泣きじゃくっていて会話にならなかったし、大倉も何故か頑なに口を閉ざしていた。
ただあの時どうやら現場を目撃していたスタッフがいたらしく、俺と大倉が言い争った結果俺が大倉に掴み掛かって逆に誤って落ち、それを横山くんが咄嗟に庇った、というところまでは伝わっていたらしい。
ひとまず大事には至らなかったようだった。
それだけは医師が確かに告げてくれたことだった。
精密検査はこれからだから正確なことは言えないけれど、恐らく落ちた時に軽く頭を打って脳震盪を起こしたらしい。
あと右肩を打ったらしくそこも少し痛めているようだとか。
少なくとも命に別状はないと言われた。
けれどそんなことを言われても、今ここにいる誰の顔も晴れることなんてなかった。
当たり前だ。
命に別状があるだのないだの、そんな次元の話がいきなり仲間の身に降りかかるだなんて一体誰が予想しただろう。
しかもそれには他のメンバーが関わっているのだから。
村上くんは何か神妙な顔であの白い顔を見下ろしては何か考え事をしているようだった。
そしてすばるくんはひたすらに険しい顔つきで、まるで睨むようにじっと白い寝顔を見つめていた。
舞台でよく通るすばるくんの張りのある声が低く呟かれた。
「・・・どういうことやねん、これは」
視線は動かさず白い寝顔を見つめたまま、身動ぎ一つせず。
だからそれは誰に向けたとも知れない代物だった。
「誰か答えろ。どういうことや」
誰か、とは言ったけれど。
それは明らかに俺に向けられていた。
当然だろう。
たとえ詳しい事情は判らずとも、少なくとも俺が何かしらの原因であること知っているのだから。
「どういうことや言うてんねん!答えろや!」
ピンと張りつめた室内の空気を震わせるように響いた声。
苛立ちを露わにしたそれ。
泣きじゃくっていた内が思わずびくんと身体を揺らして涙を引っ込める。
ヤスもまた小さな身体を大きく揺らして息を飲んでいた。
他ならぬ俺自身、情けないながら微かに肩を震わせてしまった。
「すばる、ここは病室やで。静かにし」
張りつめてそのまま糸が切れてしまいそうなその場の緊張を何とか和らげようとする村上くんの声。
それも常よりかは随分と強ばってはいたけれども、それでも努めて穏やかに呟かれた。
けれどすばるくんはそんな村上くんを軽く睨め付けるように見上げただけで、ふいっと椅子から立ち上がると背後を振り返る。
その切れ上がった大きな瞳が真っ直ぐに俺を見据えた。
無言で唾を飲み込む。
その瞳はまるでこれから罪人を断罪する執行人のそれのようにも見えて、俺は小さく手が震えるのが判った。
それを何とか押しとどめるようにぎゅっと手を握りしめる。
けれどそれに反して視線は逸らされるように床に落ちてしまう。
それが気に入らなかったのか、すばるくんはこちらにやってくると俯いた俺の顔を睨むように覗き込んだ。
「亮」
「・・・」
「どういうことや。説明せぇ」
「・・・」
「ヨコはオマエを庇ったんやろ?」
「・・・お、おれ、」
その詰問する声に何とか声を絞り出すけれど。
震えを押さえ込んだ拳は今度は喉に移ってしまったのか、まともになんて喋れなかった。
「亮、ちゃんと説明せぇよ。どういうことや。オマエ、ヨコになんかしたんか」
「おれ・・・おれが、・・・」
「はっきり言わんかい!」
「っ・・・」
すばるくんの強い声に心臓が竦み上がってしまった気がした。
情けない。
情けないけど、怖かった。
何がなんてよく判らないけれど、とにかく怖かった。
けれどそれはすばるくん自身がというよりかは、この状況が。
時間と共に否が応でも実感していくから。
今白いベッドで死んだように眠る彼を、あんな風にしたのは他でもない俺で・・・。
「・・・・・・うるさい。すばる、うるさい・・・」
酷く舌足らずな口調は元々だけれど、今は起き抜けだからなのか余計にそうで聞き取りにくかった。
けれどそれでも聞き逃すなどということはありえず、周りを取り囲んでいたメンバーは一斉にベッドを見る。
それはすばるくんとて同じ。
「ヨコっ・・・?起きたんかっ?」
「大丈夫か?話せるか?」
すばるくんが慌てて駆け寄る。
村上くんもまた身を屈めて心配そうに覗き込む。
ヤスと内もまたパタパタと駆け寄っていく。
マルと大倉はその少し後ろから窺うように見ている。
けれどそれでも俺だけは、その場から一歩も動けなかった。
「すばる、おまえ、けが人がおるとこで叫ぶな、声、でかい・・・テンション高い・・・」
「っ、おま、テンションとかの問題かアホ!」
それこそ意識を回復したけが人の第一声とは思えない言葉に、すばるくんは憤慨したように捲し立てる。
横山くんはその様をおかしそうに笑って何とかゆっくりとそちらに視線をやる。
「せやから、うるさいねん・・・。ボリュームダウン、しろや・・・。けが人やでーけが人・・・」
「こない可愛げないけが人なんぞ知るか」
「けが人に可愛げとか、いるんか・・・そらすまんかったな・・・」
その口調が何だか弱くて辿々しいことを除けばなんだかいつも通りみたいなやりとり。
確かに状況は普通じゃないはずなのに、それはここにいる誰にだってもう判っていることだったのに。
当の横山くんはそれを努めて普通に持っていこうとしているような気がした。
けれどそんな風に誤魔化されるわけもない人が、確かに一人はいる。
「・・・可愛げがいるかどうかはどっちでもええけど。何があってこうなったんかは、教えて貰わなあかんで?」
ゆっくりと優しく、けれど確かに二人の会話に割って入るようにそう声をかけた村上くんに、横山くんは一瞬だけ顔を顰めてちらりとそちらを見る。
けれどすぐにふいっと逸らしてしまった。
「たいしたことないけどな、別に」
「大したことない割には結構な派手にやりましたね、あんた」
「ほんでもちょっと痛いかなーくらいやで。ほんま」
「あっそ。まぁ、右肩にはばっちりヒビ入ったみたいですけど」
さらりと呟かれたその台詞に思わず村上くんを見た。
他のみんなも同じく。
誰もそこまではまだ聞いていなかった。
村上くんは一体いつ聞いたのだろう。
5分前くらいに一回トイレに行くと言って部屋を出た時だろうか。
その時医師にでも聞いたのだろうか。
だとしたら相変わらず抜け目がない。
・・・いや、この場合そんな形容は失礼かもしれない。
仲間であり親友であり長年連れ添ってきた同志を思ってのことなんだから。
「へー・・・まじで?おー、どおりで痛いわけやわ」
そんな村上くんの台詞にもさして動揺を見せることなく、いつもより少し血色の悪い柔らかな唇は平然とそんなことを呟いていた。
「マジです。まぁ、今日一日は入院、ほんで数日は安静に、てとこかな」
「めんどくさ。俺、不死身やのに」
「不死身の人はそもそも階段から落ちて怪我とかしません」
「そこはおまえ、あれや、おちゃめさんやんか、俺」
「そないおちゃめさはいりませんよ」
そこだけがまるで普段通りの空気。
他のみんなはこの状況でのそれに今ひとつ着いていけなかった。
ただすばるくんだけは怪訝そうな顔をしながらも二人の様子を注意深く窺っていた。
村上くんには何かを問いたそうな様子だったけれども、それでも黙っていた。
たぶん村上くんが何か言うつもりなのを判っているんだろう。
「・・・確かにまぁ、怪我はそない大事にならんでよかったな」
「なぁ。そこら辺が不死身のゆえんてやつやな」
「でもなぁ・・・ヨコ?・・・どういうことや?」
その言葉尻が柔らかくも確かに何か不穏な色を帯びたのが俺にも判った。
当然横山くんにも判ったようで、僅かに強ばった顔でじっと村上くんを見上げる。
「胃に穴が空いとる、て。・・・どういうことやて訊いてんねん」
まるで世界が瞬時に固まったような。
俺は思わず息を飲んだし、たぶんみんなも同じような反応だったと思う。
すばるくんは大きな目を更に見開いて村上くんを凝視し、それからゆっくりと向きを変えると信じられないような目で横山くんを見た。
「よこ・・・?」
呆然としたようなすばるくんの声は村上くん以外のみんなの声を代弁していた。
いや、村上くんとて同じようなものだっただろう。
単に少しだけそれを早く知ったからそのタイミングがずれただけの話。
信じられない。
むしろ何の話なのだと、理解すら出来ない。
俺は今この部屋で誰よりも遠い場所からあの人を呆然と見つめた。
彼は俺を見てはくれない。
むしろ視線を僅かに逸らして彷徨わせる。
村上くんの言葉に弁解することもなく無表情にむっつりと黙り込んで。
「さっきな、ミナコさんが来る前に俺先生に言われてん。この患者さんはそう言えば先週もいらしてましたね、て」
その言葉はひたすらに黙り込んでしまった横山くんに向けられている。
けれども俺の耳に届いてはその端から頭の中でサイレンを鳴らす。
最早遅すぎる、サイレン。
『どうやらだいぶストレスを溜められていたようで、暫く休養されることをお勧めしたのですが。
仕事柄そういうわけにはいかないと仰ったので何種類か薬を処方しておいたんですよ。
ですから先程急患で運ばれてきた時にはそれが悪化したのかと思ったのですが・・・』
誰も知らなかった。
誰も知るはずがなかった。
だっていつも通りだった。
そんな仕草は欠片程も見せなかった。
・・・ああ、いや。
本当は見せていたのか。
あんな痛々しい笑顔みたいなものを見せていた。
それは誰でもなく、他ならぬ俺が気づけなかっただけ。
俺が気づけなかったからこうなった。
彼は既に心も体もボロボロになっていたのだと。
気づかなければならない俺が気づけなかっただけ。
傷つけた張本人である俺が気づけなかっただけ・・・。
「なんで言わんかった」
村上くんの声は既に険を帯びている。
けれどそれはどちらかと言えば少し苦しそうで、聞いている方まで苦しくなりそうで。
ただそれでも当の横山くんはそれに僅かも心動かされることはないとでも言うかのように、白い顔に感情を見せず黙ったまま。
「ヨコ・・・!」
堪りかねたように村上くんが強く呼ぶ。
それに返されたのは深いため息。
「・・・おまえもすばるも、ほんま声でかい。下のやつらが怯えるやろ」
横山くんはゆるりと視線だけを動かして室内を見渡す。
内を見て、マルを見て、大倉を見て、ヤスを見て・・・。
「おーい、やすー」
「っは、はいっ」
「なに泣きそうな顔してんねん、おまえは」
それを言うなら内なんて既に泣いていたけれど、それには敢えて触れなかった。
この空気を何とか払拭したかっただけなのかもしれない。
けれどいきなり話を振られたヤスはおろおろと狼狽えつつも心配げな様子で自分の両手をぎゅうっと握っている。
「よ、横山くん、だいじょぶ、ですか・・・?」
「おう。俺は不死身やからなー」
「でも・・・」
「泣くなって!男やろ!」
「は、はいっ、泣きませんっ・・・」
「・・・よし」
ヤスの震えつつの言葉に満足したようにうっすら笑って。
横山くんは最後に一番遠くにいた俺を見た。
確かに見た。
まだ見てくれた。
俺は言いたいことが沢山あった。
けれど言葉なんて口からは出ていってくれなかった。
言いたいことは沢山あるのに。
言ってもいいことはどれなのかが判らなくて。
今の自分の言葉は何一つをとってもこの人を傷つけてしまう気がして。
怖くて。
怖くて。
何も言えなかった。
横山くんはそんな俺を見て、僅かに眉を下げて。
ゆるりと一回だけ頭を振った。
おまえは悪くない、と。
またそう言うかのように。
そしてすうっと目を閉じてしまう。
・・・ああ、もう見てくれないのか。
白い枕に頭を預け、眠るようにそのまま目を閉じて吐息混じりで呟かれた声は弱いというよりか、何処か遠かった。
「・・・ほんま心配かけて悪かったわ。あと迷惑かけた。もしかしたら仕事にちょい影響出るかもしれへんから、謝っとく。ごめん」
いい加減に見えてその実仕事にだけは責任感の強い彼らしい言葉。
けれどそれは逆に、だからもうこれ以上は訊くな、そう言っているも同じで。
それを受けた村上くんは仕方なしに小さく頷きながらもため息混じりで呟いた。
「それが判ってんならええわ。俺らもう出てくから、今日はゆっくり休み」
そうして俺の心は白い部屋にしがみつこうとしつつ、けれどそれとは裏腹に足は自然とまるで逃げるように部屋を出ていた。
「亮」
部屋を出た後、廊下で出会した横山くんのおばさんにみんなで挨拶をしてから別れ、そのまま7人連れ合って病院を出た。
そこまでは終始無言だった。
今朝は晴れていたはずの空は夜だということを除いたとしても随分どんよりと曇っていた。
一雨来るかも知れない。
エントランスを出て少し歩いたところで村上くんが後ろから声をかけてきた。
ああ、断罪の執行人はすばるくんではなく、村上くんなのか。
俺は声をかけられてまた一瞬肩を震わせながらも、心では冷静にそう思った。
今何よりも俺はそれを求めているのかも知れない。
自分の罪を断じてくれる人間を。
ゆっくりと振り返って続く言葉を待つ俺に視線が集中する。
村上くんはなんだか苦しげに眉根を寄せて落としたトーンで言った。
「俺は、俺らには、判らん。こんなん普通やないてことしか判らん。
今回ヨコとお前の間に何があったんか、実際よう判らん。
結局俺は所詮当事者やない。せやからこんなん言える権利なんてないて、判っとるつもりや。
でも仲間として友達として見過ごせへんから、言わせて貰う」
やけに回りくどい言い方はこの人の優しさだろうか。
もしかしたら、続けて言わなければならない言葉への罪悪感かもしれない。
「・・・亮、暫くの間プライベートでヨコに近づかんといたってや」
予想出来た言葉だから何の衝撃もなかった。
けれどそれでも胸はギシギシと音を立てた。
この心臓は最早不良品なのではないだろうか。
衝撃もないのに痛むだなんて。
「ま、・・・待ってやぁっ!」
何も言わずに頷こうとした俺を遮ったのは甲高い声を張り上げた内だった。
何事かとそちらを見れば、内は泣き腫らした目をまた潤ませて俺と村上くんの間に割って入ってきた。
まるで許しを訴えかけるように村上くんを見る。
「待って、待って村上くんっ・・・」
「内・・・」
「そんなん言わんといてあげてっ。お願いやからっ。亮ちゃんはなんも悪くなんかっ・・・」
今度は逆に俺がその言葉を遮る。
「内、黙っとけ。余計なこと言わんでええねん」
「でも、亮ちゃんっ」
「ええねん。・・・ほんま、ええねん」
「なんもよくないやんかぁっ・・・」
「ええから黙れ!」
「っ・・・」
ドスを効かせてそう言ったら内はぐっと言葉を詰まらせる。
庇おうとしてくれるその心はありがたいのかもしれないが。
今の俺にはそれすらも毒でしかないんだ。
何も悪くなんかない?
そんなわけがあるか。
俺が何も悪くなければ、横山くんはあんな風にならなかった。
あんな風にボロボロになることなんてなかったはずだ。
最早目を逸らしようがない自分の罪に気付いてしまった以上、それはこれ以上目を背けようとしても苦しいだけだ。
直視しても目を背けても苦しい。
どちらにしろもう取り返しがつかない。
「・・・村上くん、判りました」
それだけ呟いて微動だにしない俺を暫くじっと見つめてから、村上くんは一つ頷くと「おつかれさん。お前もゆっくり休み」と言って俺の脇を通り過ぎて行ってしまった。
注がれるいくつかの視線は俺をチラチラと気にしていたけれどやがては段々と少なくなっていく。
みんな俺に何か言おうとして、けれど何を言っていいのか判らなかったんだろう。
だいたいが現状も詳しく判っていないのに言えることなどあるはずもない。
俺は暫くぼんやりとそのまま立ち尽くしていた。
けれどジーパンのポケットに入れていた携帯がメールで振動したのを切っ掛けに、強ばっていたような身体がぴくんと動いた。
そろそろ自分も帰ろうか。
そう思ってゆるりと歩き出す、けれど俯きがちだった視界に映った大きな影。
顔を上げればそこにあったのはぼんやりと感情の読めない、けれど僅かに眉を下げた大倉の顔。
見ればその向こう側にはまだ内もいた。
依然として泣きそうな目で俺を見ている。
「亮ちゃん、ごめんな」
「なんで謝んねん」
「俺のせいやから」
「何がやねん」
「俺が亮ちゃんの手掴めてればよかった」
「・・・アホか、お前のせいちゃうわ」
嫌味で言ってるのか。
そう言ってやりたくもなったけれど、たぶん本心から言ってるから止めた。
こいつは何を考えているか判らないことがよくあるけれど、実際のとこ根は優しい奴だ。
度量が大きくて相手の気持ちを考えられる奴だ。
・・・そう、俺とは大違い。
自分を階段から引きずり落とそうとした相手を罵ることもなく、そんなことを言えるんだから。
「でも俺はそうや思ってるから、謝る。ごめん」
「・・・いらんわ。それに、俺は謝らんからな」
こいつといると俺は自分の愚かさを思い知らされるばかりだ。
いいや、人のせいにするのはもう止めよう。
誰といたって。誰といなくたって。
俺は紛れもなく愚かじゃないか。
その結果が、これだ。
「別にええよ、それは。謝って欲しくて言うたわけちゃうし、・・・」
大倉は小さく頷くと、何か躊躇するような様子を見せてから俺をじっと見た。
「その代わり、俺からも重ねて言わせてもらう。きついかもしれへんけど」
「ああ・・・」
「当分、あの人とは距離を置いた方がええと思う。せめてあの人が、」
「もう判った。それならよう判った」
「・・・うん、ごめんな」
「せやから謝んな」
「でも亮ちゃん、俺は何も亮ちゃんばっかりが悪いと思ってるわけやなくてな、あの人だって、」
「もうええ言うてるやろ。・・・もう止めてくれ」
「・・・ん」
もう十分すぎる程に判っている。
言われなくたって、もう近づくことなんてできやしない。
ただ大倉には訊きたいことが一つだけあった。
「大倉、いっこ聞かせろ」
「ん・・・?」
「あの人の不調、お前は気付いとったか?」
大倉は唯一気付いていた。
あの人は傷ついていると。
そうさせているのは俺だと。
何故気付かないのだと。
俺の過ちを指摘してみせた。
「気付いとった言う程でもない・・・けど、最近見ててもあんま食べへんくなったなぁって、思って。
そんで食事誘おうと思ってんけど・・・」
「・・・そうか」
大倉はただ傷つき弱っていくあの人を案じていた。
でも俺はそれにすらも醜く嫉妬して、結果はこの通りだ。
もう愚かを通り越して笑えてすらくる。
頬をぽつん、と雫が打った。
どうやら雨が降ってきたようだ。
大倉はふっと空を見上げて大きく息を吐き出す。
「雨や・・・。傘もないし、そろそろ帰るわ。亮ちゃんも内もはよ帰った方がええで」
そうして大倉が帰った後に残されたのは、俺と内だけ。
内は帰るにも俺を放っておけないんだろう。
チラチラと窺うような気配を痛い程感じる。
けれど俺にはそれを気にする余裕なんてなかった。
ぽつり、ぽつり、と。
頬を何度も打っていく雨粒を感じる度にあの日のことを思い出すから。
苦しかった。
辛かった。
自分を取り巻く色んな物が重くて、逃げ出したくて。
あの人に助けて欲しくて。
抱きしめて欲しくて。
抱きしめさせて欲しくて。
縋った。
ただ縋りついた。
あの人は受け止めてくれた。
大丈夫だと、大丈夫だと、もう大丈夫だと。
何度も何度も子供にするようにそう言い聞かせては俺にその温もりを分けてくれた。
冷えた身体を温めてくれた。
その温もりに安堵しきって、これは全て自分のものなのだと、本当に子供の単純な発想にも似て思ってしまった。
あの人が俺にその温もりを分け与える度に心をすり減らしていたのも知らずに。
思えば言いたいことは沢山あった。
あの時も、今だって。
何か言えば、何か言って貰えれば、何かしらでも伝え合えれば。
少なくともこんな結果は訪れなかっただろうか。
でも結局何も言えなかった。
何一つとして。
それが全ての過ちだ。
「はは・・・はははっ・・・」
「りょ、・・・亮ちゃん・・・?」
静かに降る雨に混ざって乾いた笑いが漏れる。
内が恐る恐る声をかけてくる。
どうせなら全部全部濡らしてしまえ。
俺の過ちごと全部流してくれ・・・。
けれどそれは最早叶わぬ願い。
「おかしいわ・・・。なぁ、内、聞いてや」
「な、なに・・・?」
「俺なぁ、もう何度もあの人のこと抱いたわ。もう何回も」
「・・・・・・」
内は俺の言葉をどう思っただろうか。
よく判らないけど黙って耳を傾けているようだった。
「あの人は自分のもんなんやって、思いこんでみたりな。大阪帰ったら彼氏気取りで押しかけたりな」
言えなかった。
でも本当は言いたいことは沢山あった。
まず最初に言わなければならないことがあった。
「なぁ、おかしいわ・・・信じられへんよな・・・俺、おれ・・・」
「亮、ちゃん・・・」
その一言さえ言えば、言えていれば。
結果がどうなるかは判らなかったけれど、少なくともこんなにも歪んだ関係にはならなかっただろう。
ただ純粋な一言。
俺を見捨てられないあの人につけこむでもなく。
可愛い弟分を放っておけないからとあの人が無償で受け入れるでもなく。
その一言が俺とあの人の間にあったならば。
少なくとも、結果がどちらに転がろうとも、こうはならなかっただろう。
「おれ、一度も、あの人に好きやなんて言うてへんかった・・・」
「っ、りょ、ちゃ・・・」
内が息を飲んだのが判った。
声が上擦ったのが判った。
雨が増したのが判った。
「好きって、たったその一言も言うてへんかった・・・なんでや?・・・なんでっ!」
「りょう、」
「俺、好きやったんや・・・あの人のこと、ずっと、ずっと、好きやった・・・」
あの白い手が、与えられる無償の優しさが、温もりが。
俺を救ってくれたあの時からずっと愛しかったのに。
「なのに最初から俺は何も言うてへんで、無理矢理好き勝手して、あの人のこと、」
「も、ええよ、もうええから亮ちゃん・・・」
「なんやったんやろ・・今までの時間・・・。なぁ、うち・・・」
「亮ちゃんっ・・・」
内が泣いている。
泣き声が雨に混じる。
「おれ、おれ、大事なもん、ぜんぶ、自分で、壊してもーた・・・」
俺はあの人に救われた日から誓ったはずだったのに。
もうそれすら憶えてはいなかったんだ。
強くなると、そう誓ったはずだったのに。
出来たのは結局また弱ってあの人に縋りつくことだけ。
いつか強くなったらこの想いは打ち明けられるだろうかと、そんなことすら夢見ていたはずだったのに。
俺は大事に暖めてきた想いすらも自ら穢してしまった。
あまりの喪失感に俺は一気に身体から力が抜けてしまって、その場に崩れるように膝をつく。
「あの人も、自分の恋も、あの人の優しさも、想い出も、なんもかんも・・・」
「もう、もう、やめて・・・亮ちゃん、もうそれ以上やめてや・・・っ」
内が俺を支えるように屈み込んで両腕を廻してくる。
けれどその細い腕の感触では俺はもう立ち上がることは出来そうになかった。
俺を頭のてっぺんから濡らしていく雨はいつだって静かで冷たくて俺の弱さをさらけ出す。
「なぁ、おねがい・・・おねがいやから、」
「亮ちゃんっ・・・」
「おれのこと、きらいにならんで・・・」
最早内の泣き声すらも雨音と変わりなく。
俺の弱さを哀れむように頭の奥に響くだけ。
「よこやまくん・・・おれのこと、きらいにならんで・・・。おれから離れていかない、で・・・」
それでも俺は縋ろうとする。
どれだけ自分の弱さに打ちのめされようとも。
傷つけた後悔に苛まれようとも。
この雨にどれだけ断罪されようとも。
濡れて、びしょびしょになって、冷え切って、それでも。
この恋だけは嘘じゃなかった。
ずっとあなたが好きだった。
ただあの時そう言えればよかったのに。
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(2005.9.27)
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