6.安らかに眠れ恋心










俯いたまま歩く横山の視界には、行き交う人々は顔が見えないから皆同じに映った。
夜の街をただ手を引かれ歩くその姿は何処か力なかった。
傍目から見て今の二人はどう映るのだろう。
男が男の手を引いて。
しかも引かれている方は連れられるがままで。
けれど実際のところはそんなことよりも、今自分の手をこうして引いて歩いているのが他ならない錦戸であることを横山はぼんやりと不思議に感じていた。
幼かった錦戸の小さな手を引いて歩いた記憶ならもう数え切れないくらいあるけれど。
こんな風に、まるで歳の差が逆転してしまったみたいに連れられるのは初めてだった。

どこまで行くのだろう。
もう10分以上歩いていた。
てっきり何処か店にでも入るのかと思いきや、錦戸は黙って歩き続けるだけで。
やがて歓楽街からも外れて辺りは人通りもまばらになってきてしまった。
さすがに俯けていた視線を上げて辺りを見回す横山に気付いたのか、錦戸はちらりと振り返って一言告げ、またすぐに前を向いてしまう。

「もうちょい、我慢しとってください」
「・・・ん」

我慢てなんやねん。
そう言ってやりたかったけれど思わずタイミングを逃してしまった。
すぐさま背中を向けるから。
別に嫌だなんて言ってない。
だからこうして何も言わずに着いてきたのだ。

ただ、考えてみれば。
そう思われてしまっても仕方がないとも言えた。
錦戸には横山が心の奥底に抱えた気持ちなど伝わるわけもなかったから。
伝わると思う方がおかしい。
そうならないようにと必死に押さえ込んできたのだから。
そう考えれば、錦戸にとっては所詮想いを告げた先にも横山からは拒絶しか受けていないことになる。
しかもひどく曖昧で半端な、拒絶。

その時その時で最善の選択をしてきたつもりだった。
けれどその後に残った結果を見れば、選びとってきたはずのそれも所詮は間違っていたのかもしれないと思わされる。
誰かを傷つけるそれを間違いだとすれば、確かに、横山はもう何度も間違えてきたのかもしれない。
それはもう昔だけの話ではなく。
たとえばついさっき、ほんの10分前の選択すらも。



錦戸がようやく足を止めたのは横山が見慣れた川だった。

「ここ・・・」

予想だにしなかったその場所に、横山は思わずきょろきょろと周りを見回す。
錦戸はそれに小さく笑って橋の袂まで足を進める。

「懐かしいでしょ」
「あー、うん・・・」

ゆっくりと歩いていく錦戸の手が自然と離される。
それでも横山はさっきと変わらずその後を着いていった。

夜の風が頬に心地良い。
横山の薄金茶の髪をサラサラと揺らすそれは、さっきからずっと何処か強ばっていた身体を僅かに解してくれる。
それに我知らずほうっと息を吐き出しながら、横山は橋の上から辺りを見回す。
所々に点在する灯りが川辺をうっすらと照らしだし、その水面には欠けた月が映し出されていた。
ここはさっき錦戸が言った通り横山にとってはとても懐かしい場所。
もしも誰かに「想い出の場所は?」とでも訊かれたなら、確実に答えるであろう場所の一つ。

「最近、来ました?」
「え?」
「ここ。最近来たりとか、しました?」
「あー・・・や、最近は全然やな」
「そっか」

錦戸は小さく頷いて、橋の真ん中辺りまでゆっくりと歩いていく。
そこそこ大きな川と橋だから昼間ならば人通りも多いそこだけれど、既に陽も落ちた今は人の姿もまばらだった。
橋にもたれ掛かるようにして身体を預け、暗く揺れる水面を見下ろしながら黒い瞳がやんわりと撓む。

「・・・俺、ここ最近何度も来たんすよ」

なんで、と小さく呟くような声は、けれど上手く言葉にならず。
横山のぽってりとした唇にそのまま消えた。
けれど聞こえなかったはずの問いに、錦戸は身体を預けたまま顔だけを横山に向けて答えた。

「もう随分昔に、横山くんに教えて貰ったじゃないすか、ここ」
「ああ・・・せやな」
「俺はまだほんまにガキで、ちっこかったけど。俺、ここに連れてきてもらった時のことはよう憶えてるんすよ」
「・・・俺はあんま憶えてへんわ」
「そうっすか?でも俺は憶えてる」

横山が誤魔化すように言うのにも錦戸は特に気にした様子もなく、むしろ嬉しそうにすら見える笑顔を垣間見せながら言う。
錦戸が何を言わんとしているのか横山にはまだ判らなかったけれど。
こんな風に無邪気に笑う錦戸を見たのは久しぶりな気がして、何だか少し嬉しかった。
同時に、今本人が言った、初めてここに錦戸を連れてきた時のことは横山自身本当はよく憶えていた。

「なんや俺が仕事で凹んだ時やったかな。
しょーもない駄々こねて癇癪起こしとった俺を怒るでもなく、ただ手ぇ引いてここに連れてきてくれた」

横山達よりもまだまだ幼く、小さかった身体。
けれどそこにかかる重圧は横山達よりも更に大きくて。
幼く繊細な心が心ない大人達の言葉に傷つけられた時、横山は錦戸をここへ連れてきた。

「川は心が落ち着くでー、広くてゆったり流れてて、自分なんぞほんまちっぽけやねんなーて思えんねん、・・・て」

遠い昔を懐かしむような目の奥には、憧憬とも言える光が見てとれる。

「あんた、そう言うてくれた」
「・・・せやったけ」
「ほんま、嬉しかった」
「・・・」

錦戸は幼かった。
幼すぎて、その時感じた感情が何かまでは判らなかった。
大人の世界の棘から自分を守るために作った殻を、やんわりと剥がしてくれたその白い手。
それが自分を抱きしめてくれたことを。
目を逸らしたいものから守ってくれたことを。
それらをまるで当たり前のように甘受していた頃には判らなかった。

「たぶん・・・ほんまはあの頃から好きでした」

横山がじっと見つめる先の横顔は薄明かりに照らされて、川の向こう側遠くに視線を投げかける。

「気付いたのはほんま遅かったけど。ほんまはずっとずっと、あんたのことが、好きでした」

その宵闇にも負けない黒い瞳がふっと横山に向いて、瞬き一つせずに白い顔を捉えた。

「横山くん、好きです」

飾り気も何もない、ただただ真っ直ぐなその言葉。
横山はまるでそれを噛み締めるように目を細め、薄く唇を開き、小さく呼吸をして、一旦きゅっと目を伏せて。
再びゆっくり開くと、何とか僅かに笑ってみせた。

「・・・ありがとう、て。言うべきなんかな」
「どうやろ。この前は最初笑い飛ばされて、その後狼狽えられて、そんでもって軽く拒絶されたんで。何とも言えへん」
「せやな・・・せやったなぁ・・・」
「まぁ、もうええねんけど」

少し早口で小さく呟くようにそう言うと、錦戸はほっと息を吐き出して軽く視線を彷徨わせる。
最初の告白の時と比べると随分落ち着いているように見えたけれど。
実際にはやはりそれは努めてそう見せるようにしているに過ぎないのだろう。
それを何となく感じ取って、横山は何だか複雑な気分だった。
そんな風に気を遣わせてしまったことへの罪悪感と。
たとえ上手くはなくともそんな風に繕うことも出来るようになったのだという、ある意味での成長への一抹の寂しさと。
そして不器用ながらそれでもそこまで一途に自分を想ってくれたことへの、愛しさと。
横山の中には今様々な感情が激しく渦巻いていた。
それは、そう、横山の心の奥底深くに封じ込められてきた狂おしい想いさえも容易く呼び起こす程に。

「・・・亮、おっきなったなぁ」

半分無意識で呟かれた言葉はともすればいつもの子供扱いにも似て。
けれどその愛しげな響きと、そして何よりもそのやんわりと微笑んだ表情が、そうではない何かを確かに錦戸にも伝えた。
錦戸は軽く眉間に皺を寄せながら小さく苦笑する。

「・・・そんなん、今更言われても全然嬉しないっすよ」
「せやけどほんまそう思ってん」
「何やそんなんしょっちゅう言うてるやんか」
「せやけど思ってんもん」

その意味がいつもと違うことは判った。
けれど錦戸が今聞きたいのは、そんなことではなくて。

「ねぇ、横山くん」

錦戸は凭れかかっていた橋から身体を離し、ゆっくりと横山に歩み寄る。
風に揺れる薄金茶の髪が夜の闇に作る残像に目を細めながら。
その何処か頼りない煌めきをこの手に出来たらと、何度望んだか。
けれどそれは幼さ故の我が侭でどれだけ欲しても、若さ故の強引さでどれだけ求めても。
もうそれだけでどうにかなるものではないことは身を持って教えられた。
大人になるということはそういうことなのかもしれないと、錦戸はぼんやりと思ったものだった。
だからこそもう後がない。

絶対に欲しい。
どうしても捕まえたい。
何としてでも自分のものにしたい。
だからこそ、今ある自分の気持ち全てを込めて言った。

「好きや」

すぐ手を伸ばせば手が届く距離。
錦戸は真正面に横山の白い顔を捉えて言った。

「あんたのこと、好きやねん」

真っ直ぐで真摯な言葉はただただ純粋で、強く、何の混じりけもなくその想いを乗せて横山に届いた。
それはたぶん横山が何よりも望んだものだった。
幼かった錦戸に想いを抱いたその時から、無理だと、決して言ってはならないと、そうして全て最初から諦めていた横山の中で。
それでも本当は望んだもの。
その真っ直ぐな黒い瞳が自分の躊躇いも戸惑いも何もかもかき消すかの如く、そんな心ごと攫うように、一心に愛の言葉を囁いてくれたなら。
何度も何度も、涙を飲み込みながらその姿を思い浮かべた。
ありえないと、あってはならないと、そう思う反面、だからこそ、強く強く望んだ。痛いくらいに望んだ。
その望んだ姿が、今ここに現実としてある。

「・・・うれしい、な」
「え・・・?」
「うれしい、て、こういう気持ちやねんな」
「よこやま、くん・・・?」

ぽつりぽつりと一人ごちるような横山の言葉。
錦戸は小さく唾を飲み込んでその先を待った。

「あんまようしらんかったな。これがうれしいて気持ちやねんな」

横山の頭の中でまるで走馬燈のようにして幼い日々が蘇る。
錦戸と出逢って過ごした日々。
まるで兄弟のように仲睦まじかったあの日々。
そして恋して知った甘い痛みと苦しみの日々。

「ほんまは、この前おまえにそう言われた時はな、正直怖かってん」
「・・・はい」
「やってありえへんと思ってたから。絶対あかんと思ってたから」
「・・・」
「おまえの人生、狂わせたらあかん思ってたから」
「・・・そんなん、考えてたんすか」
「考えるわ、そら」

考えずにいられるはずがなかった。
誰より愛しく大事な彼の輝ける将来を、見て見ぬフリなど出来なかった。
いずれ羽ばたくであろうその大きな翼をもぐことなど出来るはずもなかった。
横山にとって錦戸は自分の人生よりも大切だと思った唯一の人間だったから。

「狂わせて、・・・でも俺は責任なんて、とってやれへんしな」
「責任て、何やねん」
「・・・俺にはどうもできんもん」
「俺が何や責めるとでも思ってんの?」
「そんなん、わからんもん・・・」

横山は思う程器用ではなかった。
想いが通じ合った後、その何処かで歯止めがかけられる程には。
その時になって間違いだったと責められてもどうにも出来ない。
そこで捨てられたとしても、もう後戻りも出来ない。
だから何一つとして行動になど起こせはしなかった。

「もうな、考えて考えて、考えすぎて・・・わからんくなってもうてん・・・」
「ずっと?ずっとそんなん考えてたん?」

こくんと小さく無言で頷く横山に、錦戸は小さく右手の拳を握る。
ずっと兄のように慕ってきた彼のこんな頼りない姿を、錦戸は今初めて見た。

「・・・・・・あんたは、アホやな」

俯きがちだった横山がちら、と視線だけをそちらに向ける。
錦戸は小さく息を吐き出しながらそっと手を伸ばした。
白い頬に指先が触れる。
ぴくりと小さく震えた。
その反応すらも愛しくて、錦戸は自らの指先すらも震わせた。

「アホや・・・」

低い声音で囁くように。
錦戸はゆっくりと顔を近づけていく。
近づいてくるその顔に横山はただ待つようにじっと見つめるだけ。

恐らくは、きっと。
今までで一番近くなった二人の距離。
あと少しで唇と唇が触れ合う程の。
触れ合う寸前。
お互いに判っていた。
そしてそれを既に承知していた。

吐息すらも届く距離で、錦戸は最後に訊ねた。

「・・・俺のこと、好き?・・・今でも、好き?」

横山は錦戸を見つめる。
それは愛しい。
けれど同時に苦しいのはやはり変わらない。
横山にとってそれは昔から今も変わらず、眩しすぎた。

そうだ。
眩しすぎる。

だからそっと瞳を閉じて、代わりに薄く唇を開いた。
柔らかで色づいたそれがゆるりと言葉を形作る。
昔を思い起こすように、抱いた熱い想いを振り返るように。

「好きやったよ」

運命はそこで交差する。


・・・そのはずだった。


けれど唇と唇は、触れ合わなかった。

錦戸の唇は横山のそれには触れず、ただ宙を彷徨い、緩く撓んで小さく笑うように空気だけを漏らした。

「・・・・・・過去形、なんすかね。それ」

横山は何か大事なことを間違えた気がして、途端に目を見開いた。
そこにあったのは妙に穏やかで、けれど泣くのを我慢したみたいな、そんな一人の男の顔。

「・・・え?」

何を言ってるんだと、咄嗟に言おうとした。
そんなのは単なる言葉の言い回しの問題みたいなもので。
突っ込むべきところなんかじゃないと。
言おうとしたのに、言えなかった。
横山自身今自分が何かを間違えた気がしたからだ。
けれど何を間違えたのか判らなかった。
・・・間違えた?本当に?

「横山くん、初めてや」
「なに、・・・なに?なにが・・・」
「俺にそんな本音言うてくれたん」

今のこの状況に混乱を来す横山を後目に、錦戸は何故か妙に落ち着いた様子で静かに呟く。
まるでこうなることはある程度予測していたかのように。

「ほんま俺、初めて聞いた。初めて・・・。もう何年もずっと一緒におったのにな」
「にしきど?」
「ずっとずっと一緒におって。ほんまはずっとずっと好きやったのに。・・・初めてや」

結局触れることが出来なかった柔らかな唇。
錦戸はそれを未だ諦めきれぬように、名残惜しむように、ただ指先で撫でる。
その感触に小さく唇を震わせて、横山はただされるがままでいた。

「・・・ほんまは、賭けやった」
「賭け・・・?」
「ここ、あんたが教えてくれた場所。あんた言うてたよな?ここはお前以外教えたことないて」
「ああ、せやな・・・ここは俺のとっておきの、」
「せやからな。・・・賭けやってん」

ただ目の前に提示される事実を追うことしか出来ない横山の言葉を遮り、錦戸はそっと指先を離して辺りを見回した。

「あんたが俺だけに教えてくれた場所。俺とあんただけの場所。・・・ここだけは、あんたは俺のことだけ考えてくれるんとちゃうかな、て」
「・・・」

思わず息を飲みこむ。
錦戸が何を言わんとしているか横山にはようやく判った。

「あの人やないと、あかんのやろ?」

それは今さっき横山が間違えた、・・・いや、本当は間違えたのではなくて、ただいつの間にか道が違えられていたということ。
錦戸は大きく息を吐き出しながら堪えるように言った。

「あー、駄目やったな。あかんかったな。あんたの本音が折角聞けたのに。・・・あかん本音まで見つけてもうたな」
「俺・・・おれは、ほんまにおまえのこと、好きやったんやって・・・。ほんまに・・・どうしようもないくらい・・・」

呆然と呟くようにそう言う柔らかな唇に、錦戸はもう一度指先で触れた。
塞ぐでもなく撫でるでもなく、ただ感触を確かめるように。
名残を惜しむように。

「うん。・・・でもそれが現在進行形の「好き」ならもっとよかったのにな。
あんな?自分に都合のええ勘違いならいくらでもするで、俺は。
そんなん結構得意やねん。思いこみは激しい方やしな。・・・でもな、なんやろ、コレは無理やわ」

錦戸は自分達二人だけの想い出の場所に賭けた。
自分だけがこの場所を知っているという事実が拠だった。
もしかしたら横山から深く想われているのではないかという仮定と。
そしてそれらを事実として聞き出す過程と。
それらは全て錦戸の思うように行ったはずだった。
・・・行ったけれど、結局それは同時に、もう一つの仮定を真実として肯定する過程にしかならなかった。

だって横山は本当に懐かしそうに言ったのだ。
好きだった、と。
自分をそんな優しい眼差しで見て、けれどそれ以上は目を閉じてしまって。
その瞳を向けられるべき存在はここにはなかった。

横山が自分をどれだけ想ってくれていたか。
それを深く知れば知る程に、その陰で苦しんでいたのだと思い知れば知る程に、・・・ならばそんな横山をずっと陰で支えてきた、彼は。
彼の存在は、どう説明をつけるのか。
なかったことになんて出来るはずもなかった。
あんなにも、まるで温もりに飢えた子猫が縋るように彼を見つめて、その手を離されただけでまるで今にも死んでしまいそうな程に呆然としていた横山が。
その横山が誰より求めるのが自分だなんて、・・・そんな子供の夢はもう見れなかった。
出来るなら見ていたかったけれど。
もう見れない。
錦戸もきっともう大人になってしまった。
いっそ子供のままならよかったのに。
そうしたら横山を自分のものに出来たのだろうか?
きっとそれもまた違うのだろうけれど、思わずにはいられなかった。

「俺がもっと早く気付いてたらよかったんかな」
「亮・・・」
「もっともっと早くに・・・あんたのこと好きやって、気付いてたら・・・」

その言葉尻はあまりにも弱い。
出来るならそんな弱い所は見せたくなかった。
横山に釣り合うような大人の男になりたかった。
けれどそれでも、もう届かないと思い知ってしまった今、錦戸には最早自分を叱咤する術が見つからなかった。
震えそうになるその言葉を耳に、横山は堪らず自らも声を震わせた。

「ちゃう・・・おまえのせいやない、おまえのせいやないよ・・・」
「あかん、責めさせてや。あんたを責めんのだけは嫌やねんから。・・・せめて、自分を責めさせてや」
「・・・ごめんな」

横山は堪らず片腕を伸ばして錦戸の頭を自分の方に引き寄せた。
まるで自分の胸に預けるようにして抱きしめた。
もしかしたらもう触れてはいけないのかもしれない。
けれどせめてそうせずにはいられなかった。
結局自分は錦戸を振り回すだけ振り回して、傷つけたのだから。
そういう道を、自ら選んだのだから。

「・・・亮、ほんまに、好きやった。好きやったよ。苦しくて、死にそうになるくらい」
「うん・・・」
「でも言うたら傍におられへんと思ったから、絶対言うたらあかんて思って」
「ん・・・」
「ずっとおまえの傍におりたかったから、言えへんかってん・・・」
「・・・」

大人しく自分の胸に納まって身体を預けてくる錦戸が愛しくて、どうしようもなくて。
それは今でも変わらないのに。
横山はもう、違う道を選びとってしまっていた。
自分でも気付かぬ内に。
それはいつからか。
もう随分と前か。
それともついさっきか。
その時その時で最善の道を選びとってきた今までが、もしかしたら間違っていたのかもしれない、それと同じで。
もしかしたらこの選択も本当は間違っているのかもしれない、けれど。

「大好きやったよ、亮」
「・・・俺は今でも大好きです。愛してます。・・・ほんまに、今でも」

その震える声音が愛しい。
大人になったのにやっぱり子供みたいに自分を求めるその仕草が。
涙を見せたがらないだろうから押し当てて隠した顔が。
出逢った時から、確かに惹かれた。
愛しかった。今でも愛しい。
愛していた。けれど。

今横山は、確かに、違う人間を選んでしまった。

「・・・・・・愛してたよ」

愛してた。
こんなに苦しい、いっそ死んでしまいたい程に苦しいのに、傍にいたいから死ねないと思う程に。
それ程に愛していた。
きっともうそんな苦しい思いを自分にさせる人間は一生現れないだろうと思う程に。

横山がその白い手でそっと黒髪を撫でる。
普段からは考えられない程に優しいその感触は、けれど錦戸にとってはもう昔から知っていたもので。
きっとそれはこれからも変わらない。

錦戸はふっと顔を上げた。
涙に濡れたその表情を隠しもせず。
そしてそれに目を逸らさずに見つめ返す白い頬にゆっくり手を伸ばす。
触れた滑らかな感触、そしてそこから辿るようにして再び触れた艶やかで柔らかな唇。
錦戸は小さく笑ってみせた。

「最後に一回だけ、ええですか?」

こくん、と小さく、けれど確かに頷いた白いおとがいをとって。
ゆっくりと顔を近づけた。
今度こそ触れ合う唇と唇。
夜の冷たい風の中でそこだけが、ほんの少しの熱を生み出す。
柔らかなその感触を錦戸はずっと忘れないでいようと思った。
横山はずっと憶えていようと思った。
最初で最後のそれを、これからも絶対になくさないでいようと思った。

この最初で最後のくちづけは、互いが互いに抱いた恋心へのはなむけ。

殺すことなど出来なかった。
奥底に封じ込めておくこともできなかった。
半端な眠りもすぐに目覚めてしまった。
ならばあとはただ、深い深い、二度と目覚めぬような永久の眠りにつかせるだけ。



決してなくしはしないから。
あとはただ、安らかに眠れ恋心。










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(2005.8.7)






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