恋のスティグマ 前編










柔らかなシーツを心地良く感じながら、深く重く沈んでいた意識がゆっくりゆっくりと浮かび上がっていく感覚。
その中で錦戸が一番最初に感じたものは頬に触れる人肌だった。
決して女のもののように細いわけではないのだけれども、男のものにしては妙に柔らかな、弾力のあるそれ。
思わず半分無意識でそれを更に感じるように頬を上下させてみるとすべすべとしていて気持ちがよかった。
しかし更に浮かびあがっていく感覚から、この状況は何かおかしくないだろうかと思うに至り。
重い瞼を何とかぼんやりと開けていくと、霞む視界に白い肌が飛び込んできた。
透けるような、と形容して差し支えない程の白さを湛えたそれは、色白を好む錦戸にはまさにぴったりだった。
柔らかで真っ白で・・・抱いて眠るならばまさにこんな肌がいい、と未だ覚醒しきっていない頭でぼんやりと思う。
けれどもそこが人間の部位で言うところの胸であり、それが自分と同じ真っ平らであることがどう考えてもおかしいということに錦戸はここへ来てようやく気付いた。

「・・・?」

緩慢に瞬いていた目をぴたりと一点に定め、凝視する。
そこにあるのはやはり真っ白な肌。真っ平らな胸。
それは今穏やかに上下している。
眠っているのだろう。
錦戸にはそれだけは判ったが、それ以外のことが未ださっぱり判らなかった。
しかしそれもまた意識が完全に覚醒していくにつれ段々と判ってくるもので。
気付けば自分がまるで縋り付くにも似て抱きしめている白い身体は、自分よりも少しだけ大きくて、確かに柔らかではあるが紛れもなく男のものだった。
錦戸は見たいような見たくないような、覚醒しながら同時に混乱する頭を持てあましつつ、それでも恐る恐ると言った様相で顔を上げていく。
目の前の胸元から上げた視線の先には思う以上に近い顔があった。

「っ・・・」

錦戸は声を漏らしそうになって何とか堪える。
大袈裟ながら心臓が止まりそうになった。
この至近距離では吐息さえも届いてしまいそうで、錦戸は必死にそれを押し殺しながら見開いた目でまじまじとその顔を見つめた。
さっき自分が頬を寄せていた腕、そして目の前にあった胸、それらと同様にやはり白い顔。
通った鼻梁と一際柔らかそうな頬、丸みを帯びたラインに色素の薄い金茶の髪、そして全体的に白い肌の中にあってやけに主張して止まないぽってりとした赤い唇。
昔からそれこそがこの目の前で眠る男を最も両性的に見せているパーツであり、しかも普段はきつい印象を与えるその目が閉じられた今となっては、もはやいっそ女性的ですらある。

もう出逢って何年にもなる。
今も毎日のように顔を合わせている。
けれど錦戸にとってその出逢いは今でも鮮明に思い出せる程のものでもある。
結局のところ言ってみれば、この目の前の男は常に錦戸の心の奥深くを占める人間だった。

それが今、どうしてこんな状況になっているのだろう。
どこぞのベッドの上に横たわり、お互いに裸で、しかもぴったりと肌を合わせるように抱き合っていて。

「よこ、やま、くん・・・?」

吐息混じりでほとんど声にもなっていない言葉だった。
けれど呼びかけずにはいられなかった。
もしかしたらこの横山に見える男は本当は横山ではないかもしれない。
目を開けて、口を開いて、声を聞いてみなければ判らない・・・・・・なんて。
ここまできてこれが別人だなんてことがあるわけもないのだが、未だ混乱した錦戸の頭にはいっそ逃避行動にも似てそんな思考が渦巻くのだった。

「よこやまくん・・・」

もう一度呟くように呼んでみる。
けれど白い寝顔は目覚めない。
安らかな寝息を立てて腕を錦戸の身体に回したまま。
普段から子供っぽい人ではあるけれど、こうして眠っていると表情まで幼いな・・・などと錦戸はぼんやり思う。
そして同時、ここでもし目覚めたとしてそこからどうするのか、という根本的な問題にぶち当たった。
そうだ。
ここで目覚めてくれたとして、何をどう言えばいいのか。
こんな状況で、何を訊けばいいのか、そもそも横山にもこの状況が理解出来るのかどうか。
ぐるぐると渦を巻く思考回路。

そして恐らく、この状況を把握すべき最終段階だっただろう。
錦戸は最後に二点気付いたことがあった。
その二点は錦戸の思考回路をショートする寸前まで追い込んだ。

まず一点目。
今の今まで目の前で眠る横山に意識を奪われていて周りを見る余裕がなかったが。
ふと見回してみると、この部屋はやけに簡素で、あるものと言えば本当にこのベッド程度しかない。
しかもやけに小綺麗で生活感のないそれは一瞬どこかのホテルかとも思った。
しかしながら判る人間には判るだろう、このリゾートホテルにもビジネスホテルにもない独特の空気感。
錦戸は恐る恐ると言った様相で視線をベッドサイドのテーブルにやる。
案の定そこに散乱していたものは、ここが錦戸の想像通りの場所ならばあって当然の代物だった。
コンドームだ。
そしてイコール、ここはホテルはホテルでもいわゆるラブホテルということになるわけで・・・。

「うそ、やろ・・・」

錦戸は目眩がした。
けれどそれでもこれだけならば言い訳もできた。
昨夜の記憶は何となく曖昧だけれど、確か横山に誘われて飲んだ記憶はあるし、実際頭に鈍い痛みがあることから酔った挙げ句に帰れなくなって仕方なく入った、という見方もある。
けれども錦戸が最後に気付いた二点目、それはもう言い訳のしようのないものだった。

自分の身体に廻っていた腕の力がさして入っていないことを確認した錦戸は、やんわりとそれを解いて上半身を起こし、改めて横たわり眠るその身体を見る。
男にしては丸みを帯びたラインに縁取られた柔らかな身体。
今安らかに上下するその胸からお腹にかけて、さらには腰や太ももにまで。
どこもかしこも白いそれに、目を逸らせない程の、いくつもの赤い痕。
まるで所有を主張するように散らされたそれはいっそ目に毒なくらいその白い肌には映える。
それは赤い花が咲くようでもあり釘付けにされる程に美しくありながらも、同時に何処か直視出来ないいやらしさがある。
錦戸は自然と小さく唾を飲み込んでから、ハッと目を逸らしてしまう。
その身体に思い切り背を向けてベッドの上で膝を抱えるようにして身体を丸めた。
そして考えた。

「どないしよ・・・」

嘘だろう。
誰か嘘だと言ってくれ。
錦戸は誰かにそう言いたくて仕方がなかった。
けれども今ここにいるのは自分と眠る彼しかいないのだから所詮は無理な話だ。
そしてよしんば誰かに言える状況にあったとしても、実際には言えるはずもないことでもあった。

ラブホテル。
そのベッドの上で抱き合って眠っていた自分と横山。
横山の身体にはいくつもの赤い痕。
言い訳のしようがない。

「俺、横山くん、を・・・」

そこまで言いかけて、錦戸ははたとして自分の身体を改めてまじまじと見下ろす。
いい加減服くらい着な・・・そうは思いつつもとりあえず見える部分だけでもくまなく確かめた。
しかし自分の身体には赤い痕は確認できなかった。
そして何よりも身体に痛みはなかった。
少なくともそれは二日酔いから来るであろう頭痛だけだ。
・・・腰には、ない。
だからとりあえず・・・抱かれたのは、自分ではない。
となれば、やはり・・・。

「俺が、横山くんを・・・」

錦戸は振り返れなかった。
けれども、もうあの白い肌に刻まれた赤い痕は目に焼き付いてしまっている。
恐らくは自分がつけたんだろう。
自分があの白い肌に。
唇を寄せて。
執拗に。
自分のものだと、そう思って、それを望んで、今まで想像の中でしかしたことのなかったそれを、ついに・・・。

「・・・・・・最悪や」

錦戸は深く深くため息をついて頭を抱え、きつく目を閉じた。
全く記憶がない。
横山に煽られるままに飲んで意識が薄れた辺りまでしか憶えていない。
ここに入ったことすら既に憶えていないのだ。
だから自分が一体どういう経緯で、何を言って、一体どうやって横山を抱いたのかが判らない。
酔った自分を介抱してくれた横山に抱かせてくれと縋り付いたんだろうか。
それとも酔った勢いに任せて強引に押し倒したのだろうか。
どちらにしろ、大それたことをしでかしてしまったものだと思う。
そしてそもそもが横山自身はどうだったのだろう。
まさか抵抗もせずに、なんて考えられない。
抵抗くらいはしたはずだ。
いくら可愛い弟分だと言ってもそんなのは別次元の話のはず。
横山は何も男色というわけでもなく、至って普通に女の子が好きなはずで。
そんな至極ノーマルな嗜好を持つ男が同じ男に抱かれるなどと容易く出来ることではない。
でも、だとしたらどうしてなのだろう。
いくら酔っていたとしても、無下には突き放せない弟分だとしても、横山が本気で抵抗すれば錦戸がそれ以上好きに出来るはずもないのだ。
今やすっかり差は縮まったとは言え、それでも体格的にはまだ横山の方が大きい。
もしも本当に横山が錦戸に抱かれたとすれば、それは横山に少なからずの合意、もしくは許しが必要なはずで。
・・・いや、合意や許しなどと、それは所詮自分に都合のいい考えでしかないと錦戸はすぐさま自分を嘲るように思い直す。

きっと突き放せなかっただけだ、哀れまれただけだ。
必死な自分を、酔った勢いくらいでしか行動を起こせない、そんな情けない自分を・・・。
こう見えて面倒見が良くて優しい横山は、昔から目をかけてきた弟分を突き放せなかっただけ。
錦戸はそう思いこもうとした。
そうしてせめて傷口を最小限に留めようと思った。
そうでなければ空しすぎる。
そう割り切らなければ手に入れたように錯覚してしまう。
あんな痕など、数日もすれば消えてしまうというのに・・・。


「・・・ん、」

背後で小さく声がした。
錦戸はぴくんと肩で反応する。
咄嗟に振り返れなかった。
何と言っていいのか、どういう態度を取ればいいのか、判らなかったから。

「んん〜・・・だる・・・ねむたい・・・」

むにゃむにゃと寝言のようなものが聞こえる。
本当に目覚めたばかりだからなのか、いつも以上に舌足らずな口調は微笑ましいけれども、今の錦戸にはそんなことを思う余裕もなかった。
けれどそんな錦戸を後目に、横山はもぞりと半身を起こすと大きな欠伸をひとつして、あっけらかんと言ったものだった。

「にしきどー。はよーっす」
「・・・」
「ん?おーいにしきどー?寝てんのか?まだ寝ぼけてんのか?亮ちゃんはまだおねむかー?」
「あ、おはよっす・・・」
「おー」

何とか途切れ途切れでそれだけ返した錦戸を気にした様子もなく。
横山はまた欠伸をしたかと思うと何やらもぞもぞと身動いでいるようだった。
それが何となく気になって、錦戸は恐る恐るようやく振り返ってみた。
すると横山は何の頓着もなく目の前で脱ぎ散らかされていた服を身につけていたのだった。
一気に頭からすっぽりかぶったTシャツから、ボサボサになってしまった髪がひょこんと出ているのがちょうど見えた。
そうして次はジーパンを手にとってさくさくと履いていく様を思わずぼんやりと眺めてしまう。
その腰が上げられてはまた降ろされる、その一連の動作を見てはたと思ってしまう。
腰は平気なのだろうか・・・。

「あ、あの・・・横山くん・・・」
「ん?」
「や・・・その、」
「なに?」
「いや・・・」

しかしそんなこと早々訊けるものではない。
そもそもがこのこと自体口に出してもいいものなのかも判らないのだ。
横山自身が何も口にしないせいもある。
そうだ。
こんな普通じゃない状況で、何故横山は未だ何も言わないのか。
・・・なかったことにするつもりなんだろうか。
錦戸は窺うようにそちらをじっと見る。
けれどそれにも特に頓着した様子もなく、横山はさっさと衣服を身につけると今度は荷物をまとめだしてしまう。

「今日の集合って11時やんなー?」
「あー、はい・・・」
「ちょお中途半端な時間やけど、俺いったん家帰るわ。おまえはどうする?」
「え・・・?」
「せやからおまえはどないするん?そのまんま行くんか?家帰るんか?」

依然として手を動かしながら何でもない風でそう訊いてくる横山。
目元が少し赤いのはどうしてなんだろうか。
どうしてなどと今更思ってはいけないのだろうか。
錦戸は心の中だけでそう思いながら、少し示唆するような仕草を見せて内心とは違う台詞を言う。

「とりあえず・・・俺もいったん帰る、かな」
「そか。じゃあ俺先行くな。俺んちの方が遠いし」
「えっ、」

言うが早いか、横山はすでに荷物を手にベッドから立ち上がって扉の方に歩いていってしまっていた。

「眠いやろうけど、おまえも遅れんで来いよー」
「ちょ、横山くんっ・・・」

訊きたいことも言いたいことも沢山あったというのに。
錦戸が躊躇している間に横山はやはりそれをなかったことにするつもりなのか、さっさと出て行こうとする。

その背中を見送ってしまったら。
本当に全てなかったことにされてしまう気がして。
錦戸は何か言わなくては、と思った。
何を言えばいいのかはやはり判らなかったけれども。
それでも何かを言わなくては、たとえそれが彼にとっては望むべきことではなかったとしても、言わなくては。
錦戸は咄嗟に本能的に思った。
たとえそれがどんな経緯であろうとも、褒められたものではなかったとしても、それでも、なかったことになんてしたくなかった。

「横山くんっ!・・・俺っ、」

自分が何を口にしようとしたのか錦戸には結局よく判らなかった。
最後まで口にさせてくれなかったからだ。

「錦戸」

振り返った横山は、何故か笑った。
笑っていた。
少し赤い目をパチパチと瞬かせながら笑って言った。


「おまえは、忘れてええよ」


自分が何を言おうとしたのかは判らなかった。
けれども、少なくとも横山のそれは自分の言おうとした言葉を拒絶するものであると。
錦戸はそう感じてそれ以上何も言えなかった。












それから三日。
表面上は何事もなく過ぎていった。
いや、表面上などではなく、実際何もなく過ぎていたのだろう・・・自分の胸中以外は。
錦戸は内心だけで愚痴めいてそう思いながらも、今日もまた何度目かの視線をその張本人に向けた。
盗み見るような視線の先にある横顔は手にした携帯ゲームに向かって真剣そのものだ。
そしてその真剣さとは反比例して錦戸はため息をつきたくなる。

こういう時に限って連日一緒の仕事で、しかも今なんてロケバスの中に二人きり。
今日はレギュラー番組のロケに来ていたのだけれども、生憎の雨でこのまま収録が続けられるかどうか微妙な状況だった。
今スタッフが天候の様子を見ながら検討中らしく、今回のロケを担当することになっていた横山と錦戸はロケバス内で指示が出るまで待機ということになったのだが・・・。

中止にするならはよしてくれ。
錦戸はまたも内心だけで愚痴めいて思う。
どうかしているくらいに出来すぎたシチュエーションは、けれども今の錦戸にとっては不都合としか言いようがない。

錦戸は昔から横山のことが好きだった。
恋していたと、そう言ってよかった。
それは純粋無垢な恋心でもあり、同時に抗えぬ衝動を伴う欲求でもあり。
出逢った頃は幼かった少年が時と共に青年へ、更には大人へなっていく中で、それはいずれ我慢出来なくなるだろうと錦戸自身にも判っていた。
もう純粋無垢なあの頃ではないのだ。

抗えぬ欲求を抑え込むことなど所詮は出来はしない。
それを身を持って知ってしまっただけに、錦戸はもう後戻り出来そうになかった。
だってもう触れてしまったのだから。
この手で。
記憶こそない自分が情けないけれども。
確かにこの手で、唇で、あの白い肌に一度痕を刻みつけてしまったのだから。
一度甘い蜜を知ってしまったらもう戻れない。
もう一度その甘さを確かめたくなる。
忘れろなんて無理な話だ。

事実この三日間錦戸は以前にも増して横山を意識するようになってしまった。
自分でも無意識の内に横山の姿を探し、目で追って。
誰かと話して笑っている横山を見ては、その服の下にある白い肌には未だ自分のつけたあの赤い痕が残っているんだろうか・・・なんて。
そんな妄想めいた思考をしては何だか堪らない気持ちになって目を逸らす。
その繰り返しだった。

「・・・」

そしてまた今はたとする。
気付けば横山を盗み見ていた。
いい加減頭がいかれてきていると思う。
携帯ゲームのディスプレイを凝視するあまりうっすら開いた唇に目が釘付けだなんて。
思春期の子供じゃあるまいしと錦戸はこっそりと息を吐き出すと、無理矢理目を閉じてシートに預けるようにして身体を倒した。

スタッフが指示に来るまで寝ていよう。
どうにもこうにも不健全極まりない。
たとえ一度抱いたとは言え、それはあくまでも酒の上での過ちでしかなく。
いくら自分が好きでも、たとえその時の行為に何らかの合意があったとしても、その身体に痕を刻んだとしても。
所詮自分のものになったわけではない。
なるはずもない。
そう、彼も忘れろと言ったではないか。

錦戸は自分自身に言い聞かせるようにして意識を深く沈み込ませようとする。
このまま眠って、全てなかったことにしてしまえれば。
それが一番いい。
そうすれば元の兄と弟のような関係に戻れるはず。
・・・正直、錦戸はもうそんな関係では満足出来ないと痛い程に判っていたのだけれども。
たとえ酔っていて記憶はなくとも、その時の自分が何を考えてどう思って行動を起こしたのかくらいは判る。
自分のことなのだから判る。

なかったことになんてしたくない。
忘れることなんてできない。

結局最後はそういう結論に至ってしまいながらも、それでもせめて今はと錦戸は無理矢理眠ろうした。
けれども横になって目を閉じていた錦戸の耳にふと何か身動ぐような気配がする。
今このロケバス内は二人きりなのだから、当然それは横山で。
ゲームに飽きて外にでも出るつもりなんかな、とぼんやり考えた錦戸の思考を裏切るようにその気配がすぐ傍まで近づいてくる。
目を閉じたままながら内心緊張する錦戸を後目に、思う以上に近い耳元で声がした。

「・・・錦戸?」

窺うような声音。
上から覗き込まれているような気がする。

「錦戸?・・・寝てるん?」

確かめるような疑問系の言葉は、そのせいもあってか舌足らずな口調をやけに印象づける。
子供が言うみたいなそれが何だか稚くて、少しだけ頼りなくも感じて。
錦戸は目を開けて声をかけてやりたくなったけれども、狸寝入りをしていたと思われるのはなんだかばつが悪いからとそのまま何も応えなかった。
するとすぐ傍まで来ていた気配が更に近づいてくるのが判った。
これ以上なんてもうありえないと何処か決めつけて思っていただけに、錦戸は思わず声を漏らしそうになってそれを我慢しなければならなかった。

「・・・にしきど、にしきど、」

なんなんだ。
一体何の用事なんだ。
用があるなら無理矢理にでも起こせばいいのに。
普段ならば相手が気持ちよく寝ていようが絶対にそうするくせに。
何故そんないつも通りの行動も取らず、そんな聞いたこともないような頼りない声で自分を呼ぶのか。
起きて欲しくない、けど起きて欲しい、そんな矛盾した声。

錦戸は内心混乱を来しながら、それでもなんとかそのままやり過ごしていた。
既に自分のすぐ上に気配を感じながらも。
それでも何も応えなかった。
あんたが忘れろと言ったんだ、そう半ばふて腐れたようにも思いながら。

けれどもやはり無理だった。
無理に決まっていた。
忘れることなんてできない。
一度触れてしまったら、もう忘れることなんて不可能だ。
そして横山とて本当に忘れさせる気などあったのだろうか?
錦戸にはもうそれ以上を考えることなど出来なかった。

「亮・・・」

だってその唇が、おもむろに錦戸のそれにやんわりと重ねられたから。

躊躇いがちなそれは、本当に触れるか触れないかくらいの微妙な加減で。
確かに眠っていたら気付かなかったかもしれない、その程度の。
けれど思う以上に柔らかい。
それはもう初めての感触ではなかった。
錦戸はそれを既に知っていた。
そう、それはあの三日前の夜に。

そしてその感触から、錦戸は断片的に思い出し始めていた。
あの夜のこと。

酩酊して意識も朦朧とベッドに転がる錦戸を、やはりこうして上から覆い被さるように覗き込んで。
錦戸に、そして自らに、言い聞かせるように。
何処か必死で、いっそ泣きそうなくらい必死な顔だった。


『亮・・・忘れてええから。明日になったらおまえは全部忘れてええから。せやからな・・・いっかい、だけ・・・』


そんな、罪悪感でいっぱいのキスだった。
朦朧とした頭では何故横山がそんな顔をしてそんなことを言うのか判らなくて。
でも、それでもなんだか放っておけなくて。
忘れていいなんて、一回だけだなんて、言って欲しくなくて。
自分はもっともっと触れたい。
ずっと触れたくて仕方がなかった。
だから、もっとこっち来てや、と。
既に呂律の回っていないような口調でそう言って、抱き寄せた気がする。

あの時錦戸の手はアルコールのせいで随分と熱を持っていた。
けれど抱き寄せた横山の身体もやはり熱を持っていたように思う。
思い返せばあの夜横山はさして酒を飲んではいなかったし、ほとんど酔ってもいなかったというのに。
その身体が熱を湛えていたのはどうしてだっただろう。
錦戸は思い起こす。
自分の熱が伝わってしまったから?
それとも・・・。

「よこやまくん・・・?」
「にしき、ど・・・」

ゆっくり目を開けると驚愕した瞳とかち合った。
まさか起きているとは思わなかったのか。
横山は必死に言い訳を考えているようで、視線を逸らして薄く開いた唇を忙しなく動かして何とか言葉を紡ごうとしている。
そして慌てて離れようとするのを引き留めるように腕を掴んで、自分の方に引っ張った。
何をしているのかと咎められこそすれ、まさかそうされるとは思っていなかったらしく。
横山は、シートに横になった身体に覆い被さるような体勢で錦戸を見下ろすことになる。
それは三日前の夜と同じだった。
あの時の錦戸は酔っていて、横山は泣きそうな顔で。

今の錦戸はもう酔ってはいない。
けれどやはり横山は泣きそうな顔をした。

「錦戸・・・」

罪悪感でいっぱいの顔だ。
まるで許しを請うように頭を垂れる。
錦戸の視界には薄金茶の髪が揺れる。

横山は一体何を許して欲しいのだろう。
そもそも、一体何を罪だと思っているのだろう。
錦戸はやはりあの時の同じように訊いた。

「なんでそんな顔、するん?」

そう言って抱き寄せて、覗き込む。
そろりと頬に触れてみる。
今の錦戸はもう酔っていない。
それでもやはり横山の肌は熱を持っていた。
触れる先から熱を持っていた。

近づいた距離で、横山のシャツの開いた胸元から素肌が覗いている。
錦戸の瞳がその白い肌に未だ残る赤い痕を一つ見つけた。
まだ痕が残っている。
痕が残りやすい肌なのだろう。
ああそういえば、唇を寄せて吸い上げただけで、その度小さく震えていた。
皮膚が薄いのかもしれない。
それだけではないのかもしれない。
もしかして他の部分もまだ残っているんだろうか。
確かめてみたい。
もしかしたら、この身体は、この人は、もしかしたら・・・。
錦戸は三日前の夜のことをひとつまたひとつと思い出しながら、誘われるようにその手を開いた胸元に伸ばすと、するりとボタンを一つ外す。

「ま、待て錦戸・・・寝ぼけてんのか・・・?」

横山は狼狽える。
自分からキスなんてしておいて今更。
あの夜だってそうだった。
自分から服を脱いで、酔った錦戸の服も脱がせて、跨るように覆い被さって、キスをして。
そのくせ酩酊した錦戸が自分から触れればその度に震えていた。
でも何処か嬉しそうでもあった。
錦戸の酔った唇がただ本能のままにその肌に痕を刻んでも、それすらも幸福だとばかりにされるがままでいた。

「・・・横山くん?」

忘れたりなんかしない。
ひとつひとつ思い出す。
なかったことになんてさせない。

「もっかい、しようや」

忘れたりなんかしない。
ひとつひとつ思い出す。
忘れたりなんかしない。
熱を湛えたその身体だけが憶えているだなんて、そんなことはさせない。



横山は自分に伸びる手にただ目を細めて一度ふっと閉じて。
自分の両手でそれを取ると、ゆるゆると愛しげに唇を寄せる。
それは愛の告白のようで、同時に懺悔のようで。

「俺・・・よくばりやわ・・・」

何が欲張りなのか。
そもそも横山の欲とは何なのか。
もう一度取ってしまった手は、もう二度と離せないかもしれない。

横山は呟くように思い起こす。
三日前の夜を。
そして錦戸に秘めたる恋をしてきた今までを。










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(2005.10.20)






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