泡沫 5
錦戸はマスターにもう一杯グラスを頼むと無言でそれを横山に寄越した。
それに特に礼を言うこともなく、横山はグラスの中で氷を一度転がしてから小さく口を付ける。
濡れた唇が笑むように撓んだ。
「私が知っている情報は全てあなたに差し上げましょう。
それをどう料理するかは・・・錦戸さん、あなたの腕次第ですよ」
「それはありがたい。願ってもない話だ。・・・ではあなたの方の条件は?」
横山の一挙手一投足すら見逃さぬようにとじっと見つめる錦戸に、切れ長の瞳は伏せ目がちにゆるりと瞬く。
先ほどの何処か拒絶するような空気はなくなっていた。
それは何がきっかけだったのかは錦戸にも判らなかったけれど。
「そうですね・・・まぁ、あなたが満足するまでをお話してから、言うことにしましょうか」
「それでは条件にならないでしょう」
「大したことではありませんよ。たぶんあなたは頷いてくれると思いますし。
・・・もしもそれが嫌なら、今回のことは全てなかったことにしていただきます」
「・・・わかりました。では、始めましょうか」
錦戸は内心で軽く舌打ちする。
横山の言動も態度も雰囲気も読めないことが多すぎる。
ビジネスと言うからにはそこには対価に見合うべき条件、そして駆け引きがあって当然。
そしてある意味でその「対価に見合う」という枠の中に全てが収まっているからこそ、あらゆる計算や策略というものを働かせることが出来る。
もちろんそれはやりとりをする相手の技量によってどれだけ自分に有利に出来るかは変わってくる。
確かにその意味では横山は決して容易い相手ではなかったけれど、ここまで読めないこともなかった。
今回そこには駆け引きがあるようでいて、実はほとんどないも同然だったから。
錦戸が満足するまで話すというのは完全に主導権を錦戸に委ねたも同然。
もちろん後に提示されるという条件はまるで判らないだけに気になるところだけれど。
既に錦戸が望むもの全てが差し出された後でどんなものを突きつけられようと、何も怖いことなどありはしない。
この世界で口約束程脆いものはない。
俯き加減に翳るその白い顔に何処か今までにないような空気を感じ取りながらも、錦戸はそれが何であるかまでは思い至らない。
けれどそれは暫し頭の奥に追いやった。
それは今考えるべきことではないと思ったし、何よりそれは話を聞いていけば判ると、妙な確信も何処かにあった。
錦戸は細い指先で再び自分の手帳を取ると後ろの方のページを開き、そこにある走り書きを読んだ。
「大倉忠義、現在21歳。ダウンタウンにある町工場経営者の次男として生まれる。
家族構成は父、母、兄、妹。10歳頃から町の不良共とつるむようになり、12歳の時にある1つのグループに所属。
その長身と身体能力から特攻隊長の役割を務める。ちなみにその頃丸山と出逢う。
16歳の時に他グループとの抗争で一度警察に補導される。その時点で父親からは勘当。その抗争を機にグループは解散。
同じく行き場を失った丸山と二人日々暴力と窃盗を繰り返す中、ある日ロードランニング中の、今は亡き天才ボクサー渋谷すばるに拾われ、ジムに入る。
・・・まぁ、いくら腕は立っても所詮チンピラみたいなものですし、歳も歳ですからね。本気でボクサーを目指すには遅い。
実際には本当にボクサーとして上を目指すというよりは、トレーニングコーチとしての役割の方が大きかったようですが」
淀みない調子でそこまで言ってから、錦戸は一度言葉を切る。
正直錦戸は大倉にさしたる興味は持っていなかった。
渋谷の連れの一人くらいの印象だった。
いかにも腕が立って喧嘩っ早いチンピラ。
今もそれはさして大きくは変わっていない。
けれど錦戸は今、そのさしたる興味を持っていなかった人間をきっかけとして、大きな獲物を捕らえかけていた。
逃がす気は毛頭ない。
錦戸が次のページをめくると同時、横山はまたグラスに口をつける。
さして退屈げというわけでもなく、何事かを考えるような面もちで視線を落としていた。
「それからはあなたもご存じの通り、仕組まれた試合で渋谷が死に・・・」
カラン、氷が溶けてグラスの底に落ちる小さな音。
特に身動いだわけではないようだったけれど、横山の指先からは確かにその時音がした。
錦戸は小さくその表情を窺う。
ついでに表情にも何かしらの変化があったなら・・・何か面白い記事が書けたかもしれないのに、と錦戸は軽く肩を竦めた。
実際にはその白い顔は微動だにしないのだったけれど。
「渋谷の弟は兄から心臓を受け継ぎ、ボクサーとして世界を目指してめきめきとその頭角を現している。
その背後には熱心にバックアップするコーチ陣・・・かつて渋谷に拾われた安田、丸山、大倉の姿があった。
泣かせる話じゃないですか。・・・ねぇ?」
「・・・そうですね」
「民衆はこの手の美談が大好きですからね。全国から渋谷の弟にエールが届いているようですよ」
「それは結構なことで」
「まったくです」
冷めた声で交わされる会話は内容との温度差が明らかで、まるで別世界のことを話しているかのようだった。
ただ錦戸にとってはあくまでも内容などはどうでもいい話。
民衆が喜ぶのなら、錦戸も喜んでそれを書く。
ネタとして売れるかどうかだけが大事だった。
けれど横山は少し違うと、錦戸はそう感じていた。
錦戸にとってそれは別世界の話。
けれど横山にとっては、それはたとえて言うなら地上の話。
暗い地の底から見上げた地上の話。
錦戸は漠然とそんな風に感じていた。
トントン、と煙草の灰を落とす度に滑らかに動く白い指は錦戸が出逢った頃から変わらない。
きっとその美しいそれに堕とされ、消されてきた人生は数え切れないことを錦戸はよく知っている。
・・・けれど逆を言えばそれだけ。
それ以外のことは何一つとして知らない。
「・・・話を本題に戻しましょうか」
錦戸は自らも胸から煙草を取り出した。
夜は長くなりそうだった。
NEXT
BACK