泡沫 6
「二週間程前になりますか、渋谷の弟が他ジムの新人と練習試合をするというので取材がてら見てきたんですよ」
その日のメモのあるページを探し当てると、そこには確かに渋谷の弟の試合内容、その時の様子、結果などが事細かに書きこまれていた。
けれどそれよりも、ページの一番下に書きこまれていた一文は他のものより少し荒く強い筆圧で書かれていて一際目を引いた。
たった一文ながら渋谷の弟の試合のことなどよりも余程重要であるかのように。
『大倉 眠ったまま 三日間(渋谷と会った?←幻?) 謎の薬←横山?』
他人が見ても今ひとつ理解できないだろう走り書き。
それを改めて眺めながら、錦戸はその日のことを思い返す。
「でもね、大倉忠義、その日いなかったんですよ。渋谷の弟の試合当日だっていうのに」
特に捜したわけでもなかった。
けれどいつもセコンドを務める安田の傍らに佇んでいる男の姿は、その目立つ長身のせいもあって否が応でも常に目に付いた。
だからこそ自然とその不在に気付いた。
「安田章大に訊いてみたら単なる体調不良だと言われました。
特にそれ以上何を訊く気もなかったんですが・・・偶然ね、ジムの他のスタッフが話しているのを聞いてしまったんですよ。
つくづく自分はこの職業向きの強運の持ち主だと思いました」
見ればそのページには開き癖がついてしまっていた。
何度も触れたせいなのか文字のインクすら既に滲みかけている。
薄暗い照明がそれをぼんやりと浮かび上がらせた。
「僕が見に行ったその日の前日まで、大倉は眠ったまま丸三日間目覚めなかったって言うんですよ。
見に行った日もまだ本調子ではないから休んでいるらしい、と。
・・・おかしな話ですよね。そんな病気今まで聞いたことがない。大怪我でもした後ならともかくとして」
錦戸は特に横山の方は向かなかった。
既にそちらを見ずとも、その意識がこちらを向いているのがありありと判ったから。
錦戸はこのヤマが自分の予想以上に大きく、そして自分にとってとても重要なものになるであろうことを予感した。
二人の間にある灰皿は今や錦戸しか使っていなかった。
「眠ったまま目覚めない謎の病?もしかしたら何か新種のものかもしれない。調べれば何かいい記事になるかもしれない。
そう思った矢先でしたよ。そんなことよりも余程衝撃的な内容を聞いたのは」
手にしていたまま、ただチリチリと緩慢に焦げていくだけの煙草。
いつの間にか長くなってしまった灰を一度に落とす。
すると一気に短くなった煙草を見て、それに飽きたように錦戸は灰皿へと放った。
「三日間の謎の眠りに入る、その前夜。
ジムにふらりと現れた大倉は酷く憔悴した・・・スタッフの話によればどこか茫洋とした様子だったようで。
何を話しかけてもまともな返事は返ってこなかった。けれどただずっと繰り返していたそうですよ」
錦戸の指から放り捨てられた煙草はもみ消されることがなかったから、今も灰皿の中でチリチリと焦げ続けている。
やがてその姿をなくしていくまで?
けれどなくしても灰は残る。
人もたとえ死んだとしてもその後に何かが必ず残るのだろうか。
たとえば他人の記憶に。
たとえば弟の心臓に。
「ただ一言・・・『すばるに会った』、とね」
たとえば、誰かの望みの中に。
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