泡沫 8
「錦戸さん、あなた大倉さんからどこまで聞かれましたか?」
うっすら撓んで照明に光るその濡れた唇。
いつも女みたいに艶やかなそれは、けれど飾り立てた女のそれとは違う、生まれ持った魔性を感じさせる。
錦戸は何度かの肉体関係の中で実際の感触を知っているだけに、余計リアルにそう思った。
「どうでしょうね。とりあえず、彼自身は知っていることは全て話したと言っていましたが。
ただそれも実際のところ本当にそうなのかは判らないし、何よりもしそれが本当だとしても・・・彼が事実の全てを知っているとも、限らない」
「そうですか・・・では、どこからお話ししましょうか。難しいですね」
「いえ、そう悩む必要はありません」
先程錦戸が煙草を放って置き去りにされていた灰皿。
煙草は既にほんの僅かな長さを残して灰となってしまった。
既に煙すら発さなくなったそれを錦戸は最早無用とばかりに向こう側に退け、じっと強い眼差しで横山を見つめた。
「あなたが知っていること、全て話してくれればいい」
横山はそれに小さく目を細めてうっすらと笑んだ。
どことなく満足げに。
何を満足したのかは錦戸にはよく判らなかったけれど。
「・・・それがあなたの望むだけの全てですか?」
「お話いただくまでは言い切れませんが、そうなりますね」
「判りました」
横山のグラスの底にはまだ僅かに酒が残っている。
けれど暫し放置されたそれはすっかり氷が溶けて薄くなり、恐らく飲めた代物ではなくなっていただろう。
それでも横山は気にした様子もなくそれに口を付け、味わうように、また同時に舌を潤すように、ゆっくりと口に含んでから飲み干した。
錦戸は緩い喉の動きをじっと見つめながら、もしかしたらそれを今日最後の酒にするつもりなのかもしれない、と頭の隅で思った。
「・・・彼に会ったのはほんの偶然でした。
あの時私は先を急いでいたので、そういう意味ではあまり出会したい人物ではなかったんですが」
その時のことを思い出しているからなのか。
白い顔は何かを嘲るように小さく歪んだかと思うと、深く息を吐き出した。
その唇の端はまたもうっすらと上がる。
けれど対照的に目は緩く伏せられる。
横山の中の感情の波が僅か垣間見えた気がした。
「とっくに忘れていましたよ。いや、最初から憶えてすらいなかった。
・・・あの日はちょうど、渋谷すばるの命日だったんです」
白い手を自分の目の前にゆるりと掲げ、それをじっと見つめてまるで他人事のように呟く。
「現実はどんな素晴らしい映画のどんな名優の演技にも勝る。
人の感情にはそれだけの力がある」
白い、白い、その手。
けれど当の本人の目には、それは一体何色に映っているのだろう。
ただ生白さだけを浮かび上がらせる照明の明かりなど、何の役にも立ちはしない。
「もしも憎しみで人が殺せたら・・・私はあの時あの瞬間、彼に殺されていたでしょうね」
横山は不意にふっと遠くを見る。
何処か遠い所になくした何かを懐かしむような様子で。
そしてそれがもう二度とは取り戻せないことを知っている目で。
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