泡沫 9










その日横山は急いでいた。
いや、急いでいるなどという生やさしいものではなく、一分一秒でも早くそこを離れることで必死だった。
仕立ての良いスーツに身を包んだ身体を珍しく酷使して走る。
きっちりとアイロンのかけられた背広にはいくつもの皺が寄り、黒光りする革靴は既に泥に汚れてしまっていた。
こんなに息切らせて走るのは一体いつぶりだろうかと考える。
恐らくはまだ将来のことなど何一つ考えず無邪気に遊んでいた、誰にでもあるような、横山にとてあった、そんな幼い頃以来だろう。

後ろから追ってくる足音は何時の間にかなくなっている。
けれど油断は出来なかった。
いくら裏世界に片足を突っ込んでいるとは言え、それでも横山は所詮は一介の映画プロデューサーに過ぎない。
いわゆる「本物」の人間に追われて逃げ切れる自信はなかった。
既に辺りは薄暗くなり始めていた。
太陽が姿を引っ込め、代わりに月が現れる。
夜の闇が辺りを覆う。
それに飲み込まれるようにして人通りは少なくなっていく。
既にこの裏通りに限って言えば人通りなど皆無になりつつあった。
この闇は裏の人間にとってみれば紛れもなく利だ。
もちろん横山にとっても利になる部分はあったが、やはりそれは横山以上に裏の深い部分に住む相手方に有利だった。
このままでは逃げ切るどころか既に生きて帰ることすら危うい。
横山は普段身体を酷使することなどほとんどなかった。
皮肉なことに、人を使うことはあっても使われることなどまるでない職業柄が祟ったとしか思えない。
悲鳴を上げ始める脚を叱咤して、横山はそれでもひたすらに走った。
既に路地裏の何処を走っているのか自分でもよく判らなくなっていた。
体力の消耗が頭の回転も鈍くしているようだ。
その事実を実感すれば自然と横山の額に一筋の汗が伝う。

せめて表通りに出てなるべく人の多い場所に出なければ。
そうして人に紛れて帰らなければ。
一旦帰れれば後は何とかなる。
横山は自分の胸に手をやってぎゅっと掴んだ。

一つ大きく息を吸い込んでいくつめかの角を曲がった瞬間、何か大きなものとぶつかった。
横山の身体はその反動と疲れとで大きく揺らぐ。

「・・・っ?」

何とか倒れ込むことだけは避けた。
すぐさま後ずさりながら相手の姿を確認する。
もしもそれが追っ手だったなら、ほぼ終わりだ。
けれど違った。
ぶつかった横山がよろめかされるような、大きな身体。
それは横山が見知った、けれど予想だにしなかった人物。

「お前・・・横山・・・」

低くぼそりと呟くようなその声は妙に落ち着いている。
元々感情が表に出にくいタイプの人間だということは知っていた。
だから横山にとってはむしろ、その涼しげな瞳が自分の存在を認識した瞬間に隠しようもない憎しみを湛えた、そのことに新たな危機感を覚えさせられた。
追っ手ではなかった。
けれど安心できるような状況でもなかった。
それはまだ少しはまし程度のもので。
実際にはあまり大差ないとも言えた。

「・・・お久しぶり、ですね。大倉さん」

何とか息を整えて。
横山は辺りの気配に神経を研ぎ澄ましつつも、目の前の相手に意識をやらねばならなかった。
早くここから逃げなければならないというのに。
どう考えても今大倉が横山をこのままどうぞと言って逃がしてくれるわけがなかった。
大倉は横山の今の状況など何も知らない。
よしんば知ったとしても、それは彼にはまるで関係のないことで。
大倉にとって横山は自分から大事な人間を奪った憎き相手でしかない。
その涼しげな瞳の奥にある暗い憎しみの炎は、あれから何年も経った今でも少しも揺らぐことはなかった。

「横山裕・・・まさかこんなとこで、しかも今日・・・会うとは思わんかったわ。なぁ・・・」
「そう、ですね・・・」

口調はやんわりと穏やかだけれど。
その奥に秘められた憎しみと、そしてゆらりと自分に近づいてくる長身に、横山は小さく唾を飲み込んだ。
焦りを相手に気取られるわけにはいかない。
けれどこのまま逃げるにはどうしたらいいのか。
横山に今出来るのは踵を返して走るか、大倉の脇をすり抜けて走るか、もしくは・・・。

「・・・これも天の巡り合わせっちゅーやつなんかな。
今日お前に会ったんは、・・・すばるが、導いてくれたんかなぁ」

横山が一歩後ずさる。
逃げるとしたらやはり後ろしかなかった。
けれど実際のところはそれも無理だった。
他ならぬ目の前の相手が、それをさせまいと自分で意識してしまったからだ。
所詮、チンピラ程度。
けれどかつては町の不良グループの特攻隊長を努めていたその身体能力は伊達ではない。
今まさにこのような場において言ってみれば、逆に所詮プロデューサーなどという頭しか使うことのない職を生業としている横山が逃げられるはずもなかったのだ。
大倉の長い腕が一気に伸びて横山の襟首を掴み上げた。

「・・・っ」
「なぁ、お前は知らんやろ?今日が何の日か」

落ち着いて穏やかな声音はだからこそ、その奥に潜む憎しみを静かに滴らせている。
首元を圧迫される苦しさに小さく眉を顰めながら、横山はそれでも相手を刺激しないようにと黙って相手を見つめた。

「今日はなぁ、すばるの命日やねん。・・・お前があの日殺した、渋谷すばるの、な」

自分の襟首を掴んだ大倉の手が一瞬震えたことに横山は気付いた。

殺される気など毛頭ない。
けれど今自分を追ってきている連中と、目の前の男と。
もしもそのどちらかに殺されなければならないのだとしたら。
少なくとも後者には自分を殺すだけの理由が確かにある、そう思った。

夜はそれでも静かに深まり、二人を飲み込もうと広がっていく。










NEXT














BACK