泡沫 11










その瞳の奥はまるで深淵な沼のようだ、と大倉は思った。

出逢った時から何処か読めない不気味な男だと思っていた。
人の弱味に平気でつけ込む嫌な奴だと思っていた。
けれどこんなにも近い距離では初めて見たからだろうか。
久方ぶりに会った横山は、以前よりも更に違う印象を大倉に与えた。
その静かで底が知れなくて、暗い、様々なものを飲み込んでただそこにあるような微妙な光彩の瞳は、けれど僅かな月明かりの加減だろうか、何だか妙に綺麗にも見える。
ただそれは決して感嘆を持って賛辞すべきものでは決してなく。
ふらりと誘われて近寄ったら身を滅ぼしかねない、そんな毒とも魔性とも言える美しさだと思った。
そして瞳だけではない。
その甘い毒を連想させる唇は今、大倉が耳を疑うような言葉を紡いだのだ。

「どういう意味や」

ただ低くそう返せば、横山は艶やかな唇の端をやんわりと上げてその白すぎる右手をそうっと大倉に伸ばす。
大倉は何かされるかと思いそれを反射的に掴むと、ギリっと力を込めた。

「・・・どういう、意味や」
「痛いですよ、大倉さん」
「返答によっては、へし折るで」
「怖い台詞ですね。あなたが仰るとシャレに聞こえませんよ」
「せやな。シャレやないからな」
「・・・言葉通りです。あなたに彼を返してあげますよ。・・・今だけね」
「・・・殺されたいみたいやな?」

今の大倉にとって、この男に渋谷のことを出されること程はらわたの煮えくりかえることはなかった。
それはそうだ、渋谷を殺したのはこの男なのだから。
自分から渋谷を、自分の生きる目的を奪ったのは、この横山裕という悪魔のような男なのだから。
それを今更返すなどと、大倉の神経を逆撫でしたいとしか思えない発言だった。
本気で手首の骨が軋む音を聞かされて、さすがに横山も痛みに顔を顰める。
けれど何とか逆の手でスーツの内ポケットを探ると、小さな何かを一つ取り出した。
大倉は当然それに気付く。
一瞬何か凶器かとも思ったが、よく見ればそれは極々小さなカプセルだった。
いわゆる市販の風邪薬のようなよくある形状。
片側が透明、もう片側がまるで血のように赤い、そんなカプセル。
その意味が判らなくて一瞬眉根を寄せる大倉に、その白い左手はカプセルを躊躇なく自らの口に運び、押し込む。

「・・・?」

それを見ていた大倉は、それでも掴んだ右手は離さなかった。
抵抗されたって逃げられぬように。
何か攻撃を仕掛けられても対処できるように。
けれど次に横山がとった行動はさすがに予測出来なかった。

さっきのカプセルを口に含んだまま、柔らかそうな唇がゆるりと撓む。
そして闇夜に白く浮かび上がる顔が大倉にゆっくりと迫ると、その白の中で唯一主張する赤い唇は大倉の薄いそれをやんわりと塞いだ。

「ん、・・・っ?」

咄嗟に空いていた左手で横山の肩を掴んで離させようとするけれど、遅かった。
あまりにも柔らかで、甘く、蠱惑的な唇は力では抗えぬ魔力を持っていた。
大倉は咄嗟に掴んだ肩をそのままに、硬直したようにその唇を受け入れてしまう。
そしてまるで絡みつくような柔らかな唇は口内で溶かしたカプセルをそのまま大倉の口内に移した。
甘い、まるで蜜のような何かが口内に入り込み、そして喉を通り落ちていくのを感じた。
そこでようやく何とか身体を振り切るように離させた。

「はぁ・・・っ!」

毒だったか、と大倉は眉根を寄せて喉元を押さえた。
確かに身体能力で明らかに劣っている横山が武器に出来るとすればこの手のものしかない。
大倉は何とかそれを吐き出そうとしながら、きつい視線で横山を睨め付けた。

「お、まえ・・・」
「そんな怖い顔しないでください。毒を飲ませたわけでもあるまいし」
「なに・・・?」

毒じゃない?
そんなこと信じられるか。
じゃあ今のは何だと・・・そう言いかけた大倉は、けれどそれ以上の言葉を何一つ紡げなかった。

「あ・・・っ?」

今さっき喉の奥に流れ込んだ甘い蜜のような何か。
その艶やかな唇から注ぎ込まれた毒のようなそれは、けれど毒ではないと目の前の悪魔は言っている。
所詮悪魔の言うことだ、信用なんてできるはずもない。
けれどそう正常な思考ができたのも、そこまで。
大倉はその甘い蜜が自分の脳内にまで広がって、犯していくのを感じていた。

「・・・ぁ、うあ・・・」
「・・・始まった、か」

小さく呟かれた言葉も、既に聞こえるだけで理解も反応も出来なかった。
頭の中焼け付くような感覚。
そして思考ままならない感覚。
けれどそれでも意識は依然としてある。
霞がかったような視界の先には、未だ右腕を掴んだままの横山がいる。
けれど段々とその横山の姿すらもぼやけてくる。
頭以外の身体の感覚は至って正常なのに、何故か頭だけがおかしかった。
妙に重たいような微睡んだような、この感覚。
まるで極度の眠気に襲われたような。

「な・・に・・・を、」

何をした、と。
その問いも最早形にはならなかった。
ふわふわと揺れるような意識の奥。
大倉にはもはや正常な思考が出来なくなっていた。
ただ一つのことしか考えられなくなっていた。
ただ一人求める人のことしか、考えられなくなっていた。

彼がいたから生きて来れた。
彼こそが自分の存在意義だった。


『返してあげますよ、今だけ。どうぞいい夢を』


囁くような悪魔の言葉は甘美な響きを持って大倉の頭に反響する。
そしてそのまま甘い毒に犯された脳に溶けるように、消えた。

「あ・・・」

未だ霞みがかった視界。
大倉がそこに見たものは。

「え・・・?」

自分に笑いかける大きな瞳。
意志の強さをその奥に秘めた、星のように煌めくそれ。
大倉が求め続けた、もう触れることも叶わぬはずのその締まった小さな身体が、確かにそこにあった。

もう何を考えることもできなかった。
麻痺した頭で、大倉はいつの間にかその細い右腕を掴んでいた。
いつのまに?

けれど、もういい、大倉はぼんやり思った。
なんでもいい。
もうなんでもいい。
こうして触れられるのなら。
もう一度愛しいこの身体に触れられるのならば・・・。

「すばる・・・」

それは、闇夜に浮かぶ甘い夢。










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