ねがいごとひとつだけ 1
「大倉ー、これ食うー?」
「ん、食う」
「はい。んまいで〜」
「んー」
テーブルに向かい合って座った大倉に頼んだ料理を勧めては、丸山は自らも一切れ口に運ぶ。
目の前で気持ちのいい食べっぷりを見せてくれる相手に終始笑顔を浮かべながら。
それを特に気にした様子もなく大倉は勧められた皿をペロリと平らげ、更に自分の元にあった皿に箸を伸ばした。
その黙々と食べる姿はさして珍しいものでもない。
特に丸山にとっては。
最近、こうして大倉から急に夕飯に誘われた日は大抵がこうだった。
「大倉ー、これ頼んでみてもええ?うまそうやねん」
「別にええで」
「んじゃ頼むなー。・・・すいませーんっ!」
人懐こい笑顔を浮かべて元気よく手を上げ、声を張る。
すぐさまやってきた店員にオーダーを頼む丸山の姿を大倉はチラリと一瞥しただけで、すぐさままた黙々と箸を動かす。
注文が終わった丸山は改めてその顔をじっと見つめてやはり穏やかに笑うだけ。
普段よりあまり喋ってくれないのはちょっとだけ寂しいけれども、そうやって美味しくご飯を食べてくれるなら、まだいい。
他ならぬ自分の前で。
「おーくらー」
「ん?」
そちらも見ずひたすら箸を動かす大倉にかかるのは明るい声。
ひたすらに努めて明るいそれ。
「元気出しー?」
「・・・何が」
「大丈夫やってっ」
「せやから何がやねん」
チラリと視線だけが丸山を向く。
それにへらりと笑いかける。
たぶん、本当は何も言わず何も聞かずただこうして夕食に付き合うだけでいいはず。
それこそが大倉の望んでいるもののはず。
丸山にはそれがよく判っていたのだけれども、それだけではいられなかった。
それは自分の気持ちってやつが「無償」なんていうものとは程遠いと知っていたからだ。
だからこうして本当は心にもない台詞を平然と笑顔で吐くのだ。
「横山くんやって、いつかはちゃんと大倉の気持ちわかってくれるて」
大倉は一瞬間を置いてから呆れたような顔をして再び箸を動かす。
「・・・アホか。根拠なさすぎ」
「でも、ほら、よう大倉のことメシ食い行こ、て誘ってくれるやんか」
「そらメシ友やし」
「きっと満更でもないねんてっ」
「お前単純やな」
「やって好きでもない人間を誘ったりせーへんやん?なっ?」
至って冷めた様子で皿の唐揚げを箸でつつく大倉を相手に、一体何をそんなに必死になっているのだろう。
空廻っている感はどうにも否めない。
丸山は当事者でもないのに毎度のことながら思う。
そう、自分は言ってしまえば所詮部外者なのに。
「せやからそこでほら、心の距離を縮めるていうかな?そんで大倉がもうちょっと頑張れば〜・・・」
唐揚げをもぐもぐと頬張った大倉がそれをゆっくりと咀嚼して、飲み込んで。
次いで静かに呟いた言葉はなんだか耳に痛かった。
部外者なのに、それでも。
「・・・何したって無駄。あの人には、亮ちゃんしか見えてへんわ」
「おおくら・・・」
「あの人の心ん中、亮ちゃんでいっぱい。ぜーんぶ、亮ちゃんやねん」
ふっと薄く笑うその顔は妙に綺麗で。見ていられなくて。
丸山は思わずビールを一気に煽って咄嗟に自分の表情を誤魔化した。
貼り付けた笑顔が一瞬崩れてしまいそうだったから。
大倉はグループに加入した時からか、横山に恋心を抱くようになっていた。
明るくマイペースで子供のように無邪気で、かと思えば面倒見がよく大人な面もあって。
その強さが大倉を惹きつけたし、同時にその脆さが大倉の心を離さなかった。
けれども大倉が想いを抱いた時から横山にの傍には錦戸がいて、その絆は二人の性質そのままに映し出したように、やはり脆くて強くて。
聡い大倉には最初からそれが判っていたから想いを伝えることなどしなかった。
ただ密やかに恋をしていただけだった。
「ええねん。別にどうこうしようなんてもう思ってへんし」
「でもっ・・・」
「ガラやないけど、まぁ、一緒にメシ食い行くだけでも結構ええかなて思うし」
そう呟くように言ってすっかり温くなってしまったビールに手を伸ばす大倉に内心、嘘や、と思った。
そんなのは嘘だ。
誰よりも好きな相手に、恋した相手に、ただ一緒にご飯を食べられるだけで、ほんの一時ふたりで何でもない時間を過ごせるだけで、それだけで、もう満足だなんて。
嘘だ。
自分じゃない誰かを見つめる相手を見つめる苦しさが平気だなんて、事実ふとした拍子に横山と錦戸が笑い合っているのをただぼんやりと眺めるのをこれでいいだなんて。
信じない。
丸山にはよく判っていた。
だって、大倉は横山を夕飯に誘って都合がつかなかった時、必ず丸山を代わりに誘うのだから。
「・・・でも俺、大倉に恋叶えて欲しいなぁ、て思う」
けれど言ってしまえば。
こんな自分の台詞が一番嘘だと思う。
「なんやねん。お前こっぱずかしいこと言うなぁ〜」
「でも、大切なことやで」
「まぁ、そうなったらええけど」
「なるて。大倉が頑張ればきっと・・・」
「まぁ、それなりには頑張るけど」
のんびりした調子で何でもないことのように言うけれど。
その恋が言いようもなく苦しいことを丸山はよく理解していた。
何故なら、丸山も同じだからだ。
自分じゃない人間を見つめる相手を想うことの苦しさ。
それでも想うことを止められない苦しさ。
想う相手に拒絶されたくないからと想いを秘める苦しさ。
思えばまるで漫画のような恋だと思う。
だってこんな絵に描いたような一方通行な関係なんて、早々ない。
丸山は大倉が好きで、大倉は横山が好きで、横山は錦戸が好きで。
漫画ならばドラマチックこの上ない恋愛モノだろう。
各々の心情が悲しくて、切なくて。
誰も悪くなんてない、と読者は様々な人間に共感して・・・。
でもこれは漫画ではなく現実で。
現実はリアル故に本物の痛みを伴う。
「あ、マル」
「んー?」
「これ、うまい」
「せやろ〜?俺のオススメやねん」
「んまい」
「もっと食ってええでー」
「食う」
もぐもぐと箸から煮付けを口に運ぶ大倉に再び笑顔を向けて、丸山は思うのだ。
こんな漫画みたいな恋、できればしたくなかった。
でも、してしまったら、あとはどうすればいいんだろう。
ページを閉じても心を閉じても逃げられない、このリアルな恋の痛みを。
「なー今日メシ行こ」
「ええですよー」
「うまい焼き鳥屋見つけてん」
「いいですねぇ焼き鳥」
「ほんっま、バリうまいで!」
「マジっすか?楽しみですわ〜」
撮影を終えて控え室に戻ったら、そんな会話が交わされていた。
よくある会話と言えばそうだったから特に耳を傾けるでもなく、丸山はさっさと自分の荷物が置いてある場所に行く。
かちっとした衣装をさっさと脱ぐことに神経を集中させていただけれども、何故か言葉は自然と耳に入り込んでくる。
意識が二人から離れない。
あかんなぁ、趣味悪いわ。
丸山は内心ぼやくようにそう思いながら手早く衣装を脱ぐと、今度はうってかわった緩慢な動作で私服を身につけていく。
耳には聞き慣れた声が舌足らずに響く。
それに穏やかに返される声も、また然り。
「そこなぁ、日本酒もうまいねん」
「日本酒かー。焼き鳥には合いますねぇ」
「せやねん。あの組み合わせはまずいねんほんま。せやからおまえも今日は飲めよ」
「あー、そうですね。うん」
「ほんまに飲めよ?おまえ弱いわけやないくせに、いっつもロクに飲まへんねんから」
「やー・・・そうでもないですって」
「あるわー。たまにはおっちゃんの酒につき合えよ」
「えー。やって横山くん絡むやないですかー」
「おまえがロクにつきあわんから絡むねん!」
「えー。なんや俺のせいみたいになっとるしー」
嬉しそうな声。
そう思うのは丸山が大倉の恋心を知っているからか。
それとも丸山が大倉に恋心を抱いているからか。
どちらにしろ不毛なことだ。
しかし何よりも不毛なのは、大倉が自分といる時は気にもせずよく飲むくせに、横山といる時はほとんど飲まないというその事実を知って、今更にショックを受けている自分だと丸山はぼんやり思った。
別に飲むも飲まないもどちらがいいとか悪いとか、そんなことはないのに。
ただ相手が想う人間と自分との明らかな違いを感じさせられることに未だ傷つく自分がいる。
言い出せもしない臆病者のくせに、傷つくことだけは一人前。
きっとこんな人間は漫画の中じゃ絶対に幸せになれないタイプだろう。
私服に着替え終わってさて帰ろうかと荷物をまとめる丸山を後目に、横山の携帯が鳴った。
元々電話もメールもほとんどしないような横着な横山だから、着信音なんてものも当然特には設定していないらしく、それはデフォルトのままの無機質なそれだ。
大倉との会話途中でそれに気付いた横山がめんどくさそうに携帯を手に取る。
けれどその表情もディスプレイに表示された名前を見た途端変わった。
丸山はそれだけでその相手が誰だか判ってしまった。
そしてすぐさま大倉の方を見る。
大倉もまた判ったようで、ふいっと自分の荷物の方へ行くと帰り支度を始めてしまう。
まだ横山との会話も途中だったというのに。
今日はもうその必要がなくなったとすぐさま理解したかのように。
「もしもし?・・・なに?どしたん?今東京やろ?」
その声が何処か柔らかく響く。
横山自身は判っていないのかもしれないけれど、彼がそんな声を向ける相手は一人しかいないのだ。
大倉にも丸山にも痛い程に判っている。
「え?なに?うそ、・・・ほんまか?え、じゃあもう大阪おんの?」
相手の声は聞こえないけれど、横山の反応で内容はだいたい推し量れる。
そして続く展開も何となく予想できる。
「はぁ?もうすぐ着くて・・・なんやおまえ、俺に迎えに来いって?おまえもえらなったなー!」
そう言って笑う横山の表情は随分と満たされているように見える。
言ってしまえば、幸せそう、な。
そこにひっそりと吐き出されたため息など彼には届きはしない。
それで当然。
「しゃあないなぁ。ったく、高くつくでー?・・・あ?
なんやいらんわそんなん・・・身体でお礼とかおまえシャレにならん感じするからやめろ。・・・じゃ、あとでな」
くすくすと笑って電話を切った横山が、次に大倉を見て言った言葉は既に予想済みの代物だった。
「大倉ー悪いっ、さっきの焼鳥屋、今度でもええか?」
軽く手を合わせてそんなことを言う横山。
それはこれが漫画の中であれば、罪な、ある種知らないが故に残酷な人物であると描写されるだろうか。
けれど現実にはなんでもないことでしかない。
自分が想う相手でもない人間に、しかもそれを知らないならばなおのこと、それ以上の気持ちを使う必要などどこにもないのだ。
それで当然だ。当然なのだ。
大倉はよく理解しているから、ふっと笑ってこくんと一度頷くだけ。
「あー、全然。じゃあまた今度ってことで」
「ほんま悪いな〜。今度おごったるからな」
「あ、ほんまですか?楽しみや〜」
そう言って今度はもっと柔らかく優しげに笑ってみせた大倉と、そしてそれをぼんやり眺めていた丸山と。
微妙な距離にある二人に何でもなく声をかけてから横山は控え室を出て行った。
互いだけが取り残された部屋で、二人は暫し無言だった。
丸山はもう帰り支度を終えてしまっていたからいつでも帰れる状態だったけれども、何となく今出て行く気になれなくて。
かと言ってこのままでもいづらくて。
気が付けば荷物を持った掌がしっとりと汗をかいていた。
「・・・なぁ」
不意に口を開いたのは大倉だった。
その静かな口調に丸山はゆっくりと視線をそちらに向けた。
大倉は既に丸山をじっと見ていた。
目が合ったその瞬間丸山は、ああ、とまたほんの少しだけ傷ついた。
その穏やかな瞳の奥には、今さっき横山に向けていたような優しい色はなく。
なんだか、ただ置いて行かれた子供みたいな悲しい色・・・。
「メシ、行こうや」
大倉が悲しそうな色の瞳でそう言うから。
笑って、笑って、それを貼り付けて言うしかできなかった。
そう、いつものように。なんでもなく。
「おん。行こ」
誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。
それが恋の辛さで切なさだ。
恋愛漫画はドラマチックに感傷的に、時に共感を求めてそう言う。
でもそんなのはいらないのに。
本当はそんな恋なんてしたくなかったのに。
進めない、戻れない、そんな恋など。
けれど手放せない。
だって、しょうがないんだ。
したくてしたんじゃないんだ。
それでも好きなんだ。
「・・・ほんで?マルちゃんはこないなとこで何をしてんの?」
「ごめんなさい〜」
「ちゃうでしょ。俺が聞きたいんはごめんなさいやないの。判る?」
「村上くんごめんなさい〜」
「マルちゃん、ちょお人の話ちゃんと聞きなさい」
「村上くんごめんなさい〜おこらんで〜」
とろけたような声で子供みたいにひたすらそう繰り返してはその場に蹲る。
村上はその様に盛大にため息をつくと、脇に停めた車のドアをバタンと開けた。
「・・・まったく。しゃあない子やなぁ。ほら、さっさと乗るっ」
「はぁい・・・」
少し酔っているせいか覚束ない足取りでとぼとぼと座席に乗り込んだ丸山を確認すると、村上は自らも運転席に着く。
しかしそのままぼんやりと窓の外なんか眺めている様子には更に深いため息が。
「ほら、シートベルトせぇ。そんで捕まったら困んの俺やねんから」
「あ、はい・・・えと・・・」
アルコールでぼんやりした頭ではそれすらもままならないのか、もたもたと手を動かすばかりで一向に装着できない様に仕方なしに手を伸ばす。
「・・・ほら。お前は酔うとますますなんもできんくなるなぁ」
「はい・・・ごめんなさい・・・」
「あーもうええわ。謝ることやないから。・・・それよりどしたん、お前」
その電話は唐突だった。
時間は既に深夜で、そろそろ寝ようかと思っていた頃合い。
どうにもこうにも申し訳なさそうな様子の、けれど確かに酔った声で丸山が告げたのは、端的に言えば終電で寝過ごした、ということだった。
あの後大倉と飲んで、家の遠い丸山は一人先に終電で帰る途中うっかり寝過ごしてしまい、気付いたらちょうど村上の家の最寄り駅だったらしい。
だから迎えに来てくれ、とまではさすがに言わなかったけれども。
電話してきたというのはつまりそういうことだろう。
そうして村上はため息をつきつつ駅までの道に車を走らせたのだ。
いや、迎えに行くこと自体はいい。
特に丸山などは未だ実家暮らし、つまりは京都に住んでいるのだからここからタクシーなど使ったら金がバカにならない。
それを考えれば最寄り駅に迎えに行くくらいは何でもないことだ。
一晩家に泊めてやるのも別にいい。
けれども、酔っているくせに何処か沈んだその声は、何も終電を逃して迎えに来て貰うという事態に凹んでいるからというわけではなさそうで。
村上は生来の面倒見の良さを早速発揮して色々と思考を巡らせた。
「なんかあった?」
そうストレートに訊ねてみる。
相手がそれではっきり言えるタイプの人間ではないと知っていながらも。
「なんか、て。なんです?」
「さぁ。俺はそれを訊いてんねんけどな」
「あ、そか・・・。や、別に、なんかて程のもんはあらへんていうか・・・」
もごもごと言い淀む様子をチラリと横目で見やってから、村上はエンジンをかけて夜の街を走り出した。
ロータリーを出る所にある信号はちょうど青に変わり、特に停止することなくその場をすり抜けるように進んでいく。
「大倉?」
「え・・・?」
「さっき一緒に飲んどったんやろ?」
「あ、いや、・・・はい、確かに飲んでました・・・はい」
咄嗟に何を否定しようとしたのか。
はたとしてすぐさまこくんと頷くと何処か落ち着きをなくす様に、村上は内心判りやすいと思った。
何かあったことだけはとても判りやすい。
その先の思考回路はどうにも探りにくいのだけれども。
暫しチラチラと窺いながら車を走らせる。
けれど丸山は何となく視線を判っているだろうに、敢えて気付かない様子でぼんやりしていた。
家までの距離を半分くらい来た所で、村上は仕方なしに話題を少しそらした。
言いたくもないことを無理矢理に聞き出すのは本意ではない。
「あいつの方はちゃんと帰れたんかな」
「えっ?」
「せやから、大倉。一緒に帰ったわけちゃうねやろ?」
「あー・・・はい。えと、なんやもうちょい飲んでくって言うて・・・」
大倉は特に変わった様子はなかった。
ただやはり少しだけ酒の量が多いような気はしたけれども、だからと言ってやけ酒なんて判りやすい量でもなくて。
アルコールで少しだけ頬は赤らんではいたものの意識は普通に保てていたようだった。
やはりいつもと同じように食べて飲んで丸山が喋りかけて、大倉がそれに小さく笑って応えて。
けれど大倉にいつもと明らかに違った反応があったとすれば、丸山が終電で帰ろうとした時もう少し飲んでいくと言って一人残ったことだった。
常ならば丸山に合わせて大倉も帰ろうとするのに。
確かに方向が全く違うから一緒に帰るわけではないけれども、だからと言って一人でいてもしょうがないから、それは当然のこと。
それは共通理解だと思っていた。
けれど今日は違ったらしい。
丸山は内心大倉を一人残して帰りたくなかった。
大倉は自分なんかよりもずっと強い人間なのだと、それは判っていたけれども。
「どうやろ・・・帰れたんかなぁ・・・」
改めて他人に言われると心配になってくる。
もしかしたら誰かに絡まれたりしているかもしれない。
事故にでも遭っているかも・・・。
「ま、あいつかてもう子供やないしな」
「そう、ですよねぇ・・・」
「少なくともお前よりはしっかりしとるやろ」
「ですよねぇ〜・・・」
「・・・つまりな、お前はもうちょいしっかりしてな、てことが言いたいわけや。俺は」
「ねぇ〜・・・・・・・・あ、はい、すいません。すいませんっ」
うんうんと唸り混むようにして考えていた丸山は、さりげなく自分に向けられていた言葉にワンテンポ遅れて気付くと、運転席の村上に向かって慌ててペコペコと頭を下げる。
村上はその様に呆れたように笑いながら、右方向にウインカーを出してハンドルを切った。
「そない気になるんなら、電話でもしてみれば?」
「え」
「え、やなくて。電話すりゃええやん」
「えー・・・」
「なんやねん」
「でもー・・・まだ電車やったらまずいし・・・」
「もうこの時間なら普通に帰っとるやろ」
「あー・・・んとー・・・」
敢えて振った話題に予想通り言い淀む様は判りやすい。
やはり大倉と何かあったんだろう、村上はここで確信した。
「なんや。電話したないんか?・・・やったら、俺がしたろか?」
さりげなく何でもないことのように、今度は左ウインカーを出してサイドミラーを見ながらそんなことを言う村上に、丸山は結局しぶしぶと言った様子で携帯を取り出した。
別に嫌というわけではないし、普段から普通に電話くらいするし、問題など本来何もないはず。
もしかしたら丸山にはある種の予感があったのかもしれない。
「出るかなぁ・・・」
むしろ出ないでくれないかなぁ。
そんなことを内心だけで呟く。
そしてワンコール、ツーコール、スリーコール・・・。
「・・・あれ、出ぇへんなぁ」
「寝てんのとちゃうか?」
「あ、そうかも。家帰ると速攻寝るしなー」
ああ、よかった。
どうぞそのままゆっくり眠って。
少し胸を撫で下ろすようにそう思う丸山を後目に、あと少しで留守番電話に繋がったであろう着信が最後の最後でプツッと繋がった。
「っ、」
思わず丸山は息を飲んでしまった。
隣の村上はそれに小さく眉を上げる。
「あ、・・・大倉?ごめ、・・・起きてる?」
小声でそう言った丸山に返ってきたのは暫しの沈黙。
確かに着信は繋がったはずなのに、声が返ってこない。
「おおくら・・・?」
『・・・・・・』
「おお、くら・・・?」
『・・・・・・マル、』
ようやく一言返ってきた声。
掠れた小さな呟きのようなそれ。
「あ、よかった・・・。や、ほら、ちゃんと帰れたかなーって、・・・実は俺結局あの後な、」
『なぁ、マル・・・』
「え・・・?な、なに?」
おかしい。
確かに何かがおかしい。
丸山は一気に騒ぎ立てる鼓動がうるさくて仕方がなかった。
うるさすぎて大倉の小さな声が聞き取れなくなりそうで苛立った。
今電話向こうの大倉の声は、大倉のものではないみたいに弱っていた。
『マル・・・俺のこと、好き?』
「なっ・・・」
『なぁ、好き・・・?』
「お、おおくら、なに言うて・・・」
『好きって言えや・・・』
これは誰だ?
確かに大倉だ。
この低めの穏やかな声は確かに。
けれどもここまで弱々しい、そのくせどこか乾いてささくれ立ったようなそれは今まで聞いたことがなくて。
何より、丸山は恐れた。
もしかして秘めていたはずの自分の気持ちは、伝わってしまっていたのか?
『勘違いするわ・・・。お前、俺に甘すぎんねん・・・』
「あ・・・」
しかしどうやらそれは違うらしかった。
けれども事態としてはさして変わりないと言えばそう。
大倉がこんなことを言い出す程の状況とはなんだ?
「大倉?お前、どしたん・・・」
『マルー・・・マル・・・』
「なに?大倉?大丈夫か・・・?」
丸山は後悔した。
帰ってこなければよかった。
あのまま傍についていてやればよかった。
こんな弱々しい声を出す大倉は知らない。
こんな縋るみたいに自分の名を呼ぶ大倉は知らない。
『俺・・・お前のこと好きになっとればよかったな・・・』
こんなにも無防備な言葉で自分を深く傷つける大倉を、知らない。
「・・・・・・」
丸山は言葉を返せなかった。
ただ携帯を持った手が小さく震えた。
「マル・・・?」
さすがに不審に思ったのか、村上は車をいったん路肩に停めてそちらを窺う。
けれど村上の言葉にも反応することなく。
丸山はただぼんやりと虚空を見つめ、携帯を耳から降ろして握りしめている。
緩慢に唇が動いているのが見てとれた。
何かしら呟いているようだったけれども、どうにも小さすぎて聞き取れない。
村上は眉根を寄せて一気にシートベルトを外すと丸山の方へ身を乗り出した。
そして耳を近づけてようやく聞き取れた言葉を理解するや否や、丸山の手から強引に携帯を奪い取り、電源ごと着信を切っていた。
「・・・帰るで」
村上は何事もなかったように再び車を走らせる。
携帯はそのまま丸山の膝の上に放り投げた。
けれど自分の元に戻ってきたそれを一瞬見るけれど、丸山はもうかけ直そうとはしない。
村上はため息をつきたい気持ちでいっぱいだった。
けれどもうつけなかった。
会話の内容は判らない。
けれど少なくとも、今の丸山の様子は尋常ではない。
『ほんなら、すきになってや』
ただ空虚にそう呟く様が尋常であるはずがない。
何よりも切に求めるようにそう言いながらも、あり得るはずがないとそんな傷ついた瞳で。
夜を走る車の中、最後の信号待ちで小さく呟く声がした。
「村上、くん」
「・・・」
「ねぇ、村上くん・・・」
「・・・なんやねん」
膝に放り投げられた携帯をぎゅっと握りしめる。
かけ直しはできない。
けれども手放せもしない。
それはまるで自分の恋そのものだと丸山は思った。
「泣きたいくらい辛い時には、どうしたらええと思いますか・・・?」
「・・・泣いたらええんとちゃうの」
「やったら、やったら・・・・・・泣くには、どうしたらええと思いますか・・・?」
「・・・・・・」
「どう、したら・・・」
判らないのだ。
泣いてもいいと言われても。
大倉のことを考えると泣けなくなってしまうのだ。
いつだって笑っていなければならなかったから。
そうでなければ傍にいられなかったから。
せめて笑って受け止めて。
そうしてさえいればいつかは報われると、もしかしたらそんなことを思っていたのかもしれない。
現実には怖くて言い出せもしないくせに。
結局一番漫画のように夢見ていたのは自分自身だった。
好きになればよかった、なんて。
それは、だけど結局は好きになれないのと同義だ。
そんな言葉は聞きたくなかった。
もう少しだけでも夢見させていて欲しかった。
ページも心も全て閉じても、それはもう忘れ得ぬ刃のような言葉。
信号が青に変わる。
車は再び走りだす。
けれどもやはり再び、路肩に止まった。
「・・・一人で泣けへんなら、誰かんとこで泣けばええねん」
「はい・・・」
「今日だけやで?」
「すいません・・・」
「せやから謝らんでええて」
村上はシートベルトをまた外すと、丸山の腕を掴んで思い切り自分の方に引っ張る。
抵抗もなくあっさりともたれかかってくる身体を両腕で受け止めてやって、顔を自分の胸に押しつけるようにしてやる。
「しゃあない子やなぁ・・・ほんまに・・・」
村上のしっかりとした手がガシガシと頭を撫でてくる。
暖かくて強い感触。
顔を押しつけられた胸はそれ以上に暖かくそして優しい。
自分には過ぎるくらいの。
分不相応なくらいの。
だけども何も訊かずに縋らせてくれる腕で頭を真っ白にしたかった。
顔を押しつけたシャツが少しだけ濡れた。
漫画のようなドラマチックな恋なんてしたくなかった。
ただ、好きな相手に自分のことも好きになって欲しかった。
それだけだったのに。
それだけの単純なことすら、現実には叶うことはない。
『お前のこと好きになればよかった』
なぁ、ほんなら好きなってや。
おねがいやから。
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(2005.11.26)
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