ねがいごとひとつだけ 3










居酒屋の喧噪の中、こうして向かい合うことがこんなにもばつ悪いことは今までなかった。
丸山は目の前であぐらをかいてじっと真っ直ぐに見つめてくる目尻の下がった大きめの瞳が、どうにも直視できないでいた。
それは先日の車内の時以上で、その家に泊まった時以上で、その翌朝以上だ。
その言葉の調子はいつもと変わらず柔らかだけれども、確かに自分に強く向けられる何かがあって、丸山は小さく視線を落とすしかできない。

「もうこないだみたいには気ぃ遣ったらんよ。そんな時期過ぎたしな」
「はい・・・」
「それに俺も間違えたわ。お前は放っといたらあかんタイプやった」
「はい・・・」
「判ってるんか?」
「はい・・・」
「・・・マル」
「はい、すいません・・・」
「謝れ言うてんのとちゃうねん。何度言わせんの」

村上は深くため息をつく。
小さくない身体を縮こまらせて何処か沈んだ様子で頷くばかりのその様子は、どうにも頼りない。
世の中には慎重に行かなければならないことと、それではいけないことがあるのだということを思い知らされた気分だった。
そんなことは村上には判ってはいたはずなのだけれども、やはりその判別をつけるのはなかなかに難しい。
しかも自分は当事者ですらないのだから。
人間の感情が絡み合う様というのはかくも複雑な代物だ。

「・・・大倉」

村上が敢えて強めの調子で言ったその名。
呼んだ瞬間、緩慢な反応しか示していなかった丸山の身体がぴくっと震えた。

「問答無用で家に帰しといたから」
「・・・そ、ですか」
「あいつ今日もサングラスあってよかったな、ほんまに」

何でもないようにそう言った村上の言葉に、けれど丸山は更に深く俯いてしまう。

さっきのスタジオでのできごと。
控え室に一人残されていた大倉、廊下にいた丸山と横山、まるで三竦みの様相で誰一人として動けなくなってしまったあの状況。
それを破ったのは、丸山の次に撮影を終えて戻ってきた村上だった。
村上は控え室に戻る途中の廊下で丸山と横山の尋常ではない様子に出会し、何事かと驚きながらも二人を交互に見て。
咄嗟に横山の方に寄っていって何事か小声でいくつか言葉を交わしたかと思ったら、さっさと控え室の方に走って行ったのだ。
丸山には二人が何を話したのかよく聞こえなかったから判らなかったけれど。
その向かった先が大倉の元だと判って、咄嗟に追いかけようとした。
けれどそこでまた横山に止められて、さっきと違って少し落ち着いた様子で「ヒナに任せとけ」と言われてしまい、それ以上のことは何もできずに終わってしまった。
そうして落ち着かない心持ちでその後他のメンバー達と共に何事もなかったように控え室に戻ったら、そこには既に村上しかいなかったのだ。
村上が大倉に何をどう言って家に帰したのかも判らない。
ただ判るのは、結局自分は何もできなかった。またできなかった。
そう思うと丸山はそのどうしようもない無力感に、未だ惨めに抱えた恋心を打ちのめされるばかりだった。


頼んだチューハイが少しも手を着けられず、既に温くなってしまっている様を村上は横目でちらりと見やる。
それから深く俯いたまま上がることない目の前の顔を再びじっと見て、やんわりと、ゆっくりと、それでもしっかりと、言葉を向けた。

「お前、何をしたかったん?」

その言葉は調子に反してきついものだったかもしれない。
事実丸山は深く俯いたままながら、その手を小さく握りしめている。
村上は丸山が内心で深く抱えているどうにもならない無力感を薄々感じていたから、だからこそ向けた言葉だった。
気付いていながら遠回しに気を遣ってやって、そして優しく宥めてやって、傷口に触れないようにして。
それも村上になら確かにできることだったけれども、村上は今回それをするのをもう止めようと思っていた。

「なぁ、マル。俺に言ってみ?」

じっと見つめながら言うと、丸山はやはり俯いたままだったけれども。
小さく小さく呟きのような声をなんとか返してきた。

「・・・よう、わかりません」
「なんで。判らんことないやろ」
「何をしたかった、なんて・・・。そんなん、答え出ぇへんし・・・」
「何をしたいか、何が望みか、それは答えなんぞ要るもんか?」
「でも・・・」
「お前はあいつに伝えたいことがあるんとちゃうの?」
「・・・そんなん、ないです」
「ほんまに?ほんまにそうか?」

大きな瞳を瞬くこともさせず向けられる言葉。
それは村上の意志の強さをそのまま映したように、丸山の心に突きつけられて。
丸山は小さく顔を歪めて緩く頭を振る。

「村上くん・・・そんなん、言わせんでくださいよ」
「アホか。逃げんなよ」
「もう、嫌なんです・・・」
「何が」
「辛いの、嫌なんです・・・」

僅かに声が震えている。
泣きそうだ。
もう自分の前で泣きはしないだろうけれども。
けれど心は既に痛くて痛くて泣いているんだろう。
想えば想う程に、それが強ければ強い程に、叶わぬそれは自らを傷つける凶器となりうる。
村上はその様に静かに目を細める。

「・・・辛いんか」
「はい・・・」
「何がどう辛い?」
「・・・あいつ、が」

こくんと小さく唾を飲み込んで、息をゆっくり吐き出して。
それから僅かに漏れ出す言葉は、想いは、きっと今まで誰にも知られることのなかったもの。

「裕さんのこと好きなん、知ってました・・・」
「うん・・・」
「でも、ほんでも、諦められんくて、おれ・・・なんでやろって何度も何度も、思ってんけど、・・・」

特に整理されることもなくただ零れていく言葉達は時として判りにくくもあったけれど、村上はそれを一言も聞き逃さぬようにとじっと耳を傾ける。

「あいつはなんで裕さんなんやろ、なんで裕さんは亮ちゃんなんやろ、なんで俺は、あいつなんやろ・・・て、思って・・・」

複雑に絡み合う想いは丸山の心を迷路にはめてしまった。
その中で丸山は延々と歩き続けて心をすり減らして、もう傷つきたくない逃げ出したいと何度も何度も思って。
けれど自分で考えても出口は判らず、誰にも訊けず。
丸山はただ見上げた先に願うばかりだった。
どうかここから出して下さい。
自分を出口へと導いて下さい。
誰か、と。

「・・・なんで、そないあいつのこと好きなん?」
「そんなん、わかりません・・・」

ぎゅっと更に強く手を握る。
どうして、だなんて。
もう判るはずもない。
好きなんて感情は、その始まりなら確かに理由めいたものもあるのかもしれないけれど、結局のところ好きになってしまえば全部同じなのだ。
好きに理由はない。
それはいわゆる恋愛の美しさや甘さや純粋さ故のものでなく。
それが酷く自分勝手でエゴに満ちた代物だからだ。
相手に幸せになって欲しい、その想いを叶えて欲しい、いくらそう言った所で結局最後には自分の恋心は願ってしまう。
ただただ願ってしまう。
どうか自分のことを好きになって、と。

「判らんくらい、好きか?」
「・・・そう、なんですかね」
「そうか。じゃあ、なんでそれをあいつに伝えへんの?」

さも当然のように、順を追って糸を解いていくような村上の言葉。
もちろんそれはいくら丸山にだって判る。
そうやって判りきった答えに導こうとしていることくらい。
けれどもできないからこそ悩むのだ。

「できるわけないです・・・」
「なんで」
「怖いから・・・」
「断られるんが?」
「そんで、嫌われたら辛いやないですか・・・そうでしょ?」

想う相手に嫌われたくない、拒絶されたくない、それは当然の心理だ。
だからこそ躊躇するし戸惑うしその先へ進めない。
もちろんその人間の性質やその可能性の大小で、そこからの行動はまた違うのかも知れないけれども。
少なくとも、横山を一途に想う大倉に対して、過度に臆病な丸山がそんなことをできるはずもなかった。

村上は目の前の後輩をじっと見つめたまま、日本酒のグラスに小さく口をつけて一息つく。

「なぁ、マル」
「はい・・・?」
「無償の願い事なんてな、そんなもん叶えてくれんのは神様くらいやと思うで」

その言葉は咎めるようなものではなく、ゆっくりと淡々と、そして少しだけおかしそうな響きも持っていた。

「その神様がおるかどうかはまぁ、難しい所やけど。正直それに期待するんもアホらしいやろ」
「・・・そうですね」
「何にでもな、やっぱほんまに望みを叶えたいならそれなりの代償が必要やねんな」
「断られるんを覚悟で、伝えろって、ことですか・・・」

それは世に言う、言わないで後悔するくらいなら言って後悔しろというアレだろうか。
丸山はぼんやりと頭の隅でそう思いながら村上の言葉を聞いていた。
意味は判る。
でも実際のところはそれだって難しい。
「言わない後悔」と「言った後悔」は別物で、言った後悔には未だ想像できない未知の恐怖がある。
だったらまだ今感じられるであろう言わない後悔の方がマシに思えて、そちらを選ぼうとしてしまうのだ。

黙り込む丸山を見て村上はもう一度日本酒のグラスを手にとり一口含んだ。
少し遅れてこくんと動く喉。

「まぁ、断られたらほんまにそん時は死にそうなくらいきついやろうけどな」
「そうですよ・・・。絶対むりですもん、そんなん・・・」
「・・・でもな、言わんかった時の後悔は、一生引きずるで」

その言葉のトーンが一瞬落ちた。
丸山は思わずそっと顔を上げる。
ようやく見た村上の顔は、けれどそのトーンとは裏腹に穏やかに笑んでいた。

「言った時の後悔はほんまに辛いかもしれへんけど、そこでいったん自分の気持ちには決着つけられると思う。
その後どうするかはまた別の話やけどな。
けど、言わんかった時の後悔は一生続くねん。一生抜け出せへんねん。それこそ後悔してももう無駄。・・・全部、無駄や」

その言葉は何故だか妙にきっぱりと告げられた。
それは村上特有のはっきりとした物言いのことだけではなくて、まるで身を持って知ったものであるかのように。
知っているからこそ言えると、まるでそんな風に聞こえたから。

「村上くん・・・?」

面倒見が良く優しい彼は、てっきり自分を諭して叱咤しようとしているのだと思っていた。
こんなどうしようもない自分を見て、いてもたってもいられず。
けれどそれだけではない何かを感じて丸山は緩く目を瞬かせる。

「好きになって、好きになって、お願いやから俺のこと好きになって、・・・って」

手にしたグラスの中の透明な液体をゆらゆらと揺らめかせ、村上は穏やかに笑う。
まるで何かを懐かしむようなそれ。

「そう思うだけでほんまに好きになってもらえたらな、苦労せぇへんわ。そしたら確かに幸せやで。
・・・お前にも判ってるやろ」

その望みが強ければ強い程。
唯一であればある程に。
願うだけでは叶わない。
そんなことはみんな知っているのに。
怖いから願う以外にできない。

「でも・・・ほんでも、わからないんです」

丸山はじっと村上を見る。
何かを切に求めるように見る。
どうか答えを教えて欲しい、出口を教えて欲しい、そう縋るように。

「俺はどうしたらええですか?
伝えよう思っても怖い、そう思ってもできひん、自分が傷つくんも嫌、あいつが傷つくんも嫌、それで全部壊れたらと思ったら・・・っ」

それは酷く自分勝手で弱い。
けれど確かにありのままの気持ちだっただろう。
それでも村上はちらりと視線を向けてくるだけで何も言ってはくれない。

「ほんまに、好きなんです・・・。
あいつやないと、あかんから・・・もしもダメやったらその後、なんて・・・無理やぁ・・・」

丸山はぎゅっと自分の両手を握りしめて、溢れる感情に締め付けられるように苦しげに漏らす。

怖かった。
怖くて怖くて仕方がなかった。
だってこんなの初めてだったから。

丸山はこう見えて人間関係には酷く淡泊で冷めた人間だった。
周りとの波風を立てることを嫌うある種の平和主義者だから、決してそんな風には見せないように常に笑顔を貼り付けて生きてきたけれど。
離れていったものを追うことなど絶対にしなかった。
そこまでの執着をしたこと自体なかったのだ。
けれどそんな丸山のモノクロの世界に初めて色を付けた存在が大倉だった。
それは決して派手で色鮮やかなものではなかったけれども、とても柔らかく暖かな色合いで。
世界には確かに色があって、その色で嬉しくなったり悲しくなったり、幸せになれたりする。
初めて見たそんな色のある世界から離れたくないと、ずっとそこにいさせてほしいと、丸山にそう思わせた初めての人間。
好きに理由はないかもしれない。
けれどこんなにも拒絶が怖い理由ならある。
こんなにも執着した人間は初めてだったからだ。

「・・・そうか。あいつは言ったのになぁ」
「っ・・・」

さりげなく呟かれた言葉に息を飲む。
そうだ。
大倉は確かに言ったのだ。
結果的には丸山に対して諦めると言ったその言葉を反故したことになるけれども。
確かに横山にその想いを伝えたのだ。
そのやり方は少し褒められたものではないにしろ。

「さっきの大倉な、ほんまひどかったわ。涙止まらん言うてな、ボロボロで」

その様を想像して丸山は思わず顔を歪める。
けれども村上は逆に笑って言った。

「ほんでも後悔はしてへんて。反省はしとるけど、後悔はしてへんて。
あの人には怖い思いさせてもうたし、それは謝らんといかんけど、言えてよかった、って」

村上から見ても大倉は強い男だった。
傷ついて傷ついて涙を隠すことなく流して目を真っ赤に腫らして、それでもそう言いきった。
これで決着がつけられる。
ようやく自分の気持ちに決着がつけられる、と。

「・・・怖いんはみんな同じや。程度の違いはあってもな。そうやないんか」

その静かな言葉を聞くだけでも想像できる。
あの穏やかな顔を幼い子供みたいに紅潮させて、意外と弱い涙腺を晒して、大きな手でごしごしと涙を拭って。
それでも低めのあの声できっぱりと言ってみせたんだろう。
何度かの間違えを繰り返してもそれでも最後は自分なりの答えを見つけてみせる。
そうやって自力で出口を見つけ出す。
その力。
その輝き。
丸山は思わず頬が緩んでしまった。
ああ、そうだ。
そうなんだ。

「やから、好きなんです・・・」

そういう所が。
そういう所を含めた全部が。

「ほんまにな、ええ男なんですよー、たつよし」

ははっ、なんて。
なんでか判らないけど丸山は笑ってしまった。
自分のことは何も解決していないのに。
村上はそれに呆れたように笑い返した。

「なに、それはノロケなん」
「俺の目に狂いはなかったなぁって」
「あーそうやね。確かにええ男見つけたわーお前」
「ねぇ・・・ほんま・・・・・・好きやぁ・・・」
「そうやな」
「好きなんです・・・。好きなんです・・・大倉が・・・」
「わかってるよ」
「好きや・・・」
「・・・せやったら、せめて後悔だけはせぇへんようにしろ」

潤んだ視界に村上の真剣な顔が映る。
まるで自分のことみたいに。
丸山はぼんやりと思った。
どうしてそんなにも親身になってくれるのだろう。
何を思い、どうしてそれを伝えようとするのだろう。

「怖いんは判る。判るけどな。言わんかった時の後悔はもっと怖いで。それだけは絶対や」
「はい・・・そうかもしれません」
「・・・それに、受け入れてくれるかどうかは別にしても、あいつはお前のこと拒絶したりはせぇへんやろ」
「それは・・・」
「そんくらい、お前の惚れた男なら、判るやろ。信じとけや」
「・・・・・・村上くん?」
「ん?」

丸山はすっかりぬるくなってしまったチューハイにちびりと口を付けて口内を潤すと、少しだけ潤んだ目を瞬かせてやんわり笑った。

「なんでなんです?」
「え?」
「なんでそない優しいんですか?」
「・・・マルちゃん、俺の話聞いてた?」
「聞いてましたー」
「・・・ならなんで俺のことやねん」
「ちょお気になって」

唐突なその言葉はある意味丸山らしく、確かに本題からずれているように思われるかもしれないが。
丸山の中ではきちんと繋がっている意味のある問いだった。

「マル・・・あんまな、俺に申し訳なく思ったりする必要、ないからな。気にせんでええで」
「はい・・・?」
「・・・単に自分ができんかったこと、同じ後悔して欲しくなかっただけやから」

小声でそう呟くと、村上は手にした日本酒の残りを一気に煽った。
喉の奥に流れ込んでいく熱い感覚は、もう過ぎ去ったその感情を一瞬だけ思い起こさせた。
ただそれだけのこと。
そしてただそれだけのことでも、それだけのことが大事な後輩達の僅かな助けになるのならそれでいいと思っただけのこと。

「・・・そっかぁ」

丸山はぬるいチューハイをちびりちびりと飲みながら、なんだか嬉しそうに笑った。
それに怪訝そうな顔をする村上に向かってぺこりと一つ頭を下げる。

「ありがとうございます。・・・ちょっとだけ、がんばってみますわ」
「なんやちょっとだけかいな。いっぱい頑張れや」
「そら、そのー、まぁ、なるべく・・・?」

頭をかきながら苦笑して言う様におかしそうに声を上げて笑うと、村上は店員を呼んでもう一杯日本酒を頼んだ。
なんだか妙に気分が良かった。
丸山には言うつもりもないけれど。
こうして話したことによって、少しだけ自分の中にも何かが昇華できた気がしたのだ。

「ま、ええか。大倉はあれでそういうんは聡そうやしな。俺ん時とは違うしな」
「あのー・・・」
「ん?」
「その、村上くんの、って・・・」
「・・・アホ。訊くな。俺のつらーい過去やねんから」
「そう、ですよねぇ・・・」
「ええねんええねん。こうして男は大きくなってくねんで」
「なるほどー」
「せやからほら、飲め。・・・今日は飲め飲めー!」

ケラケラと笑って特徴的な八重歯を見せる村上に、丸山は苦笑しながら頷く。


村上は言わなかった後悔を経験した。
けれどもこうして今そうやって笑えるようにまでなった。
大倉は言ったことで辛い思いをしたけれども自分の気持ちに決着を付けた。
そうして今度こそ出口を見つけた。

ならば、自分も。
村上にここまでしてもらって、そんな大倉を好きになった、自分も。
少しくらい頑張らなければ、頑張れるはずだと、自分に言い聞かせて。
村上の頼んだ日本酒を一気に煽ると、胸の奥に熱く熱く宿るその気持ちを確かめるように飲み込んだ。










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(2006.2.20)






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